20. 黒蜘蛛のシナリオ:第二幕
フレデリック王太子は、寮の自室によく友人を招きサロンのように使っていた。せっかく広い部屋を用意してもらったのに、独占しては申し訳ないから――というより、さみしいから、というのが実際の理由だった。王子に新しく宛がわれたルームメイトもまた賑やかな場が好きで、部屋に人が集まると楽しそうにしている。
その日の夕方も、フレデリックの寮の自室に数人の生徒が集まっていた。
黒蜘蛛の君と一緒に、であることはもはや言うまでもない。王子には必ず黒蜘蛛の君が付き従っているのだと、今や誰もがごく自然に思っていた。
本当のところ王子は、一人で行きたいところがあった――否、会いたい人がいた。
シャルル・クロイツのことが気がかりだったのだ。
彼女の歌劇への出演が失格になったことは、学長からの報告で初めて知っていた。どうしてかと尋ねたものの、学長も詳しい事情は知らないのか、何も教えてはもらえなかった。
学生たちの間では、披露した歌の出来栄えが酷かった、彼女が身分不相応な態度だった、などと噂されていたが、王子にはとうてい信じられなかった。シャルルには才能があるし、礼儀だってわきまえている。劇団主宰のマダム・ハンソの人柄ならば、身分を理由に選定を行うことはないとも思えていた。だからきっと、失格になったのには事情があるはず。
懇意にしている音楽講師のエルバルドはそのことを話題にしなかったし、フレデリックが聞いてみても真面目に取り合ってくれなかった。
いっそマダム・ハンソに直談判しようかと思うものの、外出しようとすれば黒蜘蛛の君がついてきて、寄り道を許してくれない。
かと言ってシャルル本人に会うことは、何よりも黒蜘蛛の君が嫌がると分かっていた。
王子の部屋にルームメイトを入れさせたのもそれが理由に違いない。確かに前々からルームメイトが欲しいとは言っていたが、黒蜘蛛の君がそれをかなえる気になったのは、王子が部屋を抜け出さないよう見張らせるためなのだろう。
訳を聞けば、黒蜘蛛の君は目を潤ませてこう答える。自分とて嫉妬をしてしまう、可憐なシャルルにあなたが心奪われてしまわないかと不安なのだ、と。
そう言われると、フレデリックにはどうにもうすら寒い気がするのだった。猫なで声で嫉妬を訴えるなどと、自分の知っている聡明で上品なイリアナスタからはかけ離れた態度だから。
だから――怖かった。
黒蜘蛛の君が本物の悪女になってしまったという、恐ろしい可能性から目を背けていたかった。
それでシャルルのことを心配しつつも、様子を見に行くことができずにいた。
だからこそ、アンリ・コルティーアが訪れてきてくれたのは、王子にとっては嬉しい不意打ちだった。
「ちょっと、あなた……!」
アンリは侍女に制止の声をかけられながらも、部屋の中心に座っている王子と黒蜘蛛の君の前までやって来た。
シャルルの親友である彼女の存在に気付き、王子は思わず顔を輝かせる。
「アンリ、久しぶりだね!」
笑顔で手を振って立ち上がった王子の前、アンリは緊張した面持ちで一礼する。
「ごきげんよう、殿下。おそれながら黒蜘蛛の君にお話しがあってまいりました」
「穏やかじゃありませんわねえ」
椅子にしなだれるように座ったままの黒蜘蛛の君は、アンリを歓迎してはいないようだった。
「そのように怖いお顔をなさって、わたくしに何の御用かしら?」
そう尋ねながらも、黒蜘蛛の君はアンリの用件に心当たりがあるように見えた。
王子はこれまでアンリが黒蜘蛛の君と話す姿を見たことがない。そもそもアンリは友達が多い質でもなく、黒蜘蛛の君と親しい生徒たちともほとんど交わらないようだった。
そんな彼女がわざわざ出向いてきたということは、よほど重要な用事なのだろう。
ひょっとしたら――彼女の親友の話なのかもしれない。
フレデリック王子は口を挟みたい気持ちを抑え、一歩下がってアンリと黒蜘蛛の君を見守った。
「シャルル・クロイツの歌劇の件は、もちろんご存じですね?」
「あの子が失格になったというお話ならば、学長先生からうかがいましたわ」
「理由はお聞きになりましたか?」
「いいえ」
「なぜです?」
「なぜ、それを聞く必要があるのかしら?」
「聞く必要がないのは、理由をご存じだからですか?」
