第3話「離れないで」
草のこすれ合う音が近づいてくる。
爽やかな風が緑の匂いを残して去っていった。
だだっ広い草原に一筋の道。時々、木や叢があるだけで、どれだけ歩いても景色に大きな変化は無い。
ついさっき通り過ぎたばかりの古びた納屋はもう見えなくなっていた。
あれからどれだけ歩いただろうか。
昨晩、闇に紛れてミュノと一緒に壁を抜け、生まれ育った街スゾルに別れを告げた。ずっと見上げてきたあの壁は今やもう遥か遠くで小さくなっている。名残り惜しさや寂しさなどは無い。
途中の林で野宿をし、日の出とともに歩き始めた。今はもう昼だ。
これまで、この道ですれ違った者は一人もいない。辺りを見渡しても、人影らしきものは見えない。隣にミュノがいるだけだ。
二人だけの世界というのはこんな感じなのかと想像してみる。
――悪くない。
静かで、穏やかで、清々しい。
他にもっと良い表現があるのかもしれないけれど、とにかく今はそういう気分なのだ。
「意外と遠いんだね」
この長い一本道の先には初めの目的地となる街が在る――らしい。今朝ミュノに見せてもらった地図ではそう書いてあった。
疎いのだ。他の街に。
今までスゾルから外に出た事が無い。せいぜい、もしかしたら父さんの新聞か何かで街の名前くらいは見たことがあるかもしれない、という程度だ。
今までの自分にとっては家と街だけが世界であり、その外の事など考えた事がなかった。というより、考える必要がなかったのだ。
「休む?」
ミュノが心配そうに見つめてくる。
「いや、まだ大丈夫」
長時間の移動で疲れていないと言えば嘘になる。けれども、訪れたことのない土地への期待の方が大きかった。
「見えてきた」
ほら、と ミュノが指差す先に、都市の屋根がちらほらと見え始めていた。
「あれが――」
――ヌガン。
ここからでも、建物の様子がスゾルとは大分違うのがわかる。ミュノ曰く、ヌガンは建築技術の発展の地なんだとか。
街が見えてから到着するのにそう時間はかからなかった。
白や緋色のカラフルな街並み。
ドーム型や錐体型の個性的な屋根。
アーチ状の窓。
植物が彫られた石柱。
どれもこれもスゾルでは見られない物だ。スゾルの街は淡白というか、遊び心がない。
それに比べてこの街では石畳みでさえ、幾何学模様に美しく敷かれている。
――負けた。
という感じだ。
まあ、ヌガンにしてみれば最初から勝負などしていないわけで、こっちが勝手に負けを認めたのだから、云ってみれば不戦敗だ。
スゾルとの違いは街並みだけではない。何よりここは空が広い。街の景色に巨大な壁が無いというのは、何だか新鮮な感じだ。違和感すら覚える程に。
それ程まで、あの壁が自分の日常として刷り込まれてきたのだろうと思うと、少しだけ怖くなった。
「マト、今日はここで休もう」
そう言ってミュノが足を止める。
「ここは――」
宿だ。
しかも、かなり安そうだ。
看板は掠れ、外壁の塗装も所々剥げている。周りの建物と比べると明らかに見劣りしているけれど、宿だというのは確かだ。
こちらがぼーっと歩いている間にも、ミュノは手頃に泊まれる場所を探してくれていたらしい。
内装は大丈夫なんだろうかと心配していると、ミュノは躊躇うことなく宿へ入って行ってしまった。
「二人で旅行かい?」
そう訊ねたのは宿の亭主だ。白い顎髭をピンク色のリボンで結わえている。絵の具をつければ絵が描けそうな具合だ。
まさかこの街の流行りじゃあるまいと思いながら髭を見つめていると、
「こりゃあ流行りだ」
知らんのかねと主人は眉を上げる。
街が違うと身だしなみのセンスもかなり違うらしい。
