第6話「競争しよう。この橋の向こうまで」
「ここは――村?」
そう、とミュノが頷く。
我ながら馬鹿みたいな質問だと思う。
民家は在るし、畑らしき土地も在る。荷車や畜舎も在る。
では、何故わざわざミュノにそんな事を尋いたのかというと、この村には――。
「人――居る?」
居ないのだ。人が。一人も。
十件程しか無い民家はどれもすっかりと崩れてしまって、もはやその体を成していない。
荒屋と成り果てた木材からは僅かばかりの雑草が細々と生えている。畑だって、カラカラの土に腐った鈍色の草が覆っているだけという状態だ。
「廃村だから、多分誰も居ないと思う」
「もう使われてない村って事か」
そう――と、ミュノはまた頷いた。
「地図にもこの村は載ってない」
ほらとミュノが地図を覧せてくれた。そこに村の名前は書かれていない。ただの更地になっている。
持ち主の居なくなった家々の間を進んだ。
樽か何かの残骸を跨いで、風化した家屋の奥を窺った。木材の隙間から差す日光に、漂う塵がちろちろと反射する。
村に誰も居ないというのは何だか不思議な感じがする。ボロボロに廃れていても、そこには確かに人が生活をしていたのだ。
人が居なくなり、その痕跡だけが放置されてひっそりと壊えていく姿は、何とも言えぬ寂しさを覚えさせる。
そんな事を考えながら、雲一つない透き通った青空の下を歩いていると、この先の地面がぱったりと途切れてしまっている事に気が付く。
空と同じ青さを映す水面が姿を見せた。
「わあ。こんな所に、海?」
「違う。これは湖」
「こ、これが?」
視界の端から端まで広がる巨大な湖。向こう岸は影すらも見えない。
世界で一番大きな湖らしいとミュノが言う。
「ずっと昔に、ここに星が落ちてきたんだって」
「星が? ここに?」
信じられない。夜空に張り付くあのちっぽけな星が、どうやってこんなに大きな湖を造るのだろうか。まるで想像ができない。
「それでできた窪みの底から、水が湧き出たらしい」
地図に書いてあると言ってミュノはまた地図を寄越した。湖のお蔭でできた円形の余白に、ご丁寧に絵まで付けて解説が書かれている。
「あれ? これって」
解説は――いや、紙面の湖が白い直線で縦に二分されている。
目の前に広がる湖と見比べると、そこには真っ白い橋が架けられていた。湖にばかりに気を取られて気が付かなかったのだ。言い訳するわけではないが、それ程までにその橋は地味だったのだ。
枕程度の大きさに切り出された真っ白い石材を、橋になるようにただ積んだだけ――そんな感じの造りだ。飾り気も工夫も無い。
強いて取り柄を上げるなら、広いという事くらいだろうか。馬車四台程が一緒に通れるくらいにはある。けれども、ただそれだけだ。
「マト、行くよ」
「あ、うん」
先に橋へ踏み出すミュノを追った。想像通りのつまらない足音が湖畔に響く。
「それにしても閑かだね」
海とは大違いだ。波や風の音も、鳥の鳴く声もしない。
廃村でも思ったが、何と云うか、雑音が無い。少し詩的な言い方をすれば、命の音が感じられないのだ。
揺れる水面に映る自分の顔を見下ろしていると、そうそうと言ってミュノがこちらへ振り返った。
「はしゃいで橋から落ちないようにね」
「そんなに子供じゃないよ」
そもそもはしゃぐ程の物がここには無い。
「なら良いけど」
「どうして?」
「溶けちゃうらしいから。この湖」
「と、溶け……!」
すぐに頭を引っ込めた。
「どういう事?」
さあとミュノが言う。
「星の呪いだって言ってた」
「誰が」
「昨日泊めてもらったお婆さんが」
「僕それ聞いてない」
「マト寝ちゃってたから」
「……そう」
そういう大事な事は、できればもう少し早く言って欲しい。
「星の呪いって?」
「それは――」
ミュノは静かに歩みを進めて、お婆さんから聞いたという昔話を始めた。
この廃村の近くの村に伝わる、ずっとずっと昔の話――。
丁度この湖畔の辺りに、大きな街が存在した。その街は人々が賑わい、緑豊かで田畑も栄えていた。しかし、星が輝く或る夜。空が昼間のように明るくなったのだ。
一筋の光が空を駆け抜け――。
「――その街に落ちたの。物凄い地震と、風と、音が、村まで届いたんだって」
「へえ。街はどうなったの」
昨日の村からここはかなり離れているはずだ。そこまで響いたのなら、きっと街は大惨事だったに違いない。
