16. 黒蜘蛛のシナリオ:序幕
フレデリック王子はどうしても自室を抜け出さずにいられないらしい。
外から這い込んで来た窓を静かに閉めて息をついた王子は、室内に向き直るや、黒蜘蛛の君が長椅子に腰かけているのを見て石のように固まった。
「ドアから出るのがよほどお嫌いみたいね」
黒蜘蛛の君が優雅に微笑みかけると、王子は目を泳がせながらわざとらしく笑った。
「その……ごめん」
「あら、なぜ謝るの? わたくしが喜ばない場所に行っていたのかしら」
「それは――」
「わたくし、あなたを寂しがらせないようにしているつもりですのよ。それでもまだ足りませんの?」
「それは分かってるよ。ただ――」
「フレディ、あともう少しの辛抱なのよ」
黒蜘蛛の君はおもむろに腰を上げ、立ち尽くしている王子に向かってまっすぐ歩み寄る。鼻先に顔を近づけると、青碧の瞳が不安に揺れるのがよく見えた。
「今はまだ窮屈でしょう。でもあなたが戴冠すれば、すべてを決めるのはあなた。そうしたらわたくしが何でもしてあげる。面倒なことはわたくしに任せて、あなたはあなたのすべきことにだけ目を向けていられるわ」
王子の頬のなめらかな肌に手を添える。王子はその手にかさねるように自分の手を挙げたが、その動きは途中で止まった。
「……イリア、やっぱりなんだか――」
君らしくないよ、と言おうとしたのだろう。
それはよく分かっている。
「わたくし今まで、あなたに愛情を伝えられていなかったわよね。でもこうして近くで生活して、寂しそうにしているあなたを見ていたら反省したのよ。あなたにわたくしが必要なように、わたくしにもあなたが必要なの。お願いよ、フレディ。今はわたくしから目を離さないで」
体を寄せ、つま先を持ち上げて唇の端にキスをする。
目の奥をのぞきこんで優しく優しく笑いかけるが、フレデリックは顔をこわばらせたまま、笑みを返してはこない。
――こんなことは、すればするほど不安を募らせる。ストレートに愛情を伝えられることは、わざとらしいポーズに見えてならないはずだから。
王子はイリアナスタを確かに愛していた。
だからこそ、裏切られれたときの失望は大きいもの。
***
侍女のアリヤは編入生を見張っていた。黒蜘蛛の君の望み通り、庶民の娘などがフレデリック王太子と接触するなど間違っても許してはならない。
王子だけではない。女狐のシャルル・クロイツはこれみよがしに金髪を振り乱して、見境なく男子生徒を誘惑しようとしている。
よりによってヒロ・ミーチャムを狙うなど、とんでもない話だ。
アリヤとは目も合わせられない奥手なヒロに、あの女は自分から図々しく寄って行って取り入ろうとしている。何度か現場を目撃したアリヤはよほど割り込んでやろうかと思ったものの、いつもヒロの方がさっさと立ち去ってくれるから安心していた。当然、上品で控えめなヒロがあんな下品な女にまなじりを下げるはずはないのだけれど。
陰であの女が手を出している者が他にもいやしないか、それが気がかりだった。
衆目の中で堂々とあの女に近づく生徒は変人のアンリ・コルティーアくらいのもの、別段脅威でもない。
だが人の見えないところであの女が味方につけている者は、実はもっといるのではないか。
そんな心配をしてしまうのは、エルバルドの授業のせいだった。
エルバルドが身分の低い子供を拾って訓練するのは珍しくない。昨年などは授業のほとんどを助教に任せて自分は校外で好き勝手な活動をしていた。今年は庶民の娘をわざわざ学園に連れ込んで、結局クラスをさぼってあの女との“個人レッスン”に時間を割いている。
ちゃんと授業を行うときでも、毎度毎度あの女が歌うのをクラスに聴かせるのだ。アリヤには大したことのない歌にしか思えないが、学生の中には頬を緩ませて耳を傾けている者が少なくない。どうせエルバルドが評価しているからといって、不相応な先入観にとらわれているだけなのに。
