5. シャルルの初授業
シャルルの最初の授業は神学の講義だった。基礎科目の一つであり、シャルルにとっては心強いことにアンリも同じクラスを取っている。
シャルルはアンリの隣に座り、クラスメイトから遠巻きにされ、忍び笑いを向けられていることを感じながらも講義に集中しようと努める。
講師のファウラー司祭は年配の男性だった。柔和な顔つきながら、よく通る声でもって明瞭な話し方をする。
「今日は、人たる生命の責務について学びます。責務とは、すなわち責任と義務という二つの側面からなる言葉です。一般的に社会の中で求められる責務は非常に分かりやすいものですね。例えば私のような教師という職をとってみましょう。教師は、みなさん学生に対し知識と技能を教授する責任を負います。ただ学生を教室に集めて座らせておくだけではいけません。講義を聞かせ、対話をし、それから試験によって教授がどれだけ達成されたかの成果を図る。役目を果たすべしと命ずる力が責任であり、そのために実際に為すべき行為を義務と呼びます」
シャルルには少し意外だった。初等学校で習った神学といえば、聖典に記された創世の歴史を解釈するものだった。ここで司祭が話している内容は、歴史というよりむしろ道理を説くものである。
実のところ、シャルルはあまり信心深い質とはいえない。
国にはどの町にも教会があるが、シャルルにとってはそこはただ聖歌を習う場所に他ならなかった。
シャルルは実際、“現実的”だったのだ。美しい絵画や音楽のように自ら味わうことのできるものは素直に敬っていたが、目に見えない点の理や神というものにはあまり興味が持てずにいた。
もちろん、人の心を支える大いなる意義は理解している。ただシャルル自身には、必要なものとは思えないでいたのだった。
「――さて、その“責任”という力はいずこから生まれるものでしょうか? 言い換えれば、果たすべき役目を任ずるのは何者でしょうか?」
ファウラー司祭がぐるりと教室を見渡した。
長椅子の端に座ったシャルルは、司祭と視線が合って思わず姿勢を正す。すると司祭は軽く眉を上げてシャルルを指した。
「ミス・クロイツ、あなたの意見は?」
シャルルは周りから視線を浴びせられるのを感じながらも、率直に回答する。
「ええと……例えば先生でしたら、職務を任ずるのは学長先生になるんじゃないでしょうか」
言い終わる前に、聞えよがしなクスクス笑いがあちこちから立ち上る。
思わず肩を縮こまらせうつむくシャルルの斜め前で、巻き毛をポニーテールに結った女生徒が優雅に手を挙げた。
「ミス・クェンテル?」
ファウラー司祭に指されたローザ・クェンテル嬢がツンと顎を突き出すようにして答える。
「人のなすべき役目は創造主たる神様がお与えになったものです。持つと持たざるとにかかわらず、どんな生命にも必ずあるもの。財や生業といった世俗的なものとは関係のないものです」
ローザは最後の一言をトゲのある口調で付け足すと、ちらりとシャルルを振り向いて目を細めて見せる。
どうやらシャルルはいかにも“庶民”らしい発言をしてしまったらしい。
司祭はゆったりとうなずいた。
「よろしい。私がみなさんに教えるのはミス・クェンテルのような考え方です。ですがミス・クロイツも結構ですよ、あなたには学びの余地があるということです。――己の手の中に実存するものに注目することは、必ずしも誤りではありません。ただ人は、実存にこだわることでむしろ自らの存在を確信できなくなることがあるものです。例を考えてみましょう――」
そうして六十分の授業が終わって、シャルルは緊張をほどくように深くため息をついた。
隣に座ったアンリがぽんと肩を叩いてくれる。
「最初の授業だ、慣れなくて仕方ないさ」
「そうね……」
シャルルは眉を八の字にして笑い返す。
司祭の話はよく理解できた。
目に見えるものに己の存在理由を頼っていると、それがなくなったときに自尊心までも失ってしまうということ。教師には学校に勤めることが役目かもしれないが、教職を解雇されたからといってその人の価値が失われるわけではない。
“神からの使命”というのは抽象的な概念に違いないが、だからこそ無条件に信じ続けることができるものなのだ。
「――落ち込むことはありません、ミス・クロイツ?」
前から声をかけられて、シャルルとアンリが顔を向ければ、ローザが顎を突き出した格好で二人に笑いかけていた。
「お金や名声にこだわってしまうのは持たざるがゆえのこと。あなたにとってはどうしようもないことです。そもそもこの学園に入り込んだのだって、知識よりも目に見える財産を手に入れるためでしょう? まあ、それもあなたには易いことなのでしょうね。憐れな乞食のようなあなたを見ていると、わたしだって情けをかけてあげたくなります」
