6. 黒蜘蛛の視察
音楽教室に入ってきた生徒たちは、窓際に据えられた椅子に黒蜘蛛の君が鎮座しているのを目にするや揃って姿勢を正す。遠巻きに一礼だけを寄越してそそくさと自席につく者もいれば、わざわざ歩み寄ってきて「ごきげんよう、今日も麗しくていらっしゃる」と媚びを売ってくる者もいる。
黒蜘蛛の君は退屈そうにひじ掛けに頬杖をつきながらも、誰がどんな態度を取っているのかすべて観察していた。
もっとも、本当のところは黒蜘蛛の君みずから目を光らせておく必要はない。常のごとく背後に黙って控えている侍女のミレイユが、すべて記憶しているから。
口数の少ないミレイユ・ランブルスキは、主に求められればどんなものでも必ず差し出す。情報もその一つだ。
いつ何を聞かれてもいいように、黒蜘蛛の君の周囲すべてを細かく察知するのが己の仕事だと彼女は信じていた。
と、甲高いおしゃべりの声が教室に入り込んでくる。見なくても分かる声の主――侍女のアリヤ・マキヴェリエは、黒蜘蛛の君の姿を見て取るや目を輝かせて近づいてきた。
「黒蜘蛛の君、ご機嫌麗しゅう。ひどいですわ、わたしにお申し付けいただけたらお供しましたのに」
アリヤは涼しい顔をしているミレイユをじろりとにらむ。抜け駆けは許さない、と顔に書いてあるようだった。
黒蜘蛛の君はアリヤと違って声楽のクラスを取っていない。だから普段はこの時間にこの教室に居座っていることはない。今日はエルバルドに見学がしたいと申し出て、窓際に特別席を設けさせたのだった。
講師に頼みごとをするのは黒蜘蛛の君にとっては少しも難しいことではない。と言っても、こだわりのないエルバルドはたいていのことを二つ返事で許可してくれるのだが。
「少し見学がしたいと思っただけですわ。わたくしのことには構わずいつも通りにしていてちょうだい。他のみなさまも、お願いしますわね」
アリヤの顔も見ないままそう答える。
余計な声をかけるべきではないと察したアリヤはそろそろと身を引き、教室中の他の生徒たちにも当然ながら“いつも通り”以上の緊張が走っていた。
授業開始のベルが鳴ってしばらくの後、講師のエルバルドが教室に入ってくる。
エルバルドが定刻を無視するのはいつものことだが、生徒の一人を連れて教室に入ってくるのは見慣れない光景だった。ましてやその生徒が件の編入生ともなれば、教室からぽつぽつと訝し気な嘆声が上がってくる。
エルバルドと何やら話し込んでいたらしい庶民の編入生――シャルル・クロイツは、周りの学生たちからの射るような視線に畏まった様子を見せながらも、前の席に腰を下ろした。
当のエルバルドは特に説明するでもなく、ピアノの蓋を開けながらいつもの調子で授業を始める。
「いない人いる?」
誰それがいない、とわざわざ声を上げる者がいない限りは全員出席したことになる。エルバルドは成績をつけるのに出席率を少しも加味しないから、どうでもいいことなのだ。
ピアノの前に座ったエルバルドは顔を上げて教室を見渡し、黒蜘蛛の君に気付くと軽く指を振った。
「ああ、黒蜘蛛の君がいるね。見学したいそうだから、好きにさせてやって」
さらりとした紹介に、黒蜘蛛の君は微笑んで応じる。
エルバルドのようなニヒリスティックな人間は、基本的には扱いやすい。ジョルドモア学長のように大義を重んじる人物には何をさせるにも口実を用意してやる必要があるが、エルバルドにそんなものはいらない。彼にとって、周りで起こることはすべて自然の成り行きだからだ。わざわざ拒絶する意味もなければ、方向転換させる意味もない。なりゆきに従った結果が運命であると、そう思えるからこそ何事にもこだわらない。
「じゃ、発声から」
学生たちは立ち上がり、ピアノの伴奏に合わせて発声する。
クラスを受けるのが初めてのシャルルは始めのうちはただ周りの様子を見ていたが、最後には要領をつかんだのか声を合わせていた。
「ウォーラー、グレース、マキヴェリエ、声が割れてる。いつも割れてるけど、今日は一段と汚いぞ。寝不足かしゃべりすぎだね」
名指しされた三人は各々反応を見せる。
しゃべりすぎと評されたであろうアリヤは心外だと言わんばかりにむっと唇をとがらせた。あけすけに物を言うエルバルドは、分かりやすい反応をするアリヤをからかうのを面白がっている節があった。
エルバルドは立ち上がって、手近な生徒に楽譜の束を渡す。
「今日は前回の曲の続きをやろうかと思ってたけど、やっぱり新しい曲にするよ。広音域だから声が出ない人もいると思うけど、まあ諦めて」
学生たちは配られた楽譜をのぞきこむ。
黒蜘蛛の君はシャルルを観察していた。
