29. シャルルと歌
フレデリック王太子の留学期間も終わりが近づいた。つまり彼の戴冠が間近だということ。そして黒蜘蛛の君ことイリアナスタ・ヴィドワ嬢の王室入りが決まるということだ。
戴冠を控えた王位継承者には、定められた暦日に聖地に赴き善政を誓うならわしがある。そのために王子は二日ほど学園を離れる予定になっていた。
出発日の早朝、見送りに来たジョルドモア学長に向かって「行ってまいります」と挨拶するフレデリック王太子の表情は、見るからに生気のないものだった。
常らしからぬ面持ちの理由は、ジョルドモアにはおよそ見当がついている。
しばらく前から彼が黒蜘蛛の君に向けていた表情も似た類のものだった。学園に来た当初は主人にじゃれつく子犬のように彼女を慕う態度だったのが、次第に変わってきたように見えていた。純粋な愛情と憧れの視線が、不安と罪悪感をはらんだぎこないものへ。
そして今の王子が目を輝かせる対象は――シャルル・クロイツなのだ。
舞踏会で彼女にスポットライトを当てる計画を、王子はジョルドモアに打ち明けに来ていた。彼女の歌や存在そのものが人に幸せをもたらすのだと語る王子は、学園に来た当初のように鮮やかな活気を放つものだった。
ジョルドモアは、それが黒蜘蛛の君にとっておもしろくないであろうことは承知していた。それでも反対しなかったのは、王子の夢はジョルドモア自身の夢でもあったから。そして、少しだけ――黒蜘蛛の君がどう対応するのかを量りたかったから。
黒蜘蛛の君は奇妙な存在だ。年若い一令嬢とは思えぬ権力を持ち、その力によって他者には富も毒をも与えうる。どちらが与えられるかは彼女の気分次第なのか、損得勘定なのか、人は思い思いに判断して、彼女を畏怖し、あるいは敬慕する。
王子は黒蜘蛛の君からシャルル・クロイツに心を移しつつあるのかもしれない。だが黒蜘蛛の君との婚約は定められたもの。それを王子自身のわがままで反故にすることもできず、心を痛めることしかできないのかもしれない。
そうだとしたら――否、黒蜘蛛の君がそうだと判じたならば、彼女はどんな手を打つのだろうか。
王子の馬車が遠ざかるのを見守りながら、ジョルドモアはそんなことを考えていた。
「――おはようございます、学長先生」
視界の端に映った人影から挨拶され、学長はそちらに向き直る。
「おはようございます、ミス・クロイツ。ずいぶんと早いのね」
まだほとんどの生徒が起き出していない時間帯だが、編入生はきちんと身支度を整えている。
シャルルは照れくさそうに肩をすくめた。
「日の出を見ながら散歩するのが好きなんです。あの……朝早すぎてはいけない、という規則はなかったですよね……?」
「問題ありません」
学長は他の講師ほど生徒と関わる機会は少ないものの、こんなふうに出くわせば挨拶を交わす。シャルルとは特に、雑談まじりに様子をうかがうこともあった。
「舞踏会での歌はとても素晴らしいものでした。他の参加者からの評価も高いと聞いています」
「そう……ですか。ありがとうございます……」
シャルルは少しうつむき、体の前で組んだ指を落ち着かなそうにさすり始める。
罪悪感の見える態度だった。
ジョルドモアも当然、シャルル・クロイツに対するよくない噂は耳にしている。彼女が教師や王子や生徒をたぶらかして利用し、名声と権力を手に入れようとしているといった噂だ。
万が一それが真実で、彼女がわざと他人をたらしこんでいるのだとしても、罪悪感を覚えているのならば改心の余地がある。過ちに気付けば葛藤もなくなることだろう。
心配なのはむしろ、彼女にはどうしようもないことなのだとした場合だ。制御の効かない何かによって彼女が罪悪感を覚えているのだとしたら、彼女にとってはるかに苦しいことに違いない。
