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7. シャルルと王子

 その日の朝、玄関棟の掲示板の前には学生たちがひしめいていた。多くは女生徒が占めていて、掲げられた張り紙を見上げては興奮した面持ちで甲高いおしゃべりの声を上げている。


 通りかかったシャルルとアンリはけげんに思って顔を見合わせる。

 アンリが手振りで「待っていろ」とシャルルに示すと、単身で女生徒たちをかき分けて掲示を確認しに行った。


 戻ってきたアンリの表情から、やはり驚くような知らせであることが見て取れる。

 シャルルも好奇心が勝って、人だかりの間に分け入ろうとしてみた。だがシャルルの顔を見るや生徒たちがあからさまに顔をしかめて輪に入れまいとするものだから、結局押し負けてしまい、後ろからぴょこんと飛び跳ねてなんとか掲示を視界に映す。何度も飛び跳ねているうちに、かろうじて文章が判読できた。


 それは、フレデリック王太子がこの学園に内地留学することになったという知らせだった。


「王子様に会えるなんて、夢みたい!」

「本当、夢みたいに素敵なかたですもの……」

「この学園で生活をご一緒できるってことでしょう?」


 事情が分かっていれば、周りから口々に黄色い声の中身も聞き取れてくる。女生徒たちは王子に会えることに興奮を隠しきれないのだ。

 なるほどと一人うなずき、シャルルはアンリの元に戻る。それから素直な疑問を口にした。


「みんな高貴な家のかたなのに、王子様にお会いするのはそんなに珍しいことなの?」


 庶民のシャルルにとっては当然、王家は雲の上の存在である。新聞でも見たことのない王子に直接まみえる機会など人生で一度も起こりえないだろうと思っていたから、いざ会えるという状況になっても現実感がなかった。

 名家に生まれた人々にとってもそうなのだろうか。てっきり、この学園に通うような貴族は王室と関わることがあるものだと思い込んでいた。王子が学園を訪れるのもごく自然なことに違いないとシャルルは勝手な印象を抱いてしまう。


 アンリは苦笑して肩をすくめた。


「それはそうさ。金持ちだからといって、そうそう王家と関係を持てるわけじゃない。私たちのような子供ならなおさらだ」

「あなたたちなら、の話でしょう」


 割って入ってきた声に、シャルルとアンリは揃って顔を上げる。シャルルには見覚えのない顔の女生徒が、腰に手を当てて仁王立ちしていた。

 アンリは彼女を知っているらしく、呆れたように眉尻を下げた表情で静かに応答する。


「ミス・レイノルド。聞き耳はよろしくないかと」


 勝手に口を挟むなと言う穏やかな指摘に、ドリス・レイノルド嬢はきまり悪げに目を泳がせたあげく咳ばらいをして話を続ける。


「とにかく、この学園を治めているのが誰かは知っているでしょう? 黒蜘蛛(くろくも)(きみ)よ。王子様が学園においでになるのは、あのかたに会いに来るということなんだから。少しも不思議なことなんてないわ」


 ドリスはまるで自分が王子と親しいかのように得意げに笑い、シャルルに向かって指を突き付ける。


「つまり、あなたのような人にはまったく関係のない話だということ。間違っても殿下とお近づきになろうだなんて図々しい考えを起こさないことね!」


 高らかに言い放ったドリスは、周りの生徒たちから注目を浴びていることに気付いてまた目を泳がせる。それから「ごきげんよう!」と言い残すと小走りに立ち去って行った。


 彼女の後姿を見送ったシャルルは、アンリを振り向いた。


「今のは……」

「ドリス・レイノルド。黒蜘蛛の侍女だよ」


 いかにも相手にしていないというようにアンリは下唇を軽く突き出した。

 アンリの態度から察するに、一口に“黒蜘蛛の侍女”と言っても様々な人物がいるらしい。アリヤやドリスに対しては明らかに敬意を表していないように見えるアンリだが、ローザや黒蜘蛛の君本人に対しては緊張を隠せない様子だったと記憶している。


 アンリは周りから向けられる尖った視線を察し、シャルルの肩を軽く叩いて促す。二人はそそくさとその場を後にした。


「にしても……合点はいくな。黒蜘蛛は王子と交流があるんだから、関係を見せびらかすために学園に招いても不思議じゃない」

「婚約されているの?」

「いや、正式に婚約されているわけじゃない。掲示板の前で女子が盛り上がってたのもそのせいだろう。あわよくば自分が、と期待してるのさ――」


 アンリはいたずらっぽく笑ってシャルルの腕を小突いた。


「シャルルにもチャンスがあるということだね」

「チャンス?」

「もし王子に見初められたら未来の女王陛下だ。そうしたらみんな手のひらを返してシャルルをあがめるぞ」

「やめてよ、あるわけないわ」

「そうかな? 私に言わせれば、シャルルは黒蜘蛛よりずっと魅力的だ」

「アンリったら……」


 からかうように笑ったアンリは、ふと真顔になって顔を伏せた。


「……それに、きっと黒蜘蛛よりも女王にふさわしいよ」


 アンリは黒蜘蛛の君を恐れていた。

 イリアナスタ・ヴィドワは底の知れない女だ。


 侍女のアリヤやドリスは、ただ虎の威を借って自身が権力を得たように満足に浸っているだけの分かりやすい人物で、なんら恐れるものでもない。ローザは少し違う。彼女は自分が優越感を得るより、人を貶めることそのものを愉しんでいる節がある。だからアンリはローザが苦手だった。


