8. 黒蜘蛛と王子
「僕一人の部屋? ほんとに? 残念だな、ルームメイトが欲しかったのに」
フレデリック王子は黒蜘蛛の君に案内された寮室を見て、眉を八の字にして苦笑する。
王子は本当に生徒の一人として迎えられることを期待していたのかもしれないが、当然そうはいかない。用意したのは黒蜘蛛の君が使っているのと同じ、一人用の特別室だった。カーテンもカーペットもベッドシーツも上品なアイボリー色でそろえられ、過度な装飾を嫌がる王子のためにシンプルな調度品をしつらえている。
ソファに腰かけた黒蜘蛛の君は、何も言わず肘掛けに頬杖をついて王子を見つめていた。
部屋中を興味深げに探索していた王子は、咎める色をまとった視線が刺さるのを感じてイリアナスタを振り向く。
「……ひょっとして怒ってる?」
イリアナスタは返事をせず、ただ気だるげに首を傾げた。
玄関棟の前に集まった生徒たちの前でわざわざ庶民の編入生を紹介した王子は、その後で学長と黒蜘蛛の君に事情を説明した。
シャルルを音楽講師のエルバルドと引き合わせたのは、王子の計らいによるものだったという。
奔放な王子は昔から、供を連れずに一人で散策するのが好きだった。侍従がいくら目を離さないよう注意していても、巧みに気を逸らして抜け出してしまう。
シャルルと出会ったのも、そうやって一人で町はずれをうろついていたときのことだったらしい。
散歩しながら歌っていた彼女の声を聞き付けた王子は、身分を隠して声をかけた。彼女の人柄と歌のすばらしさに感銘を受け、彼女がもっと光輝く舞台に上がれればと願った。そうして、昔エルバルドが冗談まじりに話していたこと――市井の才能ある娘を拾って育ててみたい、という話を思い出したという。
王子は城の外にある広い世界に憧れている。囲われた居城の中で見聞きするもの、すなわち与えられたものよりも、自分で動けばもっと価値あるものを見つけ出せると信じている。
王子が元教師のエルバルドに久しぶりに手紙を出すと、エルバルドは素直に受け取ったらしい。実際にシャルルを見て編入を推薦してやることにした、とすぐに返事をくれたという。
エルバルドは、それが王子からの推薦だということを学長にも黒蜘蛛の君にも伝えなかった。どうやら王子の頼みで隠していたようだ。
ふいとそっぽを向いてみせる黒蜘蛛の君に、王子はなぜか嬉しそうに破顔して近づいてくる。
「君から一本取ってやった! 隠し事するとか、難しい“作戦”に従うのは僕には無理だって思ってたろ? 僕だってやろうと思えばできるんだからね」
単純な王子に隠し事は向かない――それは全くの事実だった。
実のところ、イリアナスタはシャルルの編入に対する王子の関与を察していた。
嘘の上手いエルバルドがおくびにも出さなかったことは事実だが、なにしろ王子本人のふるまいがあからさますぎたのだ。イリアナスタが編入生の話を持ち出すたびにキラキラと目を輝かせ、どんな様子かを聞いてくる。そんなに興味があるのか、と疑う言葉をかけずにいてやったおかげで、王子は隠しおおせたものと思い込んでいるらしい。
王子は得意げな面持ちで、ソファの肘掛けによりかかるとイリアナスタの肩に手を置く。
「それに、僕があれこれ言わなくても、君なら受け入れてくれるって信じてたから。あの子が本当に立身できたら、すごくいい前例になる。立場にとらわれず自分の力を発揮できる機会がもっと増えると思うんだ」
「もちろん、それは承知しています」
イリアナスタは頭を傾けて、上目遣いに王子を仰ぐ。
「でもそれだけですの? わざわざあのように魅力的な子を選んだのは、わたくしに見せびらかしたかったからではなくて?」
イリアナスタはすねたような声を出した。
王子は虚を突かれたようにきょとんとし、それからばつが悪そうに自分の髪を掻き回す。
「……君が、本当は僕のこと相手にしてないんじゃないかって、いつも思うんだ」
イリアナスタが王子と初めて会ったのは五歳の頃。神からの使命を受ける前のことだった。
ヴィドワ侯爵家はもともと製紙業で栄えた。国が神からの預言として掲げる聖典を作るには当然紙が欠かせぬもの。古くから王家との関わりを持ってきたヴィドワ家は、今もなお王室で催される茶会や祝宴にしばしば招待される。
幼いイリアナスタもまた、茶会に参加するため城に連れていかれた。兄姉は無邪気に楽しんでいたけれど、イリアナスタには興味がなかった。あちこち連れまわされてかわいらしい子供だとそらぞらしい言葉を掛けられるより、聖典に出てくる難しい意味の言葉を調べていたかった。