黒蜘蛛の君が肘掛けに頬杖をついて、アンリを見返した。
「マダム・ハンソが下されたご裁定に、わたくしのような若輩者が疑問を呈するなどとおこがましい真似はいたしかねますもの。あなたはそう思わないようですけれど」
「私が疑問を呈する相手はマダム・ハンソではありません。――あなたです、黒蜘蛛の君」
フレデリック王子にも、アンリの視線に攻撃的な色が含まれていることははっきり分かった。
話題は王子の期待した通り、シャルル・クロイツに関するもの。王子にとっても知りたい内容であるのは違いないが――二人が会話を交わす雰囲気は、予想を遥かに超える鋭さをはらんでいた。
「審査の場にいらしたかたから、事実起こったことをうかがいました。エルバルド先生と同じく教え子を推薦した国僚の御仁が、シャルルが集団教育を受けていることを理由に失格を申し立てたそうです。かの御仁は劇団への出資をとりはかっておられるため、マダム・ハンソもその主張を無下にすることはできなかったのだろうと。――あなたは、その御仁と親しくされているそうですね、黒蜘蛛の君」
王子は目を丸くしてアンリを見つめる。
歌劇に教え子を推薦した官僚と言われて、ジルエ卿のことが頭に浮かぶ。彼はエルバルドのことを敵視しているし、確かに――イリアナスタとは親しい。彼女が王城に来たときには、ほとんど必ず楽しそうに会話を交わしていた。
黒蜘蛛の君は目を細めて笑った。
「あなた、あちこち嗅ぎまわったのですわね。まるでアベーラの無罪を証明しようとしたアントン・ブレイのよう」
「ご冗談は無用です」
「それで? シャルルを失格とするために、わたくしがその御仁を差し向けたとおっしゃりたいのかしら? ずいぶんと話が飛躍しているように思えますけれど」
「ご自分は何の関わりもないと、断言なさいますか?」
アンリは明らかに黒蜘蛛の君を疑っている。
黒蜘蛛の君は疑われているのを分かっていて、挑発的な口を利いている。
イリアナスタのこんな様子は、フレデリックには初めて見るものだった。
「わたくしから言質を取ろうというのかしら? あなたも困った子ですわね」
と、アンリの背後に駆け寄る者の姿があった。
「――アンリ、何をしている!」
王子の新しいルームメイト、アシュレイ・オーガストだった。先ほどまで部屋にはいなかったはずだが、いつのまにか話を聞いていたらしい。
彼はアンリの腕をつかむと、焦った表情で黒蜘蛛の君の前に出る。
「ご無礼をお許しください、黒蜘蛛の君」
彼はアンリの幼馴染なのだ。部屋が一緒になってからは彼とよくたわいないおしゃべりを交わすのだが、アンリについて話す口ぶりからは、家族に向けるような愛情が感じられる。
そして黒蜘蛛の君については――いつも、畏れをはらんだ物言いをするのだった。
邪魔をするなと言いかけたアンリを、アシュレイが強引に黙らせる。
黒蜘蛛の君は肩をすくめて、猫を追い払うように手を振って見せた。
「確かな証左もなく人を糾弾するなど、侮辱と受け取ってもいいのだけれど、特別に許して差し上げますわ。お下がりになってよろしくてよ」
「私はただ、事実を明らかにしたいだけです! シャルルが負うべき責めなどどこにもない! 彼女は学園に受け入れられ、チャンスを与えられるべきだとお認めになってください――」
「黙れ、アンリ! 失礼いたします、黒蜘蛛の君、……殿下」
アシュレイに連れていかれようとするアンリに、王子は声をかけようとした。
だが先に呼びかけたのは黒蜘蛛の君の方だった。
「聖者に罪を負わせた兇女アベーラ。せっかくあの子にふさわしい役でしたのに、残念ね」
部屋を出ようとするアンリが振り向いて、眉根を寄せる。
彼女に向かって黒蜘蛛の君はにっこりとほほ笑んだ。
「ミス・コルティーア、あなたも煉獄に堕ちることにならないといいけれど」
王子は思わず動きを止め、イリアナスタの笑顔を見やった。
再び部屋の扉に目を向けたとき、アンリたちの姿は消えていた。
「……あんな言い方することないだろ」
静まり返った部屋の中、王子はぽつりと言った。
「アンリの言う通り、本当のことをみんなに知ってもらうべきだよ。失格になったのはシャルルに責任があるって、変な噂が広まってるんだから――」
