14. 黒蜘蛛と伝言
フレデリック王太子は順調に学園生活を過ごしているようだった。なれなれしい気性のおかげで次々と学友を作り、念願だったランチやらクラブ活動やらを楽しんでいるらしい。
当初は毎日のように黒蜘蛛の君のもとにやってきては「今日の楽しかったこと」を嬉しそうに報告していたのだが、ある日を境にぱったりと来なくなった。
日中に偶然、黒蜘蛛の君と出くわした際も、瞬間的に顔を輝かせるものの、何やらこらえるように唇を引き結んだかと思うと手を振るだけで立ち去ってしまう。
どうやら意識的に黒蜘蛛の君を避けているらしい。
意図は分かっていた。王子自身から接触しないことによってイリアナスタの不安を煽ろうとしている。おそらく学友の誰かから、女性の気を惹く手管としてでも教わったのだろう。
願ってもない行動だった。黒蜘蛛の君からしてみれば、常にしっぽを振って付いてこられる方がよほど厄介だ。もともと、積極的で好奇心旺盛な王子が単独で動き回るであろうことは充分予想できていたのだが。
イリアナスタに恋しがってもらおうとする王子の意図はきわめて都合がいい。他の女性徒と親密な仲になる可能性が高いことになる。もし彼が特別に気に掛ける相手がいるとしたら、シャルル・クロイツであるに違いない。
もちろん黒蜘蛛の君の暗黙の指示によって、王子に女生徒が近づくことは侍女たちが阻んでいる。シャルルに対しては特にそうだろう。
だが長年の付き合いのある侍従でも王子の行動を制限するには手を焼くのだ。特性を知らない一学生の手に負えるはずもない。それは分かっている。
王子を見張らせるのは彼の好奇心を刺激するためだ。禁じられたことにこそ誰もが見落としている大きな意義があるに違いない、と考えるのが王子の性根なのだから。
黒蜘蛛の君は黙って王子を泳がせていた。黙って――表情だけをかすかに曇らせて。それが分かるのは、近くに控えている侍女の中でも賢い者だけ。
ある休日、黒蜘蛛の君は一人で王室を訪れた。
フレデリック王太子も帰城の予定があったのだが、一緒の馬車に乗り合わせたくなかったのだろう彼は学校で用があるからと日をずらしたのだった。
単独で王妃に謁見した黒蜘蛛の君は、たわいのない話をまじえながら王子の様子を報告する。にこやかな王妃から寄せられる信頼のまなざしに、イリアナスタは不思議なものだと改めて感じていた。
黒蜘蛛の君が“悪女”であることを、国王夫妻と王子は信じていない。
多少なりとも噂は耳に入っているのだろうが、才気あふれる美貌の少女に対する心無いやっかみだとみなし、気にも留めていないようだった。
黒蜘蛛の君の行動は、必ずしも“悪”ではない。真面目なジョルドモア学長を道理で説き伏せるように、人を操るのに必ずしも倫理に反するやり方が必要というわけではないから。
柔和で愛想よく隣人愛にあふれた態度をもって相手を惹きつけることと、その人間に自身の望む行動をとらせることとは決して矛盾しない。
理由を与えればいいだけだ。富や権力を求める欲。自らの存在意義を示そうとする理性。己を守りたがる感情。そして、人に幸福をもたらさんとする愛。その者を動かす理由を量り、満たしてやることを申し出る。自由な意思による取引にすぎない。
絶対的な権力を持たぬうちは、そうして静かに狡猾に動かなくてはならない。
今の黒蜘蛛の君が支配しているのは、あの小さな学校の若い学生たちだけ。独り歩きする名前が学生たちを縛り、操られた彼らは無意識のまま自主的に支配者を支配者たらしめる。
一国すべてを覆うことなど、まだ力の及ぶものではない。
女王でない、今はまだ。
「――これは、黒蜘蛛の君!」
王妃と別れてホールを歩いていたところ、祭祀を司る官僚のジルエ卿が愛想よく声をかけてきた。
やはり不思議だと思いながら、黒蜘蛛の君は笑顔で一礼する。
ジルエ卿はイリアナスタが初めて王子に会ったときから今の役職に就いていた。催事のたびにうろちょろと逃げ回る王子を追いかけるのも彼のお決まりの役目で、イリアナスタとも幼いころから面識があった。イリアナスタが黒蜘蛛の君として頭角を現してからはいっそう関係を密にしようとしているようで、ことあるごとに声をかけてくる。
実のところ、今日、城を訪れたのは彼に会うためだった。居所を探すまでもなく彼の方から寄ってきてくれるとは、なんとも都合がいい。
不思議なことだ。
「見るたびに美貌が増していらっしゃる」
手の甲にキスを落とされ、黒蜘蛛の君はにっこりと笑みを返す。
「ジルエ様はお変わりございませんこと?」
「ええ、おかげさまで。今は殿下の戴冠式に向けて準備を進めているところです。いや――黒蜘蛛の君の戴冠式、と申し上げるべきかもしれませんね」
ウインクをするジルエ卿に、黒蜘蛛の君はただ微笑んだ。
不思議なことに、黒蜘蛛の君は会いたいときに会いたい相手に出くわす。自分から何かしなくても、相手から望むものを持ってきてくれる。
イリアナスタの手腕を超えた不可視の手がすべてを導いているのだと、そう思えてきたのはごく最近のことだった。
