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短編・童話集

空翔ぶ君よ――羽の生えた人――

 それは寒い日の朝だった。

 ぼくは井戸へ水を汲みにいこうと家の扉を開けた。

 すると、玄関の軒下から数メートルほど離れた地面にそれは落ちていた。

 それが何だか、すぐにはわからなかった。


 まるで人のようにも見えた。

 うつ伏せの姿勢で、右手を真直ぐこちらに伸ばしている。

 地面に生えた枯れ草をつかんでいた。

 上半身には服を着ていない。

 黒い髪は頭部をほぼ覆っている。

 表情は隠れてわからない。


 その背中は羽に覆われていた。

 はじめは鳥が背中の上に乗っているものかと思いぞっとした。

 動かない人体の上で、鳥がすることなんて限られている。

 野生の動物が、自分と同じ生物でお腹を満たすなんてところ、あんまり見たくもない。


 だがその考えは早とちりだった。

 鳥なんかいなかったし、おまけに彼は生きていた。

 伸ばされた右手がしずかに開き、肩がゆっくりと上下した。

 水を汲むバケツを傍らに放り出し、ぼくは駆け寄った。


「だいじょうぶかい?」


 そう言って肩をゆすった。

 背中にある羽はまだなんだかわからなかった。

 そのときまでは。

 防寒のためのマフラーとか衣服とか、その類のものかと思っていた。

 羽の下に見える彼の背中には素肌が見えていたから。


 体は大分冷たかった。

 動かした方がいいものか一瞬迷い、それからすぐに動かさないとどうにもならないと判断した。

 彼の右手を首に回し、ぼくの左手を彼のわきの下にあてがい、立たせようとする。


 そのときぼくははっとした。

 彼の背中は、羽で覆われていたわけではなかった。


 真っ白いその大きな羽たちは、そう、その翼は、彼の背中からはえていたのだ。


「……羽の生えた人だ」


 自分の驚きの声は案外小さく聞こえた。



  ※※※



 彼が目覚めたのは、ぼくが朝食の準備をしていたときだった。

 可能な限り暖かい服と、あるだけの毛布をベットに用意し、彼を寝かせていた。

 湯たんぽも足にあてがった。

 最初は心配したけれど、静かだった彼の呼吸は次第に安定した寝息に変わった。


 ベッドの方からのごそごそとした物音と、寝惚けたようなちいさな言葉の音。

 暖めたミルクを持ってぼくがベッドのそばにあるサイドテーブルへと近づくと、眠りから覚めかけていた彼の瞳が開いた。


 最初は何が何だかわからないようだった。

 体を起こし、ぼんやりとぼくを眺めてからあたりへ視線を向けた。

 そうして、何かにはっと気がつくと、じっとぼくを見つめた。


「……お前は?」


 警戒がこもった声だった。


「ぼくはネルポーツ。寒くないかい? 暖かい飲み物をどうぞ」


 そう言ってカップを差し出したのだけれど、彼は厳しい視線を解かないまま、ゆっくりと首を横に振った。


「そう。じゃあ、ぼくが頂くよ」


 一口飲んでも、彼はじっとぼくを見たままだった。


「……ここはどこだ」

「ここはぼくの家。N自然公園って知ってる?」


 彼は目を細めるばかり。

 答えはない。


「その中にある。――君はぼくの家の前で倒れていたんだ」


 彼は視線を落とした。

 胸の前に持ってきた両手を見つめる。

 何かを考えこむような瞳。

 カップをテーブルに置き、ぼくは椅子から立ち上がった。


「背中の翼、痛くないかい? どう寝せていいかわからなかった。無理な姿勢になっていたら」


 ごめん、そう謝ろうとしつつ彼の肩に手を置こうとした。

 しかし言葉の途中で手をはねのけられた。


「触るな」


 そう彼が言った。


「ごめん」


 ぼくは結果的に同じ言葉を口にした。

 またテーブルに戻り、ミルクに口をつけた。

 ゆっくりとその暖かい飲み物を飲んでいると、やがて彼が言った。


「俺の、……いや、俺たちのことを知らないのか?」


 ぼくは曖昧な笑顔を浮かべてうなずき、それから口にした。


「君たちのことは知ってる。だけど、君のことは知らない」


 それは真実だった。



   ※※※



 羽の生えた人は、とても珍しい。

 だから、悪い考えを持った人間から狙われる。

 何のために?

