第二話 丁々発止の後
「ぐわぁーっ!」
痛覚からの通知と共に、左腕を失ったことを認識した衛兵の絶叫が響き渡る。
声に反応した応援部隊は地面に横たわる仲間たちを見てようやく剣を抜いた。
「遅いっ!」
言うが早いか、応援兵の腹に穂の長い槍を突き刺した金髪の長身戦士は、出遅れた仲間に激を飛ばす。
「ルー!早く来ないとお前の分が無くなっちまうぞ!」
「ゼェゼェ……うるせぇ……よっと!」
肩で息をしていた小柄な戦士は、皮の胸当ての内側に隠し持った短剣を無造作につまみ投げた。
短剣は正確に応援兵との距離を詰めたが、応援兵はとっさに構えた盾で短剣を防ぐ。
「チッ……遠すぎたぜぇ。アリナ! お前の剣が重すぎるんだよぉ!」
体力が無く活躍の場に出遅れた責任を乗せて、もう一つの責任をすでに駆け寄って来ていた修道服の女に投げ渡す。
「あら、細身の剣もルーの体には大きすぎたようね。次からはフレッドに頼もうかしら」
「チッ……アイツじゃ来るまでに日が暮れるぜぇ」
アリナは受け取った細身の剣を腰に備えると、すぐさま剣を抜き、敵と対峙している長身戦士のもとへ駆け寄る。その姿を見送った若草色髪の戦士は、力尽きたように地面へとへたり込んだ。
「さぁ、作戦の第二段階に移るわよ」
先行して陣内に馬を乗り入れていた小柄な少年は、迷うこと無く目的の場所へとたどり着いた。
陣内は周りの山腹から丸見えで、ここ数日の下見で十分に把握できている。
この時間帯は駐屯兵の多くが出払っていることも織り込み済みのため、目的だった高床式の小屋の前まで馬で乗り付けた。
「どう、どう! よぉし良い子だファヴリス、少し待っててくれ」
興奮している馬を鎮め、徒歩になった青墨色髪の少年は、一段置かれた踏み石を飛び越え小屋の入り口に立つと、戸口に垂らされていた簾をまくりつつ中に足を踏み入れた。
不意に、胸に衝撃が走る――。
何が起きたのか理解する間もなく後方へ弾き飛ばされた。
弓を背負ったまま、高床から今しがた飛び越えてきた石段に背を打ち付け、そのまま後転して地面を這いつくばる格好になった。ようやく活動を再開させた思考が全身に緊急信号を送る。
後腰に装備している短刀をつかもうと試みるが、腕が震え思うように動かない、息が詰まり、苦悶の表情を隠す余裕もなく、歯を食いしばって顔を上げる。
少年の目に映ったのはみすぼらしい格好をした男、ランドの姿であった。
高床の上から見下ろす男の目は鋭く、茶褐色の髪と焦げ茶色の瞳が夕陽に照らされ赤みを帯びて見えた。
地を這っていた少年は息を整えながら身を起こし、まるで神を敬う騎士のように、片膝を立てて男を見上げる。
ランドは右手に干し肉の燻製を持ち、左手に持った柄杓で少年を威嚇している。口元から聞こえる咀嚼音が、場の緊張感を陳腐なレベルへと引き下げているようだった。
「く……」
少年は男の様子と胸に残る感覚からあの柄杓で突き飛ばされたと確信したが、男の得物は肩越しに見える剣が本命であろうことは明らかであった。
少年にも短刀があるため近接戦闘が出来ないことはないが、不意打ちとは言え、先程くらった一撃は相手の実力の高さを受け入れるのに十分な説得力を少年に示した。
「しかも折れてないって……」
少年はゆっくりと立ち上がり、覚悟を決めたように呟いた。
「アリナ……やっぱりボクには神のご加護ってなかったみたいです」
実力が劣るのであれば、後手に回れば状況は悪化の一途をたどるであろうことを、この幼い少年は過去の経験から学習していた。
少年は男から視線を外さぬまま、素早く一歩後ろに飛び退いた、と同時に背負っていた弓袋から弓を引き抜きつつ、矢筒から矢を抜き取る。
再び両足を地に着けたときには、男に狙いを定めた矢が深く引き絞られていた。
青墨色の髪を揺らし矢が放たれる。
近距離から放たれた矢はランドの眼前まで迫ったが、ランドはすんでのところで身をかわし、そのまま高床から飛び降りた。
――刹那
