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17. シャルルと審査

 きっかけはおそらく声楽の授業で、シャルルが歌劇に出演するよう推薦しているとエルバルドが告知したことだ。あれからというもの、今まで目も合わせてくれなかった同級生たちがシャルルに声をかけてくるようになった。

 どうやら例の舞台に出るというのは、シャルルが考えていたよりずっと名誉なことらしい。


「エルバルド先生は立派な音楽家を育てるかたとして有名なんですって。アンリ、知ってた?」


 夕食後、寮室で課題に取り組むそぶりをしながら、シャルルとアンリはたわいない話をしていた。レッスンの話をしていてふと思い出したシャルルがそう尋ねると、アンリは苦笑する。


「私は芸術に疎くてね……。でも、エルバルド先生が一目置かれてるふうなのは知ってるよ。元王室付きだったってこともあるけど、指導者としても実績があるんだね」

「そうみたい。その先生が、例の舞台に学園の生徒を推薦するのは初めてなんですって。だから……正直なところ、私には役が大きすぎる気がしていて……」


 シャルルは歌が好きだけれど、審美眼が優れているわけではない。客観的な技術の巧拙よりも、自分自身が気持ちよく歌えているかどうかでしか良し悪しが判断できなかった。のびのびと声が出ていると満足して終わればエルバルドも嬉しそうにしていて、何かずれたような気持ち悪さが残るときにはエルバルドも露骨に渋い顔をして「今のは最悪だった」とストレートな感想をぶつけてくる。

 だから、自分の歌が本当に認められるべきものであるか、確かな自信は持てなかった。


「役だなんて、意識する必要ないさ。自分が満足できるようにただ精一杯やればいいと思うよ」

「そう……かしら。でもエルバルド先生が私を選んでくださったことは、いつでも念頭に置かなくちゃいけないと思うの。そうでなければ、私がこんな機会を得られることもなかったんだもの」

「あいかわらず、馬鹿正直だね」


 呆れたように言いながら、アンリは柔らかな笑みを浮かべる。


「そういうところがシャルルの光の源なのかもしれないな」

「光?」

「うん。シャルルは光に包まれてる。人を惹きつける温かな光だよ。学長やエルバルド先生や王太子殿下やヒロや、見える人には見えるんだ。私みたいな虫も引き寄せられるけど」


 頭に手を当てて触角のように動かして見せるアンリに、シャルルはくすくすと笑う。


「最近ようやく、他の連中も気づき始めたみたいだよな。声をかけられるだろう?」

「ええ、音楽の授業で一緒の方々は特にね、よくお話ししてくれるようになったの」

「もっと早くそうなるはずだったんだよ。黒蜘蛛(くろくも)(きみ)に邪魔さえされなければ――」


 黒蜘蛛、の言葉にシャルルは顔を曇らせる。


 彼女のことが心配だった。


 王太子に貼りついている黒蜘蛛の君は、どうやら他のことに今までほど手を回せていないように思えた。シャルルに構うこともそうだが、それ以上に――生徒たちへの精神的な支配という点で。

 今、シャルルに声をかけてくるようになった生徒の中には、黒蜘蛛の君への快くはない感情をあらわにする者が少なくなかった。今まで彼女を恐れるがゆえにシャルルのことを忌避してきたのだとしたら、その恐怖感が薄れていることの証左に違いない。

 侍女のドリスやローザでさえ、以前はシャルルを見かけるたびに攻撃的な挨拶をしてきていたのが、このところはほとんど声をかけてこない。それどころかローザはどことなく丁寧に会釈をしてくるし、ドリスは目を合わせてきたかと思うと慌ててそらすことが多くなっていた。


「……黒蜘蛛の君が最近は邪魔をする気がないということなのかな」


 アンリも同じことに思い至ったようだが、嬉しそうな口ぶりだった。それが当然の反応なのだろうと、シャルルには分かっている。


「シャルルに構うのをやめて、王子一筋になったのかな。まあこの学園のトップでいるより、女王になる方が大事ということか」


 そうなのだろうか、とシャルルはうつむく。

 黒蜘蛛の君は今までずっと、抜け目なく学園を支配してきたはず。まだ在学中であるのに、自身の影響力を弱めることをよしとするものだろうか。単なる彼女の手落ち――隙なのではないのだろうか。


