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2. 黒蜘蛛ライジング

 黒蜘蛛(くろくも)(きみ)はスカートの黒いレースを優雅になびかせて歩く。

 彼女の後ろに付き従う侍女たち――実際は単なる学園の同窓生なのだが――は、口をつぐんだまま互いに不安な目線を交わし合っていた。


 シャルルという庶民の娘。あの娘とアンリ・コルティーアとの会話を聞きつけ、黒蜘蛛の君はわざわざ声をかけた。

 黒蜘蛛の君みずから接触するということは、その人物に興味があるゆえ。たいていの場合その興味とは、明るい感情が込められたものではないのである。


 こちらに向けられない主の顔にいったいどんな表情が浮かんでいるのか、侍女たちにはそれが恐ろしかった。機嫌を損ねた黒蜘蛛の君からはどんな仕打ちをされるか分かったものではない。


 侍女たちにとって、黒蜘蛛の君に従い“侍女”と呼ばれるのは願ってもないことだ。学園内で教師生徒を問わず大きな影響力を持つ彼女の味方に付けば、彼女の権力による恩恵を受けられる。

 彼女が真に女王の座に就けば、卒業後の行く末も安泰だ。家柄に守られた子女たちにとって、より良い縁をたどって出世することこそがまっとうな道といえた。


「――素敵な子でしたわねぇ。そう思いませんこと?」


 ふと、前を行く黒蜘蛛の君が猫なで声で話しかけてきた。

 もちろん、先ほど会話をした庶民の娘を評しているはず。


 四人の侍女は互いの様子をうかがう視線を交わし合い、中の一人が唇を開く。


「いえ、あのようなみすぼらしい娘、黒蜘蛛の君の足元にも及びませんわ」


 誰が最初に発言するかという無言の攻防は、誰が黒蜘蛛の君の寵愛を最も深く受けられるかという対抗心ゆえだ。


 黒蜘蛛の君はちらりと背後を振り向き、今の言葉を発したドリス・レイノルド嬢を見やった。

 主の右端に控えていたドリスは、金色の瞳に見つめられ思わずうっとりと頬を紅潮させる。


「――それはつまり、わたくしの審美眼がお粗末だと言いたいのかしら?」


 真っ先に応答することが正解とは限らない。


「いえ! その……黒蜘蛛の君は、あの娘にお慈悲をかけておっしゃっているのかと……」

「あら、図々しくもわたくしの考えを見通しているつもりなのね」


 うってかわって顔を青くするドリスをよそに、隣に立ったローザ・クェンテル嬢が口を挟む。


「あの娘のどこにご興味がおありなのですか? わたくしにはただの庶民としか思えませんでした」


 ローザの顔を確認してから前方に視線を戻した黒蜘蛛の君は、フフ、と笑う。


「あなたたちにはそうでしょうね」


 機嫌を損ねずに済んだらしい、とドリスは胸を撫でおろし、ローザはそんなドリスに勝ち誇った視線を向ける。


 実のところ、黒蜘蛛の君からの呼びかけに第一声で間違いないのない応答などできないのだ。

 先ほどドリスが「はい、素敵な子だと思いました」などと答えていたならば、「でしたらあの子の後ろを歩いたらいかが?」と突き放されただろうし、ローザがそうしたように質問を返したならば「わたくしの問いかけは無視していいと思っているのね?」と追及されただろう。

 ゆえに、誰かが悪口の犠牲となった後で改めて応答をするのが無難な方法だといえた。


「でもわたくしには分かるの。あの子は特別な子――とても素敵な子だわ」


 正直なところを言えば、ドリスも先ほど初めて間近で目にしたシャルル・クロイツに、好意的な印象を持っていた。

 確かに洗練されているとは言えない身なりだったが、身のこなしや話しぶりは上品だと言ってもよかった。肩まで伸ばした明るい金髪も、エメラルドの瞳も、控えめな笑顔も、魅力的だと言われれば否定できない。それに黒蜘蛛の君と対面したときも、礼を尽くそうとする態度が見えたのは確かだった。