亭主から部屋の鍵を受け取り、借りた二階の部屋へ上がった。
「へー、思ったより広いね」
「うん」
古そうな外装とは違い、部屋の内装は比較的新しい物のようで、家具も綺麗にされている。
「ところでミュノ。例の魔法はこの街のどこでやるの?」
その辺りの事――つまり計画の内容の事――については全くと言って良いほど教えられていない。と云うか、そもそもこちらからは尋いた事がない。ミュノに任せきりだ。
「この街では、三箇所」
「そんなに?」
ミュノはバッグから地図を取り出し、テーブルに広げた。大凡の場所を指で示す。
地図には、畳まれていた跡以外にも妙な折り目がつけられている。
「詳しい場所は、この街の地図を見ないとわからない」
「そうなんだ……。じゃあまずはヌガンの地図を買いに」
ぐぅと腹が鳴った。
「ごめん」
そういえば今朝食べてからまだ何も口にしていなかったと思い出す。
「良い。私もお腹、減ってる」
ミュノの胃袋も、控えめに空腹を告げた。
「……何か食べようか」
一階にいる髭の亭主に、近くの安い飲食店を訊ねると、二本先の通りに屋台が出ていると教えてくれた。ついでに地図を買える店も訊くと、同じ通りに本屋があると言う。
主人に礼を言って、教えてもらった場所へ早速向かった。
「わあ、こっちも凄いね」
宿のあった道もかなり広いと思ったが、この街ではあれが一般的らしい。
繁華街なだけあって、活気に溢れている。
道の脇には様々な店が立ち並び、人々が忙しなく出たり入ったりしている。すれ違った婦人の紙袋から、焼きたてのパンの香りがした。
カッポカッポと音がする。
道の中央は何台もの馬車が行き交い、すれ違いざまに御者同士が挨拶を交わす。
向かいの本屋の前で新聞売りの青年が号外を連呼している。どうやら舞台女優のスキャンダルが発覚したらしい。かなりショッキングな内容らしく、紙面を見た人々が嘆いている。よほど有名な女優なのだろう。
そんな大人たちの隙間を軽々と駆け抜けた子供たちが、小路の陰へ消えて行った。
内容は何であれ、街に活気があるのは良いことだ。
活き活きとした雰囲気に混ざって、パンと地図を各々の店で買った。
さてどこで食べようかと悩んでいると、通りの噴水の縁に座って食事を摂る人達がいたので、それに倣うことにした。
「ここにしよう」
「うん」
ミュノは縁石に座るなり、地図を奇妙な形に折り始めた。二、三回折ったところで、地図を開いてパンにかぶりつく。
「場所、判った」
「今ので?」
どれどれと地図を覗いてみるがさっぱり解らない。数本の折り目が不規則につけられているだけだ。
「どこ?」
ここ、とミュノがそれぞれの場所に赤い鉛筆で丸を書き込んでいく。けれども、何故その場所になるのかは解らなかった。ただ、折り目の通りに地図を折ったら一点に重なりそうだなという感じだ。
「今夜中に全部やるの?」
街の端から端、という程ではないにせよ、三つの地点はかなり離れている。実際に移動するとなれば、一晩で三箇所は大変なんじゃないだろうか。
「できればそのつもり。でも、急いでいるわけじゃないし、一晩で終わらなくても良い」
と、ミュノはまたパンを一口食べた。
慥かに時間なら山ほどある。 とはいえ、一回で終わるのならその方が楽だ。
「ん?」
再度地図を確認していると、一箇所だけ気になる場所にあった。
「ねえ、ミュノ。ここって……」
そこには広く場所がとられ、三つの十字架の記号が記されている。
どうやらこれは――。
「墓地」
やっぱり。
「そこも夜に?」
「そう」
「明るいうちは?」
「人に見られるかもしれないから、それは避けたい」
「あー」
だよねと心の中で言う。
