18. 黒蜘蛛のシナリオ:第一幕
予想外の事態に、エルバルドは額を押さえる。
マダム・ハンソの仕切りのもと、歌劇の出演候補として集められた四人の少女が順番に歌を披露していた。
競争相手の三人の実力は決して予想を超えるものではなかった。官僚のジルエが偉そうな口を利いていた通り、彼の連れていたミス・シャゴールは確かに声量も声の艶も優れていたが、本調子のシャルルならば敵わない相手ではない。
だがそれは、エルバルドだけが知っていればいいことだった。
今回は飽くまで参考としての披露会であり、よほど話にならない出来でなければ失格を言い渡されることなどない。シャルルも今ここで完璧なパフォーマンスを見せる必要などないのだ。むしろ今の段階では、期待できない娘だと思われていた方がいい。だからこそ準備をさせないよう当日になって急に呼びつけたわけであるし、身なりもいかにも庶民らしく見えるようにさせた。馬車の中で練習もほとんどさせなかった。
いつも通りにやれとは言ったものの、生真面目なシャルルがそれを鵜呑みにしてリラックスできるはずはない。学生以外の貴人の前で歌うのは初めてなのだし、緊張して失敗するだろうと思っていたのだが――そうはいかなかったらしい。
サロンの奥にある低い壇上に立ったシャルルは、初めのうちは顔をこわばらせていた。だが目を閉じて深呼吸をし、数秒間動かなかったかと思うと、うっとりするようなきめ細かなソプラノを発声したのだ。エルバルドの知る限り、すべての訓練を合わせても最高の歌声である。ささやかながらも舞台に立ったということで、集中力が今までになく研ぎ澄まされているらしい。
こうまで本番に強いとは期待していなかった、とエルバルドは小さくため息をつく。こんなことなら正直に声を抑えてくれと頼んでおくべきだった。
そうは言っても、シャルルは自分が競走馬にされていることを快く思わないだろうことは分かっていた。余計なことを気にしてパフォーマンスが落ちたり、土壇場で辞退すると言い出されたりしても困る。
しかしシャルルの実力が既にミス・シャゴールに匹敵することは明らかになってしまった。むしろシャルルの方がみすぼらしい恰好をしている分、より歌だけが優れて見えることだろう。
ただでさえエルバルドの馬というだけで事前期待が上がってしまっている。本命を期待通りに勝たせるなどという、つまらない上に儲からないことはしたくなかったのに、これでは結局シャルルも本命になってしまう。
エルバルドは顔を上げ、舞台の上で大きな拍手を浴びているシャルルの恐縮した立ち姿を見やる。
――まあ、これはこれでいいことにしよう。
エルバルドに分不相応な対抗心を抱いているジルエ卿は、きっとシャルルを妨害するような手を打つだろう。その無駄な抵抗をいなして勝ってやるとすれば、それほどつまらなくはないかもしれない。
と、エルバルドが思った矢先。
「実にすばらしい。さすがはフランシス・エルバルドの教え子ですな」
わざとらしくゆったりとした拍手を響かせながら壇上に歩み寄ったのは、やはりジルエだった。今日初めて会話したときよりも妙に余裕のあるそぶりである。
エルバルドが黙って様子を見ていると、ジルエは得意げに言葉を続けた。
「いや、一概にそうとは言えぬかな。なにしろこの娘は庶民ながら名門ブルクリアス学園に通っておいでだ。たいそう真面目な生徒だと、評判は聞いているよ」
エルバルドは眉をひそめ、立ち上がってジルエに言い返す。
「何が言いたい? 確かに彼女は学校に通っているが、声楽を指導しているのは私一人だ」
「そう言い張るだろうと思っていた!」
ジルエは鬼の首を取ったように勝ち誇った面持ちで、エルバルドに人差し指を突き付けた。
「そんなことを誰が証明できる? 彼女は学園で生活しているのだ。いくらお前以外の授業を登録していないと主張したところで、まことに他の講師から助力を受けていないかは分かるものか。現に彼女の歌は非常にすばらしい。それが学園ぐるみでの訓練のたまものでないとなぜ言える?」