笑い含みの口調でそう言うローザに、シャルルは黙ってうつむいた。
シャルルの肩に手を置いたアンリは、眉根を寄せてローザの嘲笑する視線を睨み返す。
「……わざわざ声をかけていただかなくても結構です」
「ふうん、ミス・コルティーアは彼女に夢中のようですね。エルバルド先生と同じ、金髪好みなのかしら? ミス・クロイツは男だけでなく、変わり者の女も手玉に取れるのですねぇ」
ローザの中傷はいわれのないものだというのに、聞いていた周りの生徒たちがざわめくのがアンリには察せられた。
アンリもシャルルも知らないことだが、エルバルドの音楽の授業でもローザはそんな話を持ち出していた。つまりエルバルドが、シャルルから“女としての対価”を受け取ったことで、学園への編入を推薦したのではないかという疑惑を口にしたのだ。
飄々としたエルバルドは常のように肯定も否定もせず受け流したが、そのせいでローザの断定的な言葉が強く響くことになり、学生の中にはこの疑惑が真実だと信じ込んだ者が少なくない。
アンリが再びローザに反論しようとする前に、周りの学生たちからローザへの賛同の声が上がった。
「確かに困るね、彼女のせいで学園の品位が下がるのは」
「不潔な手段を使って成り上がろうなんて、とても信じられません」
「自分が主人公にでもなったつもりか? 身の程をわきまえるべきだ」
口々に投げかけられる糾弾にも、やはりシャルルは何も言い返さずじっと座っている。
アンリはシャルルが怯えているに違いないと思い、彼女の肩を叩いてうながすと、周囲を囲み始めた学生たちをかきわけて教室から連れ出した。
シャルルの次の授業はアンリと一緒に受けることはできなかったが、幸いなことにローザも同じクラスを取ってはいなかった。
だがそれでもなお、シャルルが周囲から向けられる視線はやはり冷たい嘲りを含んでいたのだった。
午前の授業が終わると、待ち合わせていたアンリと一緒にランチプレートを寮室に持ち込み、二人でゆっくり昼休みをとることにした。
学園の寮室は、シャルルにとっては奢が過ぎる気がしてしまう。自宅の寝室の四倍はある広さ、毛の立ったビロードの絨毯、シルクのシーツ、細かな彫り細工で飾られた窓枠。
正直なところ落ち着く空間とは言えなかったが、アンリと過ごしていれば部屋の様子など気にならなかった。
「――まったく、連中と来たら目に余るな」
サンドイッチを飲み込んだアンリは、むっつりとこぼす。人前では令嬢らしくおっとりとふるまうアンリだが、シャルルと二人になると素を出すのか、武人のような言葉遣いになる。
「シャルルがいい子なのは見ればすぐ分かるというのに、クェンテルの言うことなんぞ信じ込んで……」
アンリがまるで自分のことのように憤りを見せていることが、シャルルには嬉しく、ありがたかった。まだ出会って何日も経っていないというのに、アンリのことは既に頼れる姉のような存在に思えてきている。
「仕方のないことだわ。私のような庶民が入学を許された前例なんてないのでしょう? 私自身だって驚いているんだもの。何か理由があると思うのも無理はないと思うけれど」
シャルルの言葉にアンリは思わず苦笑を漏らし、その無邪気な顔に垂れた金髪を指で弾いた。
「本気で言っているのか? どうせ連中だって鵜呑みにしてるわけじゃないんだ。シャルルを攻撃するための都合のいい理由にしてるだけさ」
「そんなに悪い人ばかりじゃないでしょう? みんな立派な家の方なんだから」
「立派な家に生まれたからこそ、プライドと保身ばかり気にするようになってしまうものなんだ。私は、家の体面なんて忘れて、自分がしたいと思うことをした方が自分にも周りにも幸せだと思うがね」
アンリはどこか自嘲するような笑みを浮かべる。
アンリの実家であるコルティーア家はシャルルでも知っている著名な織物商であるが、アンリは単なる“成り上がり商人の娘"なのだと自称する。家政を勉強するという名目で入学したものの、本当は家の目が届かないところで自分のやりたいことをやるつもりだと言っていた。
シャルルには共感することはできないけれど、家柄の良い者にはそれなりの役目や苦労があるということは理解している。
同窓生がシャルルに心ない言葉を掛けるのも、重い役目を持たず楽をしているシャルルが許せないからなのだろう。それが彼らの純粋な悪意から来ているものではないと思えば、シャルルには甘んじて受け入れようと思えるのだった。