「――それで、ミス・クロイツ、ちょうどあなたを呼ぼうと思っていました。本日正午、学長室にいらっしゃい。お客様がおいでになる予定です」
「お客様、ですか……?」
「そうです。遅れないように」
立ち去ろうと足を踏み出しかけたジョルドモアを、シャルルが「あの」と呼び止める。
「あの、学長先生」
「はい」
「先生は……いつから先生になろうとお考えになったのか、聞いてもいいですか……?」
思いがけない質問に、ジョルドモアはシャルルに向き直る。
そもそもシャルルからこんなふうに話を持ち出されたことはなかったのかもしれない。今まではほとんどジョルドモアが話しかけて、シャルルは愛想よく答えていただけだった。
「……そうね、あなたくらいの年齢の頃は、ただ国を良くしたいと思っていました。それで官僚になって働いているうちに、今の在り方を変えるより、次代を担う人間が力を発揮できる環境を整える方がより大きな意味を持つと考え始めたんです。それが……十年ほど前になるのかしら」
ジョルドモア自身は、恵まれた環境にあったと言っていいだろう。なにしろ高級官僚だった父の口利きで官職を得ることができた。だからこそ、自分と違って、家や社会的規範に抑圧されて道を選ぶことすら許されない若者の存在を知り、心を痛めずにはいられなかった。
人が生きる中で何事を為し、目的に掲げるか。自らの意志で選ぶ権利を取り上げてはいけない。
シャルルのルームメイトであったアンリ・コルティーアの件は、力及ばなかったことを歯噛みしていた。だがジョルドモアは単なる学園の運営者であり、一商家の経営戦略にまで口を出すことはできない。アンリの父親が彼女を嫁がせようとすれば、それを止める手立てなどありはしなかった。
黒蜘蛛の君なら、と考えている自身にジョルドモアは嘲笑を禁じ得ない。彼女ならばきっといくらでも講じる手段があるのだろう。
「……己の責務を見出すこと自体にそれほど意味はありません。信念に基づいて何を為すかが肝要です。指針が見つからないうちは、ただ心に従うことです。あちこちに寄り道をしていたと思っても、俯瞰で見てみれば、必ずどこかに向かって進んでいるはずです」
シャルルが清廉な人間であることは、ジョルドモアにはよく分かっていた。目に見えない大義より、そこに実在する人間の幸福を重んじることも。
それはある意味では絶対的な価値観であり、同時にひどくおぼろげな物差しでもある。
あるのかないのかも分からない、すがるにするにはあまりにも儚い糸。
「――ありがとうございます、先生」
そう言って微笑んだシャルルは丁寧に一礼し、校舎の方へ歩き去って行った。
***
エルバルドが学長室に足を踏み入れると、既に役者はそろっていた。
書斎机に座ったいつも通り厳格な面持ちのジョルドモア学長に、長椅子には迫力のある佇まいのマダム・ハンソ。二人の淡々とした会話を、マダムの差し向かいで身を縮ませて聞いているのはシャルル・クロイツだ。
学長から呼び出しを受けた際には、このところまともに授業をやっていないことへの小言だろうと思っていたが、マダムとシャルルも同席するとなれば別の話であることは予想がつく。
エルバルドにとって悪い話でないとも充分分かっていた。
「どうも」
軽く会釈をするエルバルドに、学長がうなずいて立ち上がる。
「――さっそく本題に入りましょう。エルバルド先生には、ミス・クロイツの声楽の訓練を再開してほしいのです」
単刀直入な物言いに、エルバルドは思わず鼻から笑い声を漏らす。
「それはどうでしょう。マダム・ハンソがよくご存じとは思いますが、私は今舞台役者の訓練で手一杯なんですよ」