「翌朝、村の人たちが行ってみると、街は跡形も無く消えていたの」
「跡形も……?」
ミュノはこくりと頷いた。
「焼けた大地には、大きな窪みができていたんだって」
それがこことミュノが指で示す。
「そこから湧き出た水は死の水で、周囲の草木は全部枯れて、翼を休めに来た鳥も忽ち死んじゃうんだって。しかも死体は翌朝には無くなっているんだーーって、お婆さんが言ってた」
「ひえぇ……」
どうりで湖が不気味なほど静かなわけだ。
住めないのだ、生き物は。溶けて死んでしまうのだから。
「うん?」
「どうしたの?」
「この橋は大丈夫なわけ? 溶けたりしない?」
多分とミュノが言う。
「橋ができたのもずっと昔だし、溶けてたら今頃はもう無くなってると思う」
「そうか。そうだね」
でも、とミュノは続けた。
「実はゆっくり溶けてる途中で、今が崩れる寸前なのかもしれない」
「えぇ……」
「冗談」
だよね、とは言ってみたものの、石橋がぐずぐずと崩壊する映像が脳裏に浮かんだ。
いつか緩むかもしれない石の継ぎ目から目を逸らし、ゆっくりと過ぎて行く景色に逃避した。
青い景色に雲が二つ、縦に並んで浮かんでいる。
上の雲は、空が透いて見える薄い雲だ。その下に、それをそっくりひっくり返した、水面に映る偽物の雲がある。
二つの雲は、青色の中で互いに独りぼっちで顔を合わせている。
「それにしても――」
綺麗な湖だなぁと思った。水に入ると溶けるだとか、星が落ちただとか、そういう事は抜きにして、単純に景色だけ見れば中々の絶景ではある。
ぐるりと一周見回すと、もう陸地は影すら見えない。多分、気を抜くと来た方向が判らなくなる。
歩いても歩いても景色が変わらないから、自分が今どのくらいのペースで進んでいるのか、それすらも麻痺してしまう。
「ところで、かなり歩いたと思うけど、今どの辺りなの?」
ミュノは地図と魔法の羅針盤を交互に見比べた。
「正確には判らないけど、そろそろ橋の真ん中に――あ」
ミュノが足を止めた。それから羅針盤を見つめながら五、六歩後退してまた止まった。
「ここ」
「え? じゃあ」
そう、とミュノが頷く。
「湖の中心。橋の真ん中。ここが今回のポイント」
「へえ。ここが」
辺りを見渡してみるがやはり何も無い。
湖の中心という事は、つまりそれは窪みの中心だという事で、丁度この辺りに星が落下したという事だ。だからそれらしい痕跡が一つくらいは有るだろうと期待していたのだけれど、何も残っていないようだ。
「じゃあ、始めよう」
ミュノはいつものように魔法の石を取り出した。色の無い石橋にミュノの白い手が添えられる。
光の円板が顕れ、風向きが変わり、穏やかだった水面が乱れた。
魔法だ、魔法だ――と自然が応える。
もはや当たり前になってきたこの現象。目にできるのはあとほんの何回かだ。この橋を渡り、数箇所のポイントを巡れば旅が終わる。
――あと何回。
ミュノから具体的な数は聞いていない。けれども地図を見る限り、ゆっくりではあるものの、故郷に――スゾルに近づいてきている。
スゾルを出たばかりの頃には地図を読むことすらできなかったのだから、かなりの進歩だと思う。
そんな自分に感心していると、魔法の石から放たれる光が弱まっていった。風は何事も無かったかのように軌道を戻し、橋にはまた死んだ閑けさが戻っていく。
「お疲れ様ミュ……ノ? あれ?」
そこにミュノはいない。
返事も無い。
「ミュノ?」
くるりと回ってみても、ミュノの姿はどこにも見当たらなかった。
「先に――は行ってないか」
この見晴らしの良さだ。ちょっとやそっと離れたところで見えなくなることはない。
「隠れ――もしないよね」
そもそも身を隠す場所が無い。あるとすれば橋の側面だが、ミュノがそんな所にへばり付くわけもない。
と、思いつつ――。
「ミュノ?」
橋から顔を出してみる。
当然いない。白い壁面が湖面へ続くだけだ。
念のため反対側も探そうと振り返った間際、視界の端に緋色の何かが見えた気がした。
あれは――。
「ミュノ!」
急いでまた戻ってみると、水面に映る橋にミュノがいた。
「あ、マト」
「なんだあ」
後ろにいるじゃないかと顔を上げて振り向いたが、そこにミュノの姿は無かった。
「あれ?」
――気のせい。
そう思った。けれども――。
マト、マト――と声がする。やはりミュノの声だ。
「どこ?」
「こっち。さっきの所」
「さっき、って。まさか」
――水面?