反論の道理が思い浮かばないエルバルドは、深々と息をついた。
壇上では事情の呑み込めないシャルルが、ジルエとエルバルドを見比べてうろたえている様が見えていた。
人々がざわめく中、ジルエは舞台の正面に腰かけているマダム・ハンソに歩み寄る。
「マダム・ハンソ、どうかご裁定を。明らかにこの男は基準を逸脱しています。皆様の大切な財産をお預かりするのです、このような無法を認めるなどとうてい許されるものではございません」
無理もないことか――と、エルバルドは既に観念していた。
マダム・ハンソはおもむろに腰を上げると、優雅に壇上に登り、所在なげにしているシャルルにフロアへ戻るよう促す。そうしてこの場の全員に向かって、落ち着いた声で言った。
「ジルエ卿のご指摘には充分な道理があると判断いたします。舞台に立った経験のない十代の娘を、一人の指導者によって訓練することが条件。この条件は賭けに参加される皆様に合意いただいたものであり、これを明確に満たす者のみを認めるのでなければ成立いたしません。事実がどうあれ、不審の種を抱えることこそが問題でございます」
「ごもっとも、おっしゃる通りです」
ジルエが満足げにうなずき、してやったりという目つきでエルバルドを見やる。
「ここにいる四名の中で、学校での集団教育を受けている者はミス・クロイツのみ。ついては、彼女を失格とせざるをえません。エルバルド卿、異存はございませんね?」
「ありませんよ」
エルバルドは肩をすくめ、壁際に呆然とたたずんでいるシャルルを手招く。
もうこの場に用はない。
「――また別の馬を見繕いますよ。今度はいちゃもんをつけられないよう、せいぜい気を付けるとしましょう」
エルバルドはそれだけ言い残し、劇場を後にした。
***
「……ごめんなさい、先生……」
帰途の馬車の中、劇場を出てからずっと無言だったシャルルがぽつりとそんな言葉を口にした。
エルバルドは特に状況の説明をしてはいなかった。シャルルからの質問がなかったからだ。だが聡明な彼女のこと、ジルエやマダム・ハンソの口ぶりからおよその事情は把握したに違いない。
エルバルドは軽く手を振って応える。
「きみが謝ることなんて一つもないよ。よくやってくれたからこそ、ジルエは敵わないと思って降ろさせたんだ。まあ、今日失敗してたとしても、本番で勝ってたらどうせ同じ文句をつけられたんだろう。この段階ではっきりしただけよしとするかな」
由緒ある年始の舞台に経験のない演者を起用することは、表向きには“若者にチャンスを与えるため”とされている。だがその裏では、誰の育てた若者が役を勝ち取るかという貴族間での賭博が行われているのだった。
これは芸術界隈にかかわる一部の貴族や官吏のみの催しであり、一般市民はもちろん王家にも知られてはいない。マダム・ハンソの劇団が大きな力を持つのは、この賭博興行によって大きな利益を上げているからでもあった。
“競走馬”にされた若者にとっても、チャンスであることには違いない。賭けに参加するのは業界で影響力の高い貴族らであり、たとえ勝ちはしなくとも、彼らに実力を知らしめる機会に他ならない。エルバルドの教え子が出世を果たすという評判も、彼がこの賭けに教え子を出場させているのが一因であった。
エルバルドは平然とした態度を保っていたが、シャルルはまだ憂いを含めた視線を膝の上に落としている。
「……条件があること、先生は私に気を遣って内緒にしてくださってたんですよね。私が……いつも余計なことに気を回してしまうから」
今こそまさに余計なことを気にしている、と頭に浮かんだ言葉をエルバルドは口に出さなかった。
シャルルの出場はマダム・ハンソが認めないと断じた。決まってしまったのは仕方がないのだから、エルバルドは次の候補者をどう見つけるか考えることに集中したかった。
確かにシャルルが掘り出し物だったのは違いない。才能豊かであることはもちろん、庶民という出自が注目を集める。学園でも王子や黒蜘蛛の君に特別視されるシャルルが、奇妙な魅力を持っていることは確かだった――