「フレディ、あなたもわたくしを責めるの?」
黒蜘蛛の君が立ち上がって、王子に体を寄せる。手を取られて持ち上げられ、指に彼女の白くすべらかな頬が触れた。
「彼女をこの学園に受け入れたのはわたくしですことよ。そのわたくしが、彼女の夢を妨害するような真似をすると本当にお思い?」
「そうじゃ……ないよ。きみが悪いなんて言ってない。でも、シャルルの件は誤解を解いておかないと。そうだろ?」
「心配なさらないで。あの子にはミス・コルティーアがついているんですもの」
黒蜘蛛の君の金色の瞳に、正面からのぞきこまれる。
「フレディ……あなただけは、いつもわたくしの味方よね?」
その目の色も声の響きも、フレデリックには恐ろしく感じられるだけだった。
***
ドリスは心細かった。
心細い、という感情が先に生まれ、その後でいったいなぜだろうと思考が動き出していた。
いつもと変わらないはずだ。いつも通り学園で過ごし、週末には家に帰って、学校に戻ってくれば慕っている黒蜘蛛の君の後を付いて回る。
そうじゃない。いつもと違うのだ。
黒蜘蛛の君の隣にはフレデリック王太子がいる。二人を囲むように――二人とドリスの間に、いつも以上に大勢の生徒がいて、ドリスは遠くへ追いやられている。黒蜘蛛の君のそばに置かれることを許された数少ない“侍女”だったはずが、今はまるで群衆の中の一人。
ドリスは黒蜘蛛の君から遠ざかっている。だからこんなにも寂しく、心細い。
遠ざかっている、あるいは――遠ざけられている?
そんな思いが胸中に生まれると、ドリスの寂しさは不安と恐怖に転化していく。
自分は黒蜘蛛の君に寵愛されていない。むしろ疎まれているのではないか。今までは彼女の庇護のもとにいたけれど、もし見放されたとしたら、いったいどうなってしまうのか。
黒蜘蛛の君なしで学園生活を送ることは、丸腰で戦場に放り出されたような心持がしていた。思い込みだろうと分かってはいても、周りの誰もがドリスのことを見下しているような気がしてしまう。それはきっとドリス自身が、今まで「黒蜘蛛の君の威を借って調子に乗っている」と自覚していたからであろう。
こんな状況になると信じられないことに、あのシャルル・クロイツのことが立派に見えてきてしまう。
今のドリスと同じ味方のいない状況に、彼女はずっと置かれ続けていた。控えめな態度といえばそうだけれど、それでも今のドリスよりずっと堂々としていたように思える。
違う。彼女には味方がいるのだった。
アンリ・コルティーアがずっとそばにいた。
歌劇への出演を失格になった件で、シャルルにはまた悪い噂が立っていた。シャルルは例によって肯定も否定もせずに黙っていたが、どうやらアンリが悪評を消そうと立ち回っているらしい。
ドリスには噂の真偽は分からないし、そこには興味もなかった。ただ、シャルルには支えてくれるアンリがいて、アンリには守るべきシャルルがいるという関係を――うらやましく思っているのかもしれなかった。
自分も黒蜘蛛の君を支えているつもりだった。だから黒蜘蛛の君もドリスを支えてくれるのだと思っていた。
「――ミス・レイノルド」
テラスの端に座って遠い目をしていたドリスは、突然声を掛けられてぎょっとする。
いつのまにかローザが背後に立っていた。
「な、な、なんですの? 脅かさないでちょうだい!」
「何をぼんやりご覧になってたんです?」
「なんでもありませんわ!」
視線の先を追われて、ドリスはあたふたと立ち上がる。向こうに座っているシャルルたちを遠巻きに眺めていたとは気づかれたくなかった。
何の用だと訊き返そうとして、ローザのこちらを小馬鹿にしたような薄ら笑いに向かい合う。
そうしてふと、ローザはどう思っているのだろうと考えていた。
「……黒蜘蛛の君は、どちらにいらっしゃるかしら」
ぽつりと呟くドリスに、ローザは小首をかしげる。
「さて。殿下とランチをとられているのでは?」
「付いていなくていいの?」
「私がそれをお聞きしたかったんです。よろしいんですか? いつも尻尾を振って付いて回っておいででしたのに」
ローザの揶揄めいた物言いに、むっとするよりも気落ちする方が勝っていた。
いいのだろうか、という疑問は、ドリス自身の頭をぐるぐるとめぐり続けているのだから。