半信半疑で顔を出してみると、ミュノがこちらを覗いていた。水中からではなく、文字通り水面の像からだ。鏡写しの橋から、ひょっこり顔を出している。
よく見るとそこに映っているのはミュノのだけで、自分の姿は映っていない。完全な鏡写しというわけではないようだ。
「ど、どうなってるの?」
「わからない」
けど――とミュノは続けた。
「多分、水面に入っちゃったんだと思う」
――水面に? 入った?
何が何だかさっぱりだ。
「よ、能く解らないけど、そっちへ行けば良いんだよね」
塀に乗り上げると、それは駄目とミュノが制した。
「絶対に――駄目」
脅迫するかのようにミュノが睨みつける。
「は、はい」
ミュノの剣幕に負けてゆっくりと身を引き下げた。
「一応尋くけど、何で?」
「私かマト、どっちが引き込まれたか判らないし、そこから跳んで帰れるとは限らない」
「あー」
そうかもしれない。
「これはミュノの魔法とは関係無いの?」
多分、と水のミュノが答える。
「私の魔法じゃない。でも、魔法だとしたら、これは――っと――」
ミュノの顔がぐにゃりと歪んだ。
「え? 何て言ったの?」
ミュノの顔は散り散りになり次第に声も消えてしまった。
「ミュノ! ミュノ!」
難度呼びかけても返事が無い。湖に映る橋にはもう誰も立っていない。
「どんな奴かと思ったら、なんだまだ童じゃないか」
背後からだった。
「え?」
振り返ると男が一人、胡座をかいていた。退屈そうに頬杖をついている。
鈍色のターバンを巻き、同じく毛玉だらけの外套で体を包んでいる。
年齢は判らない。老人のようにも見えるし、青年だと言われればそうにも見える。
「えっと――誰、ですか?」
「うん?」
ああ我か、と言って男はターバンの隙間から覗く翠色の眉を片方上げた。
「我の名はコクハヴ。コクハヴだ。天に見捨てられた哀れな星の名だよ」
年齢不詳の男は静かにそう答えた。
「――星?」
コクハヴはふんと鼻で嗤う。
「久し振りに我の大地に人間が入ったと思ったら、こんな術を刻むとはな。それもあんな小娘が」
忌々しい――コクハヴの口は確かにそう動いた。
「我の稜威も落ちぶれたものだ」
コクハヴは自嘲気味に言って、真白い石材を撫でた。
「あ、あの――」
「何だ」
「何を、したんですか?」
途端にコクハヴがこちらを睨んだ。目尻の皺のせいで吊り上っているように見える。さっきのミュノとは違って、その顔からは何やら怒気を感じる。
「ぼ、僕をミュノの所へ戻して下さい」
「ミュノ? ああ、あの古き汚れた血の事か」
「ハコスマ……?」
ハコセム・アドムだ――とコクハヴは間髪入れずに訂正させた。
「何ですか、それ」
「あの童のような奴らの事だ。まだ存在しているとはな。さすがに驚いた」
口ぶりからして、ミュノ達、魔法使いの一族を指しているらしい。
――それにしても。
まだ存在しているとは――とはどういう事だろうか。他にも気になる台詞があった気もする。
「と、とにかく。僕をミュノの所へ戻して下さい」
「フ」
「え?」
「フハハハハハハッ」
男は天を仰いで笑った。
「な、何を笑って――」
男の笑い声が蒼穹へと吸い込まれていく。
「いやあ」
一頻り笑って、コクハヴは涙を拭きながらすまんすまんと謝った。
「反対だ」
「それはどういう」
「居なくなったのはお前じゃあない」
あの小娘だ――。そう言ってコクハヴがまた喉をクツクツと鳴らした。
「それと、お前の要求みだが、我は叶けんな」
「ど」
どうして――。その言葉はコクハヴの鋭い視線によって喉へ押し戻れてしまった。
「あれが古き汚れた血の一族――その生き残りだからだ」
「それがどうしたっていうんですか」
「其奴らのせいで、我はこんな場所に捨てられたのだ」
「捨てられた?」
そういえばつい先程もそんなことを言っていた。そして自らを、哀れな星だとも――。
「少し前までここに古き汚れた血共の住処が在ってな。近隣と比べるとかなり栄えていたと思う。今は跡形も無いがな」
――そうか。
かつてここに在ったという街は、ミュノと同じ一族の街だったのだ。
