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4. 黒蜘蛛の下ごしらえ

 黒蜘蛛(くろくも)(きみ)はシャルルが登録したクラスに目を通し終わると、羊皮紙を側机の上に戻した。


「――結構ですわ。ミス・クロイツからはわたくしも目を離さないようにいたします。学長先生からのご報告もお待ちしておりますわ」


 長椅子から優雅に腰を上げながら、デスクの脇にたたずむ学長を見やる。

 学長が常の無表情のうちにかすかに緊張をにじませていることは見て取れた。黒蜘蛛の君と面会するときはいつもこうだ。


 黒蜘蛛の君の暗い噂は、ジョルドモア学長も重々心得ている。だが学長にとって、イリアナスタは決して悪女でも暴君でもなかった。学長が今の役職に就くことができたのは黒蜘蛛の君の口添えであり、むしろ恩義があるとすら言える。


 学長となる前、メイガン・ジョルドモアは高い理想を持つ官吏だった。志を抱く若者を支援し機会を与えることが世の発展につながると信じ、質の高い教育の門戸をより広く開放するよう推進してきた。

 しかし今の社会においては個人よりも家の名を以て活動するのが常であり、ジョルドモアの主張は家柄を軽視したものとされ、当局から認められることはなかった――黒蜘蛛の君が声を上げるまでは。


 三年前、若き“未来の女王”は、ジョルドモアを国で随一の名門校の学長にと名指しした。ジョルドモアの言う通り教育の機会を広げることは正しいのだと唱え、それまで家柄と資産が大きな比重を占めていた入学審査の基準を変えることが当局によって了承された。

 王家との親交があるとはいえ、十代も半ばの娘にすぎないイリアナスタがなぜ国に対してこうも大きな影響力を持つのか、彼女が生まれる前から官吏を務めてきたジョルドモアすら理解が及んではいない。だが事実ではあった。


 学長の職に就いたジョルドモアには、実際に教育の門戸を開く改革に手を掛けることができた。

 学生たちが受ける授業は、彼らの実家ではなく彼ら自身が選択できるものとした。それでもほとんどの学生は選択を親に任せていたが、中にはコルティーア家の娘やミーチャム家の息子のように自分自身の志に従う者もいる。学長にとっては大きな実績の一つと言えた。


 そしてもう一つ――シャルル・クロイツの編入だ。特別推薦という標準的でない形ではあるが、地位も資産も持たない庶民の娘を受け入れたことはまぎれもなく大きな進歩である。

 黒蜘蛛の君もやはりシャルル・クロイツには特別に注目しているらしい。音楽講師のエルバルドから推薦の話を聞くや、一も二もなく編入に賛成した。そして寮室をはじめ彼女の生活基盤を自ら手配し、受講させるクラスもこうして確認している。おまけに今日は直接面会しに赴いたと言う。手厚い扱いには違いない。


 だがジョルドモアには危惧もあった。

 黒蜘蛛の君はジョルドモアが学長職に就く前から学園に通っていた。学園を実質的に牛耳っていた彼女から直々に学園の運営を一任された一方、学生としての生活については口を出さないようにと釘を刺されていた。

 もとよりジョルドモアは学生の一挙手一投足を統制するつもりはなかった。若者に必要なものは自主的な行動から生まれる経験という学びである、と信じていたからだ。それで、黒蜘蛛の君が学園内で専制的にふるまっていることは承知のうえで、諫めることも考えてはいない。大きな存在である彼女は、学生たちが対面すべき社会権力のある種の体現なのだ。