真夜中に墓かァなどと考えていると、ミュノが顔を覗きこんできた。
「怖いの?」
「……ぜ、全然」
「夜の森は大丈夫なのに?」
そう言ってミュノは首を傾げるが、森と墓ではわけが違う。
森には必ず何かしら生き物がいる。それは常識であり、紛れも無い事実だ。森で茂みが揺れたならそれは大抵ーー獣だ。霊などではない。
しかし夜の墓地は違う。森と違い常に静かだ。墓場に常にいる獣など想像ができない。いるとすれば墓荒らしか黒妖犬だ。どちらとも遭いたくない。
光が浮遊していようものなら人魂を想像してしまうし、地面から干涸びた物が突き出しているのはもっと嫌だ。ゾンビを連想してしまう。そんなものはいないと判っていても、やはり怖いものは怖いのだ。
「嘘つかなくても良いのに」
ミュノは唇に笑みを浮かべた。
「けっ――」
決してお化けが怖いわけじゃない、と弁解した。
「そう」
ミュノは俯いて、
「私は、怖い」
少しだけど――と呟く。
――意外だ。
と、思った。
ミュノのことであるから、墓石の裏から霊がひょっこり顔を出しても意に介さず突き進みそうなものだ。
「やっぱりミュノも幽霊が怖いの?」
手をだらりと下げて、幽霊のジェスチャーをしてみせた。
それを一瞥して、それもそうだけどとミュノが言う。
「夜は、森とか、特に墓地とかだと、色んなのがいるでしょ?」
――え?
「色んなのって?」
恐る恐る訊いてみる。
「だから、黒くて――」
そこまで言ってミュノが言葉を止めた。
代わりに、
「もしかして、マトは見た事無い?」
と訊く。
見るも何も、幸か不幸かそんな特殊な視力は持ち合わせていない。見た事は無いと答えると、じゃあこれ以上はやめとくとミュノに言われた。
有難いがそれはそれで気になる。
――というか、居るのか、霊。
ミュノの話し振りからすると、どうやら幽霊以外の何者かがいるらしい。森にも何かいるような事も言っていた。
やはり聞かない方が良かったのかもしれない。
背後で噴き上がる水の影が風に煽られた。
しばらくの沈黙の後に、そろそろ宿に戻ろうと言うと、
「その前に――」
下見をしておきたいとミュノが言うので、夕暮れまでに三つの地点を廻ることにした。
一つめは、この繁華街にある十字路。
二つめは、ヌガンの東端の路地裏。
そして最後は――。
「静かだね」
深閑とした墓地には誰の姿も無い。
派手な装飾の施された立派な墓。大人の靴ほどの石を置いただけの粗末な墓。
どの墓にも花は供えられていない。
蕭やかに佇む暮石たちの影が、渇いた地面に伸びている。
周りには建物も少なく、人通りも無い。賑やかだった街はここでは遠く感じ、まるで異界にでも入ってしまったような錯覚に陥ってしまう。
しかし何処も小綺麗にされており、蔦や枯葉などはほとんど無い。生の気配が極端に感じられないように思うのはそのせいだ。
「正確にはどの辺りなの?」
墓地は想像していたよりも広い。おまけに、他の二つの地点と違って目印となるものも無い。
正確な位置を探すのは大変だろう。そう思っていると、ミュノが鞄から、金色の何かを取り出した。
懐中時計の様な見た目だが違った。
蓋が開かれると、見えたのは文字盤ではなく無数の歯車だった。時計とは違い、中央に置かれた針は一本だけだ。
「それは?」
「これは、目的の場所を示す羅針盤」
確かに時計よりは方位磁針に似ている。ただし、ミュノの羅針盤は磁力で方角を示す物ではなさそうだ。
ミュノは羅針盤に取り付けられていたピンを地図上の印に突き刺した。歯車の滑らかな回転とともに針がゆっくりと向きを変えていく。
ミュノは視線を羅針盤の針へと移し、針の示す方向を指差した。
