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セカイの折り図  作者: 露隠端月
2/8

第2話「今からここは、始まりの場所」

「世界を……小さく?」

 あまりにも突飛な話で、思わず聞き返してしまった。

「そう、小さく」

 ミュノは真剣な眼差しでこちらを見つめた。若葉色の瞳が日光を反射してキラキラと煌めいている。

 その純粋な眼差しに、むしろこちらがたじろいでしまった。

「ど、どうやって……?」

 方法を訊きたかったのではない。そんなことは無理だと、遠回しに言いたかったのだ。

 慥かに、ミュノたちが壁に閉じ込められた生活を続けるのは間違っていると思うし、大人たちの争いも収まれば良いと思う。何より、ミュノと会えなくなるのは絶対に嫌だ。

 だからもし本当に、今後もずっとミュノと一緒に居られる方法があるなら、それがどんな方法であっても実行したいとは思う。

 しかし、いきなり世界を、それも小さくするなどと云うのは余りにも話が飛躍しすぎだ。何かの比喩で言っているのか。まさか本気で世界を小さくするつもりでいるわけではあるまい。

 どちらにしても、スケールの大きい話しである事には違いなかった。

「そんなこと」

 できるわけがない。

「できる」

 ミュノは言い切った。

「できるよ」

「でも、どうやって……」

 今度は言葉通りの意味だ。

 いや、方法だけではない。もし本当にそんな、世界を変えてしまうような手段があるとして、何故それをミュノが知っているのかも気になる。

 訊きたいことがありすぎて言葉に詰まっていると、ミュノは首に提げている飾りを服から取り出した。

「これで」

 飾りを顔の前に差し出す。

 首に繋がれたか細い鎖には、鉱物らしき物が一つだけ吊り下がっている。

 観て良いかと訊くと、ミュノはこくりと頷いた。

 お言葉に甘えて石を覗いてみる。

 覗いてみるが、これが何という石なのかさっぱり解らない。そもそも石に詳しいわけではないのだから解るはずがない。

 素人目に見てわかることといえば、これは何かの黒い結晶であるということだ。そして能く観れば紫色に透けている。周囲が明るいので確かなことは言えないが、もしかしたら少し発光もしているかもしれない。

