26. 黒蜘蛛のシナリオ:第四幕第二場
夜も濃くなり、舞踏会は終わりを迎えようとしていた。
フレデリック王子の待ち人はいつまでたっても現れないようで、彼の挙動不審さも時間を経るごとに露骨になっていく。
閉会が近づき、そろそろステージ席に上がらなければならない。にもかかわらず会場中をうろつきまわるフレデリック王子を捕まえてステージに引っ張っていきながら、黒蜘蛛の君は心配を浮かべた顔で尋ねた。
「フレディ、一体どうなさったというの?」
「……あー、その……」
「何を隠しておいでなの?」
「……」
唇を引き結んで視線を逸らす王子は、白状する気がないらしい。
ステージ席に腰かけるや、黒蜘蛛の君は深々とため息をついた。
「……シャルル・クロイツのことではなくて?」
王子がぎくりとする。まさかバレていないとでも思っていたのだろうか。
観念したらしい王子がぽつりと「ごめん」と言った――そのときだった。
「――殿下!」
遠くから掛けられた呼び声に、王子が顔を上げる。そうして沈んでいた表情をパッと輝かせた。
黒蜘蛛の君も王子の視線を追い、二人の人物の姿を見て取った。
一人は濃紺の燕尾服に身を包んだアシュレイ・オーガスト。そして彼が手を引いてこちらに連れてくるのは――シャルル・クロイツだ。
「間に合った!」
嬉しそうに言った王子はすばやく立ちあがると、ステージの反対側に掛けていく。ピアノにもたれかかるようにしてワイングラスを傾けているエルバルドに、興奮した様子で何やら話し始めた。
エルバルドはシャルルの方に目をやって肩をすくめると、グラスをテーブルに置いてピアノの前に座る。黒蜘蛛の君と視線が合って、愉快そうに笑ったのが見えた。
戻ってきた王子は、反対側からアシュレイに押しやられてステージ席に上がってきたシャルルを迎える。
「来てくれると思ってた!」
「あの、ごめんなさい、遅れてしまって――」
事情が呑み込めていない様子のシャルルは、黒蜘蛛の君がいることに気付くや慇懃にお辞儀を寄越す。シニヨンに結った金髪頭のてっぺんに、小さく赤い染みのようなものがついていた。
「あの、私、どうしてここへ……?」
「実はね――」
王子が目をキラキラさせてシャルルの両肩に手を置いた。
「歌を披露してもらおうと思って!」
「……え?」
「だって、舞台に出る話はなくなっちゃっただろ。きみの歌がすばらしいってみんなが知ったら、変な誤解はなくなると思うんだ! ほら、この曲、歌えるよね?」
王子がハミングして曲を聴かせると、シャルルはいまだ戸惑いながらもこくりとうなずいた。
黒蜘蛛の君もまた、その曲を知っていた。その曲を最初にシャルルに歌って聴かせたたのは黒蜘蛛の君なのだ。
よし、と拳を握った王子は、グラスを鳴らして皆の注目を集める。
「――みなさん、本日はお集まりいただき本当にありがとうございました。とても楽しいパーティーでしたが、そろそろお開きにしなければいけません。ですがその前に、僕から紹介したい人がいます」
王子はシャルルを呼んで、ステージの中央に立たせる。
ミントブルーのドレスを着たシャルルは、皆に注目されて居心地悪そうにしている。
「ミス・シャルル・クロイツです。彼女はクデルという町の生まれで、ごく普通の庶民の女の子です。彼女はとても親切で高潔な精神を持ち、そしてすばらしい歌声で人の心を癒す才能に恵まれています。僕は彼女の歌で人を幸せにしたいと願う夢をかなえてあげたくて、この学園に推薦できないかエルバルド先生にお願いしました。エルバルド先生、ジョルドモア学長、そして僕の大切な人――ミス・ヴィドワが彼女を受け入れてくれたことに、心から感謝しています。どうか彼女の歌を聴いてください。出自や血統のような定めにとらわれず、その人が本当に望む生き方が叶えられるべきだと、みなさんも分かっていただけると思います」