エルバルドは失格になったシャルルの代わりに、ライラ・シャゴールという令嬢を件の歌劇の出演候補に立てていた。彼女はジルエ卿が訓練しているシャゴール男爵令嬢の妹であり、素養は申し分ない。かつ姉に勝ちたいと思う気概が非常に強く、ジルエ卿に仕返ししてやりたいエルバルドとも馬が合っていたのだ。
エルバルドののらくらとした返答に、学長が眉をひそめた。
「お忘れではないでしょうが、あなたはこの学園の教師です。学園の生徒を何より優先していただかなくては困ります」
「ミス・クロイツのレッスンだってカリキュラム外だったじゃありませんか。教師にだって私的な活動の自由はあるでしょう」
「それはカリキュラム内の授業をまっとうしてから言ってほしいものです」
学長の冷たい言葉に、エルバルドは肩をすくめてシャルルの隣に腰かけた。
エルバルドが授業のほとんどを助教に任せていることは否めない。それというのもミス・シャゴールの屋敷が学園から遠いために往復するのが面倒で、一度赴いたら数日間は滞在するようにしているせいだ。
「授業を行うつもりがおありでないのなら、無理強いするつもりはありません。ですがそうなれば、あなたをこの学園に置く意味もないことになります」
「それ、私をクビにするっておっしゃってます?」
「ええ」
さらりと肯定する学長に、エルバルドは声を上げて笑った。
「なるほど。だからマダムがいらっしゃるわけだ」
ふてぶてしく長椅子の背もたれに背中を預けるエルバルドに、マダム・ハンソは小さく笑んだ。
「さようです。学園を離れることをお選びになるのなら、わたくしの劇団に来ていただきたい」
「で、やっぱりミス・クロイツを育てろと?」
隣に座ったシャルルが、ぎょっとしてエルバルドに視線を向ける。どうやら彼女は学長とマダムの思惑を知らずにここにいるらしい。
マダム・ハンソはおもむろにうなずき、戸惑っているシャルルをまっすぐに見つめる。
「ミス・クロイツのことも正式にお誘いするつもりです。アントン・ブレイの審査と、先日の舞踏会で彼女の歌を拝聴しました。彼女には人の心を動かす力が備わっているわ。舞台に立ち、多くの人に声を届けるべきです。――ミス・クロイツ、あなたもそのためにここにいるのでしょう?」
シャルルは眉尻を下げた切なげな表情でマダム・ハンソを見返している。そのまましばらく黙っていたかと思うと、「はい」とささやくような声で答えた。
なるほど、とエルバルドは肩をすくめる。
もちろん舞踏会でシャルルがこの上なく美しい歌声を響かせたことは知っている。フレデリック王子に頼まれてピアノを弾いたのはエルバルドなのだ。
審査のときもそうだったが、シャルルは不意打ちで舞台に立たされると精神が研ぎ澄まされるらしい。普段のこんな控えめな態度からは想像できないほどに堂々たるパフォーマンスをやってのける。
天賦の才だと思うのも無理のない話だ。
「ただ――」
と、シャルルがかすかだがはっきり聞き取れる声で言葉を継いだ。
「エルバルド先生が他の生徒さんを教えておいでなら、私が割って入るわけにはまいりません。劇団に誘っていただけたことは、身に余る光栄です。でも、エルバルド先生には……ご迷惑をおかけしたくはないんです……」
「おいおい、ミス・クロイツ」
エルバルドは笑ってシャルルの生真面目な顔をのぞきこんだ。
「相変わらず余計なことに気を回す子だな。きみに心配してもらわなくても、私は私のやりたいことしかやらない。――ですからこうしましょう、学長にマダム。学校は辞めます。後釜はキニー君に任せれば問題ない。で、マダムのご厚意に甘えて劇団の指導員に就かせてもらいますが、ジルエに吠え面をかかせるまではミス・シャゴールを訓練させてもらう。片が付いたらシャルルに戻りましょう。どうです?」
エルバルドにとって都合のいいところばかりを寄せ集めた提案に、学長もマダムも呆れたように目を回した。
きょとんとしているシャルルに、エルバルドはまた笑って見せる。