 珍しいものは、ただそれだけで人の心を満たす。

 そしてそれは多くの場合、お金に換わる。


 長い間、彼らが本当にいるのかどうかわからなかった。

 伝承に残っていたり、時折運良く見かけた人の言葉があったりで、いるらしい、という人はいても、存在を疑う人間の方が大多数だった。

 だが今より少し昔に、彼らが多く住む集落が山の奥に見つかった。


 彼らにとっては、災難だった。

 はじめに見つけたのは、残念なことに、悪い考えを持った人間だったからだ。


 飛んで逃げたのも数多い。

 だが、つかまったのも決して少なくない。

 そうして、彼らの存在はみんなの知るところになり、同時に羽の生えた人たちの安住の地はなくなった。


 しばらくはひどいものだったと、ぼくのおじいちゃんは言っていた。

 彼らを、ぼくらと同じ人間と認めていいか、みんな決めかねていたからだ。


 今ではもう、羽の生えた人たちもぼくらと同じ人間だということになっている。

 しかし彼らは決して人前には姿を現そうとしない。

 なぜって、どこにでも悪い考えを持つ人たちはいるからだ。

 ぼくら普通の人間だってそれを知っている。

 はじめにひどい目にあった彼らにしてみれば、なおのことだ。


 羽の生えた人だって同じ人間だ。

 捕まえて見世物にしたり、いつでもながめられるように檻に閉じ込めておいたり、そういうことをしてはいけないことになっている。

 だけど、隠れてそういうことをしている人間は、まだまだ数多い。

 方々に逃れた彼らが、ぼくらを決して信じようとしないのは、当然のことのように思える。



  ※※※



 彼は、ぼくの作った朝食も食べようとしなかった。

 ただ黙ってベッドの上に座っていた。

 逃げようとしないのは、きっと、まだその体力がないからだろう。


 それ以上勧めても食べないのはわかりきっていた。

 彼の分の食事をテーブルの上に置いたまま、ぼくは自分の分の後片付けを行い、玄関から外へ出た。


 数日前にちょっと降ったきり、雪は降りてはこなかった。

 地面やそこに生えた草、葉のすっかり落ちた木々たち、視界の中には茶色が多い。


 暖かい季節には数多く見られる生き物たちの姿はない。

 もっと風の少ない、少しでも暖かい場所で冬を越している。

 もっとちいさな生き物たちは地面を覆う枯葉の中や、木々のはがれた皮の隙間にその住処を作っているだろう。


 いつものとおり、ぼくは周囲を歩き回った。

 ただし今朝は家からはさほど離れなかった。

 万が一だけれど、彼が逃げ出す恐れがあった。


 何をするわけでもない。

 ただ、ぼくの家を囲む森の様子を眺める。

 誰かが家にいるせいか、歩きながらふと、おじいちゃんとの暮らしを思い出した。


 おじいちゃんはこの自然公園の一区画の管理人をしていた。

 その土地はもともとおじいちゃんの持ち物だったのだけれど、国が昔のままのここの自然を残そうとし、おじいちゃんは土地を売ると共にこの公園の管理人の仕事を得た。


 管理人といっても、さしたる仕事があったわけじゃない。

 おじいちゃんがしていたもともとの暮らし――あたりの森の観察を行い変化があったらそれを記録に残しておく――と、そう変わらない。

 なのになぜ、おじいちゃんが自分の土地を売り、仕事としてそれを行う必要があったのかというと、その頃ぼくの両親が事故にあって天国へと旅立ったからだ。


 おじいちゃんには若い頃の仕事で残したたくわえがあった。

 自然がありふれていた頃の土地を買ったお金もそこから出てきたものだし、ぼくのお父さんが大きくなりその仕事をやめて以降、この土地で悠々と暮らし続けるだけの分を持っていた。