王子が合図すると会場の照明が薄暗くなる。
エルバルドのピアノの伴奏に合わせて――シャルル・クロイツは望まれた仕事をまっとうした。
そうして皆が拍手をたたえる中、王子は舞踏会の閉会とイリアナスタ・ヴィドワとの婚約を宣言した。
***
「すごいよね、シャルルは! 本番に強いってエルバルド先生から聞いてたけど、本当にそうだった!」
王子は舞踏会が終わってからずっと浮かれきってで、同じことを何度もしゃべり続けている。
黒蜘蛛の君の寮室で二人きりになってからも、ご機嫌な様子は変わらず部屋中をうろうろと歩き回っている。
「緊張してるかと思ったけど、歌い始めたら別人みたいに落ち着いてた! みんなうっとりしてたよね、本当によかったよ、彼女のことがみんなに分かってもらえて――」
「どうして秘密に?」
黒蜘蛛の君の声の低い調子に、フレデリックはぴたりと口をつぐむ。それから笑顔を弱弱しいものに変えた。
「その、きみは彼女を……良く思ってないんだ、そうだろ? だから……言ったら反対されると思って……」
「隠していれば反対されないと思ったのね」
黒蜘蛛の君はフレデリックの正面に立って、顔を覗き込む。
「ねえ、フレディ、わたくしが本当に気づいていないとお思いなの? 知らなかったのじゃなく、あえて放っておいてあげたのだと、分からないかしら?」
「……イリア……?」
「わたくしはあなたが好きだから、傷つけたくなくて自由にさせてあげているの。でもあなたが平気でわたくしに隠し事をして、不安にさせて、傷つけるというのなら……わたくしも自分を守らざるをえないのよ」
「傷つけるつもりなんてないよ。不安にさせたのは……確かかもしれないけど、でも――」
「傷つかないと思って? 舞踏会で発表することは、わたくしへの愛と婚約への意志だけだと思っていたわ。それが突然あの子を割りこませて、あの子に対する喝采の中でついでのように婚約発表されて、傷つかないと本当に思っていたの?」
フレデリックは、生まれて初めてイリアナスタに責められていた。
彼女の言い分はもっともなことだ。ただフレデリックにとっては、彼女との婚約をあまり大きなニュースにしたくないという一心だった。そのためには別の発表を盛り込めばいいと思って、シャルルに歌ってもらえば彼女の誤解も解けて一石二鳥だと思った。
イリアナスタが気分を害するかもしれないとは――すっかり失念していた。
フレデリックは今までもよく、自分の計画に夢中になることがあった。そのときイリアナスタのことは気にしない。なぜなら彼女は必ず受け入れてくれて、支えてくれると信じていたから。
シャルルを編入させたことだってそうだった。これは最初にした隠し事だったけれど、それでもイリアナスタは受け入れてくれた。
計画が受け入れられなかったのは初めてのことだった。
それは隠し事をしたからなのだろうか。
それとも彼女が、変わってしまったからなのだろうか。
「ごめん、イリア」
フレデリックは率直な思いを口にした。
「ただ、僕は……最近のきみが少し、怖いんだ。今のきみは、なんだか――」
「きみらしくない、と言うのね」
黒蜘蛛の君は一語一語を言い聞かせるように、ゆっくりとささやいた。
「結局、あなたが好きなのはわたくしではないのよ。ただ筋書通りに動く役者がほしいだけ。以前はあなたをすべて肯定する都合のいい人間だったかもしれないけれど、今は勝手な意思を持って、あなたの思惑を外れて動いている。そのわたくしを受け入れられないというのなら……恐ろしいと評すべきは殿下、あなたの方じゃなくて?」
出て行ってちょうだい、と冷たく告げられ、フレデリックは無言のまま部屋を立ち去った。