「これは?」

「魔法の石」

 当たり前のように言う。

「マホウって、あの魔法?」

 魔法にあのもそのも無いと思うが、そう言う他なかったのだから仕方がない。

「そう、魔法」

「これが?」

「そう」

 魔法の石、とミュノはもう一度言った。

「ど、ど――」

 どうしてそんな物が在るのか、魔法なんて本当に存在するのか――結局、阿保みたいな声が漏れるだけで、言語になる事はなかった。

 それでもミュノは理解してくれたらしく、少し待ってと言って、魔法の石とやらが掌にくるように鎖を手に巻きつけた。

 かと思えば、今度は足元に落ちていた小石を一つ拾った。

 見たところ、なんでもないただの小石だ。もしかしたら何かしらの名前が付けられているのかもしれないが、少なくともそこらに落ちている石と何ら変わりはない。

 そしてそれを、魔法の石と一緒に両手で包み込んだ。

「見ていて」

 祈るようにして目を伏せる。

「え?」

 変化はすぐに訪れた。

 ミュノを中心に、さわさわと空気が流れ始める。

 足元から吹く微風が、ミュノの髪や服をふんわりと押し上げた。

 炎とも雷とも違う、青白い光がミュノの手から漏れ出て――全身を包み込む。

 やがてそれらの摩訶不思議な現象は徐々に収まっていき、気づけば風も光も、何事も無かったかのように元に戻っていた。

「来て」

 ミュノがそっと手を開いた。

「そんな……!」

 ミュノの手の中には二つの石があった。

 一つは、始めからあった魔法の石。そしてもう一つはーー。

「雪だ」

 正確には雪ではなかった。

 ただの小石だったはずのそれは、美しい六花の結晶となって咲いていた。

「これが、魔法……?」

「そう。でもこれはほんの一部」

「魔法……」

 誰かの言葉を思い出す。

『奴らは魔女だ』

 本当だったのだ。

 つい先程までは、大人たちの嘘だと思っていた。

「ミュノは、魔――」

 魔女なのかと訊こうとして、やめた。

 魔女というのは蔑称だ。蔑む意図な無くとも、ミュノをそんな風に呼びたくはない。

 違う呼び方をするなら、

「魔法使い……?」

 だろうか。魔法を使うのだから、この呼び方で間違ってはいないはずだ。

「……そう。魔法、使える」

 初めて聞くであろう単語に、ミュノは少し困りながらも肯定した。

 しかしそうとわかっても、やはり特に恐れなどは抱かなかった。

 むしろ、こんなにも美しい力を持っているミュノを誇らしくさえ思えた。

「少し前に本を読んだの」

「本?」

 できたての雪の宝石をミュノから手渡された。

 透き通っている。少し傾けるだけで陽の光をちろちろと返した。

 本物の雪とは違って冷たくはない。もちろん、石のようであるから溶解(とけ)もしない。

「何の本?」

「私の家にあった、古い本。そこに載ってた」

「何が?」

 構わずミュノは話を続けた。

「ねえ、折り紙理論って知ってる?」

「折り紙……理論?」

 やけに話が色々な方へ飛ぶ。その度に疑問符で返している気がする。

 魔法の話はどこへ行ったのやらだ。いや、話の始まりは、世界を小さくする方法だったか。

「折り紙理論っていうのは、今私たちが見ているこの世界は、折り畳まれている姿だっていう考えなの」

 さっぱりわからない。

「この世界は、折り紙なの。認識できていない部分にも世界は広がっている。例えば、私とマトの間には無限に近い距離が存在するし、今こうやって会話している時にも、無限に近い時間が流れてる」