 しかしたった一人になったぼくを引き取ることとなり、おじいちゃんは自分のものを手放し、ぼくのための暮らしをはじめた。


 おじいちゃんが亡くなったのも、事故といえば事故になる。

 N自然公園には珍しい動物たちも住んでいる。

 その動物たちを密猟しようとする人たちが放った弾が、彼らのことを追い払おうとしていたおじいちゃんに偶然当たった。


 密猟者から珍しい動物を守るのは、管理人の仕事でもある。

 だけど本来はそれを専門にしている人たちに連絡をすればそれでいい。

 しかし、ぼくのおじいちゃんは、表立って動物を守ろうとして、そうして運悪く動物たちの身代わりになった。


 そんなわけでぼくは、大きくなるまでおじいちゃんと共に住んだこの家に暮らす権利を得て、生活し勉強していくだけのお金を国からもらえるようになった。

 そしておじいちゃんがぼくのために残したたくさんのお金もある。

 おじいちゃんは、ある意味では、動物たちの身代わりではなく、ぼくの身代わりになったとも言えるのかもしれない。

 そしてまた、ぼくに羽の生えた人たちのことを教えてくれたのも、おじいちゃんだった。


 家の周囲はいつもの通りだった。

 何の変化もない。

 もうすこし何らかの痕跡が残っているのかと思っていた。

 どんな動物よりも珍しい彼が倒れていたのだから。


 家へと戻る途中、彼の残した一枚の羽を見つけた。

 拾い上げて眺める。

 白く、鳥の羽より柔らかい。

 これで飛べるのが何だかとても不思議なことのように思えた。


 あたりを見渡し、一枚の羽も残っていないことを確認するとぼくは家の玄関を開いた。

 彼は相変わらずベッドの上に座っていた。

 ぼくへと視線を向けたまま、その目を決してはずそうとしない。


「食べないのかい? なら、片付けるよ」


 聞いても答えはなかったので、ぼくはすっかり冷えていた食器を流しへと運んだ。

 洗い物をしていると、背中の方で彼が言った。 


「俺はどうなるんだ。金持ちの奴隷になるのか? サーカスに売られるのか? すぐに帰ってきたな。まだ売り先は見つからなかったのか」


 ぼくは振り返った。

 じっと彼の目を見返した。

 そうして言った。


「君はどうにもならない。売ろうなんて思っていないよ。君の好きにするといい。ただし一つだけお願いがある」


 そら来たな、と彼が口をゆがめた。

 ぼくがいう言葉はきっと彼の想像からは外れているはずだった。


「君がまた飛べるようになるまで、ここにいて欲しい」


 その瞬間だけはじめて警戒が薄れ、驚くように彼が目を見開いた。

 しかしそれは一瞬のことだった。

 また疑いの眼差しを向け、彼が小さく聞いた。


「……どうして?」

「飛べない君は悪い人間から逃げることができないだろう。何だか、ぼくが君を見捨ててしまったような気がするからさ」



   ※※※



 彼がはじめてぼくの作った食事を口にしたのは翌日の朝のことだった。

 前の日の昼食も、夕食も、ただ見つめるばかりで食べようとはしなかった。

 ただ夕食のとき一度だけ彼のお腹が鳴り、ぼくはつい笑ってしまった。


「何がおかしい」


 彼はまじめな顔をしていったものの、その前にわずかに見せた恥ずかしそうな顔をぼくは見逃さなかった。

 それでますますおかしさが募った。


「いや、君たちもぼくらと同じなんだなと思うと、つい」


 そう言うと険しい目をして彼がそっぽを向いた。

 言い忘れていたけれどこっちは君の分だよ、とぼくはテーブルに残った食事を指した。

 しかし彼は返事もしなかった。


 そうしてその日の朝、目が覚めていたはずなのだけれど、彼はなかなかベッドから体を起こそうとしなかった。

 ただ目を開けて、ぼんやりと天井を眺めていた。


 はじめはぼくの動きに気を配らなくなったのを喜ばしく思っていた。

 しかしいつまで経っても彼は動こうとしない。

 それで様子がおかしいのに気がついた。


 ぼくは彼の横になっているベッドに寄った。

 覆いかぶさるように彼と目を合わせた。


「だいじょうぶかい。……いつから食べていない?」

「……近づくな」


 声は案外はっきりとしていたけれど、生気がないのは明らかだった。

 ぼくは悠長なことを考え、彼の前で平気で食事をしていた自分を悔やんだ。


 テーブルに置いていた、柔らかく煮たシチューを手にした。

 すでに冷めていたそれをスプーンですくい、彼の口元へとあてがった。


「そんなことを言ってる場合じゃないよ。これを」

「それには何が入っている。痺れ薬か。出来れば毒の方がいい」

「馬鹿なことを言うな」


 厳しい口調でぼくは言った。

 スプーンを彼の口へと滑り込ませようとする。

 しかし彼は首を振り、拒否をした。

 頬にシチューがついた。


 ぼくは有無を言わせなかった。

 シチューの器をベッドに置くと、空いた左手で彼の顎をつかんで固定した。

 そのままスプーンを口の中へと差し入れた。


 何度かそうやって無理に食べさせると、やがて彼も大人しくなった。

 諦めたのかもしれない、はじめはそう思い暗い気持ちになったが、それでも食事を運ぶのを続けた。

 やがて彼の弱々しい左手がぼくのスプーンを持った手をつかんだ。


「もういい」

「まだそんな馬鹿を言ってるのか」

「違う。もう食べられない。四日は食べていなかった。胃が受け付けない」


 ぼくは彼から体を離した。

 彼は目だけでそんなぼくの動きを追った。

 何だかいたたまれなくなり、ぼくは彼に背を向け、流しに食器を運んだ。


 片づけが終わっても、彼はぼくを見ていた。

 不意に口が開いた。


「これには何が入っている?」


 依怙地なやつ。

 ぼくは少しだけ彼を憎らしく思った。


「君の体に何か変化があったかい? 君はどうして――」


 言いかけたぼくを彼が遮った。


「そういう意味じゃない。……悪くない味だ」


 そのときふっと彼がかすかに笑った。

 そうして目を閉じた。

 それはぼくの家に来てはじめての笑顔だった。


 彼が寝息を立てる直前、ぼくは聞いてみた。


「ところで、君の名前は?」

「……エーリク」


 小さく、しかしはっきりと彼は答えた。



   ※※※

 


 そんな風にしてぼくたち二人の生活がはじまった。

 最初に食事を口にして以降、彼はぼくの作るものはすべて食べるようになった。

 すべて、といっても嫌いなものを除いてだけれど。

 肉は基本的に食べようとはせず、彼は野菜を好んだ。


「俺にはこれは必要ない」


 そう言って彼は皿から肉を取り除ける。


「バランスよく食べないとだめだよ。体が育たない」

「……お前、はじめ、俺の好きにしていいと言わなかったか?」


 完全な屁理屈だった。

 しかし食べないものを出していても仕方がない。

 ぶつぶつと文句を言いながらも、それから彼の食事から肉を除くようにした。


 数日、そうやってまともな食事を続けていると、彼はベッドから起き上がれるようになった。

 はじめはベッドの端に座るだけだったが、そのうちによろよろと歩くようになり、やがて歩行には問題なくなった。

 しかし彼は決して外には出ようとしなかった。

 それについてぼくは賛成していた。


 ぼくと同じぐらいの体格をした彼は、ぼくの服を着ることができた。

 冬のおかげで厚着をしていてもさほど目立たないから、背中の羽は何とか隠すことができる。

 しかしやっぱりどこか窮屈そうだったし、コートを脱げば羽の盛り上がりがすぐにわかってしまう。

 一方で、ぼくははじめから薄々感じていたけれど、立ち上がって服を着た彼が気づいたことがあった。


 姿見の前で自分を見ながら、彼が言った。


「ネルポーツ、なぜだかお前のことは見たことがある気がしていた。どうしてだか、これでわかった」

「ぼくも前から思っていたよ。似ているんだろう、エーリク」


 彼の髪は長い。

 後ろはうなじを隠し、左右に垂らした髪は顎まで届く。

 一方でぼくは耳まであらわになっているような短髪だ。

 けれどその髪型の差異を覗けば、ぼくらは瓜二つといっていいほど似ていた。


 彼の隣にぼくも移動する。

 姿見の中のぼくとエーリクは双子のようだった。


「バンダナでも巻けば、どっちがどっちだかわからないだろうね」

「服を着ていればな」


 自虐的に彼が言った。

 