コクハヴは淡々と続ける。
「奴らは人間に釣り合わぬ術を使っていた。忌々しい事に奴らはその術で――夜を光で満たそうとしたのだ」
――夜に光。
いつもミュノが灯してくれるあの光の球を思い出した。
しかしそれがどうしたというのだろうか。夜は誰だって怖い。暗くて視えないし、危険だ。明るくしたいと思うのは皆同じだろう。そもそもミュノは――。
「で、でも――」
自惚れるなッ、とコクハヴが声を荒げる。
「実に不届きッ。思い上がりッ。神寝時の地を見守るよう後光を授かった、我らの役割を奪う傲慢な行為だッ」
コクハヴは早口に言って、自らの膝に拳を振り下ろした。
「違う! だってそもそもミュノは――」
「よって我らは奴らに罰を与える事にしたのだ」
まるで聞く耳を持たない。
「そんなの」
――無茶苦茶だ。理不尽だ。間違っている。
何故ならミュノは光の球など使わずとも夜は不自由無く視えているのだ。おそらくその人らも、わざわざ新たに光を作る必要など無かったのではないか。
であれば。
夜の闇に困る人達の為、他者の為に、夜に光を灯そうとしたのではないだろうか。
もしそうなら、自惚れでも思い上がりでも、況してや傲慢などでもない。
腹の奥が熱くなってきた。
腹を立てていたのだ。
こんなに腹が立ったのはいつぶりだろう。
そんなこちらの怒りも知らずにコクハヴは続ける。
「星々での話し合いの結果、我が罰を与える事になった。我は自らの星を使い、ちっぽけな人間共に身の程を教えてやったのだ。そして、ここ一帯の大地は砕け、街は消し飛んだ」
しかし――と、ターバンに覆われた顔が歪んだ。
「ほんの僅かだが、直前で逃げ果せた者があったのだ。おそらく空間を弄る術でも使ったのだろう。それどころか、我をここに永久に縛り付ける術を残していった。お蔭で天に見放され、戻る事も出来ずにこんな地に留まっている」
コクハヴの拳が黄色く滲んでいる事に気が付いた。これでいてかなり感情を抑えているらしい。
コクハヴは、拳に収められた感情をじっと見つめている。
「で、でも」
コクハヴの翠色の睫毛が持ち上がる。
「何だ」
「そのハコムド――えっと、その人たちって、昔の人でしょ? それに、ミュノはここからずっと離れた場所で、街ごと閉じ込められて育ったんだ。ミュノとは関係無いじゃないか」
「フ」
男の外套が小刻みに震える。
「フハハハハハハッ!」
「な、何が可笑しいんですか?」
「関係? あるではないか。我がここに降り立ってから幾だけ経つかは知らぬが、血はしっかりと続いている。あれは――」
コクハヴは橋を透かすかのように湖面へ視線を遣った。
「紛れも無く、古き汚れた血だ」
「同じ血筋だからって事ですか」
そうだとコクハヴは答えた。
「そんなの、ただの八つ当たりじゃないですか」
「ふん、言っていろ。お前が何を言おうとあの娘は返さん。無関係と言うなら貴様こそ無関係だ」
去ね、とコクハヴは退屈そうに掌を扇いだ。
「困ります。僕たちにはやらなきゃいけない事があるんです」
ほうと、倦怠感丸出しの男は興味を示した。
「何だそれは。言ってみろ」
「世界を――この世界を、小さくする事です」
「フッ」
男はまた高らかに笑った。いや、嗤ったのかもしれない。
「フハハハハハハ!」
蒼天を仰ぎヒィヒィと腹を抱えている。
「ほら見た事かッ。身の程を知れと言うのだ。古き汚れた血はまだそんな事をやっているのか」
今度は不思議と苛立ちはしなかった。
自分でも、それがどれだけ荒唐無稽な事か解っているからだ。いや。もしかしたら、嗤われる覚悟をしていたのかもしれない。
――それとも……。
どちらにせよ、先程のように苛立って熱くなる感覚は湧き上がらなかった。
男はまだクツクツと喉を鳴らしている。
「滑稽滑稽」
一頻り笑って、コクハヴは涙を指で拭った。
「不可能だ」
無表情にコクハヴが言う。
「できるッ!」
「根拠は?」
「ミュノが言ったから」
また嗤われる――と思いきや、男は今度は黙り込んでしまった。
怒ったり笑ったり黙ったり。忙しい男だと考えていると、コクハヴがうむうむと頷いた。