 そこまで説明され、解るかと訊かれたが、解らないと正直に応えた。

 全くのちんぷんかんぷんだ。

「見えないくらい小さく畳まれた世界があるってこと?」

 そうじゃないとミュノは首を振る。

「私たちが認識している世界は、既に折られた――完成した折り紙の姿だってこと」

「ああ……」

 細かい内容や理論自体は依然理解できていないが、感覚的には分かった気がする。

「今ある世界そのものが、実はもう折り畳まれているってことか」

 言って、これはミュノが始めに言った言葉だと気付いた。

「――そ、それで?」

 その折り紙理論だとかいう、自分のような凡人が到底理解できない考えがどうしたのだろうか。

「この理論通りに考えると、世界は大きくできる」

 まあ、そうなるだろうなと漠然と思う。実際にどうだとかの話は置いておいて、先程の折り紙の例えで云えば、完成した形からただ紙を開けばいいのだ。

「それで私、考えたの」

「何を?」

「世界は、小さくできる」

 話がやっと、最初に戻った。

 要するにミュノは、折り紙理論とやらの考えに基づき、自身の魔法を使って世界を小さくしようと云うのだ。

 魔法の石。

 魔法の存在。

 折り紙理論。

 こちらの理解が悪いばかりにかなり遠回りになっているが、結局のところミュノが言いたかったのは、世界を小さくする、という事だった。

 しかしまだ疑問は残っている。

 一つは――。

「その石は、魔法の石は何でミュノが持ってるの?」

 まだこの説明はされていない。

「これは、私の石。私たち――この街の人たちは一人一つずつ、魔法の石を持ってる」

 何となく予想していた通りだった。

「じゃあやっぱり、この街の人はみんな魔法が使えるのか」

 人によって強さや個性に違いがあるとミュノは補足した。

 残る疑問は一つだ。

「ミュノの魔法で、本当に世界は小さくできるの?」

 結局はここに行き着く。

 理論だの何だのを持ち出したところで、それはあくまでも理論でしかない。ミュノの魔法でそれができるかどうかは、また別の話だ。

 先程ミュノが見せてくれた魔法は確かに凄かった。けれども、魔法で世界を小さくするなどと云う大業を成し遂げられるとは、未だ信じきれない。

 けれどもミュノは、

「私なら」

 できるとはっきり答えた。

「私は、特別だから」

「特別?」

「私は、この街で――多分、世界で一番強い力を持ってるから」

 だからできるのだとミュノは言う。

 根拠はと訊く前に、ミュノが説明を続けた。

「別々の場所の、空間と時間を繋げる魔法を、色々な所に仕掛ける。折り紙に、折り目をつけるように。そうして最後に――」

 一斉に折る。

 言いながらミュノは左右の掌をくっつけた。

 つまり、既に折り畳まれている世界を、さらに折るということらしい。

「色々な所って?」

 どこと訊くと、色々な所とミュノは答えた。

「最終的な世界の大きさによって、場所も数も変わる」

 ミュノは少しの間、天に目を遣って考えた。

「マトは、どのくらいが良い?」

 どのくらい、とは世界の理想の大きさを訊いているのだ。

 どのくらいと云われても――困る。

 壮大過ぎて答えようがない。そもそも、ここからの景色を見た程度で、世界を見たつもりになったのだ。ここからここまでと答えられるようなほど世界を知らない。

 知っている所と云えば、家と、自分の住んでいる街くらいだ。それから――。

「――あ」

 ふと、一つの場所が思い浮かんだ。

 ミュノと二人だけの世界という話であれば、そう広くある必要はない。

「いつもの、あの大きな木の周りくらいまであれば良いかな」

 冗談半分に言ってみた。

 しかしミュノはその答えについて特に何も言わず、

「そう」

 とだけ応えて、しばらく黙り込んでしまった。

 何か不詳(まず)い事を言ってしまっただろうかとミュノの方を見ると、ただ遠くの人集りを眺めているようだった。

「ミュノ?」

 聞こえていないのか、それとも聞こえてないフリをしているのか、反応が無い。

 仕方がないのでこちらも暴動を眺める。

 ここからでは遠過ぎて、灰色の塊がわらわらと動いている様子しか確認できない。

「マト」

 呼びながらもミュノはまだ、人の群れに目を遣ったままでいる。