シャルルは楽譜を受け取るときに戸惑ったように目をぱちぱちと瞬かせ、紙に目を落としてもなおきょとんとした表情を浮かべていた。
「じゃ、歌ってみてもらおうかな。クロイツ?」
呼ばれたシャルルはおもむろに顔を上げ、眉を八の字にしてエルバルドを見返した。
エルバルドは再びピアノの前に座り、シャルルを手招く。
「新顔のお手並み拝見だ。最初だからちょっとくらい失敗してもいいよ」
「……あの、先生……」
立ち上がったシャルルは、恐縮しきった声色でおずおずと声を上げる。
「すみません、私、この曲知らなくて……」
「だろうから楽譜を配ったんだけど」
「……ええと……」
口ごもるシャルルに、黒蜘蛛の君は助け舟を出してやることにした。
「きっと楽譜が読めないのですわ」
黒蜘蛛の指摘に、シャルルは決まり悪げにうつくむ。
今度はエルバルドの方がきょとんとした表情を浮かべ、シャルルを見つめた。
「そうなの?」
「はい、すみません……」
「無理もありませんわ。音楽を学ぼうとするなら楽譜が読めて当然だなどと、彼女には想像もつかなかったのでしょうから」
黒蜘蛛の君は肘掛椅子から優雅に立ち上がり、学生たちの間を通って教室の前に歩み出る。シャルルが手にした楽譜を取り上げて初めから終わりまで目を通すと、ピアノの前に立った。
おもしろそうに肩をすくめたエルバルドが伴奏を始める。
完璧に歌い上げる黒蜘蛛の君の麗しさに、学生たちはすっかり魅了されていた。
イリアナスタは幼少の頃から、声楽はもちろんピアノや弦楽も訓練を受けていた。楽譜を読めるのは当然のこと、発声の訓練は今なお寮室で毎朝行っている。ましてやこの曲は歌ったことがあった。
そんな背景があることは、当然ながらイリアナスタ本人しか知らない。
知らない曲を、楽譜が読めないがゆえに歌えないシャルル・クロイツに対し、黒蜘蛛の君は少し楽譜に目を通しただけで完璧に歌いこなすことができる――そうとしか映らないと分かっていた。
伴奏を終えたエルバルドが拍手を始めると、教室中がそれにならった。シャルルもまたキラキラと瞳を輝かせて手を打っていた。恥をかかされたとは思っていないらしい。
「さすがだね、ミス・ヴィドワ。いつも出席してくれれば私の耳も疲れずに済むのに」
「とんでもないですわ。大したものではございません」
黒蜘蛛の君はシャルルの前に歩み寄り、楽譜を差し出した。
シャルルは嬉しそうに破顔して両手でそれを受け取り、ぺこりと頭を下げる。
「本当に、素敵な歌でした……! お手本を聴かせてくださってありがとうございます!」
思わぬ反応に、黒蜘蛛の君は一瞬言葉を失った。
その横を通って今度はシャルルがピアノの前に立ち、エルバルドに頭を下げた。
「すみません、先生。どんな曲か教えていただけたので、これで歌えます」
「うん?」
目を丸くしたエルバルドは、すぐににやっと笑みを浮かべると伴奏を始める。
黒蜘蛛の君はその場に立ち尽くし、シャルルの歌に耳を傾けた。
驚くべきことに、シャルルは歌いこなして見せた。
黒蜘蛛の君と比べれば声は深みに乏しく、音程もいくつか外れていたものの、それでも一度しか耳にしていない曲とは思えないほどの出来栄えだった。
シャルルが唇を閉じ、伴奏が終わると、エルバルドの拍手に今度は誰も続かなった。
「はは、ミス・クロイツ、やるじゃないか!」
上機嫌に声を上げて笑ったエルバルドは、立ち上がってシャルルの金髪をくしゃくしゃと掻き回す。
「悪くないぞ、お嬢ちゃん。ただ全体的に音が上がりがちだ。八小節ごとに入りが半拍遅れるのもダメ。ブレスが腹に入り切ってない、腹筋を鍛えろ。筋力が足りないから音を伸ばしきれないんだ――」
明るい口調ながらも延々と続く指摘を、シャルルは一つ一つ噛みしめるように聞いていた。
気分が高揚した様子のエルバルドが再びピアノの前に座り、シャルルに再度歌わせようとしたところで黒蜘蛛の君は「失礼」と声を上げる。
「先生、彼女に個人レッスンをなさりたいお気持ちは分かりますけれど、今は授業中ですことよ。他の生徒たちのことをお忘れでは?」
「ああ、忘れてた。いいだろ、彼女への指摘はみんなに当てはまるはずだし」
「いけませんわ。彼女を独り占めするところを見せつけたりなさったら、皆が嫉妬してしまいます」
「黒蜘蛛の君に言われちゃしかたないな」
エルバルドは肩をすくめ、手を振ってシャルルに席に戻るよう促した。
気まずそうにちょこちょこと走って席に戻ってきたシャルルは、前に立ったままの黒蜘蛛の君にもう一度頭を下げた。
「……失礼しましたわね、ミス・クロイツ」
黒蜘蛛の君の申し訳なさそうな語調を素直に受け取ったのか、シャルルは困ったように笑ってかぶりを振る。