   ※※※



 相変わらず、彼は根底の部分ではぼくに対する警戒を解かなかった。

 日課の、森の中を散歩するとき、ぼくは窓を覆うカーテンの隙間から彼の視線を感じる。

 食事も、最初の一口は他よりもずっと味わって食べている。

 それはわずかな異物の混入を少しでも逃すまいとする彼の姿勢に違いなかった。


 部屋の家具の様子に違和感を覚えたこともある。

 それも散歩を終えた後のことだった。

 けれどそれはぼくの想像の中のことに過ぎなかったのかもしれない。

 カーテンの向こうに視線を感じているくせに、彼がぼくの部屋の中を探っているのではないかと同時に疑う。

 矛盾だ。

 彼の警戒癖がうつったのかもしれないとぼくは苦笑したけれど、依然としてエーリクの心のどこかにぼくに対する壁が存在しているのは間違いなかった。


 しかし同時にまた、彼とぼくは次第に打ち解けているように思えた。


「ネルポーツ、お前は毎日何をやっている」


 ある日の午後過ぎに、勉強をしていたぼくに彼が聞いた。


「勉強さ。ぼくはいずれこの家を離れなければならない。そのときの準備をしているんだ」

「準備、ね……。そういえば、お前の家族はどうしたんだ」


 これまでのことを、ぼくは彼に話した。

 エーリクは特に表情も変えず、世間話でもするように時折相槌を打ちながら聞いていた。

 それは冷たいようでいて、さも親身になって話に聞き入るような態度よりずっとぼくは会話がつむぎやすかった。


「離れなければならないというのはそういうわけか。そのための準備か」


 うなずいて、ぼくはまた机に向かう。

 しばらく、鉛筆がノートに文字を書きこむ音だけが響いた。

 ふと彼が口にした。


「準備が出来るだけずっといい」

「ぼくもそう思うよ」


 彼が何を言っているのかはすぐにわかった。

 あれは、彼らたちに起こった悲しいことは、エーリクの記憶もあやふやなほど幼い頃のはずだった。

 あるいはその見た目どおり、ぼくと同年代だとすれば、まだ生まれていなかったかもしれない。

 けれどあのことは、彼らの種の間では決して忘れてはならない、そうして今でも自分たちの心の奥底に刻み込まれている出来事なんだろう。


 君の家族は、とはぼくは聞き返さなかった。

 何度かそれに近いことをたずねたことがある。

 彼は首をふるばかりで決して答えようとはしなかった。


 だが、日常的な事柄であれば彼はよく話した。

 本来はぼくよりもずっと話し好きな人間なのかもしれない。


「夕焼けというのはどうして、あんなに赤いんだ。お前がしている勉強とやらの力で、俺に教えてくれないか」

「光の波長の問題らしいよ。太陽からは色んな光が出ている。赤い光というのは波長が長い。そうすると空気に吸収されにくいから、夕方に傾いた太陽の光のうち、赤い光が残るんだ」