「あっち」
どうやらこの道具は、地図に刺したピンの位置を実際の地形で示すという物らしい。目印のない場所でも、これがあれば目的地の大凡の方向を知るこができ、迷う事なく目的地に辿り着く事ができるのだろう。
便利な道具だなァと感心すると、でも欠点が有るとミュノが言った。
「ある程度正確な地図じゃないといけないし、道を指しているわけじゃないから、返って遠回りになる事もある」
「ああ、なるほど」
慥かに、目的地までの直線上に崖や山などがある場合は、道の通りに行った方が早い。
「着いた」
ある程度歩き進んだ所でミュノが止まった。
「ここ?」
「そう」
何も無い。
まだ誰もこの場所を選んでいないのか、それともそもそもここは墓を建てる場所ではないのか。とにかく、この周辺だけ墓が建っていなかった。
不気味な偶然ととるか御誂え向きととるべきかと迷っていると、おやおやと背後から声を掛けられた。
「こんな所で人と会うとは珍しい」
しかも二人も! と言って、青年はにこやかにVサインを作った。
この墓地の管理者だろうか。
鐔のほつれた麦わら帽子を冠り、柄の長いシャベルを肩に担いでいる。土で汚れた衣服の裾は破れ、所々穴が空いてしまっていた。
自分たちよりは歳上なのだろうが、どことなく幼さがある。能く見ると前歯が一本抜けていたから、そのせいなのかもしれない。
「墓参りですか? それともその若さで死後の居場所をお探しで?」
質問の内容にそぐわぬ笑顔で、ボロ服の青年が訊ねた。
「えっと……」
どちらでもないとも言えず困っていると、
「あなたは?」
とミュノが先に訊いた。
「ボク? ――ああ」
これは失礼と言って青年はシャベルを地面に突き刺した。
「ボクは、隠亡と云うか、ここで墓守のような事をしています。名前は――そうですね、ドゥウ、と呼んで下さい。みんなそう呼んでますし」
と、他人事のように言う。
結局彼の本名は聞けていない。ドゥウという呼び名も、それなりの意味があって呼ばれているのだろうが、それも判らないい。
妙な答え方だなと訝っていると、
「もしかして、君たちはヌガンの外から来た人?」
とドゥウが訊いた。
「そうですけど……どうしてわかったんですか?」
墓守の青年は少し困った風にして、汚れた手袋で頬を軽く掻いた。
「ああ、いや、この街の人ならボクの事を知ってますからね」
避けられてるんです、ボク――と微笑みながらも歯切れ悪く答えた。
遺体を扱い、墓を掘り、それを管理する事を生業とする人は、街の住民からは異質な存在として認識されているのだ。どこの街でも同じだ。
それでもこうして笑って話せるのは彼の強さだと思う。
「ドゥウさんはいつも墓地に?」
ミュノの問いにドゥウは、いやいやいやと言って手を振る。
「いつもってわけじゃないですよォ、流石に。仕事の時以外はあそこの家にいます」
ドゥウは、街とは逆の方を指差した。
墓地の隅に一軒だけ、ぽつんと小さな家らしき物が在る。
一見、物置小屋のようにも見えるが周囲に他の建物は見当たらないから、おそらくあれがドゥウの住まいなのだろう。荒屋――とまでは言わないが、かなり古い物のようだ。
何でわざわざあんな遠くに? と訊くとドゥウは、街で住む事が出来ないんですよと答えた。
「この街の人はねェ、墓参りなんて滅多にしませんから。ほぼ墓地の掃除ばかりで、暇なんですよ、ボク」
ハハハッ、とドゥウは笑った。
暇とは言うが、この広い墓地だ。掃除だけでもかなり大変なのではないだろうか。墓守が普段どんな事をしているのかは知らないが、彼を見る限りでは苦労の多い仕事なのかもしれない。