黒蜘蛛の君か、とエルバルドは目をすがめる。彼女がジルエと親しくしていたことを思い出していた。
「……それはそうと、私の方が謝らなくちゃいけないかな。ミス・クロイツ、きみは残念ながら舞台に出られないことになったが、私は舞台に出る娘を見つけて育てないといけない。きみの個人レッスンには時間を割けなくなるということだ」
エルバルドは特段、罪悪感めいたものは覚えていなかった。もとよりレッスンをする取り決めなどしていないし、例の舞台に出すことが目的だとはあのこうるさい学長にも――賭けの件は除いて――伝えてある。舞台に出る権利がないということは、訓練を行わない理由として充分すぎるだろう。
シャルルがどう感じるかは気にも留めていない。生徒との関係は何も情によって結ばれたものではないのだから、気持ちを慮ってやろうなどとエルバルドは発想すらしたことがなかった。
「別に学園を追い出すわけじゃないから、まあ他のクラブ活動でもするといい」
エルバルドが言うと、シャルルはようやく顔を上げ、小さく微笑みうなずいた。
***
ローザはテラスに座って外を見ていた。週末の朝と日暮れはいつも、学園の入り口が見えるこの場所にいた。出入りする人の流れを観察していると、今の学園で誰がどんな状況に置かれているのかがうかがえてくる。
今日は、シャルル・クロイツがエルバルドと連れ立って学園に戻ってくるのを目撃した。
庶民の編入生が社交界の注目する舞台に推薦されるという話も聞いている。二人で外出していたのもこれに関する用だと容易に想像できた。きっと何かの会合に参加してきたのだろう。
ローザは自分が狡猾であると知っている。自身のことを誰にも知らせず、他人の内情を一方的に把握するのは楽しかった。
人というのは自己中心的なもので、己の視界の外で誰かが目と耳を澄ませていても気づきはしない。自分だけの世界にいると思い込んで見るに堪えない内面をさらけ出し、人に指さされ笑われているとも知らずに幸せな顔をしている。
そんな滑稽さは、外から見ているローザだけが楽しめばいいもの。
黒蜘蛛の君に付き従うのも、楽しめることが理由だった。一年生のローザであっても黒蜘蛛の君の側にいれば学園内の人間関係がおおよそ把握できる。おおまかな関係を知っていれば、ささいな情報を見つけたときにもつながりが推測できるものだ。
このところは、黒蜘蛛の君の動向がややつまらなくなっていた。フレデリック王太子にばかり集中していて、以前のように“侍女”になりたがる者を付き従えることがない。アリヤが編入生の情報を持っていったところで、興味がないといった顔に聞き流されるばかりだ。
ドリスなどは黒蜘蛛の君と王子が仲睦まじくしているのを見物してうっとりとしているが、ローザには人の色恋沙汰に少しの楽しみも見いだせない。黒蜘蛛の君の王子に対する感情は色恋などではないのだろうと察してはいるものの、黒蜘蛛の君本人は本心を誰にも見せるつもりがないようだった。
ならば、と思っていた。黒蜘蛛の君の注意がおろそかになっている隙に、あの編入生が権力を握ってしまえば面白いのに、と。
だが、あの様子では――とローザは階下を歩くシャルルを見つめる。
玄関棟に向かうエルバルドはいつになく正装のコートを身に着けている。シャルルもいつもより多少はみすぼらしく見えないワンピース姿だったが、その表情は浮かないものに見えた。エルバルドからやや距離を置きうつむいて歩いている様子も、決して元気そうには見えない。
どうもシャルルにとって喜ばしくない事態が起きたらしい。まあ、それはそれでおもしろい事件の引き金にはなるだろう。
件の舞台についてローザも詳しいことは知らないが、ひねくれ者のエルバルドが絡んでいる時点できな臭さは感じていた。由緒ある劇団に認められるなどというつまらないことが、エルバルドにとって興味を惹くものとは思えないから。