「……それでは全然わからない。空気に吸収されるというのはどういうことなんだ?」


 そう言われて、ぼくも困ってしまった。

 本で勉強した知識を自分の言葉で説明したつもりだったけれど、結局のところ言葉の移し変えに過ぎない。

 だから、細かな点までの理解に及ばない。

 ぼくが悩んでいると、彼が嘲笑うように、それでも親しげにこう言った。


「まあ、もっと勉強するがいい。やがてこの家を出なけりゃならないネルポーツよ」


 わかっているよ、とぼくは不満げな口調で答えた。

 そうしてふと思った。

 ぼくだけではない、ぼくよりもずっと早く、いずれ彼はこの家を出る。


 彼が飛べるかどうかはわからない。

 この家に来て以降、一度も翼を開いてはいなかった。

 しかし好きにしていいとぼくは言った。

 飛べるようになり、彼がその気になれば、エーリクは飛んでいく。

 ぼくの知らないどこかへ。

 あの夕焼けの向こうかもしれないところへ。


 そうしてまたぼくは一人になる。

 おじいちゃんのいなくなったあの頃へと戻る。

 それはいつのことなんだろう。

 その話をぼくらは一度もしたことがなかった。



   ※※※



 それまでも、ぼくは時折家から離れることがあった。

 国から送られてくるお金を受け取り、食料品や必需品を買い揃えに町へ行かなければならない。


 彼が来て以降、一度もその外出はしていなかった。

 しかし、そろそろ町へ出なければならない頃だった。


「ぼくはお金を受取り、食べものを買いに町へ行ってくる。しかし決して君を売りにいくわけではない、エーリク」


 家を出る際、あえて冗談めいた調子でぼくはそう説明をした。

 彼も調子をあわせた。


「疑わしいものだ。そのお金はどこから出るんだ」

「前にも言ったろう。おじいちゃんの形見さ」


 ぼくはそう言って家を出た。

 道中は心配だった。

 一緒にいることで保たれていたエーリクのぼくへの気安い心が、疑いへ変わるのではないかと。


 しかし戻るわけにもいかない。

 それはぼくがエーリクを疑っていることになる。

 そうしてそれはやはり、彼にも疑いを植え付ける。


 郵便局でお金を受け取り、なじみの食料品店へと寄った。

 目立たないように、少し多めに食べものを買い込む。

 肉は少なめに、野菜は多めに。

 食べもの以外、当座のところ困っているものはなかった。


 支払いをするとき、食料品店の店主であるおじいさんが話しかけてきた。


「久しぶりだね、ネルポーツ。何だかずいぶんと顔を見なかった気がする」

「ここ数日は寒かったから、外に出るのが億劫だったんだ。勉強ばっかりしていたよ」

「なるほど、それは結構。また寒い日が続くかもしれない。けれど、お前の顔を見ないのは寂しくてな」

「ありがとう」

「ところでお前の家の方、また何か出たのか?」


 鼓動が鳴るのを感じた。

 努めて表情の変化を抑える。

 それに、おじいさんが『何か』というのは、大抵密猟者のことを指す。


 祖父と違い、ぼくは管理人ではない。

 密猟者に対して何かをする必要はない。

 それでもぼくのおじいちゃんのなじみでもあったこの店の主は、ぼくに密猟者の情報を教えてくれるし、ぼくから聞こうとすることもある。

 ぼくにしてもその話は、耳にして気持ちいいことではなかったものの、知っていたいことでもあった。


「そんなことはなさそうだけど。このところ、動物たちは別な場所に行っているし」

「そうだなあ。そのはずだ」


 歯切れの悪い返事だったので、ぼくはさらに聞いてみた。


「どうかしたのかい?」

「いや、このところの噂で、この町に妙な人間が来ているそうだから。何か悪いのを考えているやつらか、それを捕まえに来たやつらか……どっちかだろうと思ってな」


 ぼくのところではないようだよ、と答えるとおじいさんは大して疑う様子も見せなかった。

 お礼をいって彼の店を去る。


 町を出るまで、普段どおりの様子を貫いた。

 ただ目だけはあちこちへと光らせた。

 何人かの顔なじみとすれ違い、あいさつを交わす。

 怪しい人間の話題は出なかったし、噂の対象らしい人間を見かけることもなかった。


 けれど。


 町の姿が見えないほど離れると、ぼくは家路を急いだ。

 妙な人物。

 怪しい何か。

 エーリクと関係があるだろうか?

 あるに違いない。

 考えすぎか?

 考えすぎなぐらいの方がいい。

 羽の生えた人は、ふつう密猟者が追っている動物たちよりずっと珍しい。


 普段よりも多く買い込んだ買い物袋は重かった。

 玄関まで来ると投げ出さんばかりにして、ぼくは扉を開いた。


 息を切らしていて、すぐに彼を呼ぶことはできなかった。

 呼吸を整えて声を出す。


「エーリク。エーリク!」


 しかし返事はない。


「……エーリク? どこだ?」


 家の中に彼の姿はない。

 背筋に戦慄が走った。

 彼が捕らえられた?


「エーリク!?」

「なんだ。大きな声を出すな」


 玄関からもっとも遠い家の裏口の扉のそばに、彼は座っていた。

 何をしていたのかはわからない。

 ぼくの靴を履いていた。

 どうして。


「エーリク……」

「どうした。赤ん坊のように何度も名前を呼んで」


 その言葉でぼくの中の何かがはじけそうになった。

 心配したにも関わらず呑気そうな彼が、靴を履いていた彼の姿が、急な苛立ちをぼくに生み出した。


「いま何をしていたんだ。外へ出ていたんじゃないのか?」

「それがどうした」


 余裕ぶった笑みを彼は見せた。

 ぼくはつい、大きな声を出した。


「なぜそんなことをしたんだ! 君にとって外へ出るというのは、つまり……」


 そこまで言うと、彼の笑みが急速にひいた。

 そして目が変わった。

 出会った頃のような、恨みのこもった警戒の瞳。


「つまり、どういうことなんだ?」


 彼の目に、ぼくはたじろいだ。

 違うんだ、ぼくは……。


「外へ出るなとは言われていない。好きにしていいとお前はいった。外へ出る。それがどうした。靴を履いていただけで、出てはいないがな。……ひょっとするとネルポーツ、いましがたお前は、俺を売ってきたのか? だからなんだな?」


 胸が詰まって、すぐには言葉が出なかった。

 自分の感情のせいで、エーリクの立場を、その心をすっかり忘れていた。

 そしてその戸惑いを、彼は違う意味に受け取った。


「やはりお前も人間だったか」

「違うんだ、エーリク……」


 ぼくは彼に手を伸ばした。

 彼がその手を打った。


「衰弱しているより、健康な姿の方が高く売れるだろう。ほどこしてもらったこと自体には感謝している。しかし、お前の思い通りにはならない」


 彼が背を向けた。

 ぼくの手がその肩に伸びた。

 しかし手が届く前に彼は裏口の扉を開け、茶色い外の世界へと足を踏み出していた。



   ※※※



「……エーリク」


 ランプだけの暗い部屋の中でぼくはつぶやいた。

 翼は使わなかったものの、ぼくよりも彼の方が足が速かった。

 森の中で見失い、そのまま夜を迎えても彼は帰ってこなかった。


 不意に扉が鳴った。

 エーリクかと思い、ぼくは足早に玄関の扉を開けた。

 だがそこにいたのは見たこともない二人組の男だった。

 どちらも夜に溶け込むような暗い服装をしている。


「ネルポーツくんだね」


 背の高い方が明るく装った声でそう言った。


「町で君の噂を聞いてね。このあたりの森のことは、君が誰よりも詳しいそうだ」

「……庭みたいなものですから」


 動揺と反発を抑えつつ、ぼくは答えた。


「確かにそうだ。たった一人でずっとここに暮らしているらしいね。……ところで、妙なことを聞くようだが、ネルポーツくん。ここ最近、この森に変わった様子はなかったかい?」