で――とドゥウが言う。
「この街の住人じゃない君たちが、ここに何の用で来たんです?」
忘れてくれていなかった。
「私たち、観光でこの街に来たんです。それで偶然ここを見つけて、ヌガンのお墓は私たちの街と違うようだったので、つい入ってしまいました」
ごめんなさいとミュノが謝する。
自分も中々の嘘つきだと自覚しているが、ミュノも相当なものだと思う。
ドゥウは、いいよいいよと言って、
「墓場は誰でもウェルカムですからねッ」
と親指を立てて笑みを浮かべた。
「あはは……」
それは墓地の敷地に入る時ではなく墓に入る時の事だ。
彼の墓守ジョークは微妙に笑えない。
そうそうと言って、ドゥウは地面に突き刺したシャベルを引き抜いた。
「君たち、今はまだ良いけど、日が暮れる前にここから出た方が良いですよ」
「何かあるんですか?」
「あるって言うか何と言うか」
ドゥウは、うーんと困ったように腕を組んだ。
「最近、変な噂があるんですよ。墓地の近くで遊んでた子供が腕を引っ張られただの、樹木ほどもある黒い大男が歩いてただの。まあ色々です」
その光景を想像してぞくりと肩が震えた。
ミュノのあの話を聞いた後だ。俄かには信じられないと切り捨てることはできなかった。
「まあ、噂自体はボクへの悪戯のつもりかもしれませんが――」
ナニかが顕る事は確かです――と、ドゥウは顔をずいと前に遣った。
「視たことあるんですか?」
また余計なことを――と我ながら思う。
あるとか答えられたらどうしよう。そしたらそれはもう実体験だ。噂の域を超える。怖さが増す。
で、案の定――。
「まあ、長いことここに住んでるとね」
ドゥウは出会ってから一番の笑みを見せた。
そのまま数秒だけ意味深な視線を合わせてから、
「じゃ」
と手を振って、ドゥウは去ってしまった。
「ミュノ、あの人の言ってた事ってさ」
本当? と訊き終える前に、ミュノがこくりと頷いた。
途端に不安になる。
「もしかして今もその辺にいたりとか?」
慌てて辺りを見渡してみるが、当然何もいない。否――居るのだろうが、自分には見えないのだ。
ミュノは何かを言いたそうに口を開くが、すぐに口を噤んでしまった。
こちらに気を遣ってくれているのか、それともただの意地悪なのか。
ふと背後に意識を向けてみる。
――居るんだろうなぁ。
すぐそこに。視えぬ何者かが。
ミュノは肯定も否定もせずにただ一言、
「戻ろう、宿に」
とだけ言って地図とコンパスをしまった。
ミュノの提案に異論は無かった。
今日はずっと歩き続けていたせいで疲れが溜まっているのだ。夜まではまだ時間があるので、その前に少しでも寝ておきたかった。決して、怖いからではない。
部屋に着いて早々、ベッドに横になった。全身から力が抜け、こんなにも体に疲労が蓄積されていたのかと気付かされる。
ミュノももう倒れ込んでいた。顔を枕に埋めている。
やはり疲れていたのだ。
ベッドに体が沈んでいく感覚を味わっていると、ミュノが体をこちらへ向けた。
「マト、まだ起きてる?」
一応意識はあるので、起きてると応えたが正直ギリギリだ。
「あの人――私と同じ」
あの人、とはドゥウの事だろう。
慥かに、あの墓守とミュノには共通するものがある。何もかもが同じとまでは言わないがけれど、境遇は似ている気がする。
「ずっと、あの墓地に無理やり縛り付けられてる」
私もああなのかな、とミュノが言う。
重ねているのだ。塀に閉じ込められて生活してきた自分と、墓場での生活を強いられ街に入れぬあの墓守とを。
「でも」
「そう。あの人と私は、違う」
先に言われてしまったが同意見だった。
