第十三話 魔導書
世界は全て深い闇の中に堕ちたのか……。
そう思わせるほどの暗闇が周りを支配していた。
「ぎゃーっ! ちょっとどこ触ってんのよっ!」
「痛ぇっ!」
「ちょっと待て、今火を付ける……」
松明に灯された火が、石壁で覆われた回廊内の隠し階段を明るく照らし、ランドの頬に残された赤い手形の印影をも鮮明に露呈させた。
青墨色の髪に灯りを受け、ロジェがきょとんとした顔で声をかける。
「どうしたんですか……ランドさん……」
「暗くて見えなかったんだよ!」
「遊んでないで行くぞ」
マティアスに促され、螺旋状に続く階段を降りて行く。
しばらく降りると開けた空間に出た。マティアスが壁の灯台に火を移して行くと、結界の間と同じほどの広さの四角い部屋であることがわかった。両端に奥へと続く通路があり、アリナが部屋の隅で何かが蠢いているのを察知して叫んだ。
「ちょっと待って、何か……巨大鼠っ!?」
声に反応したのは人間だけではなかった。
一つに見えた巨大な影はいくつもの巨鼠となり、いつ以来かの餌に向かって飛びかかっていった。
「ぐわぁっ!」
「エドアルドッ!?」
三人の魔法戦士の一人が肩に噛みつかれ、そのまま巨鼠の重みに耐えきれず倒れ込む。シジスモンドが二槍を突き刺し巨鼠を引き剥がすが、肩から頸の一部が喰いちぎられ、すでに絶命していた。
「階段に戻れ!入り口で迎え撃つんだ!」
マティアスが叫ぶ。動きの早い相手に対し、襲ってくる方向を限定させようという考えだが、四人が戻り損ね、広い空間での対戦を強いられた。
部屋の中央辺りまで出ていたアリナに巨鼠が狙いを定め飛びかかる。
「ちょ……!」
細身の剣を抜き応戦の構えをとるが、事態の急変に対しまだ戸惑っていた。
変則的な足取りで襲いかかる巨鼠の横っ腹に、助けに入ったランドの鉄の剣が、鋭い軌跡を描き突き刺さった。
「ボサっとすんなっ!」
叱咤されたことで我に返ったアリナは、自らを鼓舞するかの如く叫んだ。
「うるさいわねこの助平っ!」
「スケ……」
逆にランドは気を削がれ足を取られた……。
倒れ込んだ恰好の餌に襲いかかる巨鼠を、今度はアリナの剣筋が縦横に斬り刻む。
ランドは差し伸べられたアリナの左手首を掴み、互いに引き合ってランドが身を起こすと、そのまま二人は位置を入れ替え、互いに正面に捉えた巨鼠を斬り上げ斬り落とした。
巨鼠の進撃は止まず、アリナの背後から襲いかかろうとする巨鼠をランドが斬り払うと、深く踏み込み前傾姿勢となったランドの背に己の背を乗せ合わせたアリナが、その背上で一転し、反対側に着地する勢いでランドに飛びかかる巨鼠を斬り裂いた。
「あいつらダンスでも踊ってるのかよ……」
二人の見事な連携に、階段口で黄赤髪のアロイースが感嘆しながら弓に矢をつがえる。不意に襲って来た巨鼠を、シジスモンドが二槍で防いだ。
アロイースの背後からマティアスが叫ぶ。
「奥へ行け!」
部屋の中にはランドとアリナの他にも、魔法戦士が二人取り残されていた。幸いにもランド達が壁役となり、魔法戦士たちは生き長らえていた。
二人の位置から階段へ戻ることは難しいが、すぐ側に奥へと続く道がある。とりあえずそこに入り、階段と同じように巨鼠の襲ってくる方向を限定させるべきであろう。
二人は言われるがまま通路へと駆け込むが、その背中に巨鼠が襲いかかる。ランド達も変則的な動きをする巨鼠の全てを足止めすることは出来ない。
魔法戦士も一線級の使い手ではあるが、突如暗闇から現れた素早い魔物に対し、ランド達ほどの対応力は持ち合わせてはいなかった。
「うわあぁっ!」
腹部に噛みつかれながらも逆襲の一撃を突き刺す。体勢が悪く致命打にはなり得なかったが、もう一人が戦斧でとどめを刺した。
「クッソ、こいつらどんどん湧いて出てくるぞ!」
ランドが叫ぶ。応戦の手は止めることが出来ない。アリナも止まること無く動き続け、二人の舞闘会は幕が降りることを拒否し続けた。
通路へと逃げ込んだ魔法戦士は両手で戦斧を握りしめ、頬を伝わる汗を拭うこともままならないほど緊張を高めていた。
「テランス! 大丈夫っ!?」
マドレーヌが階段から魔法戦士の安否を確かめる。
「コラルドが殺られた!」
魔法戦士の足元には、つい先程まで共に行動していた仲間の物言わぬ躯が転がっている。
部屋中央で奮闘するランド達を視界に収めながら、何処から巨鼠が飛び出してくるかと身構えていた魔法戦士の脳裏に、ふと不安がよぎった。
――後ろは大丈夫なのか?