「私だってきみのことは買ってるんだよ。それに教師も飽きてきたし、劇団員に好き勝手言う仕事も悪くなさそうだ」
シャルルという娘は、役目がどうのこうのといちいち頭を悩ませなければいられないらしい。エルバルドにしてみれば、自分がどうするかを決めるのに、自分の意思以外の物差しを当てるなど想像もできないことなのに。
「……まったく、いつもながら奔放なこと」
学長がため息交じりに言った。
「分かりました、教職の件は後で話しましょう。――マダム・ハンソはいかがです?」
「結構ですよ。まあ、エルバルド卿なしでも、ミス・クロイツが来てくださるというのなら充分です」
肩をすくめるエルバルドをよそに、マダム・ハンソは立ち上がってシャルルに手を差し伸べた。
「卒業までお待ちしています。劇場や稽古場にはいつでも顔を出してちょうだい。私の名前を出せば通りますから」
慌てて立ち上がったシャルルの手の平に、マダムはアメジストのブローチを載せた。
一人だけ座ったままのエルバルドは、恐縮して何度も頭を下げるシャルルと、彼女を温かく見つめる二人の女性を見やって笑っていた。
――結局、黒蜘蛛がシャルルを潰そうとしたことなど、一つも意味はなかったのだ。
シャルルは受け入れられていく。むしろ障壁を乗り越えたからこそ、彼女の才覚がいっそう引き立たされ、輝きを増していく。
黒蜘蛛の君の食えない笑顔を思い浮かべたエルバルドは、彼女もさぞ悔しいことだろうと妙に愉快な気分になっていた。
***
シャルルは外を散歩していた。
夜明け前、学園の建つ丘の稜線は、昇ろうとしている太陽の光で淡い紫色に染まり始めている。
幻想的なその色を眺めながら、どこへ行くともなしに足を動かしているシャルルの耳に、ふと歌声が入り込んできた。
自分以外にも、こんな時間に外で歌っている人間がいるのだろうか。
ぼんやりと思いながら、声に導かれるように歩き続ける。
そのうちに講堂が見えてくる。閉まった扉は何食わぬ顔をしているが、その中は豪勢に飾りつけが施されていることをシャルルは知っていた。今日の午に帰ってくる王子のためのパーティーの支度だ。そこでシャルルが披露するための歌は、エルバルドに相談して、王子が幼い頃から好きだったという曲に決めていた。
聞こえてくる声をたどり、講堂の横を通り過る。
歌は講堂の隣の鐘塔から聞こえてくるようだった。塔の入り口に目をやれば、古ぼけた南京錠が外れて、扉の取っ手に巻かれた鎖にぶらさがっている。
シャルルは水を含んで腐りかけたような木の扉を開けた。
薄暗い螺旋階段の通路に顔を入れると、歌声が確かに塔の上から降ってきているのが分かる。
シャルルは吸い込まれるように足を動かし、螺旋階段を上り始めていた。
石造りの壁に囲まれた空間に音色が響き合い、夢の中にでも迷い込んだような不思議な感覚を覚えた。
反響する声が誰のものなのかは判然としなかったが、かろうじて歌詞を聞き取ることができる。
――許されようや 清き真玉を
我ぞ醜き泥が咎人
糸を侵し 君を穢し 明き衣すら破れ堕ちる――
歌劇アントン・ブレイの曲だった。人殺しのアベーラが、自分を救うために奔走するアントンを想って自らの罪を深く悔いる歌。
シャルルは相手役――聖者アントンが応える節を知っていた。
口が自然と動き、塔の上にいる何者かに歌を返す。歌いながら螺旋階段を上っていく。その間、階上から響いてくる声は止まっていた。
――糸先は唯君ならず 広き水底 種は普く
嘆くなかれよ 盲いるなかれ
導くは我が衣なる錦――
シャルルが歌い終わると同時に階段を上り切る。
最上の部屋には、薄明かりの差し込む窓際にたたずむ人影があった。
血のように深い紅の髪。黒のレースで飾られたドレス。
黒蜘蛛の君だった。