 だが、それは言い訳かもしれないとジョルドモアは自嘲する。本当はただ、得体のしれない黒蜘蛛の君に抗う術を持たない自覚があるだけなのだろう。


 一方の黒蜘蛛の君は、学長が抱えるかすかな不安と恐怖、達成すべき目的のためにそれらを抑えようとする意思を見透かしていた。


 ジョルドモアのような人間は、直截的な報酬を得るために公正さを蔑ろにすることはない。それが、黒蜘蛛の君の“侍女”達とは異なる点と言える。

 だが黒蜘蛛の君は知っている。悪はときに正義を成すことと同義である――いや、正義の行いこそがまさに悪そのものをはらんでいるということを。

 正義につながる理らしきものを示してやれば、学長は否定できない。その生真面目さ、誠実さゆえに受け入れざるを得ない。


 人が悪の存在を許す境界線は皆同じではない。黒蜘蛛の君はそれを探り当てる術を持っていた。


「それで、王太子殿下の件はいかが?」


 黒蜘蛛の君の質問に、学長はおもむろにうなずいた。


「滞りありません」

「では、一週間後ですわね」

「はい」

「万事ぬかりなきよう、お願いいたします」


 無言で一礼する学長に微笑みかけ、黒蜘蛛の君は部屋を出ようとする。


「ミス・ヴィドワ――」


 と、学長から呼ばれて足を止めた。

 顔だけで振り向くと、学長は感情を押し殺した面持ちのままで黒蜘蛛の君を見据えている。


「陛下よりあなたに……よろしくお伝えするようにとうかがっています」

「そう」


 黒蜘蛛の君はあえて軽く返事をした。


「ごきげんよう」


 それだけ言い残し、学長室を後にする。

 部屋を出ると、入り口に控えていた侍女たちを従えて廊下を歩いた。

 人間の数が多いことは力を増す。一人よりも二人、二人よりも三人の方が強い。空間を占有する力、声や動きによって他の存在に働きかける力、そして何よりその人間たちを従えるリーダーが示す権力。侍女の人格に興味はない。ただ主人の背後に従順に付き従う存在として、侍女は大きな役割を持っていた。


 分厚い絨毯の敷かれた廊下を進み、学長室の位置する本棟の一階から渡り廊下を通って北棟へと向かう。


 学園のほとんどは本棟と呼ばれる大きな建物に属している。本棟は三階建てで、五段の階段を横にしたような段状の形をとり、各段の床に当たるせり出した部分が四学年それぞれの寮室に充てられている。階段の最上段は長方形の平屋である玄関棟とつながり、最下段からは渡り廊下によってやや離れた北棟へと通じている。


 渡り廊下の途中、テラスへの入り口で黒蜘蛛の君は興味深い人物を見かけた。


「ごきげんよう、ミスター・ミーチャム」


 声をかけると、彼はびくりと肩をすくめて脇に抱えた本を持ち直す。

 テラスをのぞきこみながらたたずんでいた彼の様子から、何をしていたのかはおよそ察しがつく。


 ヒロ・ミーチャムが噂の転校生に声をかけていたことは、侍女のアリヤから聞いていた。聡明ではあるが社交性に乏しい彼は、同じように周囲から浮いていたシャルル・クロイツに共感を覚えたのだろう。


「どなたか探していらっしゃるの?」


 黒蜘蛛の君は足を進めながら、見透かしたごとき笑みを浮かべて尋ねる。ヒロはすぐさま目を伏せ、「失礼します」とかろうじて聞き取れる声で呟くと、黒蜘蛛の君の脇をすり抜けて足早に立ち去った。


 ヒロの勤勉さと博識さ、そして記憶力は黒蜘蛛の君も充分に認めていた。

 彼の父親であるミーチャム司教はいわば高級官僚である。長男のジャンを後継者として自ら育てている一方で、次男のヒロにはほとんど興味がないようだった。全寮制のこの学園に通わせているのも、次男の妙な知的好奇心の旺盛さを適当に満たしてやろうという程度の意図なのだ。それでヒロは学長が認めるのをいいことに、ほとんどすべての授業に登録し、興味のある箇所だけ受講しようと好きなときに教室を出入りしている。


 彼が高い能力を持つことは明白だが、自らの社会的立場を確立させることに関しては驚くほど不得手である。つまり、社会を構成する名もなき人々に対して自分を認めさせることができないのだ。彼自身、そんなことには価値がないと思っている。分かってもらえる人に分かってもらえばいいという、それらしい理屈で無意識の内に折り合いをつけている。

 事実かもしれない。だがそこが、つけ込む余地のある彼の欠落だった。


 人間は“人々”から認められることにはある種の快感を抱かずにいられない。たとえ必要のないもの、価値のないものだと思っていても、承認されあわよくば賞賛される経験をしてしまえば、再びそれを求めてしまう。

 彼のような若者ならばなおさらだ。自信と自尊心を持ちきれていない。家族には放置され学友からは変わり者扱い。教室で認められても、退室してしまえば彼を受け止める先はどこにもないのだから。

 黒蜘蛛の君は理解している。だからこそ、いつでも彼を手中に収めることができると考えていた。


 だからこそ、今は彼を興味深く見守っていた。


 だがシャルル・クロイツの存在は間違いなく彼の精神に影響を及ぼすだろう。あの娘は触れるものすべてを受け入れる。能力いかんを問わず、無条件に人格を肯定する。相手の自尊心を醸成し、本人に自覚させる。彼女が“素敵な子”である以上、想像に難くない展開だ。

 もしヒロが彼女と何らかの友情をはぐくむことになれば――必ず役に立つ。


「彼、あの子が気に入ったのですわね」


 黒蜘蛛の君が嘲笑交じりの口調で言うと、背後に控えるアリヤが答えた。


「わたしたちとはろくに目も合わせられないような男ですもの。あの子程度なら緊張せずに済むというだけですわ」


 アリヤのどこかすねたような調子に、黒蜘蛛の君は失笑する。


「いつもはあんな調子ではなくってよ。彼が緊張しているふうなのは……ああ、もしかしたらアリヤ、あなたが一緒のときだけかもしれませんわね。あなたのことを意識しているのだわ」