おまけにある日の声楽の授業でエルバルドは信じられないことを発表した。王家も招待される冬の舞台の出演候補に、教え子としてあの女を立たせると言うのだ。確かに実際、エルバルドはどこの馬の骨とも分からないような者を歌手に仕立てた実績がある。そのせいだろう、生徒たちはなおのことあの女が才能のある人物だと錯覚しつつあるようだった。
あんな下品な女がこの由緒正しい学園で暮らせるのは、エルバルドの後ろ盾のせいなのだ。元王室付きのエルバルドは社会的評価の高い実力者だというのに、アリヤには道楽が過ぎるように思えてならない。
アリヤはその日の授業の後、エルバルドに詰め寄った。
「ちょっとよろしいですこと、先生?」
エルバルドはピアノを片付けながら、「んん」と生返事を寄越す。
なおざりな扱いにアリヤはいっそう肩を怒らせた。
「いいかげん、目を覚ましてください! あんな子を教え子だなんてご紹介になったら、先生が恥をかかれますわ」
「感情的に批判なんかして、あの子が認められたらきみの方が恥をかくんじゃないの」
エルバルドはアリヤに目もくれず、ただ口元に人の悪い笑みを浮かべている。
「認められるはずありませんわ! そもそも教育するなら、この学園にはもっとふさわしい者がいるじゃありませんの。なぜあの子にこだわるんですの? まさか、やはり、金髪がお好みだとか……」
挑発の意図を込めてそんな言葉を付け加える。本気で思っているわけではない。実はエルバルドに憧れを抱いている生徒は少なくないのだが、彼女たちがいくら好意を示しても、エルバルドはいつも露骨に子ども扱いするばかりだったから。
が、反応を引き出すことには成功したようで、エルバルドはおもしろそうに笑ったと思うとようやくアリヤに顔を向けた。
「なんだい、私をそんなに好色者だと思ってるの?」
「違うとおっしゃるなら、理由を教えてください」
「まあどう思われようとかまわないけど、きみに変な評判を立てられて教師をクビになるのはまだ困るな。噂にするなら半年後にしてくれ」
「べ、別にそんなつもりじゃありませんわ」
何がおもしろいのかくつくつと笑い続けたエルバルドは、やがて側机に置いてあった楽譜の束を持ち上げると教室を出て行こうとする。
「ちょっと、先生、話はまだ――」
「きみは認められないんだろうけど、だからこそあの子じゃないといけないんだよ」
立ち止まったエルバルドは、笑い含みの声で言った。
「例えば黒蜘蛛の君なんかは大本命だ。彼女の力は何もしなくとも誰もが認める。シャルルはそうはいかない。なにしろ品位も経験もない庶民の娘だからね。大穴狙いでないと、勝負はおもしろくないのさ」
頭の中に疑問符を浮かべたアリヤが返答に困っているうちに、エルバルドは笑いながら教室を出て行ってしまった。
まったく、この学園には理解の及ばぬ変人も多いものだ。
呆れてため息をついたアリヤも荷物をまとめて教室を出た。
が、階段を降りていったところでますます癇に障るものを見てしまった。
いつも声楽の授業では一人でいるあの女が、他の生徒に挟まれて話をしている。からかわれているのなら別に問題ないが、にこやかに笑い合っているあの様子は、どう見ても問題おおありだ。
踊り場で足を止め、耳を澄ませてみる。
「――エルバルド先生の教え子でオペラスターになった人もいるのよ」
「ねえ、もうマダム・ハンソにはお会いになったの?」
生徒たちの好意のこもった声。やはり、あの女のことをもてはやしている。
「ちょっと、あなたたち!」
アリヤは階段を駆け下りながら声をかける。目が合った女生徒たちはあからさまにぎょっとして、申し訳程度に会釈をして走り去って行った。