「シャルル?」


 アンリに呼ばれて、シャルルはハッと顔を上げる。


「どうした?」


 心配そうに顔をのぞきこまれ、シャルルは慌てて笑顔を作った。


「ううん、なんでもないの。ちょっと……今日は疲れたみたい。課題やるのは明日にしようかな」

「ああ……そうだね。どうせおしゃべりしていて進まないし」


 肩をすくめて苦笑するアンリに、シャルルも笑ってうなずいた。

 アンリは黒蜘蛛の君を心配する理由などないし、その必要もない。

 きっとシャルルだけだから。


***


 次の週末の午後、シャルルはエルバルドに連れられ馬車に揺られていた。

 いつになく刺繍飾りのついたコートを着て、タイまで締めた正装姿のエルバルドは、国立劇場で用があるからと突然シャルルを呼んだのだ。

 シャルルもきちんとした格好をすべきかと聞いたところ、エルバルドは「大した用じゃないからそのままでいい」と言いつけた。せめてと言ってアンリが結い上げてくれた髪も、着飾る必要はないと言うエルバルドにぐしゃぐしゃと崩されてしまった。

 そうしてシャルルは急に出かけることになったのだった。


「――あの、先生? どのような用事があるのか教えていただけませんか?」


 シャルルが意を決して尋ねてみると、向かいに座ったエルバルドは案外あっさりと返事をよこした。


「アントン・ブレイの顔合わせだよ。そろそろ共演者との稽古もしないといけないからね。アベーラが出るのはほとんど単独の場面だけど、アントンと二人の曲もあるから」


 予想外の説明に、シャルルは硬直する。

 アントン・ブレイとはシャルルが出演を“推薦される予定”の歌劇の演目である――という認識だった。すなわち、まだ出演が決定しているわけではないのだと。

 シャルルの困惑を悟ったように、エルバルドは軽く笑った。


「ヒロインのアベーラ役候補は何人かいるんだが、稽古は全員やるんだよ。本番に誰が出るのかは直前に決まる。今日は関係者とヒロイン候補者が集まって、まあ、中間発表といったところかな」

「……それはつまり、歌をお聞かせするということですか?」

「うん」


 エルバルドのあまりに軽々しい物言いに、シャルルは思わず額を押さえた。

 つまり、舞台の関係者の前で訓練の成果を披露するということなのだ。いったいどうしてこれを「大したことじゃない」などとのたまえるのか、理解ができなかった。


「……先生、私……それでしたら、せめて午前中に調子を整えておきたかったです……」

「なんだい、別に本番じゃないんだから、適当にやればいいんだよ」

「でも私が期待外れだったら、先生の面目が立たないのではありませんか?」


 シャルルはエルバルドの名前も、ブルクリアス学園の名前も背負って立っているのだ。生半可なパフォーマンスなど見せるわけにはいかないのではないか。

 緊張を増すシャルルに対して、エルバルドは飽くまで平静を崩さない。


「世話してもらわなくても自分の面目は自分で立てられる。きみは自分のやるべきことだけ考えてればいいんだ」


 ――確かにそうかもしれない。シャルルが気にしても仕方のないことはある。エルバルドだってきっと考えがあってのことなんだろうから。

 シャルルは深呼吸をして気持ちを切り替えることにした。


「歌うのは序幕の曲でしょうか?」

「どうかな、違うかもしれない」


 エルバルドはどうにも詳しい情報を与える気がないらしい。それはそうだろう、準備万端にさせるつもりだったらもっと早く今日の話をしていてくれたはずなのだから。

 仕方なしに、シャルルは今まで覚えた曲目を思い出していく。


 アントン・ブレイのシナリオは図書館で読んであった。


 遊行僧のアントンは、旅の途中に山中で一人の女が行き倒れになっているのを発見し、仮寓先に連れて行って介抱する。近隣の町人から、主人を殺した小間使いの女が逃げているとの噂を聞き、人相書きから彼女がその罪人アベーラであると気づく。

