第106話 冷静と警戒
七回表、ワンアウトランナー二塁で六番打者を迎える直前、伊賀皇桜学園はピッチャーの交代をした。
打たれた奈良坂に代わって、今度は狩野だ。
狩野は明鈴との練習試合では打たれていたが、いいピッチャーだということには変わりない。今まで登板していた球威のあるストレートを武器とする柳生や奈良坂とはまた違い、狩野は変化球を主体としているピッチャーだ。
そして、なんといっても特徴的なのが、アンダースローということだ。
ピッチャーはオーバースローやスリークォーターが多い。理由としては基本的に上手投げから野球を始める人が多いためと考えるのが自然だ。
サイドスローも、ボールをコントロールしやすいため、決して少ないフォームではない。
しかし、アンダースローで投げるピッチャーは少ない。一朝一夕で投げられるわけでもなく、習得は難しい。そしてデメリットも多く、球速が出にくい上、モーションが大きく盗塁もされやすい。
ただ、なんといってもその独特のフォームから繰り出せるボールはアンダースロー唯一無二の軌道だ。
オーバースロー、スリークォーター、サイドスローでは基本的に投げてからキャッチャーの手元に届くまでには重量に従ってやや落ちるだけだ。しかし、アンダースローでは下から投げるため、一度浮き上がってから落ちるという軌道を描く。
そして、前者のフォームが多いため、その独特の軌道を描くアンダースローは打ち慣れていないバッターが多い。
それだけで確実に大きな武器となる。
この狩野は、そのアンダースロー投法の選手でもトップクラスと言っていいだろう。変化球はカーブ、スライダー、シンカーと三球種だけだが、そのキレは抜群だ。そして一度浮き上がって落ちるただのストレートも、慣れたからといって簡単に打てるものではない。
そんな狩野の投球、六番打者に対して粘られた末にフォアボールを出したものの、続く七番打者は完全にタイミングを狂わせ、ゲッツーに打ち取った。
ピンチを背負った状況でも落ち着いたピッチングを披露した狩野は、落ち着いたままベンチに戻る。
明鈴との練習試合では捕まったため打ち込まれたが、これが狩野本来のピッチングだ。
そして、本当に最後の攻撃、皇桜の攻撃が始まる。
状況としては、二点差で伊羽高校がリードしており、一番の早瀬から攻撃が始まった。
最終回、どのように皇桜は戦っていくのか見ものだ。
無失点はもちろん、一点しか取れなければここで敗退が決まる。
しかし、延長となれば登板したての狩野を含め、竜崎がベンチに控えており、ショートの鳩羽もピッチャーができる。それに引き換え、伊羽高校側はエースの永田以降のピッチャーはレベルの差が大きい。その点を考えれば皇桜に分がある。
ただ、延長戦に持ち込むためには二点が必要だ。
上位打線である一番の早瀬から始まるこの攻撃、二点以上を取るには十分な打線である。
そして、皇桜はこの攻撃、焦っている様子が全くなかった。
「焦れば打ち損じるかもしれないけど、それだけか……?」
焦って打ち気にはやれば打撃フォームも崩れ、打てる球も打てなくなる。ただ、最終回に二点負けている場面で全く焦っていないなんてことは普通ならあり得ない。
一回負ければ終わりなトーナメントで、負けそうな場面で焦らないなんてことは無理だ。肝っ玉が据わっている何人かはあり得ても、チーム全体が冷静というのは不気味でしかない。
しかし、巧はその理由をたった一球で理解することとなった。
永田の早瀬に対する初球、外角低めへのストレートを簡単に弾き返し、センター前へのヒットとなった。
早瀬が早々に出塁を決める。
「なあ、これって……」
「……そういうことだね」
全く主語も述語もないやり取り。それだけで巧と司の意思は疎通できていた。
明らかに永田の球威が落ちている。
よく考えればわかる話だ。簡単には打ち取らせてくれない皇桜打線をフルイニングで相手にしているのだ。数えてはいないが球数は相当なものだろう。
そして、前の回から前兆はあった。いきなり和氣にホームランを浴び、その後もアウトを取りながらもヒットを打たれていた。そのアウトも、外野フライのようや強い当たりも見受けられた。
今までのピッチングに比べると、明らかに捉えられた当たりが多かった。
その原因として挙げられるのが、スタンドから見ていてもわかるほど落ちている球威だった。
しかし、二点差があり、あと一踏ん張りで勝利を掴める伊羽高校側も、エース永田にマウンドを託したいという意思がある。
それは、ピッチャーを代えて不安定な立ち上がりを叩かれることや、エース以外のピッチャーの力量を考えての起用もあるだろう。そして、エースを降板させて後悔したくないという、監督の覚悟も感じた。
自分ならどのような選択をするだろうか?