「いえ、そんな――」
「楽譜が読めるくらいでしゃしゃり出てしまって、わたくし恥ずかしいわ。あなたの実力と比べられてしまってはとても立つ瀬がありませんもの。あんなに顔を輝かせて、わたくしが得意になっていたのがさぞおもしろかったのでしょうね。あなたに盾突くような真似は控えないと、わたくし身を滅ぼしますわね……」
「盾突くだなんて、私、そんなつもりでは――」
「あなたのこと、優しい子だと思っていたけれど……少しだけ、恐ろしいのね」
黒蜘蛛の君はそうささやいて、静かに教室を立ち去った。
もちろん本心からの言葉ではない。
シャルルに一切の悪意などなかったことは分かっている。無邪気そのものの彼女は心底から黒蜘蛛の歌を称賛したのであろうし、自分が歌う楽しみに目を輝かせていただけだ。
だが教室にいた同級生たちは違う。シャルルの人柄を知らず、庶民であるにもかかわらず学長やエルバルドに特別扱いされているという情報しかない。
安定した環境に置かれた人間は、特別な存在を恐れる。それは安定を乱されることを恐れるがゆえ。恐れた結果たいていは、その特別さを受け入れ崇拝するか、拒絶し排除しようとするかのどちらかに転ぶ。
シャルルは特別そのものだ。身分や学園内での扱いのみならず、可憐で愛らしい様相。
崇拝を受ける特別さは黒蜘蛛の君だけが持っていなければならない。それは既に確立した地位。学園にとっては安定した地盤。
黒蜘蛛の君の手によって、シャルルは排除されるべき存在だという烙印を押して見せた。
シャルルは高貴な身分や格式など必要ないとあざ笑い、魅力的な姿と声で人を惑わしのし上がろうとする。きらめく笑顔の裏には、お前たちなど相手にならないという尊大さと皮肉がこもっている。
そう見えればいい。
一度でもそんな印象を抱いてしまえば、そう簡単に払拭はされない。シャルルがどんなに良い行いをしようと、彼らの顔にぴたりと張り付いた色眼鏡によって印象は歪められる。
黒蜘蛛の君はゆったりとした足取りで廊下を歩きながら、黙って背後に付き従うミレイユからの視線を感じていた。
ミレイユは余計な口を利かない。ただ黒蜘蛛の君のことを人一倍よく見ていた。
聡明で察しのいい彼女は、黒蜘蛛の君がシャルルに向けた言葉が本気でないことは分かっているはず。頭では分かっていて――その一方、どこかに本心が含まれているのではないかと心配している。
黒蜘蛛の君の心が傷つけられたのではないか、と。
「あの子、思っていたより危険ね」
黒蜘蛛の君は前に顔を向けたまま、ぽつりとささやいた。
「わたくしの立場を脅かすものはもはやないのだと、高をくくっていたみたい。……傲慢でしたわね」
独り言のようにかすかな声で言うと、背後でミレイユが小さく息をつくのが聞こえた。冷淡な無表情に見える彼女のわずかに眉をひそめた切ない顔が、黒蜘蛛の君の頭には浮かんでいた。
“悪”には不思議な魅力がある。
それをかかげる者は畢竟孤独に陥る。己の欲と利だけを追求することは、他のすべてを排除することと同義だからだ。
孤独を享受する者の姿は時にいたわしく、他者の心を惹きつける。
ミレイユもそうして“悪”が抱える孤独に心痛める者の一人だった。
黒蜘蛛の君はミレイユに猫なで声を使わない。彼女の心を揺さぶり行動を促すには、見せかけの言葉を排除した方がいい。ほんのわずかに“本心”をのぞかせることこそ、庇護欲を掻き立てるものだから。
黒蜘蛛の君には人の心を見抜く力があった。魔法などではない。単なる鋭い観察眼にすぎないそれは、彼女が幼い頃から多くの経験をしてきたことによるものだった。
神からの使命をその身に受けたのが十の歳。
以前は人との交流よりも己の肉体や精神の研鑽を重んじてきたイリアナスタは、悪の使命を受けてから、あらゆる種類の人間と交流を持つようになった。上流階級の貴族との関わりはもちろんのこと、庶民の集落を訪れ、果てはならず者の吹き溜まりに身を投じたことすらある。身分を隠して交わったことも、あえて侯爵令嬢の姿をさらしたこともあった。
当然ながら、言葉に表せぬほどの危険な目に遭ったこともある。五体満足で帰ってこられぬ可能性がいつもつきまとっていたのに、イリアナスタは致命的な傷を負うことなく必ず家に戻った。
この世のすべては神がデザインしているからだ。
“悪”の役目を果たさぬまま、イリアナスタが命を落とすことは許されない。
そうして己を磨いてきたイリアナスタも、庶民の編入生の存在を特別に感じていた。
シャルル・クロイツは、黒蜘蛛の君が闇に飲み込むべき“善”そのものだと判っていたのだ。