 目を覚ましたアベーラは、事情を尋ねるアントンに対し、自分は罪人であるから死んでもよかった、本当はナイフで自分の喉を切るべきなのだがその勇気がなかったのだと語る。アベーラの丁寧で謙虚な物腰や、深く後悔している様子を見たアントンは、彼女が極悪非道な人間と思えなかった。それで真実を突き止めようと、彼女が犯したとされる殺人の背景を調べ出す。


 天使と悪魔に導かれたアントンは、アベーラの殺人は、実父から凄惨な虐待を受けていた子供を守るためだったと知る。追いつめられた子供が自衛のために父親を攻撃しようとしたのを目撃したアベーラは、子供に血族殺しの大罪を犯させるわけにはいかないと自分が代わりに刃をふるったのだ。

 一方のアベーラは、いかなる事情でも罪は罪に変わりないと信じていた。咎人の自分が聖者たるアントンにこれ以上の心労をかけるわけにはいかぬと決心し、とうとう自害を果たす。


 アベーラの深い悔悟の心を知ったアントンは、彼女の罪は私利私欲の殺人と同等に罰せられるべきではないと心を痛める。そうして天使と悪魔に彼女の罪を贖いたいと訴え、彼女の罪を減らす代わりに自分自身も煉獄に堕ちる。


 一般的には悲劇と呼ばれる話だが、アントンの手によってアベーラが救われたことを強調したり、煉獄に堕ちたアントンも神の手によって救われると言ったアレンジが施されることも多い。


 エルバルドにどう思うか聞いてみたときにはこんな答えが返ってきた。

「人間臭いアベーラと聖人のアントンが対照的でおもしろいね。アベーラは罰が怖いからってなかなか死ねないのに、アントンはあっさり死ぬことを選ぶんだから」


 シャルルにとっては、ひどく考えさせられる物語ではあった。アベーラは果たして救われたと言えるのだろうか。もしも彼女が死後の世界で、自分のためにアントンが犠牲になったことを知ったのなら、それは煉獄で受ける責め苦と同じくらい苦しみを生むのではないか。もしも知らなかったとしたら、アントンの行いは報われたと言えるのだろうか。そしてもし、死によって二人の人格自体が消えてしまったとしたのなら、二人とも死んでしまったという事実はやはり悲劇以外の何物でもないのではないか。


 そういえば、と先ほどエルバルドが口走っていたことを思い出す。「アントンと二人の曲もある」と。

 これまでシャルルが練習していたのは一人で歌唱する曲ばかりだった。歌劇には他の役もいるはずだと聞いたときは、シャルルの役のアベーラはほとんど一人の場面だからとだけ答えが返ってきたのだ。

 多くの戯曲ではアベーラはアントンと心を通わせていく共演の場面が多いのだが、今回の舞台は違うらしい。多くの人々と関わる主人公のアントンに対し、アベーラはほとんど一人で登場し独白の形で心情を歌う。

 それというのもアベーラの役を特殊な枠で決めるからなのだろうと、今となっては合点のいく話であった。


 窓から見える景色は学園の位置する森の中から、市街へと変わっていく。

 学校から実家のある田舎町に下る道しか見たことのないシャルルの目には、舗装された石畳に煉瓦造りの建物が立ち並ぶ景色が新鮮に映っていた。


***


 国立劇場は広い公園に面してそびえていた。白い御影石で装われた四角い建物で、入り口には直線の柱が格子状に並んで整然とした印象を与えてくる。


 馬車を降りて大股に歩いて行くエルバルドの後ろをついて行きながら、シャルルは緊張を隠せずにいた。自分が持っている服の中では一番きちんとして見えるワンピースを着てきたものの、場違いではないだろうかという懸念がぬぐえない。

 垂らした髪を撫でつけながらそわそわするシャルルの目に、エルバルドがこちらをちらりと振り向いておもしろそうに笑うのが映る。この様子ではやはり、エルバルドの体面を気にする必要はないと言っていたのは、シャルルに気を遣わせまいとしたわけではないただの本心なのだろう。


 建物内に入り、分厚い絨毯を歩いてエルバルドが向かった先は、サロンらしい長方形の部屋だった。真っ先に目を惹く豪奢なシャンデリアが、壁際にしつらえられた飾り棚や幾何学模様の壁紙を柔らかな光で照らしている。