ミュノはもう、あの巨大な塀から抜け出すことができた。そして、大きな目標へ向けて旅を始めたのだ。ミュノの方が恵まれている。ドゥウとは違うのだ。
しかしミュノの考えは違うようだった。
「あの人は、街に必要な人。仲間外れにはされても、街から追い出されたり、街の人と敵対する事はない」
ミュノは姿勢を仰向けに変えた。
「あの人の方が――」
私より恵まれてる――とミュノは言った。
大きく息を吐いたのか、ミュノの胸が下がった。
「違うよ」
「え?」
ミュノは天井へ顔を向けたまま、視軸をこちらへ移した。
「ミュノはもう、外へ出たじゃないか。閉じ込められてない。もう、自由だ。それに――」
「それに?」
「ミュノは、独りじゃない」
本当は、僕がいるじゃないか――と言ってやりたかった。
けれども、いざ声に出そうとするとどうにもそれができない。恥ずかしいというより、照れ臭いのだ。
ミュノは小さく笑って、
「そうだね」
と瞼を閉じた。
小心ぶりを嗤ったのかと思ったが、どうやらそうではないようで安心した。
「ねえ、マト」
「何? ミュノ」
いつもの呼びかけに、いつもの応えで返す。多分、お互いに口癖のようになっているのだと思う。
「マト――」
ありがとう。
その静かな謝辞は、微かに聞こえる屋外の賑わいに埋もれた。
言いながらミュノは眠ってしまったのだ。
――こちらこそ。
返事をしたつもりだったが、こちらもまた声になる事はなかった。浮かび上がっただけの言葉が意識の中で煙と化す。
瞼がゆっくりと下りていく。
傾き始めたばかりの日の光を浴びながら、ミュノの寝息に誘われるように意識が遠退いていった。
視界の端からゆっくりと影が範囲を広げ、やがて――閉じる。
脳と体の接続が途絶えた。
――闇の中。
島と呼ぶにはあまりにも小さな陸地が、水に浮いている。
夜とも影とも違う黒い空。
空を映す水面に、波は無い。水流れている様子もいないから、川ではないだろう。
池か、湖か。
他に陸は見えない。
そもそも、いつから、何を目的に、こんな場所に居るのかもわからない。
マト。マト――。
遠くで誰かが呼ぶ声がする。
マト――。
聞き覚えのある声だった。
昼下がりの天気雨のような。優しくて、暖かくて。一聞すると愛想が無ようにも聞こえるが、そこには確かに情がある。
マト、マト――。
ああ、なぜ忘れていたのか。この声は――。
「マト、起きて」
体が揺さぶられるのを感じて目が覚めた。
目を開けるとそこに緋色の髪の少女がいた。
「ミュノ……?」
「おはよう」
もう夜だけど、とミュノが外を見遣る。
まだ霞む目で部屋を見渡すと辺りは暗くなっていた。だが見えないほどではない。月光のおかげで仄かに明るい。
窓を見上げると、正円の月が夜空を紫紺に灯していた。今夜は満月だ。
「ほら、マトも準備」
「あ、うん」
宿の主人や他の客を起こさぬよう、物音を立てずに宿を出た。
外は部屋よりも明るかった。石畳に映る二つの影は、ぼんやりと像を成している。
小路こそ暗いが、広い道なら歩くのに充分な明るさだ。ミュノの顔も看板の文字もはっきりとわかる。
月に照らされた街が、色のない光を反射していた。こういうのを月映えというのだろうかと、使ったことの無い言葉を引っ張り出してみる。
「静かだね」
街全体が寝静まり、日中の殷賑な様子が嘘のようだ。
「まずは墓地から?」
「そう。ここからなら、そこが一番近い」
昼間とは逆の順路で墓場へと向かう。
途中、暗い小道に入った。建物で月の光が遮られ足元は見えなくなる。
光は灯さないのかと問うと、目立つからと言ってミュノは光の魔法を使わなかった。