ランドは反射的に身を仰け反らせた。眼前を鉄の刃が通過する。
口元は笑っているが目を大きく見開き、茶褐色の切れ毛が視界に舞うのを見て冷や汗をかく。
「ちょ……今のはやばかっ……」
視線を茶褐色の切れ毛から青墨色のクセ毛に移した時、対象はすでに目の前で短刀を振り切った後だった。
ランドは腹筋を総動員させ体勢を起こすと、空振ったせいでランドに背を向けていた少年の後頭部を、打楽器でも演奏するかのように柄杓で叩いた。少年はそのまま地面に突っ伏す。
「今のはビビったぜ。オレの避ける方向を読んでやがったな。お前フルオルガ兵じゃねぇだろ。こんなところで何してやがる」
ランドはうつ伏せに倒れている少年を仰向けに蹴り動かし、干し肉の燻製をひと噛みして、空腹とは別に好奇心も満たそうと試みたが、期待していた答えは返って来なかった。
「あ……あなたこそ兵士には見えませんね。腕は確かなようですが……」
「おい、質問してるのはこっちだぜ」
口元は笑っているが目は据わっている。茶褐色の髪が夕陽に黒く照らされ凄みを増していた。
不意に、少年の様子が急に落ち着きを取り戻したかのように感じられ、ランドは焦げ茶色の瞳を細め訝しんだ。
逆に少年は不敵な笑みを浮かべ、饒舌に語りだした。
「ここまで来る距離と時間、門兵の数……色々と不確定要素はありましたが、粘っていれば……と思いましたよ。流石にさっき空振りしたときはもう駄目かと思いましたが……」
「ガキ……何訳わからねぇこと言ってやが……」
一瞬気温が下がったような気がした。
ランドがある水準以上の剣士だと言う証拠か、動物が本能で感じ得る危険察知能力だとでも言うものなのかはわからないが、このときランドは後ろを顧みた。嫌な予感がした、というのであれば、それは千金に勝る価値があっただろう。
ランドの焦げ茶色の瞳に映ったのは、地表すれすれを、音もなく迫り来る黒い天使の姿であった。
正確には、黒い天使に見えただが、数瞬の間、天使の姿に見えたそれは、慈愛とは対極に位置する積怨の羽を振り乱し、寛仁さとは無縁の紅い眼光を放っていた。
そして黒い天使が必要とした時間は、ランドが我に返るまでのほんの数瞬で十分足りた。
ランドとの距離を詰めることに成功した天使は、羽の代わりに緋色の髪をはためかせ、深いスリットから覗かせた足で地面を踏みしだき、時が止まったかのように静止した。それが動のための静であったことは瞬刻の間に立証された。
一息三線の剣筋が男を襲う――。
ランドは剣を抜く機会を失した。手にしていた柄杓で細身の剣の腹を叩き、剣の軌道をずらすと言う離れ業でかわしきる……が後退りしたとき何かを踏みつけバランスを崩した。
「うぇ……」
「あぁ、すまん!」
仰向けに横たわっていた青墨色髪の少年の腹を踏んで、思わずランドは謝ってしまった。
「ロジェ、そのまま起きないで!」
尻餅をついた男を目掛け、アリナはさらに攻勢に出る。
ランドは後方へ転がり跳ね起きると、更に打ち込まれてくる剣撃を柄杓で捌きいなし続ける。
八合、九合……と、ランドは先に感じた、時が止まったかのような錯覚に再び緊張を走らせた。
「――来る!」
再び一息三線の連撃がランドを襲う。だがランドの目は確かに剣の軌道を捉え、反射的に打ちかわして行く。
一撃、二撃……が、三撃目の剣を打ち払おうとしたとき、剣の向きがくるりと傾いた。柄杓は細身の剣の刃と正面から打ち合い、当然のように砕け散った。
「ぐ……」
少し大き目の柄杓の残骸がランドの額に当たり、ランドは首から上だけ反射的に空を仰いだ。
「神のご加護に礼を言うわ!」
その隙きを逃さず、アリナは致命打とすべく細身の剣先をランドの喉元へ突き伸ばす。
夕映えの空に甲高い金属音が木霊した。
神の意志を乗せていたはずの剣は相手の命を奪うことはなく、ランドが背中から抜き取った鉄の剣によって必殺の機会を逃していた。