 そこには既に二、三十名ほどの人がいて、シャルルの目に映る範囲では皆がエルバルドのように高貴な身なりをしていた。


「フランシス」


 エルバルドが部屋に入って二、三歩進むなり、男性の声で呼びかけられる。いかにも悪意のこもった憎々しい口調だった。

 呼ばれたエルバルドの方はまったくの涼しい顔で、右手側からやってきた声の主に向かって軽く手を挙げて見せた。


「どうも。待ちかねてもらったようで嬉しいよ」


 相手の男もやはり上質そうな金の刺繍の入ったコートを着ていて、身分の高い人間であることがうかがえた。シャルルが軽く頭を垂れて控えていると、彼の憎々しげな声が再び聞こえる。


「相変わらず癇に障る男だな」

「そう思ってるのはきみだけなんじゃないの。さもなければマダム・ハンソの誉れある劇団からお呼びがかかるはずもない」

「ふん、せいぜいいい気になっていろ。今年こそ勝つのは私だ。もっとも才能ある娘を見つけてきたのだからな。――シャゴール男爵令嬢だ」


 シャルルがちらりと目線を上げると、男の後ろにシャルルと同じように控えている娘に気付いた。明るい赤毛に、顔には化粧で消しきれなかったであろうそばかすがわずかに見える。緊張した面持ちながら、背筋をぴんと伸ばして立つ姿からは気品が感じられた。


「それで、お前は……またそこらの町なかから百姓の子を連れてきたようだな」


 男の視線が自分に向けられたことに気付いて、シャルルは再び頭を垂れる。自分は連れなのだから、エルバルドから促されるまではしゃしゃり出てはいけない。


「この子はミス・クロイツ。百姓の子にしては呑み込みが早いよ」

「ふん、だが才能の差は明らかだな。ミス・シャゴールはマーゴット・マリウスの傍系に当たるのだ。もちろん彼女を訓練しているのは私一人だがな」


 マリウス、というのは著名な作曲家の名前だったろうか、とシャルルは思いやる。

 どうやら、得意げに話すこの男と背後の娘の関係は、エルバルドとシャルルの関係と同じらしい。つまり、ミス・シャゴールという彼女もアベーラ役の候補の一人ということだ。

 対抗心をあらわにする男に対して、エルバルドはどこまでも飄々としている。


「それは英断だ。才能豊かな子を選んでおけば、教育者が無能だってことをごまかせる」

「お前の憎まれ口は充分だ。本当に無能なのはどちらか思い知らせてやる」

「自分の無能さに気付かないのは本物の無能だね」

「――お二人とも、そのくらいになさいませ」


 シャルルの背後から、ハスキーな女性の声が割って入った。


 慌てて壁際に身を寄せたシャルルは、入り口からしずしずと登場した背の高い女性に目を奪われる。

 プラム色の裾の長いドレスを上品にまとい、フリルの立った襟口からはすらりと長い首が伸びている。シルバーの髪を大きなシニヨンにまとめた下には、肌に皺を刻みながらも均整のとれた老婦人の顔があった。年齢こそ重ねているように見えるものの、彼女の全身がある種の迫力を備えているように感じられる。


「これはマダム・ハンソ、ごきげんよう」


 エルバルドと言い合いをしていた男が深々と一礼する。後ろに立ったシャゴール嬢だけでなく、室内にいたほとんどの者が彼女に向き直り、同じように頭を下げる。

 シャルルもならってお辞儀をしながら、マダム・ハンソというのが劇団の主宰の名前だと気づいていた。


「どうも。ご無沙汰してます」


 エルバルドだけは平常通りの調子で、軽く会釈をするにとどまった。


「お変わりないようね」


 マダム・ハンソは特に気を悪くした様子もなくそれだけ返すと、室内に集まった面々を確認するように視線を回しながら歩いて行く。別の扉から入ってきた人々もいたようで、部屋には先ほどよりも貴人の姿が増えていた。

 部屋の中央に達したマダム・ハンソはくるりと振り向くと、優雅に腰を折った。


「皆様、お集まりいただき感謝申し上げます。さっそくですが、始めるといたしましょう」

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