 黒蜘蛛の君はもっと違う。

 彼女が他者を傷つけるふるまいをするのは、愉しみのためとは思えなかった。だがその行為が正しいと思っているふうにも見えない。むしろ理不尽だと自覚している。意味のないことだ、と。


 シャルルへの態度もそうだ。そもそもシャルルが気に入らないのであれば、編入を止めることなど容易にできたはず。わざわざ受け入れておきながら、生徒たちを焚きつけて排斥しようとするなんて筋が通らない。

 通らないはずだ。

 黒蜘蛛の君はそれを分かっている。いや――本当は違うのだろうか。黒蜘蛛の君にとっては筋が通ったことなのかも。


 アンリには理解が及ばない。


 黒蜘蛛の君は個々に接する者に対してはばかりなく悪意を見せる一方で、大きな権力を行使して意味のあることもなしとげる。

 ジョルドモア学長を学園に受け入れるよう勧めたのが黒蜘蛛であることはアンリも知っている。その学長が理解のある人物で、アンリのわがままを聞き入れてくれたことには感謝している。


 だからこそ分からないのだ。黒蜘蛛の君が何を考え、何のために動いているのか。

 だからこそ不安なのだ。彼女がこの学園のみならず国への影響力を持ったとき、致命的な恐ろしいことが起こるのではないか、と。


 顔を曇らせるアンリの背に、温かな手がそっと触れる。

 シャルルが心配そうにアンリをのぞきこんでいた。


「アンリ……大丈夫?」


 緑の目で見つめられ、アンリは一瞬呆けてから笑みを漏らす。


「ああ……すまなかった、少し考え事を。なんでもないよ」


 笑って顔を上げるアンリに、シャルルは首を傾げながらもうなずいた。




 休日を挟んだ週の明け、学舎の前に人だかりができたのはランチの前のことだった。

 講義を終えたシャルルとアンリも流されるまま学生たちの向かう方へ進む。


 とうとうフレデリック王子がやってくるのだ。


 一般の生徒たちに出迎えが義務付けられているわけではなかったが、学生の多くは玄関に集まっていた。礼儀として無視するわけにはいかないと言う者もあれば、王子を一目みておきたいという野次馬根性を隠さない者もいる。シャルルとアンリは実際のところ後者だった。


 学舎の前庭は広場となっており、中心には創設者をたたえる石碑がそびえている。石碑の前で迎えの準備をする学長と生徒代表である黒蜘蛛の君の周りに、学生たちが一歩距離を置いて集っていた。


 シャルルがあまり目立ちたくないことをアンリも理解していた。できるだけ前に出ようとする生徒たちに場所を譲っているうちに、かろうじて学長の頭が見える程度の後列に収まる。


「――いらっしゃいました」


 学長の静かな声がして、集まった学生たちの間に緊張が走る。


 おしゃべりの声がやみ静かになったその場に、馬の足音と車の転がる音が近づいてくる。

 ビロードのような毛並みの黒馬にひかれたミルク色の馬車。皆がじっと見つめる中、馬車は広場の学長の前に静かに停まる。

 身なりのいい御者がしずしずと馬車の扉を開け、中から背の高い青年が姿を現した。


 前方に陣取った女生徒たちがうっとりとため息をつく。


 シャルルの立っている場所からは、王子の容貌がはっきりと見て取れたわけではなかった。それでもその優雅な身のこなしと、遠目からでも分かるほどの笑みを顔中に浮かべているのは見て取れる。


「お待ちしておりました、フレデリック王太子殿下」


 学長は常と同じく、淡々とした生真面目な声色で挨拶をする。


「学長のジョルドモアです。こちらは――ご存じですね、学生総代のミス・ヴィドワ」

「王太子殿下、ようこそいらっしゃいました」


 一歩前に踏み出した黒蜘蛛の君は恭しくスカートを持ち上げて礼をし、それからいたずらっぽく小首をかしげる。


「いつもながら、ごきげん麗しいようね」

「ああ、会えて嬉しいよ、イリア!」


 王子は通りのいい快活とした声で応えると、黒蜘蛛の君の手を取って口づける。


 交わした声の響きや表情から、二人の親密さは明らかだった。

 周りを囲んだ学生たちの中には嫉妬めいた不愉快さを口元ににじませる者もいれば、恍惚と見とれた様子の者も目立った。


 黒蜘蛛の君を畏れる心は同時に彼女への憧れをはらんでもいる。彼女の持つ権力がゆえんばかりではない。黒蜘蛛の君の妖しい美貌にかかれば、男であれ女であれ容易に虜にしてしまう。魅せられてしまった者は、彼女が何をしようとただ恍惚としてすべてを肯定する。