残された例の女はわざとらしく目を丸くしていたが、逃げ去ることはせずアリヤに向かって一礼した。
立ち去らず、かと言って何も言葉を発しない編入生に向かって、アリヤは自分が何を言ってやろうとしたのかを改めて考えた。まったく、この女はいつもそうだ。人が何か言うまで自分からは何も語らず、あたかも貞淑に控えているようなふるまいをする。
「――いい気に、ならないことですわ」
考えた結果、そんなセリフを口にする。
「もしあなたが認められたとしても、それはあなたの実力ではなくってよ。分不相応な後ろ盾をいただいているだけだと心得なさい」
「はい」
相手は妙に素直に認め、再び一礼をよこした。
きっと心の中ではせせら笑っているのだ。人を操るのも才覚のうちだ、などと得意になっているに違いない。
それなのにこの女は殊勝な顔を続ける。アリヤにはそれが気に食わなくて仕方なかった。
狡猾な編入生を相手にするのはやめ、アリヤはさっさと階段を降りてテラスに向かった。
あの女に近づいた輩がいたことは黒蜘蛛の君に報告しなくてはいけない。今の時間はどこに行っているだろうと考えつつテラスを通ってみると、侍女のローザが一人で座っているのに行き会った。
「黒蜘蛛の君は競技場に。殿下の授業に付き添っておいでです」
アリヤを一瞥したローザは、本に目を戻しながら言う。
見透かしたような物言いにアリヤはむっつりと唇をとがらせた。ローザはいつもこうなのだ。言葉遣いは慇懃なくせに、年上のアリヤに対して敬意を払っているようにはとても見えない。
「そう。それで、あなたはここで油を売っておいでなの?」
ケンカ腰で言い返すと、ローザは鼻で笑った。
「ミス・マキヴェリエは黒蜘蛛の君に何を言いつけに? 編入生に馬鹿にでもされた腹いせですか?」
「違います! エルバルド先生があの女を年始の歌劇に出そうとしているというんですの。そのせいであの女をもてはやしてる考えなしの生徒がいたということですわ」
価値のある情報を持っているのだと得意げなアリヤに、ローザはまだ薄ら笑いを絶やさない。
「それは失礼しました。ですが、言い方にはお気をつけにならないと、黒蜘蛛の君のご機嫌を損ねますよ。あの方もこのところ……いつもと違うご様子ですし」
アリヤは首を傾げる。
いつもと違うところなどあっただろうか。確かにフレデリック王太子が学校に来た頃よりも側についているようになったけれど、婚約者も同然なのだ、別段不思議なこととは思えない。
アリヤの内心の疑問に答えるようにローザが言葉を続ける。
「焦っていらっしゃる……とでも言うのかしら。殿下のお側から離れないのも、私にはそのせいに見えます。だとしたらきっと編入生のせいなのでしょうね。学長にもエルバルド先生にも、殿下にまで認められて。舞台に出て認められでもしたら、いずれ生徒たちの賞賛も集めることにもなるかもしれません」
「み……認められるはずありませんわ」
「そうでしょうか。彼女の人をたぶらかす才覚は、黒蜘蛛の君以上のように見えませんか? そうだとしたら、彼女が黒蜘蛛の君の座を奪うことになることも、ありえなくはないのかと」
笑い含みの声で不遜な言葉を吐くローザに、アリヤはただ口をぱくぱくさせる。
「もし本当にそうなれば、私たちは彼女に意地悪をしてきたんですから、仕返しされてしまうかもしれませんね。まあ、あの子が本当に“素敵な子”なら許してくれるのでしょうけれど」
ローザは本を閉じて立ち上がり、ごきげんようと言い残して立ち去った。
立ち尽くすアリヤは胸中にかすかな不安を掻き立てられていた。ローザの言葉は、黒蜘蛛の君があの女を警戒している理由を説明しているように思えてならないからだ。
つまり黒蜘蛛の君は、本当にあの編入生を脅威として見ているということ。