「一緒に旅に出よう」

「旅?」

 突然の申し出に戸惑った。

「魔法は、世界のいろいろな場所に仕掛ける必要がある」

 そう云えば先程そんな事を言っていた。

 でもとミュノは続ける。

「私は、マトといたい。だから――」

 一緒に来て。

 そう言ってやっとこちらを向いて、手を差し伸べた。

「一緒に……」

 ミュノの手を取ろうとして――止まる。

 本当はすぐにでも彼女の想いに応えたかった。同時に、果たしてその場の感情に任せて良いものなのかという考えがよぎった。そんな迷いが、自らの手を止めたのだ。

「す――少し、考えさせて」

 すぐに決められない自分が情けなかった。

 臆病者めと己の心が罵る。

「うん。待ってる」

「明日また来るから。その時までに、考えておくよ」

 それだけ言い残して、今日はこれで家に帰ることにした。

 とぼとぼと森の中を歩く。

 いつもの場所から壁を(くぐ)り、自分の街の森から壁を見上げた。

 上の方がどうなっているのかは判らない。どれだけ体を反らそうと、頂上を目視することは叶わなかった。ただ首が痛くなるだけだ。

 諦めて視線を穴の方へと戻す。

 壁の足下は、うっすらと苔が生していた。

 剥がれかけの板が、モザイク状に幾重にも重なっている。

 そこに一つだけぽっかりと穴が空いている。

 ミュノと出会ったあの日から、何度通ったかわからない。

 別段愛着があると云うわけではない。ただ、この穴があったからこそ、ミュノとの日常が始まったことは確かだ。

 旅に出るにしても、修理を甘んじて受け入れるにしても、どちらにせよ今までの日常に戻ることはできない。

 街に留まりミュノと離れ離れになるか。

 一緒に旅に出て世界を小さくするか。

 両極端だ。

 これを明日までに決断しなければならない。

 手の中の結晶に視線を落とす。

 きらきらと光を反す六花を見て、まだ日が昇っているのだったと気が付いた。

 空が青いうちに帰る事は、今までに無かったと思う。

 ミュノからの宿題は家でゆっくり考えよう。そんな事を考えながら、明るい新鮮な森を抜けた。

 が。

「お前、こんな所で何をしている」

 少し注意を怠っていた。

 いつもと違う時間に森を出たせいで、非常に(まず)い人物と出くわしてしまった。

「父さん……!」

 横にいる男が、息子さんですかと訊くと、そうだと父さんは答えた。

 まったく、この人はいつもいつもタイミングが悪い。

 そして不運はさらに続く。

「何だそれは」

 父さんがこちらの右手を指差す。

 愚かな事に、雪の宝石を隠すのを忘れていたのだ。

「これは、その、友達に貰ったんだ」

「友達? 森でか? お前一人のようだが」

 そう言って父さんは辺りを見渡す。

 森で拾ったと言えば良かったかと後悔した。

 悔やんでももう遅い。状況はより悪くなってしまった。

 どうにかこの状況を打開しようと、ちっぽけな脳をフル回転させる。

「え、えっと……。い、一旦、これを家に持って帰ろうと思って。失くしたら嫌だから」

 友達は森で待ってもらっているのだと、そう言った。

 咄嗟とはいえ我ながら苦しい嘘だと思う。

 やや強引すぎたかと不安でいると、父さんはいつものようにフンと鼻息を漏らして、

「そうか」

 とだけ言って、連れの男と仕事の話を始めて壁の方へ去って行った。

 危なかった。

 あの苦し紛れの嘘がどこまで通用したかはわからないが、どうにかこちらへの興味を無くすことはできた。

 ――我が脳よ、やればできるじゃないか。

 あの人はそもそも初めから興味など無いのかもしれないけれど。

 また誰かに見つかると面倒なので、雪の宝石をポケットに仕舞った。

「ただいま」

 家のドアを開ける。

「あら、珍しいわね。こんな時間に。早く出たから?」

 家に帰ると、母さんがちょうど昼食を作り始める所だった。

 出来上がった昼食を済ませ、自室のベッドに寝転ぶ。

 魔法で作られた結晶を眺めた。

 ――本当に。

 魔法使いだったんだ。

 魔法を使っているミュノの姿を思い出す。

 不思議な光景だった。風が、光が、世界が、きらきらと輝いていた。

「綺麗だったな……」

『世界を小さくしよう』

 今朝ミュノが言った言葉だった。