不安は魔法戦士の脳裏を侵食し、次第にランド達が奮戦している前方よりも、未知の領域である後方へと意識を引き寄せられた。
魔法戦士テランスは前方に戦斧を構えたまま、ゆっくりと視線だけ通路の奥へと移動させると、凝視した後背の闇の奥に、何かの輪郭が浮かび上がった。
「ひっ……」
正体不明の何かに振り向き戦斧を向け構えるが、全く動く気配のない何かに、テランスはその正体を確かめようと徐々ににじり寄った。好奇心や探究心とは程遠い、逃げ道を失った鼠が己の生存のために危険に飛び込むような、どこか矛盾した動機が魔法戦士の背中を押していた。
「書庫……?」
通路の奥は小部屋に繋がっており、暗がりではあるが、机の上に山積みされた書籍があることがわかった。
闇の中で横の壁に腕を伸ばすと、手は本棚に触れ、大量の本が立て掛けてあることも確認できた。
テランスの脳裏を支配していた恐怖は、一つの可能性によって飛散した。テランスは心を落ち着かせ、手当たりしだいに本の中身を確認していった。
ランド達の戦っている部屋は壁の灯台に照らされているが、テランスのいる部屋までは届いていない、真っ暗な部屋の中で、見えない本をひたすらにあさっていった。
――ランド達の動きに疲れが見え始めていた。
常人では反応さえ難しい巨鼠の変則的な動きに休む間もなく奮闘し続けている。
階段口で応戦しているシジスモンドとアロイースの後ろで、マティアスがマドレーヌと善後策を練っていた。
「合図したら出るぞ。アリナ達を退がらせ、テランスの入った通路の入口に移動するんだ」
「了解……」
マドレーヌが生唾を飲む。その艷やかな肌を、冷や汗が滴り落ちる。
タイミングを見計らったマティアスが合図を出そうと口を開きかけたとき、アリナが叫んだ。
「穴よ! 穴があるわっ!」
暗闇と巨鼠の体に隠れて今まで見えなかったが、壁の一部が崩れ穴が空いており、そこから際限なしに巨鼠が湧き出て来ていた。
無限増殖の原因は判明したが、差し当たって対処の仕様がない。マティアスは飛び出す機を逸し、苦々しげに舌を打った。
誰もが疲労と困憊から焦りを隠しきれなくなるまで寸時ほどの時間もかからなかったが、その時巨鼠の死骸が放つ悪臭を掻き分け、テランスの叫ぶ声が室内に響き渡った。
「マティアス! 魔導書だ、魔導書があったぞっ!」
魔導書は魔力に反応すると微弱に文字が光りを放つ。テランスは暗闇の中、次々と本に魔力を送り込み、文字が光り浮かび上がるものを探し出したのであった。
マドレーヌが取り急ぎ確認する。
「使えるの? 本の属性は?」
「オレは駄目だった! 今確認する……」
魔導書の表紙には各属性の紋章が意匠されているはずである。テランスは灯台の灯りを求め、舞闘会の会場へと足を踏み入れた。
「きゃぁっ!」
巨鼠の勢いに抗いきれず、アリナが体制を崩した。体力が限界に来ていたのだ。ランドがすかさず援護し凌ぐが、ランドも肩で息をし一片の余裕もない。
さらにアリナを目掛け飛びかかる巨鼠を、一刀のもとに斬り捨てたランドであったが、不意に体制を崩し片膝をついてしまった。
マティアスとマドレーヌが視線で意図を確認する。今こそ飛び出さねばランドとアリナも保たない。
二人は同時に飛び出し、それぞれが一匹ずつ獲物を斬り裂いた。
「ランド退がるんだ! アリナを連れて……」
飛び出た途端、巨鼠の無限ラッシュに貧民街を取り仕切る最高幹部二人が釘付けにされた。アリナはまだ起き上がれず、ランドも片膝をつき固まったまま動けない。