巧は伊羽高校の采配を見ながら、監督としてこの状況を打破することを考えていた。
試合の状況だけを見れば、ノーアウトランナー一塁とはいえ、マウンドにはエースが登っており、二点勝っている場面だ。一見伊羽高校が追い詰めているようにも見えるが、エースが限界近いということで、むしろ皇桜が伊羽を追い詰めている。
二番の的場が打席に入る。
ランナーがいるとはいえ、一点までであれば伊羽高校のリードは変わらないため、無視してもいいランナーだ。しかし、俊足であり塁上で存在感を放つ早瀬は到底無視ができる存在ではない。
伊羽高校側……永田がどう出るのか。的場への初球、ファーストランナーの早瀬はスタートを切った。
投球は外角高めに決まってストライク。しかし、キャッチャーは二塁へ送球しない。
あくまでもバッター勝負のつもりだろう。無視できないほどの存在感を放つ早瀬を無視している。
「私には無理だなぁ……」
司は呟く。
「やっぱり警戒しちゃうか?」
「そうだね……。下位打線とかでランナーもそんなに足が速くなかったらいいけど、上位打線でランナーの足も速いし。もしランナーが返って一点差になったら試合もわからなくなっちゃう」
何点差だろうが最後のアウトを取ったり取られたりするまでは試合はわからない。しかし、上位打線の選手よりも下位打線が劣るのは一般的だ。一番に繋ぐためにそれなりのバッターを九番に置くことや、中軸が残したり中軸によって出たランナーを返すために下位打線にも打撃に期待できる選手を置くことはある。ただそれも、選手層が厚ければという前提がある。
明鈴も確かに人数は少ないものの、それぞれ特徴のある選手が揃っているため、七番に陽依のような選手を置いたり、ピッチングに集中させるために伊澄を九番に置くことは少なくない。ただ、守備を重視するのであれば、鈴里や煌のような守備に特化した選手を下位打線に置くことも多かった。
どのチームも上位打線よりも下位打線が穴となることが多かった。
そして、そんな穴となる下位打線ではなく、今は上位打線の攻撃だ。司としてはやりにくい状況だ。
「巧くんがピッチャーならどう?」
巧は中学時代、ピッチャーが主だった。キャッチャーは未経験のため司の気持ちはわからないが、伊羽高校のピッチャー永田の立場に立った場合の話だろう。
「同年代なら抑えられないわけじゃないし、ランナーを下手に意識して打たれるよりはバッター集中かな? 伊澄はどうだ?」
「私も巧と同じ」
伊澄も巧と同じくバッターに集中できるタイプだ。この返答が来ることを巧は予想していた。
恐らく巧と伊澄、司の心理としては、ピッチャー側であれば牽制などを入れるとはいえ、ボールを手放せば自分でどうこうできることではなくなるため気にしても仕方がないというところだ。もちろん個人のメンタルもあるが。
一方、キャッチャーとしてはその後に送球の余地があり、リードが大きければランナーを刺しにいけるという可能性があるとこが大きな理由だろう。もしボールを後ろに逸らせば得点や進塁に繋がるというプレッシャーも大きい。
こういった場面は今後の試合で明鈴も経験することとなるだろう。この試合を見ることで、お互いの意思を共有できたことは大きな意味があることだ。
お互いの意図が分からなければ、同じ投球でも全く意味の違うものとなる。例えるなら、多少甘くなってもいいからストライクゾーンにボールが欲しいのか、ボールになってもいいから全力投球が欲しいのかということのように。
この場面の状況に明鈴が実際に直面した場合、キャッチャーの司としてはランナーを警戒するように、バッターと勝負しながら場合によってはランナーの盗塁を阻止できるようなボールが欲しいということだ。
巧、伊澄、司の三人でこの状況でのお互いの意図は共有できた。先ほどの的場への初球だった場合、司は多少外れても盗塁を刺しに行けるボールが欲しいということだった。
ただ、伊羽高校のバッテリーはランナーを無視することを選択した。
それが吉と出るか凶と出るか。
それはピッチャー永田が的場へ投じた二球目でわかることだった。
皇桜対伊羽はまだ続きます!
長くなってしまっていますが、次の戦いがどちらになるのかというのと、試合を見ながらの考察などもお楽しみください。
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