 彼らにとって美しい黒蜘蛛の君が美しい王子と寄り添っている光景は、それこそうっとりと見守るしかないものだと言えた。


 王子が学長に向き直り、ぺこりと頭を下げる。


「学長先生、急なお話を受け入れていただき感謝します」


 すばやく顔を上げると、目を輝かせて集まった生徒たちをぐるりと見渡す。王子に視線を向けられた生徒の一部は姿勢を正し、一部ははにかんで手を振った。


「嬉しいなあ、みんなで出迎えてくれて。学校に行くのがずっと夢だったんだ。友達と一緒にランチして、クラブ活動とか、手作りのパーティーとか……」

「フレッドったら、学校は学問を修める場所ですことよ?」

「わ、分かってるさ、もちろん」


 うなじを撫でる王子に、黒蜘蛛の君がくすりと笑う。学長は慣れっこというふうに表情一つ変えなかった。


 ずいぶんと率直な王子の態度がシャルルには意外だった。てっきり黒蜘蛛の君のように穏やかで威厳にあふれた人物だろうと思っていたが、むしろ活発でひとなつこい印象を覚える。シャルルにはどこかなじみのある調子の話し方に聞こえた。


「そうそう、二人にはもう一つ感謝しないといけないんだった」


 唐突に何か思い出したらしい、王子は今度はあからさまにきょろきょろと周りを見回し始める。一歩、二歩と前に進み出たかと思うと、集まった生徒たちの中に分け入り始める。


「殿下」


 学長のたしなめる声に笑顔で手を振って応え、王子はきょろきょろと生徒たちを見回し続ける。

 どうやら誰かを探しているらしい。


「変な王子様だな」


 シャルルの隣でアンリが呆れたように目を回す。


「あの調子じゃ、わざわざ見に来なくてもそのうち向こうから絡んできそうだ」


 もう戻ろうか、とアンリに尋ねられ、シャルルが苦笑まじりにうなずいたその瞬間。


「――シャルル! ミス・シャルル・クロイツはいるかい?」


 王子の声に名前を呼ばれ、シャルルもアンリも目を丸くして顔を見合わせる。

 王子に直々に指名される心当たりなんてない。確かに王子にしては気さくな人物のようだが、存在を認識されているなんてとても思っていなかった。


 石のように固まるシャルルの背中をアンリが叩いて促した。


「シャルル、行っておいで」

「でも、私……」

「せっかく呼ばれてるんだ。大丈夫だよ」


 勇気づけるように顔をのぞきこんで笑いかけられ、シャルルはそれでも踏ん切りがつかなかった。

 そうこうしているうち、シャルルの前方に並んだ生徒たちに動きがあったかと思うと、フレデリック王子その人が姿を現した。

 彼はすぐさまシャルルの姿に目を留めると、にっこり微笑んで手を振った。


「ああ、いたいた! 良かった、君に会いたかったんだ」


 シャルルの目の前に飛び出してきた王子は、虚を突かれているシャルルの白い手を取ってキスを落とす。

 周囲から息を飲む声が上がった。


「僕を覚えてる?」


 王子からの質問に、シャルルは目をしばたたく。

 金茶色の柔らかそうな髪、光を受けてキラキラと輝く青碧の目、高い鼻はまっすぐ筋が通り、何より印象的なのが、その整った顔をくしゃくしゃにして作られた大きな笑み。


 あ、とシャルルは思わず声を上げる。

 彼に会うのは初めてでないと気づいた。


「あ……あのときは、殿下と知らず失礼なことを――」

「そんなこと気にしなくていい! これからはクラスメイトなんだから」


 王子はなれなれしくそう言って、くるりと振り向きこちらに注目を集めている生徒たちに向き直る。つま先を伸ばし、学長と黒蜘蛛の君が呆れ顔でこちらを見つめているのに手を振って、よく通る声で話を続けた。


「シャルルを受け入れてくれたのも二人のおかげです、本当にありがとう! 彼女の歌は本当にすてきなんだ。僕は、生まれにかかわらずすばらしい人がすばらしいと認められる世の中にしたいと思ってる。だからみんなも自分のやりたいことを見つけていってほしい」


 王子はシャルルの肩を軽くたたき、来た時と同じようにすばやく馬車の方へ戻って行った。

 残されたシャルルは、周囲からの視線が今まで以上にとげとげしいものになったことを感じていた。

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