第二十七話 緑茶薫風
ヴィクトルとの交渉が合意に至らぬまま、マティアスはキュラント王城を後にした。
どちらかと言えば不成立の可能性が高いと見込んでいたので心的傷害は少なかったが、それでも最良の結果を得られなかったことによる不本意感は否めなかった。
一泊した後キュラントを発つ予定であったマティアスは、母国の王都がどれ程までに復興しているのかと城下町を散策していた。
商店街に差し掛かると店舗や天幕が並び、人の賑わう声も聞こえてくるが、マティアスの表情は決して明るいものではなかった。
「キュラントもアサラの貧民街と同じ……大人が極端に少ない」
ヒルブランドの発した徴用制度によって、ロウエム大陸全土から働き盛りの人夫がフルオルガに移送され過酷な労働を強いられている。
近年では地方行政としての体制を維持するだけの人員を確保出来ない領主が、武力蜂起に踏み切るなどの穏やかならざる事案にまで発展する事例が見られ、各国重臣たちの頭を悩ませていた。
「フルオルガのやり方に不満があるのは間違いない。あとは勝算さえあれば……」
思いに耽るマティアスの目に一組の買い物客が映った。
その客たちは一人が書面を見ながら指示を出し、他の者達が手分けして小走りに商店に向かっていた。
皆一様に同じ外套を纏い、背には大きく竜を意匠した紋様が装飾されている。
「あの紋章はラージの……誰か高官でも来てるのか?」
一国の重臣がこの雪の中、国境を越えてやって来ると言うことは考えにくい。
ならば雪が降り出す前からの長期滞在か……。
マティアスはいくつかの可能性を思案したが、それらが想像の域を出ることはなかった。
春になりロウエムに暖かな陽光が舞い戻ると雪は溶け川となり、川は草花に命を与えた。
虫は植物から糧を貰い、鳥は虫を取り込み大空を舞う。
普段は森の中にいる一角狼の群れも、獲物を追って草原に駆け出し自慢の足を競い合っていた。
ただし、追われているのは人間が乗る馬車である――。
一角狼の群れは、街道を走る馬車の両側を囲むように並び走ると、じりじりと馬車との間合いを詰め寄り始めた。御者がたまらず後部の車に向け叫んだ。
「殿下、もう駄目です! 振り切れません!」
車の前面にある小窓が開き、中の人物が御者の嘆きに応える。
「……十匹ほどか、酔い醒ましにもならんな」
一匹の一角狼が御者を目掛け飛び上がった。
小窓から覗き見える人物の口元の端が吊り上がったが、何かに気付いたその口は元の形に戻った。
突如、草原に一角狼の泣き声が跳ね落ちる。
腹部に刺さった矢は根本近くまでえぐり込み、地にのたうつ一角狼はすぐにその動きを止めた。
「やるじゃんロジェ兄!」
「ボサッとすんなテオフィル、いくぞ!」
少年の背中を叩き駆け出して来たのはランドであった。その後ろからテオフィルが続き、岩場の上ではロジェがニの矢を弓に番えている。
「テオフィル、オレ達は左だ!」
一角狼は馬車を挟み、ランド達から見て左側に五匹、右側に三匹駆けていた。
向かってくるランドに目標を変えた一匹が地を蹴り宙から飛びかかる。ランドは危なげ無く一角狼の首を斬りはねると、返す刀でもう一匹の胴体を薙ぎ払い、側面に回り込もうとする一匹を蹴り飛ばした。
「頂きぃ!」
蹴り飛ばされた一角狼にテオフィルの剣が鋭く突き刺さる。すぐさま剣を引き抜くと、テオフィルはさらにもう一匹を斬り叩いた。
「よっしゃあっ!」
猛るテオフィルに最後の一匹が飛びかかる。テオフィルは剣を盾にその牙を辛うじて防いだが、一角狼の勢いに押され後ろに倒れ込んでしまった。
「詰めが甘いぞ!」
ランドが剣を投げつけテオフィルの危機を救う。
この時にはすでにロジェが反対側の三匹を中距離射撃で仕留め終えていた。
馬車は少し進んで、丁度ロジェの立つ岩場の下で止まり、御者が車の扉を開くと中から貴族然とした青年が姿を現した。
柳色の髪を無造作に掻き上げ、眠そうな眼でロジェを見上げる。
「やあ、助けてくれてありがとう。君たちは何処の軍の所属かな」
「僕らは軍人ではありません。すぐそこにあるアサラの街の民です」
軍人でないと知るや、御者の男は柳色髪の青年に馬車の中に戻るよう促した。
「殿下、下層の者共と言うことであれば殿下が直接お声を掛ける必要はございません。後は私が……」
「まぁまぁ良いじゃない。外でぐらい固いことは抜きにしよう」
青年が馬車から地に降り立つと、その全身に散りばめられた金銀細工がロジェ達の目を奪い、この男がただの貴族でないことを物語った。
馬車の中からは柳色髪の青年に続き五人の従者らしき男たちも姿を見せ、それぞれが纏った揃いの外套の背には、やはり揃いの龍を意匠した紋様が装飾されていた。
「殿下、あまりお戯れは……異国の地で問題でも起こされましては……」
「起こされてはなんだ? 父王の怒りを買うか?」
殿下と呼ばれた青年は意地の悪い笑みを浮かべ、諫言してきた従者の顔を覗き込むように見つめた。
従者は畏れ入ったと言う体で半歩下がり、それ以上の言葉を慎んだ。
戻り歩いて来るランドを追い抜き前に出て来たテオフィルが、柳色髪の青年を品定めするように視線で舐め回し、その身に着けた宝石類を見て目を剥いた。
「ほえぇ、これ全部本物かよ。ランド兄、貴族様を助けて礼を貰うより、奪っちまったほうが早いんじゃねぇか?」
ランドも同じようなことを考えなかったでもないが、青年の眠そうな目と視線を合わせると、漠然とだが相手の気配から危険な薫りを感じ取り、自然と不敵な笑みがこぼれた。
「テオフィル、それは止めておいたほうがよさそうだぜ」
青年は自らに対してランドが高めた警戒心には構うことなく、気さくに話しかけて来た。
「君たちにも礼を言うよ。僕はルイージーノ、ご覧の通りお金には多少の有余がある。失礼でなければ礼は金銭で返させてもらいたいが?」
ランドは差し出された手を握り返すと、伝わる威風に改めて相手の危険度を再認識した。
「助けは要らなかったようだが、こっちには有余がないもんでね。助かるよ」
ルイージーノは従者に命じてランドに皮袋を渡すと、テオフィルは中身を確認して腰を抜かした。ランドも中身を覗き見て顎が外れたかのような反応を表すと、ぎこちなく振り返り一言付け加えた。
「お……お荷物お持ちしましょうか?」