 黒蜘蛛の君が振り向くと、アリヤは少し顔を赤くして「そんなことありませんわ!」と目を泳がせていた。


 黒蜘蛛の君は鼻で笑って歩を進める。ドリスとローザも、小馬鹿にしたような視線をちらりとアリヤに向けた。

 ヒロが“意識している”のがアリヤであることは間違いないが、それは彼女が期待しているような好意的な意味ではない。なにしろプライドの高いアリヤは、ヒロと話したい一心が高じた結果、彼を見かけるたびにわざわざ憎まれ口を叩きつけている。気の弱いヒロにしてみればそんな女に怯えるのは当然の結果なわけだが、当のアリヤは露ほども気づいていないのだ。


 北棟に着くと、黒蜘蛛の君は侍女たちを待たせて一人でエレベーターを上がる。


 北棟の最上階が音楽講師エルバルドの住処だった。

 エレベーターの扉が開くや、すぐそこにエルバルドが立っているのが目に入った。ちょうど降りるところだったらしい。


「ごきげんよう、エルバルド先生」


 黒蜘蛛の君は一歩後ろに下がって、手でエルバルドに乗るよう促した。


「なんだい、黒蜘蛛の君は意味もなくエレベーターを上下させるのが好きなの?」

「ご冗談を。先生にお目にかかりたかったのですわ」


 そうか、と肩をすくめたエルバルドが乗り込み、エレベーターの扉が閉まる。

 黒蜘蛛の君は何気なく世間話を持ち掛ける。


「新しいご愛馬の調子はいかがですこと?」


 エルバルドには競走馬を育てる趣味があった。自ら訓練を施した馬をレースに出し、趣味仲間と成果を競うのだ。


「さて、まだ本格的に訓練しちゃいないが、素材としては悪くなさそうだよ」

「それは何よりですわ。最初のお披露目はいつになりそうですの?」

「どうかな、滞りなければ半年後くらいだろう」


 エレベーターが下に到着し、待っていた侍女が扉が開く。


「まさか話はそれだけ?」


 廊下に歩み出たエルバルドは皮肉気に唇を端を吊り上げて黒蜘蛛の君を見やる。

 黒蜘蛛の君は優雅に微笑んで返した。


「実は来週から、王太子殿下が本校にご滞在になりますの。先生にぜひお会いになりたいとおっしゃっておいででしたのよ」

「おやおや」


 フランシス・エルバルドはかつて王室仕えの音楽家で、王后や王女に声楽を指南していたこともある。しかし王室での生活に嫌気がさし、自ら志願して中等教育の教師に転身したと言われている。わざわざ中等学校を選ぶというのも通常考えにくいものが、エルバルドの気儘な気性にとってはたいしたことではないのだろう。

 フレデリック王子が幼少のころにエルバルドはまだ王室にいた。王子本人の言うところ、堅苦しいところのないエルバルドをずいぶん慕っていたのだと言う。おかげでその自由な言動が自分にも移ってしまった、などと言っては笑っていた。


「フレディ坊やか。最後に会ったときはまだ毛も生えそろってなかったはずだが、執念深いものだね」

「ご冗談ばかり。殿下は先生にとてもお会いになりたがってましたわ」

「きっと仕返しのためさ」


 エルバルドの言が本心でないことは分かっている。天邪鬼な彼は、他人から正面切って愛着を向けられるのが照れくさいのだ。


「それで、私に殿下のお守をしろって?」

「身の回りのお世話はわたくしが手配しております。先生には少しだけご注意いただきたいのですわ。殿下に不用意に近づく不心得者が現れないかどうか、つまり――」


「悪い虫がつかないように?」


 エルバルドは愉快そうに笑った。イリアナスタが嫉妬の炎を燃やしているのだと、からかってやろうという顔だ。

 黒蜘蛛の君は唇を尖らせて見せた。


「こう申し上げておかないと、殿下に悪い遊びをお教えになるんじゃないかと心配なのです」

「分かったよ、お嬢様。殿下には慎みを持つよう言っておこう。修羅場には興味ないからね」


 ひらひらと手を振って歩み去るエルバルドを、黒蜘蛛の君はふわりと一礼して見送った。


 後ろに控えた侍女たちが目を丸くしているのは分かっていた。当然だろう、彼女たちは王子が学園に滞在することを知らなかったのだ。


「あなたたちも――」


 黒蜘蛛の君は侍女たちに微笑みかけた。


「ご存じでしょう? 身の程もわきまえず貴人に近づこうとする輩はどこにでも現れるもの。派手な金髪を使ってこの格式高き学園に入り込むような、ね……」


 細めた目に冷たい色を浮かべる黒蜘蛛の君を前に、侍女たちはそれぞれ思索をめぐらせ始めていた。

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