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21. シャルルと新しい活動

 共通の史学の授業が終わって、シャルルはアンリと一緒に席を立った。

 一瞬、教室内の喧騒がぴたりとやむ。

 シャルルとアンリが黙って教室を出て行く動きを始めると、生徒たちはたわいないおしゃべりを再開する。


 ドアの前近くに立っていた生徒は、シャルルとアンリが近づくとぎくりとしたように道を開けた。


 無言のまま連れ立って廊下を歩いてしばらく、やがてアンリが立ち止まって深々とため息をつく。そうして唐突に、「申し訳ない」と謝った。


「私、やりすぎたよな……」


 アンリは生徒たちからすっかり怖がられるようになっていた。

 それというのも、シャルルをからかったりなじったりする相手に対し、容赦なく反撃するようになったせいだろう。シャルルに関する誤った噂を打ち消すためにはっきり物言いをしてくれるのだが、今にも手を出しそうな剣幕なのが少々問題だった。そのうえ剣術のクラスで実際に相手をこんてんぱんにしてしまったことがあるようで、暴力を辞さない女だと思われてしまったらしい。

 もちろんアンリがルールに則らずに暴力をふるったことなど一度もない。だが、鋭い視線に迫力があるのは確かで、それを突き刺された相手は怯えた猫のように背中を丸めて逃げていく。


 そんなことがあって、アンリに怯える者はシャルルを見ても同じように距離を取るのが今の状況だった。


「人を脅したいわけじゃないんだ。ただ、今までと変わらないといけないと思うと、つい……」


 肩を落とすアンリがなんだかかわいらしくて、シャルルは笑みをこぼす。

 アンリは悪気があってやっているのではないし、行き過ぎであることを自覚してこんなふうに反省もしている。


「これじゃ結局、シャルルに人が近づかなくなってる……」

「大丈夫。アンリが怖い人だって誤解は、わたしが解いてあげるわ」

「ああ……私はいいよ、怖い人で」

「――おい、アンリ!」


 突然、男子の声で呼び掛けられる。


 アンリは声の主を確かめることもなく、シャルルに目配せをすると小走りに駆け出した。

 残ったシャルルの隣を、プラチナブロンドのアシュレイ・オーガストが通り過ぎて行く。


 最近はいつもこうなのだ。アンリの幼馴染であるアシュレイは、アンリがシャルルと連れ立っていると毎度毎度たしなめてくる。

 アンリは黙ってその場を立ち去り、追ってくる彼を撒いたところでしれっとシャルルと合流するのがお決まりのようになっていた。


「……やれやれ」


 しばらくして、どこかを迂回して戻って来たらしいアンリは、肩をすくめて苦笑する。


「すまないね。彼のことは気にしないで」

「わたしはいいけれど、アンリは大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。――でももし、彼がシャルルにも何か言ってくるような教えてくれ。まあ、彼はプライドが高いから、シャルルには頑として話しかけないと思うが」


 アシュレイは庶民のシャルルを相手にしないと決めているらしく、すぐそばにいようが決して視線もよこさない。


 彼が気にしていることは分かっていた。アンリがシャルルの味方をしていることで、黒蜘蛛(くろくも)(きみ)の機嫌を損ねないかが心配なのだ。

 なぜ分かるかと言えば、彼自身がいつも「お前、また黒蜘蛛の君に喧嘩を売るつもりなのか!」と叱りつけるからである。

 「また」という口ぶりからは、シャルルの知らないところでアンリが黒蜘蛛の君とひと悶着起こしたのではないかと疑えるのだが、アンリ本人は心当たりがないと言い張っていた。


 ともあれ、きっとアシュレイはアンリのことをよほど大切に思っているのだ。だからこそ心配している。シャルルはアシュレイにどう思われていようがかまわなかったが、アンリが彼を邪険にするのは少しかわいそうな気がしていた。


「――さて、次の時間は空いてたよな。シャルル、課題やるなら図書館に行くかい?」


 そうだ、とシャルルは手のひらを合わせる。他に考えることがあったのだ。


「私ね、エルバルド先生のレッスンを受けられなくなったから、何か新しいクラブ活動を始めようかと思ってるの。相談に乗ってくれない?」

「ああ、それはいいね」


 二人は学園を散歩しながら話すことにした。

 広い学園の敷地には、シャルルが入ったことのない場所もまだたくさんある。アンリが通っている武道やスポーツの競技場も、シャルルにはまだほとんどなじみがなかった。


「そういえば、学園には劇団はないのかしら?」

「劇団は聞いたことないな……。歌のクラブなら聖歌隊があるよ。教会を覗いてみるかい?」


 アンリの提案に、シャルルは苦笑する。


「聖歌は好きだけれど、聖歌隊には私なんかふさわしくないわ……」

「何言ってる、自分が聖人だって自覚がないのか? シャルルがふさわしくないんなら誰もふさわしくないよ」

「もう、冗談やめてよ」


 本気なのに、と肩をすくめるアンリに、シャルルは小さく息をついた。

 神のために歌うことなど、自分にはできそうもないのだから。


 と、通りがかった玄関棟の掲示板に何人かの生徒が集まっているのが目についた。張り出された掲示を見ては、顔を輝かせて何やら話し合っている。いいニュースがあるらしい。

 好奇心を掻き立てられたシャルルとアンリも掲示板に近づく。

 二人を見るや、妙に大きくたじろいだのは黒蜘蛛の君の侍女のドリス・レイノルドだった。ドリスの反応を見て他の生徒たちも二人に気が付き、例によってそそくさと立ち去ってしまう。ドリスは一瞬の間をおいて自分一人が残されたことに気付いたように周りを見回すと、何も言わずに足早に歩き去った。