あの編入生が事実、陰で人を操る恐ろしい悪女なのだということ。
「……そんなこと、ありえるものですか」
アリヤは不気味な考えを振り払うようにかぶりを振った。
***
ジョルドモア学長は黒蜘蛛の君の訪問を受けていた。学園内の出来事や今後の予定を報告する、常の連絡会合である。
黒蜘蛛の君は学生総代であるから――というのは建前にすぎないと分かっていた。彼女は運営面でもまた学園を支配している。予算の割り当ても人事も、彼女の意に沿った計らいがなされることを学長は何度も目にしてきた。
だが学長の立場であるにもかかわらず、彼女が実際誰に息をかけているのかが把握できないのはある種奇妙なことだった。黒蜘蛛の君の操る手は、それこそ学長の目など届かないほどの上層に存在しているのかもしれない。
「――そういえば、彼女はようやく学園になじみ始めたようですね」
話がひと段落ついたところで、学長は何気なくそう口にした。
シャルル・クロイツの編入当初は彼女をよく気にしていたはずだが、このところは黒蜘蛛の君からその話題を上げることがなくなっていた。王太子の方に興味が移っただけなのだろうと思っていたが――
「どなたのことですの?」
黒蜘蛛の君のそらぞらしい返答に、学長は訝しむのを禁じ得なかった。
「シャルル・クロイツです。しばらく周りの生徒と距離を置かれていましたが、ここ最近、ミス・コルティーア以外にも友人ができたようですね」
学長の言葉を聞いているのかいないのか、黒蜘蛛の君は気だるげに首を傾けたまま返事を寄越さず、まぶたを閉じている。
学長は慎重に言葉を続けた。
「……エルバルド先生も彼女を評価されているようです。生徒たちに受け入れられるようになったのもその影響があるのでしょう――」
「所詮、人が人に下す評価はそういうものですわね」
遮るように言い放った黒蜘蛛の君はおもむろに目を開いて学長を見る。長い睫毛の下、金色の虹彩が鋭く輝くその目には、学長が見たことのない色が浮かんでいた。
「己よりも大きな存在が是と言えば是、否と言えば否。彼女も本当に可哀そうですわ。たった一つの大きな存在から見放されれば、それに付き従うすべてもまた去ってしまうのですもの」
哀れなもの、と静かに吐き捨てた黒蜘蛛の君は、やおら立ち上がるとにっこりと笑みを浮かべる。
「ご安心なさいませ、学長先生。編入生の成功は先生の成功を意味する――それは重々心得ております。ただし、彼女の成功がこのわたくしにどのような意味を持つかは先生がお考えになってくださるものと……期待していますわ」
黒蜘蛛の君は優雅にスカートの裾を持ち上げて会釈すると、立ち尽くす学長の反応を待たずに部屋を出て行った。
扉が閉まる音を意識するとともに、学長は深々と息を吐きだした。緊張の糸が切れたようだ。
確かに、黒蜘蛛の君が編入生を快く思っていないという噂は聞いていた。シャルルが学園になじめないのも、黒蜘蛛の君が受け入れようとしないからであることも。
だが今までは、黒蜘蛛の君は認めなかったのだ。学長の前では必ず編入生を見守るような口を利いていたし、終始気にかけていたことも事実。
それが――ああもあからさまに敵意を表するとは。
やはり王太子の存在が影響しているのだろうか、と学長は思いやる。シャルルの編入に王子が噛んでいたことは黒蜘蛛の君も知らなかったらしい。まだ非公式とはいえ婚約を決めている仲でありながら、王子は黒蜘蛛の君に無断でシャルルを支援していたのだから。
達観して見える黒蜘蛛の君とはいえ、若い女であるには違いない。情が絡めば冷静さを欠くことがあるのかもしれない。
穏やかだと思っていた黒蜘蛛の君のあの眼光の鋭さは、学長には初めて見るものだった。
蜘蛛は捕食生物なのだと、そんな考えが浮かんでいた。