実剣を手にしたことで心にゆとりが生まれたのか、ランドは頬に出来た切り傷の上に汗を滴らせながらも、口角を少し持ち上げ余裕の表情を見せ、一呼吸取ろうと試し見た。
「お前はあの少年の仲……ちょ!」
ランドが言い終えるより早く、アリナは再攻に転じた。
変わらず息を呑む速さの連撃がランドを圧倒しているようであったが、剣を手にしたランドは的確にこれを捌き、茶褐色の髪の毛一本も斬らせることはなかった。
両者は互角に数合打ち交わしたが、次第にアリナの表情が陰りだした。
いつの間にか攻勢のベクトルが入れ替わり、次第にこのみすぼらしい風体の男に自分が押され始めているではないか。
男の剣速はアリナのそれを超えているようで、しかも重い。アリナは一打一打を丁寧に受け流しつつ、踊るように反撃の刃を撃ち放ったが、心の淵に押しやっていた敗北感が、額から汗となって噴き出してきたことを夕陽が残酷に照らし出していた。
何合打ち合ったであろうか、丁々と木霊す剣撃は一方的な色彩を放つようになり、その事を最も実感しているのは当の両人であった。
アリナは現実を受け入れる冷静さと強さを合わせ持っていた。
「ロジェ、逃げて!」
このままでは二人とも討たれる。せめて青墨色髪の少年だけはこの危機から逃し、残る仲間の下へ送り届けたい。すぐ側にいる馬で走り出すまでの時間ぐらいは稼いで見せると、アリナは覚悟を決めた。
ロジェは二人が打ち合っている間に体を起こし、ちょうど立ち上がったところだった。
弓をまだ回収していなかったが、状況がそれを許さない。こういう時は加勢に入るのではなく、言われた通りに逃げる。それは二人の間に強い信頼と絆があればこそであろう。ロジェは迷うことなく馬のいる方に意識を向けた。
「動くな少年!」
ロジェは蛇に睨まれた蛙よろしく固まった。
高らかに宙を舞った細身の剣が、アリナの後方で地に突き立った。緋色の髪が流れ落ちる喉元を、ランドの剣が蛇のように這っている。
「さてと……それじゃあ質問だ。途中で話しを遮ったらこの女を殺す。質問に答えなくても殺す。質問に質問で返したら……まぁいい。聞け」
茶褐色髪の男は、ようやく好奇心の渇きを潤すことが出来そうで、安堵に近い思いを感じた。
「お前らフルオルガ軍じゃないだろ。目当ては食い物か?」
ランドは自らの言葉に干し肉の燻製の存在を思い出し、いつの間にか落としていたことに憮然とした。
質問にはロジェが答えた。フルオルガ兵ではないこと、食料が目的で来たこと……。取り敢えず会話で時間を稼ぎ、その間に打開策を考えるつもりだ。
だが、そんなロジェの画策は徒労に終わる。
「フルオルガ軍じゃねぇならこれ以上やり合うつもりはねぇよ。その代わり馬をよこしな」
自分の髪色に近い毛並みの馬に愛着を覚えたわけではなかった。
馬にはアリナから指示を受けたロジェが、駐屯所に来る前に仲間より先行し、準備してきた空の鞄が複数装着されていた。
ランドはこれに詰め込めるだけの食料を積み、街で売れば当面は金の心配をする必要がなくなると見積もった。食料は貴重で高く売れるのだ。
だがここでアリナが食い下がる。
「食料をお金に替えることには協力するわ。でも馬はあげられない、ファヴリスは私達の家族なのよ。それと少しで構わないから私達にも食料を分けてくれないかしら」
茶褐色髪の男の持つ剣が採れたての果実のように瑞々しいアリナの喉元に触れ、赤い果汁が生死の境界線を紡ぎ出すようににじみ出た。
「お前たちを殺して奪っても良いんだぜ……」
ロジェが慌てて口を挟む。
「街で食料を捌くには裏のルートじゃないと無理ですよ。僕たちなら顔が利きます」
「馬でここから出るなら門から出るしか無いわ。私たちが来る時に騒ぎを起こしてるから、そろそろ行動しないと面倒なことになるわよ。南門は仲間がルートを確保してくれてるわ」
ランドはなんとなく納得しかねるといった表情だが、剣を鞘に収めると恩着せがましく吐き捨てた。
「命を助けてやるんだからな。忘れんなよ」