第二十一話 一息三閃
「速く……疾く……迅く……」
疲労はアリナの五感を研ぎ澄ませた。無意識のうちに体への負担が最小となる動作を選択し、その効果が最大限に発揮されるよう体を作動させ、その律動周期を狭めていった。
一呼吸のうちに魔獣との間合いを詰め――斬る。
間が空くと、女の顔を苦悶の表情に歪めたまま、魔獣はしつこく子供たちに食らいついた。
「神様……神様……」
ロジェはその場にうずくまり、必死に祈った。他の子供たちは生を求め、恐怖から遠ざかるために雨夜の山中を走りまわったが、それはアリナとの距離を生み、反して死への距離を縮めていくこととなった。
「もっと速くっ!」
息を思い切り吸って地を蹴り、飛ぶように魔獣に迫り斬る――斬る。
体中を斬り刻まれ瀕死の体をなしてきた魔獣は、ついにロジェをその歯牙にかけようと差し迫る。
ロジェは恐怖と絶望から目を背けるようにまぶたを固く閉じ叫んだ。
「何が神様の加護だ! ボクたちは護ってくれないじゃないか!」
アリナは深く息を吸うと、魔獣までの距離を一気に詰めた。
生き残っていたベルパルシエ達はそのとき、黒い修道服を着た女神が飛んでいるように見えていた。
女神はそのまま魔獣に裁きの剣を振り下ろし、斬りつけ、斬りつけ、斬りつけた。
魔獣の左足は斬り飛ばされ、腹は斬り裂かれ、左目が斬り潰された。
裂けた腹からは臓物が漏れ出し、斬り刻まれた女の顔は苦しげに汚物を吐き出した。
汚物に紛れ流れ出た子供の腕が目に入ると、アリナはうつむき、雨に濡れ重くしな垂れる前髪で顔を隠した。
ついと顔を起こせば末恐ろしいほどの冷めた表情で、紅い輝きを放つ滴が真紅の瞳から漏れ流れ、魔獣の顔面を革の靴でぞんざいに踏みしだくと、氷のような視線で横たわる女の顔を見下した。
「あらあらこぼしちゃダメじゃない……おばさん」
ルーは背筋に寒気を感じたが、その原因が魔獣によるものなのか、それとも別の要因に帰するものなのか、当人でさえ自覚してはいなかった。
アリナは震えるロジェの前に立つと、血に塗れた顔で聖母のように優しく微笑んだ。
「大丈夫……神様は必ずあなた達を護ってくれるわ」
辺りには子供たちが帰らぬ姿となって無情にも地に転がり、降りしきる雨が別れを告げていた。
――と、絶命したかに思えた魔獣が、最後の力を振り絞りその身を起こした。
耳をつんざくような甲高い咆哮をあげると、女の顔をした魔獣の面前に降りつけていた雨が宙で渦を巻き始めた。
「まずいっ! 風の魔法が来るわよ!」
――打つ手が無い。誰もがそう思い、ただ身構えたその時、魔獣のこめかみにどこから飛んできたのか深く矢が突き刺さり、魔獣はそのまま地に伏し絶命した。
「お見事ねアロイース」
唖然とするアリナ達が矢の飛んできたと思われる方向へと注意を向けると、そこには三人の騎士と一人の女がアリナ達の方へと向かって駆けて来ていた。
泥に塗れた絹の服を着た女が、魅力的な微笑みをアリナ達に投げかけた。
「貴方達大丈夫? 危ないところだったわね。マンティコールは嵐雲の化身。風の魔法を操るところだったわね」
女の後に続く茜色髪の男は、辺りに打ち捨てられた子供たちの遺体に目をやりながら、やるせない表情で言葉を掛ける。
「これは……大変な目に合ったね。もっと早くに我々が来ていれば……」
「君の戦っている姿が見えたよ。後ろの子供たちを君ひとりで護ってたのか……?」
黄赤色髪を後ろで束ねた騎士は左手に弓を携えていた。この男の放った矢がアリナ達の窮地を救ったことは聞かずとも見当がついた。
「あ、あり……ありが……」
極度の緊張から解放され、アリナはその場にへたり込んだ。
危機を救ってくれたのは若き日のマティアス達であった。
安堵に包まれたアリナの目からは自然と涙があふれ出し、護れなかった命たちに捧げるように、大地へと流れ落ちていった。
「――まぁ……ったく! 嫌なこと思い出しちゃったわよ!」
過去とは違い、今は一人で戦う必要はない。背中を気にするどころか、傍らには頼もしい仲間たちがいる。もうあの日のような悲しみに暮れることはないであろう。
「そう言えばよぉ、アリナの二つ名が付いたのもあの時からだったよなぁ」
「“盾の女神”ですね」
ルーとロジェも今では立派な戦士の一員である。護られるだけの悔しさからはとうに卒業している。
「ちょっと、あなた達までやめてよね。それって戦場の死神って意味合いもあったでしょ。あんまり好きじゃ無いんだから」
「せ……戦場での死は、騎士のほ、誇りだって、ベルパルシエが、言ってたよ。ボクはか、格好良いと……思うよ」
「フレッドォ、ベルパルシエは騎士じゃねぇだろぉ」
「……ありがとフレッド」
魔獣はすでにアリナ達の足下で絶命していた……。
黒雲から降り立つ雨は、いつの間にか上がっていた。
ランド達を乗せた馬車が人の住む村に到着した時、雨はまだ衰えを見せてはいなかった。