こっそり兄姉の後ろを抜け出して、庭の奥の人目につかないところで本を開いていたところを、フレデリック王子に見つけられたのだ。
***
「何読んでるの?」
突然声をかけられて、イリアナスタはびくりと肩を震わせた。それから、慌てないようおもむろに芝生から腰を上げ、声の主に向き直る。
それが王太子その人だと悟り、恭しく礼をした。
幼いイリアナスタは、王は神が任じた役目だと信じていた。だから王子もまた神の使者から役目を受けたに違いないと思い、自分の知っている限り精一杯の敬意を示したかった。
「殿下におきましてはご機嫌麗しく――」
「やめてよ、そういうの苦手なんだ」
王子は気さくに手を振って近づいてくると、芝生の上に膝をついてイリアナスタが広げていた本をのぞきこむ。
「すごいな、君、これ一人で読めるの?」
「いえ、辞典がないと分からない言葉がほとんどです。ですが、荷物になるからと持ってこられなくて…・…」
「辞典が読めるの? ますますすごい」
王子はペラペラとその分厚い本のページをめくって肩をすくめて見せる。
「僕は勉強が苦手なんだ。もっと集中しろっていつも怒られる」
「怒られる……のですか? 王太子殿下が……」
「もちろん。“王太子殿下”だからって特別扱いなんかされないよ。自分の力でなったわけじゃないし」
イリアナスタはぱちぱちと目をしばたたいて、ドレスのスカートの裾を握る。
「いいえ、王太子殿下はとても特別です。だって、神様に選ばれたのですもの」
王子は芝生の上に四つん這いになったまま、イリアナスタを見上げて苦笑する。
「選ばれてなんかない。そのうち神の使者が役目を与えに来る、とか言われるけど……そんな気がしないよ。僕は王子様に向いてないんだ」
「そのようなことはございません」
「なんでそう思う? 僕のこと知らないだろ」
王子はいたずらっぽく人差し指を振るや、勢いよく立ち上がってイリアナスタの正面に立つ。
「君は? どうしてこんな難しい本読んでるの? ひょっとして本の虫になれって“選ばれた”から?」
からかうような口調に、イリアナスタは生真面目に返答した。
「いいえ。わたくしはいかなる役目も果たせるように準備を整えているのです。果たすべき役目がなんなのか、まだ分からないけれど……それはわたくしにしかできないこと。だから今、学べることはすべて学んでおきたいのです」
「……ケーキも食べずに?」
「ケーキは、食べたい方にお譲りします。姉は甘いものに目がありませんから、わたくしの分も食べられてきっと喜んでいます」
イリアナスタが冗談めかして返すと、王子も笑った。
「君って変わってるね」
「そうでしょうか」
「ああ、ごめん。僕だって君のこと、まだよく知らないのに」
王子はばつが悪そうにかぶりを振った。
と、遠くから呼び声が聞こえてきた。殿下、殿下、と探す侍従の声に、王子は「しまった」と肩をすくめる。
「逃げないと。また会おう」
そうして顔中に大きな笑みを浮かべてイリアナスタの手を握った。
「また会えたらきっと神様の思し召しだ。そのときはもっと君のこと教えてね」
手を振って駆けていく王子の後ろ姿を、イリアナスタはただ見守っていた。
***
王子は今もなお神の使者の訪問を受けてはいない――と、イリアナスタは思っていた。もしそうなれば王子はきっと黙って隠してなどいられないだろうし、神とてそんな人物にあえて使いをよこすこともしないだろう。
だからフレデリック王子は、自分の思いで果たすべきことを探している。それが人々の垣根をなくすことであり、立場にとらわれない自由な選択を認めさせること。
王子自身にとっても救いになることだった。
イリアナスタはそれからも何度か王子と出会った。催し物で出くわすこともあれば、例によって供の目を盗んだ王子がわざわざ会いに来たこともある。
そんな交流を繰り返すことで、いつしかイリアナスタと王子は両家が認める仲となった。
王子はイリアナスタに愛着を抱いているようだったし、ヴィドワ家の令嬢ならばと王室からも受け入れられた。
黒蜘蛛の君にとっては願ってもないことだった。
このまま王子と結婚し王室に入れば、公的な権力を握ることができる。
イリアナスタの果たすべき役目――“悪”の体現のためには、行使できる権力が強大であるにこしたことはない。