「変わったこと? なんのことですか?」

「例えばそうだな。不思議な動物を見たとか、知らない人が訪ねてきたとか」

「……いまがまさにそのときのように思えますけど」


 そう切り返すと、背の高い方はふっと笑い、もう一人、背の低い方は陰険そうな目を光らせた。


「君はなかなかお上手だ。じゃあ単刀直入に聞くがね、こんなものを見た覚えは?」


 そう言って背の高い方が服のポケットから取り出したのはあの白い羽だった。

 うかつにも手が震えた。

 それはエーリクのものだった。


「いえ……鳥の羽? この季節にはみんな渡ってしまうはずですが」

「そうか……心あたりはなさそうだね。それならいいんだ。お邪魔をしたね」

「申し訳ないですが」


 ぼくは小さく頭を下げた。

 彼らは一歩下がって玄関から離れた。

 早く扉を閉めたほうがいい、そう思った瞬間、背の高い方が再び口を開いた。


「この羽は非常に珍しいと思わないかい? 君はこのあたりの動物のことはみんな知っているそうだね。それなのにこれを手にとろうともしない。これが何だか本当はわかってるんじゃないかな?」

「隠しても意味はないんだけどな」


 そのときはじめて背の低いほうが言った。

 つぶやくように低い、しかし確実にぼくに聞かせるための声だった。


「いえ、失礼かと思って……」

「そうか。そうだね、君は礼儀正しい少年だと聞いている。嘘を言わないともね。それじゃあ、失礼した。おやすみ」


 彼らは背を向け、そして小さい方が一度だけこちらを振り返った。

 玄関を閉めて鍵をかけると、扉を背にしてぼくはそのままそこに座りこんだ。


 彼らは確実に知っている。

 不安が、焦燥感が胸の内にあった。

 彼らは確信を持っていた。

 ひょっとするとぼくの家に何かがあった場合、もしもいまエーリクがいたのなら、有無を言わせなかったかもしれない。

 だけど、彼はいまここにはいない。


 エーリク。

 君はいま、どこにいる。



   ※※※



 なかなか眠りにつけない夜に、ことりとかすかな音がした。

 窓のほうからだ。

 目を向けると、カーテンの向こうに、人影があった。


 カーテンをめくってみる。わずかな明かりが照らし出したのは、エーリクの顔だった。

 つい大声を出しそうになり、慌てて口を塞ぐ。

 彼は人差し指を口にあて、静かに、とぼくへ伝えていた。


 なるべく目立たないよう、ぼくは窓の鍵を静かに開いた。

 家へ入った彼が、ふう、と何気なく息を吐く。


「どうして……」


 彼が意地の悪そうな微笑を浮かべる。


「寝床がなかった。今は寒すぎる。あと、俺たちは」


 彼は自分の耳を人差し指で差してみせた。


「耳がいい。さっきのお前とあいつらの会話は、全部聞いた」


 彼はじっとぼくを見つめた。

 その視線にぼくは耐え切れなかった。


「……エーリク、すまなかった」

「いいや。だから俺のことも、悪く思うな。俺は、俺たちは、そうなってしまったんだ」


 その言葉は悲しかった。

 ぼくは涙がこぼれそうになった。


「泣くな、ネルポーツ。俺は眠い。今は寝よう。そして明日また、話をしよう」 

「……何の?」


 彼は答えなかった。

 けれど聞かずとも何の話をするのか、ぼくにはわかっていた。



  ※※※



 その日の朝は静かだった。

 ぼくとエーリクはほとんど同時に目覚めた。

 一言も言葉を交わさず、ぼくは朝食を作り、彼はそんなぼくの様子を見ていた。


 朝食を終え、後片付けもすんだ後、二人でコーヒーを飲んだ。

 やがて、彼から先に口を開いた。


「……お前とあいつらの話を聞いたあと、俺はそこらを回ってみた。結論からいうと、囲まれている。俺をここまで追ってきたやつらもいた」

「君は彼らに追われて? あいつらはやっぱり、密猟者なのか」


 しかし、密猟者はそこまで組織だった活動はしない。


「いや、違うだろう。そういうやつらは、俺は何人もあしらってきた。密猟者とは装備が違う。動きだって。あれは俺たちを捕らえるだけのためのやつらだ」

「国なんだろうか?」

「そうだろうな。お前は、知っているのか?」

「聞いたことはあるよ」


 国の中に、羽の生えた人を捕らえるための組織がある、という話は確かに聞いたことがあった。

 かつての羽が生えた人同様、単なる噂でしかないと思っていたのだけれど。


 彼らは、保護と称して羽の生えた人を捕まえる。

 彼らを守り、人間らしい生活を、と言いつつ勝手に住む場所を定め彼らの詳しい生態を観察する。


「要するに、俺たちにうろうろされると困るわけだ。自由を与える、といって檻の中に入れておきたいんだ。俺たちが人間とは違う、ただそれだけのことで」

「……それで、君は逃げられそうなのかい?」


 自分でいってぼくははっとした。

 自ら口に出すとは思っていなかった。

 それは、エーリクがどこかへいってしまうということだったから。

 彼は平然と口にした。


「難しいだろうな。やつらは俺を殺しはしない。だからそれだけの用意はできている。あいつらの弾は妙に当たる、そしてしびれる。そういう仕掛けがあるんだろう」

「君は……さびしくないかい」


 もっと大事な、まじめな話をしているのはわかっていた。

 しかしついそんな言葉が出た。

 エーリクは一瞬、変な顔をしてみせた。

 それから視線を落とし、静かに言った。


「お前には、感謝をしている」

「ぼくは君と離れたくない」

「そう言うな、ネルポーツ……」


 なだめるように、彼はぼくの頭に手を置いた。

 目を伏せる。

 いつのまにかぼくは泣いていた。

 ぼくはなんて情けないことを言っているんだろう。

 そんなことを言っている場合ではないのに。

 そうわかってはいたものの、涙は止まらなかった。


「……俺はまだ、飛べるかどうかわからない。あれから、翼を開いていないんだ」


 ぼくは顔をあげた。

 彼の不安げな顔を見たのははじめてだった。


「それじゃあ」


 何の意味でぼくがそう言ったのかわからない。

 いずれにせよ、どうにもならないことだった。

 そして彼が首を振る。


「だが、好きにしていいといったのもお前だ」


 そう言った彼の目は澄んでいた。

 そのときはじめて何の壁もない彼の心に触れた気がした。


「ありがとう、ネルポーツ」


 ぼくは目を閉じた。

 まだ涙が流れる。

 涙腺が温かい。

 彼の手がぼくの頬に触れる。

 やさしげな手が頭を撫でる。


 ぼくは、決めなければならなかった。

 受け入れなければならなかった。

 彼のために、ぼくに何ができる? 