 そんな荒唐無稽な提案をミュノは、できるとはっきり答えていた。

『二人だけの世界』

 慥かそんなことも言っていた。

 それができたらどれだけ素晴らしいか。

 魅惑的な言葉にも聞こえる。

 ミュノと自分だけの、二人だけの世界。そこには、大人もその他大勢の子供も居ない。争いも啀み合いも無い、平和な世界。

 理論とか魔法とかを抜きにしても、ミュノなら本当に実現できるかもしれないと、これといった根拠も無くそう思った。

『一緒に旅に出よう』

 それも良いかもしれない。

 もし世界を小さくできなくても、旅に出ている間はミュノと一緒にいられる。

 世界を小さくするとかしないとか、できるとかできないとか、そんなのは後で良い。

 街を出るか。ミュノとの別れか。

 二つの選択肢を乗せた天秤は、もうとっくに傾いているのだ。

 なんだ、簡単な事じゃないか。

 胸が軽くなった気がした。

「――マト! 今すぐ来い!」

 父さんの怒鳴り声で目が覚めた。

 考えているうちに、いつの間にか寝てしまっていたらしい。

 部屋は夕陽色に染まっていた。

「マト!」

 父さんが乱暴に部屋のドアを開けた。

勢いで蝶番が一つ弾け飛ぶ。

「何?」

「来い」

 言葉を返す前に胸倉を掴まれ、無理やり部屋から放り投げられた。

「痛っ……」

 機嫌が悪いと云う程度ならまだ良い。しかし今回は明らかに様子が違う。

 一発、頬を叩かれた。

 顔の痛みに耐えながら、全てを察した。

「お前、魔女と会ってるだろ」

 やはりそうか。

 森で出くわしたあの時、おそらく父さんは壁の下見か何かをしに行っていたのだ。そして森で見つけてしまったのだろう。あの穴を。

 ここ最近の不自然な振る舞いに加え、森での息子の挙動に違和感を覚えたすぐ後だ、関連付けないわけがない。多少なりとも、怪訝(おか)しいとは思うだろう。

「なぜあんな奴らなんかと関わる」

「おかしいのは父さんたちだ。毎日毎日、向こうの人たちに、出ていけだとか魔女だとか、馬鹿じゃ――」

 先程とは反対の頬に激痛が走った。

「狂ったか。あんな生きてる価値もない人外供、当然の扱いだっ! あの土地に住まわせてやっているんだ、むしろ感謝されても良いぐらいだ」

 目が血走っている。

 母さんは隅で見ているだけだった。それを無情だとかは思わない。下手に制止してもこの人は聞かないだろうし、母さんには怪我をしてほしくない。

「これもお前のトモダチとか云う奴から貰ったのか?」

 父さんが結晶を拾い上げた。どうやら殴られた拍子に床に落としてしまっていたらしい。

「っ返せ!」

 ミュノが作った宝石を奪い返し、自室へと駆け込んだ。

 扉は閉めたつもりだが、蝶番が外れているせいで閉じ切ることはなかった。

 急いで手当たり次第に荷物をバックに詰める。

 こんな街、今すぐにでも出ていってやる。

「フンっ、どこへ行くんだ? どうせ壁の修理は今週中に始める。入り口も塞ぐつもりだ」

 父さんは嗤いながら言い放った。

 今までなら、どれだけこの人を憎んでも何もできなかっただろう。しかし今は違う。

「こんな所、二度と帰らない」

「ああ、好きにしろ!」

 後ろから怒鳴り声が聞こえるが全て無視だ。

 家を出ると、空にはもう星が昇っていた。

 さて。

 勢いで家を出て行ってしまったものの、この先は全く考えていない。ミュノには明日行くと言ってある。

 今日は野宿かと覚悟を決めた。

 どこを塒にするかと逡巡した結果、特に当ても無いので取り敢えず森へ行く事にした。

 まだ辛うじて陽が暮れていないとはいえ、森はすっかり暗くなっていた。

 地面はもうほとんど見えなくなっていたが、別に構わなかった。取り敢えず壁の方へ行けば何とかなるのだ。

 それでも出鱈目な場所に出てしまわぬように、できるだけ記憶と照らし合わせながら茂みを掻き分けて行く。

 木々の影。

 虫の声。

 獣の足音。

 土の匂い。

 夕闇の空を木の葉が隠す。いつもと違った不気味な気配だ。

 そうしてついに見えてきた一際暗い壁。時間が時間だけに、壁と云うより殆ど影の塊だ。影が立ち塞がっている――ように見えなくもない。

 穴はどこかと壁に触れて探っていると、

「マト、こっち」

 ミュノらしき声が聞こえた。