階段からベルパルシエが呼びかけた。
「待ってろ二人とも! 今いくぞ!」
「援護する!」
アロイースが弓に矢をつがえいざという時、ランドが不気味な笑い声を発した。
「は、はははひ……」
声は聞こえたが、戦闘に手一杯でマティアスには声に反応する余裕が無かった。まったくよくぞこれほどの攻勢をこれまで凌いでいたものだ。
ランドはゆっくりと起き上がりながら、脳裏に浮かんだ打開策を実行に移した。
「穴を……塞げば良いんだろぉ……こうやってぇっ!」
ランドは穴から飛び出してくる巨鼠を斬り殺しながら、斬撃の勢いで出て来た穴に打ち戻していった。すでに床に転がっていた死骸も穴に向かって蹴り飛ばし、埋め込むように蹴り潰して穴を塞ぐと、そのまま力尽きたように倒れ込み、意識を失ってしまった。
ようやく一息つけたが、どの顔にも笑顔はない。
初戦で二人も命を落とした。アリナは自力で立てぬほど疲労し、ランドは意識を失っている。
その場にへたり込んだマティアスが、足で巨鼠の死骸を押しやりながらテランスを見やった。
テランスはマティアスの無言の問いかけの意を汲み取り答えた。
「残念ながら……土だ。魔導書なのは間違いないが、オレもアリナも属性が合わない……」
マティアスは無言で視線を戻した。話す気力もないほど疲労していた。
マドレーヌが代わりにとばかりに希望を持たせる。
「生きて帰れれば今後の手札にはなるわ。ただ……もっと数が必要ね」
判断が求められた。ここで待機し、皆の回復を待つか、動ける者のみで残る通路を探索しに行くか、もしくは二人脱落を鑑みて結界の間まで後退するか……。
血と汗と死臭の漂う部屋の中で、マティアスはただ、未知の暗闇が続く通路を見つめていた。
誰も居なくなった結界の間。その奥にゲルベルト隊が降りて行った階段がある。その階段を登ってくる兵士が二人、うち一人は片腕を失っている。
負傷している兵士は仲間に肩を借り、やっとの思いで結界の間まで戻って来た。もう少しで遺跡の外に出られる。探索隊本部まで行けば十分な治療を受けられるだろう。そんな思いで歩みを重ねたが、結界の間の中央に空いた穴を覗き込むと、仲間の様子が一変した。
「これは隠し通路……」
後続隊が発見していたのか。それにしては先程は隠し通路についての話は何も出ていなかった。負傷兵に肩を貸していた兵士は、穴の奥に下へと続く階段を見つけ、その先の闇に魅入られたように凝視しながら考えてみた。
遺跡入り口の見張りに残してきた兵士が見つけたか、本部から送られて来た増援隊か、さらに可能性を挙げるとすれば……。
「正規軍であれば、すぐそこにいた後続隊に何の連絡も無いのはおかしい。賊の線で見るべきだろう」
そう呟くと、ここまで親身に介護して来た片腕の仲間を放り出し、腰に帯びていた剣に手を掛けた。
床に倒れ込んだ兵士は急な出来事に戸惑いを顕にする。
「すまんがここでお別れだ。隠し通路の先に行ったのが賊だと仮定すると、公爵の部隊は出し抜かれる可能性が高い。大切な物は秘密の部屋に隠すだろうからな」
片腕の兵士は仲間が何を語っているのか理解出来なかった。わかったのは仲間の引き抜いた剣が、自らに向かって振り下ろされたことだけであった。
「悪く思うなよ。こちらも仕事なのでな」
兵士は息絶えた仲間から剣を引き抜くと、部屋中央に空いた穴にその身を投じた。