「レイノルドを脅したことはなかったはずだが」


 アンリもドリスの妙な態度を察したらしく、自嘲気味にそんなことを言った。


 シャルルには、ドリスが怯えているふうには思えなかった。かと言って以前のように攻撃する意思を持っているようにも見えない。今までの彼女の攻撃的な態度は、自信に裏付けされたものだと分かっていた。自分の価値を信じていられるから――否、信じようとするだけのよりどころを抱えていたからこそ、他者の前に出ることができていた。

 今の彼女の表情は、錨を切り離された船のように不安の波に揺られて見えたのだった。


「舞踏会だそうだ」


 アンリの言葉に、シャルルも掲示に視線を向ける。

 数週間後に、フレデリック王太子の意向で学園の生徒や関係者を招いた舞踏会が催されるという。王太子が留学で世話になった方々に感謝の意を示したいということと、今後に関わる発表を行うと記されている。


「発表って何かしら?」

「婚約だろう――」


 眉をひそめたアンリは何かを言いかけたようだったが、結局口をつぐんだ。


 シャルルも少しだけ気が沈んでいた。

 このところ自分のことにばかりかまけていたが、あれからフレデリック王太子の様子をうかがえていない。黒蜘蛛の君のこともだ。今の二人の関係は芳しいとは言えないはずだったが、果たして婚約に同意ができているのだろうかと、気になり始めてしまう。

 意思に反する大きな流れに、抗えないだけではないのかと。


「うん? 妙な但し書きがあるぞ」


 アンリが今度は露骨に顔をしかめた。

 シャルルも文面を読み進める。そこには、参加者はダンスパートナーとして男女でペアを組まなければならない、と示してあった。


「パートナーなんて……」

「ミスター・オーガストはアンリと組みたいかも」

「私をからかってるつもりじゃないだろうな」

「アンリ、怖い顔になってる……」


 シャルルは苦笑する。やはりアンリは幼馴染の彼を何とも思っていないらしい。


「でも、私こそ組んでくれる人がいない気がするわ。パートナーなしで参加するのはやっぱり失礼かしら?」

「ヒロ・ミーチャムは……いや、こういうイベントに出るとは思えないな。うーん、確かに、人前でペアになるわけだから、頷いてくれる剛毅な男はいないかもしれない」

「アンリに組んでもらおうかしら」

「それが一番マシかな」


 軽口に笑い合い、掲示板の前を後にする。

 パートナーのことは考えておかないといけないと思いながら、シャルルはそもそもダンスが踊れるだろうかと首をひねった。子供の頃にほんの少しだけ習ったことがあったけれど、覚えているかは怪しいところだ。


「ダンスの授業、取っておけばよかったわ。アンリはもちろん踊れるのよね……?」

「踊れるけど、踊る気はないよ。――ああ、そういえばダンスクラブがあったな。先生のところに行ってみる?」


 そうね、とシャルルは笑ってうなずいた。


 付き合わせては悪いからとアンリと別れ、一人でラボリニー講師の部屋へ向かう。本棟の端から中庭に出て建物沿いの通路を通り、教会を通り越したあたりに別棟への入り口があった。

 競技活動や武芸の担当講師は、本棟から中庭を挟んだ向かいにある別棟に事務室を持っている。シャルルは必修の体育のクラスを取っているだけだから、こちらの棟に来ることはほとんどなかった。


 教会の前を通りかかったところで、神学の講師であるファウラー司祭と出くわした。シャルルが「ごきげんよう」と会釈すると、司祭は足を止めて柔らかく目を細める。


「こんにちは、ミス・クロイツ。教会に用ですか?」

「いえ、今日は違うんです」


 苦笑するシャルルに、司祭は軽く頭を傾けて白い顎髭をさする。


「用はなくとも、顔を出してかまわないのですよ。人力の及ばぬ心配事があるのなら、なおのこと」


 シャルルは目をしばたたいてファウラー司祭の穏やかな表情を見返す。

 司祭の授業は編入当初から受けているが、クラス外で会話を交わしたことはなかった。司祭の居室は教会の近くにあり、そして――シャルルはこの教会に入ったことが一度もない。