 そう、できることは一つだけあった。


「エーリク、君は翔ぶ。そしてぼくは……」


 目を開き、ぼくは彼の長い髪に触れた。


「君を逃がす」


 君と別れて。



   ※※※



 夕方がやってきた。

 これからは、もう一人だ。


 玄関に立ち、あたりへ目を配る。

 妙なものは目に入らない。

 だが、不可思議な違和感がある。

 気配といってもいい。


 奴らには、囲まれている。

 だから、たぶん、どちらへ逃げても同じだった。

 結局は奴らが集まってきて、捕まるのだ。


 服につつまれた背中は重かった。

 長い髪も邪魔だった。

 しかし、懸命に走る。

 少しでも速く、少しでも遠くへ。

 きっと、もうあそこへは戻れないのだから。


 飛ぶことが出来ればいいと思った。

 もしも、飛ぶことのできる翼があれば。

 たとえ最後に捕まることになろうとも、それだけで十分だった。

 

 なぜって、それが出来れば、大事なものを失わなくとも済む。

 やつらの目的は、羽の生えた人なのだから。


 やがて周囲から足音が聞こえだした。

 まだ追跡を知らせないように、必死に忍ばせて。


 けれど、わかるのだ。

 こっちは必死だ。

 それに、かすかな地形の変化に心を配れば、音の特徴ぐらいはわかる。

 特徴がわかれば聞き取れる。

 なぜって、ここには長いこといたのだから。



   ◇◇◇



 夕方、一人になってしばらく、玄関の扉が叩かれた。

 激しい音。

 いかにも焦ったようなその音に対して、出来るだけ時間を稼ぐため、ゆっくりとした動作で扉を開く。


 扉の向こうには、あの黒ずくめの二人組のうち、背の低い方がいた。


「こんばんは」


 男はその声を遮るように、荒々しい言葉を発する。


「お前、いま、ここからあいつが逃げただろう!」

「あいつって誰のことですか?」

「まだ白を切るつもりか。ためにならねえぜ」


 男が銃を向けてくる。

 しかし、それには殺傷能力がないはずだった。

 つまり、ただの脅しだろう。


「どうしたんですか。ぼくが何をしたっていうんです」

「ふん、まあいい。あとで覚えておけ。お前は俺たちの仕事の邪魔をした。お前の持っているこの家、この森、じいさんの残したわずかな金。ただで済むと思うなよ」

「何の権利があって……」

「お前と俺たちのスポンサーは一緒だからさ。だが今ならまだ、そのあたりのことは水に流そう。さっさと言うんだ、あいつがどこへ行ったのか」


 苦渋の顔を作ってみせる。

 いまさら、嘘を言っても無駄だ。

 きっとやつにはそろそろ仲間からの連絡が入る。

 だが、少しでもかく乱になればいい。


「向こうの方へ行きました。それから先のことは、ぼくにも知りません」


 そう言ってでたらめな方向へと指を差す。


「それも嘘だったらただじゃおかねえぞ。あいつが捕まれば何もかもがわかる。そうすれば、お前は終わりだ」


 そういい残すと、黒ずくめの男は足早に去っていった。

 ゆっくりと扉を閉める。


「ずいぶんと、月並みなことを言うんだな」


 あとは待つだけだ。

 どれくらい待てばいい? 