 中庭につながる扉をくぐったその瞬間、ドリスの反対側の端に控えていたミレイユ・ランブルスキ嬢が手に提げていた大きな日傘を無言で広げ、黒蜘蛛の君の頭上に支える。

 テラスに向かう黒蜘蛛の君と侍女たちを見てとると、通りかかる者たちはみな恭しく礼をよこす。この学園では、黒蜘蛛の君は既に女王として君臨していた。


 四人の侍女を従えた美しき主は、テラスの最奥、彼女のために空けてある一段高くなった張り出しスペースに上がり、白い椅子に腰を下ろす。

 学園の前庭を見下ろしながら、黒蜘蛛の君はぞっとするような笑みを浮かべる。


「……素敵な子は嫌いだわ」


 その言葉に、侍女たちは顔を見合わせてかすかにうなずき合う。

 黒蜘蛛の君は、自分を喜ばせる態度がどんなものかを暗に教えてくれる。シャルル・クロイツという娘に対して、黒蜘蛛の君が抱いている感情は明らかに暗く鋭いものなのだ。


 侍女たちはただ従順に従っていればいい。


 主が言葉を継がないことを確認し、侍女たちは無言で一礼しその場を立ち去った。

 この場所に来るのは黒蜘蛛の君が一人になりたいという意味だった。侍女たちは彼女の目の届かぬ場所まで退がって控え、人払いをしなければならない。


 しばらくテラスの下を見下ろしていたイリアナスタは、やがて顔を傾けて侍女たちの姿が見えなくなっていることを確認する。


 そうして深々と息をつき、胸の前で手を握り合う。


「我が創造主よ、謹んで天啓をいただきましたわ」


 目を閉じて小さくつぶやくと、自然と口元が緩み笑みを形作る。

 それはシャルルに向けた軽蔑の笑みでも、侍女たちに見せた奸計の笑みでもない。光栄に感極まったがゆえの笑みだった。


 イリアナスタには神に任ぜられた役目があった。


 敬虔な信徒たる彼女にとって、創造主たる神から直々に使命を与えられるのは信じがたい幸運に違いない。

 役目を果たすことが彼女の生きる目的であり、幸せそのものでもあった。


*** 


 始まりは十歳になる歳の春のこと。

 ヴィドワ侯爵家の次女であるイリアナスタは、毎朝の日課である礼拝のため、邸宅の外れにある講堂に向かうところを執事に呼び止められた。


「お嬢様、使者がお待ちです」


 老執事のオスカーはイリアナスタが生まれる前から侯爵家に仕え、彼女の成長を支えてきたく祖父も同然の存在である。


 朝早くの来客を不思議に思いながらイリアナスタは問い返す。


「どちらからの使者ですの?」


 そうしてふと執事の奇妙な表情に気が付いた。

 老執事は単なる来客の知らせにしては不自然に眉根を寄せ、感慨を抑えきれぬというような表情を浮かべている。


 彼は一瞬唇をわななかせ、深く息をついたのちに静かに告げた。


「天使でいらっしゃいます」

「まあ!」


 イリアナスタは胸に抱えた聖典を取り落とさんばかりに驚いた。


 この世界は全知全能の神が創造し、そこに生きる人間の生命と活動を見守っている。人の在り方はすべて神が定めるもの。運命に従うことこそ人の本分であり幸福である。

 天上にいる神に対し、一人の人間は天を見上げることはできるもののその声を耳にすることは難しい。されど神はときに使者を遣わし、自ら人間に言葉を伝えることがあった。


「わたくしに……ああ、なんということ。主がわたくしを選んでくださったの……!」


 天使の訪問は、その者に神からの使命が与えられたことを意味する。

 イリアナスタへの使命は彼女の一族郎党皆が達成を支える責務を負う。

 多くの人間はそうして身近な誰かの役目を支えることになる中で、イリアナスタは自身が直接神から役目を与えられたという感動に打ち震えていた。


「ああ、オスカー! すべてはお父様やお母様、お姉様がたと、そしてもちろんあなたのお陰だわ。わたくしのような至らない娘をこれまで温かく育ててくださったんですもの……」

「とんでもない、お嬢様ご自身のご努力の賜物でございますよ。本当に……喜ばしいことでございます」


 オスカーもまた、我が子のように愛するイリアナスタが誉れ高き役目を負うことを誇らずにはおれなかった。

 彼女の努力をずっと近くで見守ってきたからだ。

 イリアナスタはどのような役目が下されても必ずやりおおせるのだと決意していた。暗記している聖典をさらに読み重ねて心に深く刻み、歴史書を紐解いてはこれまで人間が果たしてきた任を学ぶ日々。同年代の少女たちがこぞって茶会や楽詩にふける中、彼女は独り遊蕩を厭い、己を律して厳しい修行に自ら身を投じた。