同時に、この天真爛漫なフレデリック王子を弄ぶこともまた、ささやかな悪であると自覚していた。
恋という概念は知っている。王子のみならず、あらゆる種類の相手から思いを寄せられたこともある。
黒蜘蛛の君は把握していた。どうふるまえば相手にどんな印象を与え、それが相手をどう動かすか。
フレデリック王子は与えられるものには興味が薄い。それよりも、自分の手でつかみとった成果に満足を覚える。
だからイリアナスタは王子に温かい態度を取る一方、彼を第一に優先することはなかった。彼よりも大事なものがあるのだとそう見せていたし――実際にそうでもあった。
イリアナスタが手の届かない場所に行ってしまうのではないかという王子の不安は、そのまま彼女への愛着を強めることになる。
「だから……実はちょっと嬉しかったよ。君が今不機嫌なのって……妬いてくれたからだろ?」
王子はまた破顔して、イリアナスタの頬にキスを落とした。
しばらく動かずにいたイリアナスタは、やがて王子の肩に手をかけ青碧の瞳をじっとのぞく。
「……あなたも悪い人ね」
ささやいてキスを返すと、王子がますます嬉しそうにため息をついた。
王子の寮室を出た黒蜘蛛の君は、自室に向かいながらこれからのことを思いめぐらす。
侍従にとっては厄介な王子だが、彼を動かすことはさほど難しくない。王子は自分自身の手で成果を出したがる。何を促してやるにせよ、王子自身が思いつき、自ら指揮を執ったかのような印象を与えてやりさえすれば、その背景に疑問を抱くことはない。
臣下の中には直観的なフレデリック王子が未来の王となることを危ぶむ者も多いが、イリアナスタに言わせれば、彼ほど王座にふさわしい人物はいなかった。
祀り上げてやりさえすれば臣下を疑うことはない。他者に対して信頼感を抱けることは一つの能力である。懐疑的な王は誰も寄せ付けず、独裁に走って正常な判断を失い、国を亡ぼすか己が滅びる。臣下に信頼を寄せる王ならばそうはならない。
細部を注視し疑うことは部下の役目。主は部下の言葉を信じ、全局的な判断を下す。
――きわめて理想的だ。
自室の前には四人の侍女が待っていて、主の姿を見て取るやそろって礼をする。
四人は程度は違えどおのおの表情をこわばらせていた。無理もない。疎ましい庶民の娘が衆目の前で王子の親し気な挨拶を受けたのだ。黒蜘蛛の君が機嫌を損ねているだろうことは容易に予想できる。
黒蜘蛛の君はにっこりと笑って見せた。
「フレッドったら、いつもああなの。何をしでかすか分からないものだから、目が離せませんわ」
愛想のいい黒蜘蛛の君の様子に、ドリスが口元を緩める。単純にも主が上機嫌なのだと安堵しているらしい。
最初に興奮した声を上げたのはアリヤだった。
「本当に素敵でしたわ! お二人が並んでいると、夢みたいに輝いて見えるんですもの」
緊張感を失ったらしいアリヤはそれこそ夢見るように瞳を輝かせていた。
「あんなに立派な王子様ですもの、黒蜘蛛の君ほどのかたでなければとうてい似つかわしくありませんわ」
ドリスの言は、王子がシャルルに目を掛けていたことをフォローするつもりらしい。
「来年の光景が目に浮かぶようでした。王冠を戴く王子の隣に、黒蜘蛛の君の麗しいお姿が並ぶ様が」
そう言ったローザがにこりと笑う。
その言葉に、黒蜘蛛の君は侍女をいびろうとしていた考えを取り下げる。思案するにはもっと大事なことがあった。
黒蜘蛛の君は今年で学園を卒業する。同時に来年の春にはフレデリック王子が戴冠し、君主の座を継ぐことになる。このまま事が進めば、イリアナスタは一年足らずで王家の一員となるのだ。
肚を決める必要があった。
なすべき“悪”のありかた。イリアナスタは神によって任じられた役目を負っている。
十の歳からずっとずっと考え続けてきた。自分が期待されている“悪”のありようとは何なのか。歴史を学び、人と交流し、悪とされるのがいったいどんな存在であるかを探求しつづけてきた。
王子と親しくなったのも確かに図ったことだ。魅せるべき相手は大きな権力を持つ者だと判っていた。
本当にそうだろうか。
黒蜘蛛の君は、自身の計画が誠に神の期待に合致するものか疑念を抱き始めていた。
目指すべき“悪”とは、悪政を敷く女王として君臨するような短絡的な方法でいいのだろうか、と。
――シャルル・クロイツの存在を知ってからのことだ。
黒蜘蛛の君は作り笑顔を消す。
ミレイユが開けた扉をくぐって自室に入り、独りになった。