 ……いいや。

 ただ待てばいいというわけではない。

 信じることが必要だった。



   ※※※



 男たちが集まるのは速かった。

 みんな、同じ様な格好をしていた。

 黒ずくめ。

 それがこんな極限の状態でも、何だかおかしかった。


「よし、いい子だ。そこで止まれ」


 目の前で銃を構えているのは、あの背の高い男だった。

 距離はまだある。

 もうすこし抵抗したかったけれど、無駄な抵抗は、かえって彼らを刺激するかもしれなかった。


「出来るだけお前を傷つけたくないからな。静かにしてくれた方が、こっちも楽でいい」


 銃を構えたまま、彼はそのまま近寄ってくる。

 そうして首元にあるちいさな機械へ連絡をする言葉が聞こえた。


「よし、もういい。集合だ。こっちで確保した。速やかに移送体勢に入る。捕獲班以外は準備へ取り掛かれ」


 どうにかしてまだ逃げるタイミングを探そうとしたけれど、銃口の恐怖は拭えなかった。

 当たっても死にはしない。

 そうはわかっていても、いざという行動には移せなかった。


 いや、行動に移す必要はあるだろうか。

 おそらくもう、それはない。


 やがて四方八方から足音が聞こえてきた。

 背の高い男は数メートル離れた距離に立ったまま動かない。


「それにしても、どうして飛ばなかったんだ。人間として誤魔化して逃げ出せるとでも思っていたのか?」

「飛びたくても、飛べないんだ」


 黒ずくめの男たちが集まってくる。

 ちらりと周囲を窺うと、こちらには誰も銃口を向けていなかった。

 向こうはもう、詰んだものだと思っているらしい。

 背の高い男も銃を下げた。


「ふむ、予想以上にあの薬は利いたらしいな。そんな状態でよく頑張ったものだ。おい」


 彼はそういうと、背後にいた男へ向けて顎をしゃくった。


「縛り上げろ」


 不意にロープが体にかかった。

 適度な抵抗をしてみせる。

 目的は、ここから逃げ出すことじゃない。

 時間を稼ぐことだ。


 背後にいた男は、途中で違和感に気がついたらしい。

 ロープの手を止め、何かを言おうとした。

 その瞬間、彼の肩を力いっぱい押しのける。

 男はバランスを崩して転んだ。

 背の高い男は舌打ちをするのが聞こえた。

 そうして、転んだ男がこちらを指差したまま大きな声を出した。


「違う、こいつは、違う」


 背の高い男が銃を構え、驚きに顔を崩すのを楽しげに見ていた。


「どういうことだ?」


 もういいだろうと思った。

 頭に被っていたかつらを外す。

 エーリクから切った髪の毛で作ったものだ。

 上着を脱ぎ、背中に詰まっていたものも晒す。

 こちらはただのマフラーたちだ。

 ぼくは、彼らに向けて言った。


「あなたたちは、あなたたちが探しているエーリクのことなんか、まったく知らないんだ」

「こいつは、偽物だ!」



   ◇◇◇



 誰もいなくなった家の前で、上半身を空気にさらし、俺は背中の翼を開いた。

 若干、動きが鈍い。

 しかし、飛べないわけがない。

 そのはずがない。

 ネルポーツが救ってくれたこの羽が、俺を飛ばさないわけがない。


 地面を蹴り、宙へと浮かぶ。

 その刹那に考えたのは、これから俺が、どこへ向かうかだった。



   ※※※



 黒ずくめの男たちは、あっというまに散り散りになった。

 そうして、あの背の高い男が一人だけ残り、ぼくの顔や背中や胸を銃床で打っていた。

 一撃ごとに響く痛みが、男の苛立ちをあらわしているようだった。


「思ったとおり、君はやっぱり頭がいい。だけど、関わっちゃいけない物事もある。君にそれがわからなかったはずがあるまい?」


 そう言って男はまた、ぼくの胸を打った。

 しかしその痛みは大したことではなかった。

 ぼくには喜びがあった。

 その様子が気に障ったらしい、男がまた顎を小突いてから言った。


「何がおかしいんだい、ネルポーツくん」

「言っても、あなたたちにはわからないよ」


 エーリクを逃がすことができた。

 それだけで十分だ。

 それが、それだけが、ぼくの望んだことだったのだから。


 大事なものを失わずに済んだ。

 ぼくは彼を助けたのだ。

 もう二度と会えないのは、どっちだって同じだ。

 けれど、まだ、彼は自由でいられるのだ。


 それが喜びでなくて、なんだというんだ。

 また衝撃が来るだろう。

 目の上が腫れ上がり、ほとんど見えなくなった視界の中でぼくが身構えたとき、予想外の声がした。


「ネルポーツ!」


 エーリクの声。

 そうして銃声が一発。


 ぼくの頭は混乱していた。

 どういうことだろう。

 エーリクはすでに逃げたはずだった。

 ごっ、という鈍い音。

 そうして銃声がもう一発。


「エーリク!」


 何が何だかわからないまま、ぼくは声をあげた。

 どうして彼はここにいるんだ。

 なぜ、遠くへと逃げなかった。


「大声を出すな、人が集まる」


 聞こえてきたのは、あの背の高い男のものではなかった。

 エーリクの声だ。


「エーリク、君なのか……」

「他に誰がいる。俺がわからないのか? いや、お前は、あいつらとは違うだろう?」


 ぼくの体が持ち上げられる。

 不可思議な力が体をつつみ、そうしてぼくは、宙に浮いていた。


「気をつけろよ。無理に体を動かすな。お前はいま空を飛んでいる。お前が思っているより、俺たちは速い。落ちると痛いぞ。いまよりずっと」


 頭の上から彼の声がした。

 ぼくはたずねた。


「あの男は?」

「いましがた俺が撃った。やつから銃を奪ってな。あれは利くからな、ずいぶんのびているだろうよ」

「……君は、無事なんだね」

「ああ。人をいたぶることなんかに夢中になってるから、狙いを外すんだ」


 それ以上銃声はしなかった。

 風を切る音が聞こえていた。

 そしてぼくの頭につけられたエーリクの心音。


「エーリク、なぜ……」

「お前はそればかりだ。どうして? なぜ? もう少し勉強しろ」

「…………」

「俺は一つだけ学んだ。わからないだろうから、それを教えてやろう。人間にもいろいろいる。あいつらのような奴らがいる。そして、お前みたいなやつもいる」


 滑るように空気が肌を撫でる感覚がある。

 傷つけられ、熱くなった体には心地いい。


「……いま、夕暮れに向かって飛んでいる。お前と俺がこれからどうなるかはわからない。あそこでのんびりと暮らす生活には二度と戻れないぞ」


 ぼくはかつてのおじいちゃんとの暮らしを思い浮かべた。

 そしてたった一人での穏やかな暮らし。

 だけどぼくにはもう、安住の地というのはないのだ。


 ぼくはほのかな不安と澄み通るような穏やかさを感じていた。

 そしてエーリクの翼が風を打つ音がした。

 もっと早く、もっと高く。

 もっと遠くへ。

 たとえ困難があろうとも。


「それでも構わない。構わないよ、エーリク。君がいるのなら」

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