「しかし、少しは言い返していいんだぞ、シャルル。黙っていれば、それこそ認めたんだと思われる」
「いいのよ。真実は私自身と――優しい親友が知っていてくれれば充分だわ」
味方がいると思えることは、それだけで幸福だと分かっていた。
「あ……ごめんなさい、“親友”だなんて、勝手に……」
肩をすくめてはにかむシャルルを、アンリの長い腕が無遠慮に抱きしめた。薔薇色に染まった柔らかな頬に、アンリのとび色の髪の生え際が摺り寄せられる。
「本当にいい子だよ、シャルル! あなたの親友になれるなら光栄だ」
「やめてよ、ミス・コルティーアに光栄と言われるなんて、おそれ多いわ」
「わからないぞ、そのうちにシャルルの方が地位を上げるかもしれない」
「まさか」
愉快そうに声を上げて笑ったアンリは、今度は楽し気な手つきでサンドイッチをつまみあげた。
「エルバルド先生は王室付きの楽士だったんだ。あの人に才能を認められたってことは、シャルルもひょっとしたら王室に呼ばれるようなスターになるかもしれない」
「先生が王室に? すごいかただったのね」
「ここには良い経歴の講師が多いんだ。質の高い教育を、というのがモットーだからね」
シャルルは王室に招かれる自分を想像しようとした。だがうまくいかない。王族の暮らす居城がどんな見た目で、そこで演奏する楽士がどんな衣装をまとっているのか、何も知らないのだから。
王家に認められるのが名誉だと言うことは充分に分かっている。
この国では、王は創造主たる神に任ぜられた役目とされている。王権とはすなわち神に裏付けられた権力であり、王家に認められるのはそのまま神に認められたのと同じ意味を持つ。
でも、とシャルルは考える。相手が誰であろうと能力を認められるのは誇らしいこと。ただ相手がどんな人物なのか、どんな顔をして喜ぶのか、その人となりを知っていれば、認められる喜びはもっともっと大きくのなるはずだ、と。
神学の授業では「実在するものにばかりこだわるなかれ」とたしなめられてしまったが、シャルルにとってはやはり目に見える幸せが大事だった。
いつどこで誰の役に立っているかも分からない――もしかしたら誰かを不幸にしてしまっているかもしれない――そんな曖昧な行為より、目の前で困っている人に手を差し伸べてあげる方がいい。たとえそれが“世界”という大きなものに害を及ぼすとしても、シャルルは確かに存在する一人の人間を救うことを選ぶだろう。
「……傲慢かもしれないわね」
ぽつりとつぶやいたシャルルは、アンリの不思議そうな目に見つめられ、ただ笑って手を振った。
「ねえ、アンリはどう思う? 自分の役目っていうのがどこから来るのか、考えたことある?」
神学の授業での話題を持ち出すと、アンリはふむとあごに指を当てる。
「そうだな……。私は正直、自分の役目というものを考えたことがない。あるとしたら、命じるのは自分自身だと思う。自分がこうすべきだって信じていることが、私の役目。それが神から下賜されたものだと言うことはできるだろうね」
「素敵ね。やっぱりアンリは強いわ」
「そんなことないさ……」
アンリは自嘲めいた笑みを浮かべる。
いくら思うところがあっても、実際に為せてはいないのだとアンリは自覚していた。
型にはまるのが嫌いな自分があるのに、それが受け入れられるか分からない状況では、なかなか主張することができない。
武術のクラスを取ろうと踏み切ったのだって、学長に後押しをしてもらったからなのだ。実際の授業では講師にもクラスメイトにも明らかに扱いにくい視線を向けられていて、率直に言って居心地がいいとは言えなかった。
アンリはシャルルのことを本当に好いていた。
まだ会って数日も経っていないが、シャルルには自分の自然な姿をそのまま受け入れられているように感じられる。どんなことがあっても受け入れてくれるに違いないと、そう思わせる不思議な温かさがシャルルにはあるのだった。
だからこそ、本当はシャルルのことをもっと助けてやりたい。心無い評判を立てたローザや、それを鵜呑みにした同級生たちにはっきり物申してやりたい。
だがそれだけの勇気がなかった。
中でもローザは黒蜘蛛の君の“侍女”なのだ。黒蜘蛛に目をつけられれば、今は享受できている自由すら失われてしまうかもしれない。
強気な言葉を口にして、それが自身の役目だと掲げていたところで、結局行動に移すことができない自分がアンリには歯がゆくて仕方がなかった。
アンリがそんな葛藤を抱えながらも励ましてくれているのだと、シャルルにはなんとなく感じ取れていたのだった。