 神が使者を下したのはイリアナスタの一途な献身を見ていてくれたのだからだと思うと、オスカーの目頭には熱いものがこみ上げてくる。


「使者は講堂でお待ちです。どうぞいってらっしゃいませ」


 オスカーがなんとか冷静を保ちながらそう告げると、イリアナスタは重々しくうなずき「本当にありがとう」と彼の手を握る。


 逸る気持ちを抑え、堂々たる足取りで講堂へ向かった。

 歩きなれた廊下をたどり、通用口から母屋を出る。早朝の空には薄く覆った雲ごしに太陽の光が透け、イリアナスタの真紅の髪を淡く照らしている。

 石の敷かれた路を進めば講堂の棟にたどり着く。背の高い褐色の扉の前に立ったイリアナスタは深く息を吸い込み、心臓の鼓動を治めるように深く吐き出した。


 神の使者――歴史を記した文献には幾度もその存在が語られる。神の意を知り、人へと伝令する者。彼らが神と同じく人知を超えた存在であることは違いない。


 扉の前に立ったイリアナスタは改めて神への陳謝を心に述べ、重く感じる扉を力を込めて押し開いた。


 天窓から差し込む淡い日の光の下、長椅子に座っていたその人物は立ち上がってイリアナスタを振り向いた。


「どうも」


 軽く手を挙げて挨拶をよこす彼に対し、イリアナスタはふわりと膝を折って一礼する。


「イリアナスタ・ヴィドワでございます。お目に掛かれて光栄ですわ」

「そう畏まらないでください。どうぞこちらへ」


 促されるまま頭を上げ、紫色の絨毯を歩いて彼の元へ歩み寄る。

 長椅子の背に手をかけてイリアナスタをにこやかに見つめるのは、若い男性に見えた。ヒナギクの花粉をそのまま染め付けたような黄色の帽子とマントが目に鮮やかに映る。


「僕はカルロ・カーリィ。神からの使いです」


 イリアナスタは感極まる思いで胸を押さえる。

 彼こそが天からの使者。服の黄色ばかりが目に残り、彼自身の容貌は不思議とはっきり見て取れない。そんなふわふわとした印象が彼の超人性を表しているように感じられる。


 カルロ・カーリィと名乗った使者は再び長椅子に腰を下ろし、イリアナスタにも座るよう手を差し伸べる。


「朝からお呼び立てしちゃって悪かったね」

「いいえ、とんでもないことですわ。ご足労いただいたこちらこそ恐縮しておりますのに」


 再び恭しく頭を下げるイリアナスタに、使者は人なつこい笑い声を上げた。


「僕にそんな気を遣わないでください。ただの使者だ」

「そんな……神の御言葉をお享けになる使者様だなんて、わたくしには雲の上の存在です」

「ダメだよ、今日はあなたのために来たんだから」


 使者の言葉はまっすぐに響き、イリアナスタの意識を澄み渡らせる。唇を結んで使者を見つめるイリアナスタに、彼は穏やかな笑みを向けた。


「イリアナスタ・ニグリア・ヴィドワ。神の賜りし役目をお引き受けください」

「謹んでお受けいたしますわ」


 即答するイリアナスタに、使者はいたずらっぽく小首をかしげる。


「どんな役目か聞かずにうなずいていいの?」

「ええ、神のたもうたものは何であれ喜ぶべきものです。選んでくださったことだけでわたくしには恭悦の極みなのですから」

「……そう。うーん、あんまり純粋に喜ばれると悪い気がしてくるな」


 使者は丸く平たい黄色の帽子を取って、その下の栗色の髪をきまり悪げに掻き回す。


「あなたへの役目は……実際、あなたのような方には苦しいものになるかもしれません」

「わたくしのような者……?」

「謙虚で誠実で、感謝するということをよくご存じだ」


 イリアナスタはかぶりを振った。

 周囲からもこのように行き過ぎた評価を受けることはいくどもあった。だが、自分にはそこまでの価値などないと思っていた。ただ己の手の届く範囲で己を高めようと励んでいるだけ。まことに人々や社会のためになる実力など何も持っていない、単なる小娘なのに。


「わたくしには……あまりにもったいないお言葉です。何の役にも立たぬこの身、せめて神へのお役目が果たせるよう、徳を積むことに励んできただけなのです」

「それも聞いてる。あなたはまだ幼いのに実にストイックだってね。……だからこそあなたが選ばれたのかも」


 使者は黄色い帽子を胸に当て、イリアナスタの金色の瞳をのぞき込んだ。


「あなたが果たすべき役目は――“悪”です」


 イリアナスタは使者の茶色の瞳を見つめ返す。

 さきほどの言葉は正直な気持ちだった。どんな役目であっても、それが自分に与えられたものであれば喜んで務めると。


 全知全能の神は、一人の人間にすぎないイリアナスタには及びもしない考えをめぐらせている。イリアナスタの狭い視野で正誤の判断をするなどとおこがましいことだ。


「他人を利用し踏み台にして、己の富と力を増すことだけに尽力してください。倫理に反することを正義とし、人の苦しみをあなたの喜びとするんです。……難しい役目です。きっとあなたにしかできないからこそ、あなたが選ばれた」


 悪――それは一人の小娘である自分が為すには、あまりにも大いなる役目に思えた。

 だが、荷の重さゆえに投げ出すことなどあってはならない。

 神がイリアナスタを選んだ。使者を遣わしはっきりと任じた。


 イリアナスタはゆっくりとうなずいた。

 そのとき既に彼女は、悪を体現する己の在り方を模索し始めていた。


***


 薄れることのない使者との面会の記憶とともに、イリアナスタは改めて己の任を心に掲げる。

 イリアナスタ本人以外は誰も知らない使命。執事のオスカーすら、使者の用件の内容までは知らされていなかった。


「あの子こそが“善”の体現なのですね。わたくしの使命は――あの子の成功と幸福を奪いつくすこと! 悪を示す最良の方法は善に対抗することだと、重々心得ております」


 イリアナスタは祈りの言葉を口にする。

 そうして気を落ち着けると、ゆっくりと(おもて)を上げる。その美しい貌に浮かぶのは、闇に染まった黒蜘蛛の笑みだった。

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