二人が建物内に姿を消すのを見届けながら、ローザは背もたれに体を預けて考える。やがておもむろに腰を上げ荷物をまとめるとテラスを出た。
曲がり角から学長室のある廊下を覗いて見ると――果たして、エルバルドとシャルルが室内に入るところだった。
扉が閉まったのを確認してから、ローザは何食わぬ顔で廊下を歩き、部屋の前で足を止めた。
***
アリヤはすっかり高揚した心持だった。
なにしろ自分の言う通りになったのだ。
先ほど声楽の授業で、学生の一人がエルバルドに「ミス・クロイツの審査結果はどうだったのか」と質問をした。アリヤは知らなかったが、週末のうちにあの女は、例の舞台の出演に向けて劇団主宰のマダム・ハンソに審査されてきたらしい。
エルバルドの返事たるや、溜飲が下がる以外に言いようのないものだった。
「ああ、あの話はなくなったから、もう気にしないで」
アリヤはたまらず立ち上がり、エルバルドに指を突き付けた。
「だからご忠告しましたのに! やはりこんな女、マダム・ハンソに認められる器量ではなかったのですわ!」
高らかな声で指摘するアリヤに対し、エルバルドはろくに取り合おうとしなかった。
「わかったから座りなさい。もう学校でこの話はしないことにしたから」
エルバルドの様子は平然としたものだった。いつも人をバカにしたようなエルバルドに負けを認めさせたい気持ちはあったものの、肩を縮こまらせうつむいているあの女の後ろ姿を見ていたら、もう充分だとも思える。あの女に媚びを売っていた軽率な生徒たちもざわめき、失望の色を浮かべているのは明らかだった。
アリヤが正しかったのだ。頑固なエルバルドは認めなくても、他の皆が認めている。
授業が終わってから、アリヤは跳ねるような足取りであの女の前に躍り出た。
「いい気になっていたことをさぞ後悔しているでしょうね!」
アリヤの声につられて他の生徒たちも寄ってくる。以前、階段でおしゃべりをしていた女生徒が、黙っている編入生に向かって質問した。
「ねえミス・クロイツ、失格になったってこと? 本当に?」
編入生は答えない――と思いきや、ふと顔を上げると尋ねてきた相手を見てかすかに微笑んだ。
「ええ、本当よ。マダム・ハンソがお決めになったの」
アリヤはこの女がまともに口を利いているのを初めて目にする気がした。
「それがあなたの実力ということですわね。エルバルド先生の色眼鏡でなく、正当な評価が下されたのよ。考えれば当然のことですわ、他の候補者はきっと家柄の正しいまっとうな方々だったのでしょう」
アリヤの言葉に、集まった生徒が納得したようにうなずき合う。
別の生徒がまた質問する。
「でも……来年はまた挑戦するのよね? 先生があなたの編入を推薦したのって、舞台のためだったのでしょう?」
編入生は軽く目を伏せると、かぶりを振った。
「いえ……たぶん、私はもう無理なの。少なくとも学園にいる限りはダメみたい……」
それ見たことか――とアリヤは内心で何度も何度も叫ぶ。あまりにもアリヤの思い通りの返答だった。
「あなた、ご自分のしでかしたことが分かっておいでなの? 先生はもちろん、この由緒ある学園にまで泥を塗ったということでしょう? よくもぬけぬけとこの場にいられますわね。エルバルド先生に見放されれば、あなたが学園にいられる理由なんてもうありませんのよ。あらためて身の程を自覚して、荷物をまとめて退学なさるのが殊勝な態度じゃなくって? ――あら、わたしがこんなこと言うまでもなかったかしら。皆が同じ思いだということをきちんと理解なさいね。じゃ、ごめんあそばせ」
アリヤは笑みをこらえきれずにまくしたてると、軽い足取りで音楽教室を後にした。
皆もきちんと理解するはず。あんな女が学園に居続ければ、この学園の品位が落ちていくことは必至なのだから。
きっとヒロだって目を覚まして、あの女から離れるに違いない。
アリヤは踊るように廊下を歩いていた。
誤字報告ありがとうございます。助かります。