村には数軒の家が点在し、灯りのついていない家も目についた。すでに就寝しているのであろう。
「あっちだ……」
御者にマティアスが道を指図し、馬車は一軒の民家の前につけた。
「君たちは少し待っててくれ、先に事情を説明してくる」
ランドとベルパルシエは訝しげに顔を見合わせた。医者のところへ来たと思っていたのだが、事情を説明しないと治療してもらえないのであろうか。“闇労働組合”関係の人脈であるなら、裏社会の人間と言う線もあり得るか……。
結局二人はそのまま半刻(約一時間)待たされ、その後屋内へと招かれた。
マティアスに案内された部屋に入ると、所々に飾り置かれた鉢植えや花々が、室内を森林の如く彩り華やいでいた。
奥の窓には雨の雫がいくつもの筋をつくり、椅子に腰掛けその様子を見ている女性の姿があった。
「連れて来ましたよララアテ様」
しなやかに伸びる足は、まるで意志を持つかのように自然に動き、滑らかな白い腕がやさしく体を持ち起こす。
一連の動作はあたかも重力を介さぬ天使のように軽やかで、明媚でさえあった。
やわらかく波打つ強い緑色の長髪は腰まで届く長さで、赤い線で縁取った純白の祭服を、より清廉なものへと印象付ける。
その女の美しさもさることながら、ランドとベルパルシエの視線は女の強い緑色の髪から伸び出る尖った耳に引き付けられた。
「「エルフ……!」」
女は侮蔑するように目を細めると、揶揄するようにマティアスを見やる。
「こらお前たち失礼だぞ。あとララアテ様はハーフエルフだ」
エルフは人間嫌いで知られている。普段は妖精の里で生活しており、そこは人間界とは異なる次元に存在するため、普段の人間社会で遭遇することはまずない。
皆類まれな美しい容姿を持ち、数十年で人間の成人並の姿に成長すると、その姿のまま数百年を生き、死んで肉体が滅びると風の精霊となり、永遠の時を得ると伝えられている。
たしなめられた二人が押し黙ると、ようやく女はその艷やかな唇を動かした。
「お主らの話はマティ坊から聞いちょるばい。取り敢えず傷ば見せんしゃい」
「……なんだ!? 呪文の詠唱か!?」
「しまった! 室内じゃオレの長身槍は使えねぇ!」
不意をつかれたと思ったランドとベルパルシエが身構える。マティアスが思い出したように二人を落ち着かせに割って入った。
「あぁあぁ、すまないすまない。うっかりしていたよ……ララアテ様、申し訳ありませんが二人にもわかるように少し言葉に気をつけて頂けますか」
「む、そうか……気を付けてはいたんじゃがのぅ」
二人は狐につままれたような顔をし、言われるがまま女に傷口を見せると、女は一見したのみで言い捨てた。
「ベルパティシエ、お前は全身打撲に裂傷、肋骨を二本いっちょる。全治二ヶ月じゃな」
「なんだぁ、婆さんみたいな喋り方するじゃねぇか」
「おいランド……」
叱責しようとするマティアスをエルフの女が手で制すと、女はランドに向き直った。
「お前がランドか、神殿で法王と会ったんじゃな?」
「神殿? あぁ、遺跡のことか……会ったって言っても、なんかオバケになってて、すぐに消えちまったぜ?」
「そうか……生命を失ってからもその精神が消えゆくまでの間、あれを護り続けたか……」
思いにふける女エルフにマティアスが要点を説明する。
「……それで、先程も説明しました通り、法王猊下は宰相に会えと言い残されました」
「エーブラハムめ、やり残した宿題を私に押し付けおったばい」
面倒な仕事を無理強いされたように、ララアテは顔をしかめうそぶいたが、その顔はすぐに柔らかく解きほぐされ、濃い緑色の瞳からは薄っすらと涙がにじみ浮かんでいた。
自嘲するような、しかしやさしい微笑みを表したララアテは、それが手向けと言わんばかりにそっと一言つぶやいた。
「……わかったばい」
風雨の中、夜半の行軍を強いられたのは『宮廷騎士団』も同様であった。
ただ、彼らの場合は正規軍であり、例外なく一騎当千の猛者揃いでもあるため、取り分けて危惧すべき不安要素は無かった。
「ロルフ、箝口令は全員に申し伝えたな?」
「はっ! アリナ・シュミットに関しては御意のままに……」
ロルフはそれが騎士道だとでも言うように、上官より許しのない発言を控え、ひたすら物言いたげな視線をシュトルンに送り続けた。
「……なんだロルフ! 何か言いたいことがあるなら言ってみろ!」
「お許しを得てお尋ね致します。彼のアリナとか言った修道女の娘……シュミットと言えば……」
「その名は二度と口にするな。これは陛下のご意向でもあるのだ」
以外な人物の名が飛び出したことで、ロルフは自分の好奇心に蓋を落とした。主君の意志に従うことこそ騎士の本分であると信じている。
シュトルンはそんな部下の心を察し、蓋の重しになればと一言付け加えた。
「先代のためなのだ、我慢しろ」
この一言で、ロルフは納得したように口を噤み、二度とこの話をすることはなかった。