躓かないように必要以上に足を上げて歩いていると、段差は無いから大丈夫とミュノが言った。この暗闇でもやはりミュノは視えているようだ。
ミュノだけ特別夜目が利くのか、それとも魔法使いは皆こうなのか。
気になって尋いてみる。
ミュノは左目を抑えて静かにこう答えた。
「これは、私達の一族はみんなこう」
「へえ、そうなんだ」
しばらく歩くと墓地が見えてきた。
仄暗い開けた土地からにょきにょきと墓標が生えている様子は何とも不気味だ。
古びた柵を越えて墓地に入って行く。
夜空にぽっかりと浮かぶ月が石柱を淡く照し出す。顔も知らぬ人物の名が、そこに刻まれていた。
あまり凝視ていると墓標の陰から顔が覗き返してきそうなので、すぐに視線を外した。
やがて墓の立っていない場所で立ち止まり、ミュノがコンパスを取り出して確認した。
どうやらここが例の地点らしい。
「ドゥウさんの家ってあっちだったよね?」
彼の家が在るであろう方向に目を凝したものの、目視することはできなかった。
少なくとも灯りは点いていないように見える。
「大丈夫。寝てるか外出してるかだけど、私たちの近くにはいない」
言いながらミュノは首に提げていた魔法の石を取り出した。
この月夜でも幽かに石が発光しているのがわかる。
ミュノは石を掌に添え、地面に翳した。
「じゃあ、始めるね」
そう言ってミュノは目を閉じた。
閃光が弾け、空に光の輪が顕れる。そこには記号や文字らしきものが躍っている。
森閑としていた墓場に風が吹き抜ける。
墓石がひよひよと不気味な声を発した。それはミュノの魔法を祝福しているようにも、拒絶しているようにも聞こえる。
ミュノの手の先の光は強さを増し、膨張していく。
そして、小さな粒となって飛散した。
それから間も無く、死者の眠る土地は静けさを取り戻した。
ふう、とミュノが息をつく。
「あのさ、ミュノ」
「なに?」
「その、目立ってない?」
魔法を使う際に生じる光は、真夜中には眩しすぎる。前回は周りに人の居ない森の中であったために失念していた。
今は人の居ない墓場だから良かったものの、次の二箇所はどちらも人の住んでいる場所だ。夜中に民家の近くであんな光があったら、中の人は目が覚めてしまうのではないだろうか。
そんな懸念をどれだけ理解しているのかミュノは、
「次からは考えとく」
と、いかにも適当な応えをした。
「でも、今回は夜でも問題無いと思う」
どうしてと尋くと、そもそも人通りの多い交差点は昼間には作業できないし路地裏の方も窓はほとんど無かった――というような事を細かく説明された。
「夜なら怪事件で済むけど、昼なら姿を見られる」
「そりゃあ、そうなのかもしれないけど」
ミュノは昼間に作業をする気は無いらしい。
「夜といえばさ」
ふと思い出す。
「ミュノ、墓は怖いって言ってなかった?」
「うん。怖い」
少しだけど、とミュノは加える。
怖いと言う割には平然としている。ここまでの道のりも、墓地の柵を越えた時も、かなり余裕そうな様子であった。
疑いの目を向けていると、でも平気だったとミュノが言った。
「どうして?」
「マトがいるから」
「へ?」
揶揄われているのだろうか。だとしても悪い気はしなかった。
「ま、僕はこんなとこ怖くないからね。悪い奴が出てきても守ってあげるよ」
「嘘つかなくてもいいのに」
次、早く済ませよう――そう言ってミュノはさっさと先に行ってしまった。
と思いきや、数歩先でくるりと振り返る。
「マト、離れないで。守るんでしょ? 私の事」
「……はいはい」
もしかしたらミュノの方が怖がりなのかもしれない。そんな事を考えながら、いつもより小さく見える背中を追った。