 司祭はそれを分かっているようだった。


「――先生は、神様とお話をしたことがありますか?」


 シャルルの口から、そんな質問が零れ落ちる。

 司祭はかすかに浮かべた柔和な笑みを絶やさぬまま、静かに答えた。


「神様と直接意思のやりとりができるのは、使者だけであるとされています。我々のような民は、使者に託された御言葉を受け取るのみ」

「では……使者と、お話をされたことは?」

「使者の一人とまみえたことはあります。ですが、ミス・クロイツ、あなたが求めている答えは私の経験などではないでしょう?」


 司祭の静かな指摘に、シャルルは顔をうつむけた。

 言われた通りだった。シャルルが欲している答えは、きっと司祭に詰め寄ったところで得られるものではない。それこそ神と直接、意思をやりとりしなければ意味がないのだ。


「……おこがましいとは、分かっているんです。私が……人の幸福を決めつけてしまっているのだと」


 ぽつりと零したシャルルの言葉に、司祭は何の疑問も呈さなかった。ただゆっくりとかぶりを振り、シャルルの目をまっすぐに見据える。


「それこそが、あなたの信じる己の役目です」


 司祭の浮かべた笑みが諦観をはらんでいることにシャルルは気が付いた。

 僧侶としての身上は修行を積んで得られるもの。司祭はきっと、シャルルのような俗物には至らぬ境地で物事が見えているのだろう。


 一礼して司祭と別れたシャルルは、いっそ自分も、と浮かべだ考えを頭を振って払った。疑いを抱いている自分などが、信仰を説くことなど許されるはずがないのだから。


 別棟に入ってしばらく歩き、ラボリニー講師の部屋を見つけてノックする。

 返ってきた「はい」の声を確かめて扉を開けると、室内の光景にぎょっとする。四方の壁中に鮮やかな色とりどりのドレスが飾られた様が一目で飛び込んできたのだ。あちこちに据えられたマネキンやラックにも派手な布地がかけられ、丸テーブルや机の上には所せましと靴やアクセサリーが置かれていた。


「先生なら授業中ですよ」


 目がチカチカするような光景のどこからか男子の声がする。

 よくよく見渡してみれば、丸テーブルの一つに向かって座った人間の後姿が見つかった。


「あの……」


 戸惑って返事に詰まったシャルルに、声の主が振り向いた。見たことのない顔の男子生徒は、やおら目を丸くすると勢いよく立ち上がる。

 拒否感を露わにした表情は、シャルルには慣れっこになったものだった。これ以上、彼の気を悪くしては申し訳ないとすぐに立ち去ろうとしたのだが――


「正気の沙汰じゃない! なんでオリーブ色を着てるんです?」


 彼は奇妙な言葉を口走ると、テーブルの上を引っ掻きまわして何かの布をつかみ取った。そうしてつかつかとシャルルに寄ってくると、手にした布を押し付けるようにシャルルに渡す。勢いに押されて受け取ったシャルルは、淡いミント色をしたその布を肩のあたりに掲げるようにしたまま、きょとんと彼を見返した。


「――で、何の話でしたっけ」


 何事もなかったかのように話を変える彼の態度に、シャルルは戸惑いを残してはいたものの、少しだけ安心していた。彼はシャルルが“件の編入生”であると認識しているわけではないらしい。否、ひょっとしたら認識した上で悪評を気にしていないのかもしれない。


「ラボリニー先生にお話しに来たんです。ダンスクラブを見学させていただけないかと思って」

「ダンス!」


 彼は再び目を見開いたかと思うと、シャルルの顔をまじまじと眺めまわし始める。


「ダンス用ならもっとジュエリーな素材のドレスがいいかもしれません。うーん、でも、その金髪とグリーンの瞳にはやっぱりパステルが似合う。ミントもいいけど、ラベンダーかサーモンピンクの方がいいかな」


 なるほど、さっきから彼は服飾の話をしているのだ。よく見てみれば、さっきまで彼が向かっていたテーブルにはミシンらしき機械が置いてある。


「ええと……あなたはダンスクラブに入っているんですか?」

「はい、一応。踊るのが好きなわけではないのですが」

「もしかして、ドレスのデザイナー?」

「はい」


 彼は誇らしげに胸を張った。


「ビーモ・バリンといいます。まだ勉強中ですが、これからどんどん名を上げていきますよ」

「ここのドレスも、あなたが作ったんですか?」

「ああ、いえ……これはラボリニー先生の私物です。僕のは今作ってるところで」

「でもすごいわ、おしゃれなドレスをデザインして作るなんて、簡単にはできないでしょう? 自分の夢に向かって頑張ってるんですね」


 シャルルが微笑むと、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。

 シャルルも普段着るものの裁縫くらいはするものの、この部屋に飾られている絢爛としたドレスやアクセサリーなどは逆立ちしても生み出せないだろう。色や素材をどう組み合わせるのが美しいかというのも、自分の好み以上に考えたことなどなかった。


「ありがとう、ミスター・バリン。先生がいらっしゃるときにまた来ますね」

「はい、では、お伝えしておきますね。ええと……」

「クロイツです。シャルル・クロイツ」

「シャルル……クロイツ……」


 名前を聞くや、彼の顔色が変わっていくのが見て取れた。その意味を悟ったシャルルは顔をうつむけて、両手に持ったままだったミント色の布地を静かに突き返す。


「お邪魔してごめんなさい」


 それだけ言い残し、シャルルは足早に部屋を後にした。

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