「ミュノ?」

 声のする方へ壁を伝うと、途中で壁が途切れている箇所に触れた。

 穴だ。

「マト、来たんだね」

 穴を(くぐ)ると、やはりミュノがいた。

 魔法の石がほんのりと紫色に発光している。

「ミュノ、どうして」

 来るのは明日だと伝えていたはずだ。

「マトが来る気がしたから」

 こんな時間だけど家を抜けてきちゃった、とミュノは言う。

 気がしたというだけでここまで来るのか。ミュノのとる行動に驚かされていると、

「マト、顔……大丈夫?」

 冷たい指が頬に優しく触れた。

「ああ、いや、ちょっとね」

「凄く痛そう」

「大丈夫だよ。もう痛くないから」

「本当?」

 ミュノのシルエットが心配そうに首を傾げる。

「うん」

 強がりなどではなく、本当にもう痛みは引いていた。

「っていうか、見えるの? この暗さで」

「マトは、見えない?」

「ほとんど」

 空の闇は濃さを増し、星が目立ち始めている。実はミュノの姿もよく見えていない。

「明かり、点けるね」

「明かり?」

 ミュノの胸の辺りが青白く光る。

 祈るように目を伏せるミュノの顔が、暗闇にぽうと現れた。

 暗かった周囲がぽつりぽつりと明るくなり始める。

 見渡すと、無数の光の球が宙に浮いていた。

「どう?」

「うん、見える」

 魔法とはこんな事までできるのかと驚いた。

 昼と同じくらいとまでは云わないが、ミュノの姿を見るには充分な明るさだ。

「決心、着いたんだ」

 ミュノはバッグを一瞥した。

「うん」

 きっと、始めから答えは決まっていたのだ。父さんとの事が無くても、答えは変わらなかっただろう。

 ここに来るのが予定より少し早まっただけだ。

「でも、良いの?」

 何が、とミュノは首を傾げる。

「今更だけど、僕は魔法も使えないし、何も役には立てない……」

 当然、道中では色々なことが起こるだろう。そんな時、果たしてミュノの力になることができるだろうか。それどころか足手纏いになるかもしれない。

 しかし、そうじゃないとミュノが首を振った。

「役に立つとか立たないとか、そういう事じゃない。マトに一緒にいて欲しい。それだけで充分」

 それに――と言いかけてミュノは言葉を止めた。

「それに?」

「何でもない」

 言わぬままミュノは森の奥へと歩く。浮遊する光が、まるで意思があるかのようにそれに続く。

 やがて、見覚えのある木の幹が照らし出された。

 ここは――。

 いつもの巨木の根元だ。

 折れた巨大な枝も、光の領域に辛うじて入っている。

「ここは、始まりの場所」

 ミュノが幹に手を触れた。

「始まりの場所?」

「そう」

 来て、とミュノがこちらへ手を伸ばす。

 今度は迷わずそれに応えて――そっと指に触れた。ミュノの低めの体温が、指先から伝わってくる。

 幹の根元に、二人並んだ。

 光の球が風に消える。

 森は再び闇に染まった。弱々しく光る星の他に光源は無い。太陽は完全に沈んでしまったようだ。

 ミュノは魔法の石を持った手を幹に添えて、目を閉じた。

「ここから、始まる」

 ミュノの手を中心に、文字や記号が書かれた光の円が幾つも顕れた。

 闇が退き、添えた手から閃光が走る。

 風に葉が舞い、草木が騒めく。

 光の雫が飛沫を上げた。

 そして――全てがピタリと静まり返る。

「終わっ……た?」

 からからと落ちる木の葉を感じ、辺りの闇を見渡す。

「違う。始まった」

「始まった?」

 一体、何が始まったと言うのだろうか。

「今朝、話したでしょ? この魔法は、色々な場所に仕掛けなくちゃいけない。その一つ目を、ここに」

仕掛けた――とミュノのシルエットが言う。

「一つ目……」

「今からここは、始まりの場所。私たちの夢と旅が始まる場所。そして、二人だけの世界が始まる場所」

 ――だからここは、始まりの場所。

 ミュノは再び光の玉を出現させた。

 浮遊する発光体がミュノの姿を淡く照らし出す。

「夢の――始まり」

 光が宙を舞う幻想的な宵の森。

 ここから全てが始まるのだ――夢と見紛いそうなこの光景をしっかりと目に焼き付けた。

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