「ならやってみろ」
「はい?」
わけが解らなかった。
「あの古き汚れた血をこちらへ戻すと言っているのだ」
コクハヴはよいしょと重たそうに立ち上がった。
「どうして」
コクハヴはターバンの内でふんと笑った。
「異界で朽ちていくのを待つより、夢が成就わないと理解った時の、貴様らの絶望する表情を見る方が爽快だ」
これをやろうと、コクハヴが手を差し出した。
「なんですか、これ」
渡されたのは、この湖と同じ――空色の石だった。
「丁度それで最後りだ。今まで数人にそれを渡したが、今のところ我の役に立ってくれそうなのはそれだろう」
渡された石を観つめてみる。いつかミュノの魔法で六花に成った小石を思い出した。
あの時の石は、氷のような透き通った青白い色をしていた。
しかしコクハヴから渡された石は、青さはあっても透明感がまるで無い。乾く直前の塗料のような、ぬらりとした艶がある。
「で? これをどうすればいいんですか? 捨てますか? これ、湖に」
「莫迦者。この瓶にでも入れておけ。きっとお前達の役にも立つはずだ」
コクハヴが小瓶をこちらに放った。
「わっとと。危ない」
おたおたとキャッチした瓶に、コクハヴからの石を入れた。
何ともなしに空に翳してみる。
「ああ」
もし空にこの石を落としたなら――。もう二度と石は見つからないだろう。それくらいここの風景と合致する色合いなのだ。
――これはまるで。
「空の欠片だ」
「天、か。なるほど。だが惜しいな」
「え?」
「それは星の欠片だ。他は全て砂塵になって風に流されたか、湖の底に沈んでいるかだ」
――これが、星。
あの、満点の星空の――その一片。
「で、これが何の役に立つんですか?」
「それは我の目の役割を果たす事ができる。我はこの辺りからは離れられないしな」
「監視ということですか」
それなら要らないですと返そうとすると、コクハヴは違う違うと言って返却を拒否した。
「お前らが持っている分には全く効果はない。それこそ徒の石塊だ。特に役には立たないが、持って損も無い」
まあ、確かに損は無いだろう。精々、石と瓶の分だけ鞄が重たくなるくらいだ。
しかしどうにも引っかかる。そのただの石を持たせたところでコクハヴにだって何のメリットも無いだろう。
考えている隙に、コクハヴは勝手に鞄に石をしまっていた。
「わかりましたよ。持っていきますから。早くミュノを返してください」
「わかったわかった」
コクハヴは、宙を裂くように人差し指を下ろした。
「これで空間は同じになった」
「え?」
コクハヴの言葉を証明するように、女の子の声がした。
「マト――」
「ミュノの声だ」
「マト。いるの?」
後ろから聞こえる。
「ミュノ、どこに――あっ」
振り向くと、向かい側の湖を覗く少女の姿があった。
「ミュノ!」
あちらも気づいたらしく、一目散に駆けて来た。
勢い余って抱きつく。
「マト。良かった。もう、会えないかと思った」
「僕も」
「マトが急にいなくなったから――私、凄く心配した」
「うん。ごめん」
「多分、ここに落ちた星のイタズラだと思うけど――マト、何かされた?」
「いや、大丈夫。何もされなかったよ」
「そう」
それだけ言ってミュノは俯いてしまった。
多分、あのコクハヴとかいう男はミュノの所にも現れていたのだと思う。そして、そこでミュノに何か言ったに違いない。
当の犯人はというと、痕跡一つ残さず消えていた。
「ミュノは……」
「なに?」
どうしたのと、ミュノが首を傾げる。
ーーまあ良い。
それは今話すことじゃないのだ。
「何でもない。そろそろ次の場所に行こうか」
「そうだね。じゃあ、競走しよう。この橋の向こうまで」
「ええ? ちょっと長くない?」
白い橋はまだまだ水平線へと続いている。岸の影すらも見えない。
「わかった。じゃあもう少し進んでから」
「うん。あ、でもミュノの方が足早いから少しハンデを――」
「無し」
「えー……」
せめて少しだけと頼むと、それも断られてしまった。駆けっこではまだミュノに勝てそうにない。
いつかの独りぼっちの雲は、湖のどこにも浮かんでいなかった。