「それにしても学校でまで殿下のお守とあっては、黒蜘蛛の君もさぞお疲れでしょうな」
殿下のお守の苦労を承知しているジルエ卿は、切実な面持ちでうなずく。
「いえ、殿下もずいぶんご立派になられましたもの」
「それならいいのですが。わざわざ学校の寮に入りたいだなんて、あいかわらず型破りなおかたですよ」
「無理もありませんわ。殿下はエルバルド先生を慕っておいでですから」
エルバルドの名前を耳にして、ジルエ卿がぴくりと眉を上げる。
彼がエルバルドを嫌厭していることは当然ながら承知していた。
ジルエ卿の実家は王室楽士と縁があり、彼も幼少の折から器楽の訓練を受けてきた。由緒正しい技術を身に着けていることに誇りを持っているジルエ卿は、名も知れぬ地方貴族の家から泡のように湧いて出たエルバルドが王室で認められ、王太子の教育までを任されていることが気に入らなかった。
対抗心を出してみたところでエルバルドの能力は確かなものだし、本人はジルエ卿を相手にせず受け流してしまう。エルバルドの人を食ったような態度や、それでいて王子や国王夫妻から信頼を寄せられていることが、ジルエ卿にはいまいましいばかりだったのだ。
エルバルドが王室を去ってからは目に見えて清々しい顔になったジルエ卿だが、今なお彼の名を聞くと闘争心が掻き立てられずにはいられない。黒蜘蛛の君はそれもよく知っていた。
「エルバルド先生といえば、ジルエ卿によろしくお伝えするようにとおっしゃっていましたのよ」
とどめのようにそう告げると、ジルエ卿は露骨に鼻にしわを寄せる。
「思ってもおらんことを……」
「そんなことございませんわ。年始の舞台を楽しみになさっているようでしたもの」
毎年、民間の劇団が歌劇の舞台を催す行事があり、ジルエ卿はその運営を取りしきっていた。王家も臨席するから、という理由をつけてはいるものの、実際のところはジルエ卿が趣味で手を伸ばしているところが大きい。
ジルエ卿は勝ち誇ったようにふふんと鼻を鳴らす。
「あの狐め、今回こそは吠え面かかせてやる」
そう呟き、黒蜘蛛の君が面前にいることを思い出したように愛想笑いを浮かべた。
黒蜘蛛の君も微笑んで返す。
「大丈夫です――わたくしはいつでも、ジルエ卿の味方ですことよ」
その言葉にジルエ卿もにんまりと笑みを浮かべた。
彼は黒蜘蛛の君の力を知っていた。ジルエ卿の目の上のたんこぶであったエルバルドは、黒蜘蛛の君の計によって城から去ったのだから。
事実には違いない。
エルバルドは他国から賓客として招いていた大使の奥方に手を出した。姦淫までは犯していないものの、物陰で過剰に睦み合っている様を侍従に見とがめられたために事が露呈した。
幸いにもというべきか、大使の国柄は不貞を重大な罪とはしておらず、件の奥方ももともと身持ちが奔放な気質であるということで内々に事は収められた。
が、仮にも王室で働く人間に節制が欠けているとなれば不問とはいかず、エルバルドは王室付きの職を解かれたのだった。
この事件の前、黒蜘蛛の君はジルエ卿に「エルバルドは近いうちに姿を消す」と予見めいた言葉を聞かせてあった。だからジルエ卿はこれが黒蜘蛛の君の計らいだとすぐに察したのだ。
実際に黒蜘蛛の君がしたことといえば、奥方とエルバルドそれぞれに、向こうがこちらを熱い視線で見ているようだと唆し、正義感の強い侍従の一人には疑惑をささやいて行動を見張るよう促した――それだけ。決して完璧なお膳立てをしたわけではない。
むしろ重要なのは、黒蜘蛛の君がエルバルドの意思を知っていたことにある。
ジルエ卿はエルバルドが過大な役を得て悦に入っていると思い込んでいるようだが、エルバルド本人にしてみれば“王室付き”の称号など大した意味を持たないのだ。決してしがみつきたいものでもない。王室での生活も充分楽しんだことだし、そろそろ別の仕事を始めてみようか、などと不遜な考えを浮かべていることなど、ジルエ卿には知る由もなかった。
大使の奥方との一件について供述を求められたエルバルドは、これ幸いと言った顔で自ら城を出て行くと申し出たのである。だがジルエ卿の目には、エルバルドは不用意な行動で墓穴を掘ったことを悔やみながら、無様にも城から蹴り出されたように見えていたことだろう。
ジルエ卿にとってはそれが事実なのだ。
黒蜘蛛の君にとっても、それは都合のいい“事実”の一つだった。
***
学校に戻ったその夜、黒蜘蛛の君が寮室で休もうとしていると、扉をノックする音がした。
「どうぞ」と返事をすると、数秒の間の後、ゆっくりと扉が開く。
侍女のミレイユが立っていた。
彼女の無表情の中にどこか切なそうな、つらそうな色が揺れていることに黒蜘蛛の君は気づいていた。ミレイユが報告のために自室を訪れてくるのは珍しいことではないが、この顔つきはめったにない。
ミレイユは一礼して部屋に足を踏み入れ、静かに扉を閉める。入口から一歩だけ進んだその場に立って、やおら唇を開いた。
「シャルル・クロイツと話しました」
テーブルで書き物をしていた黒蜘蛛の君は、その言葉についと面を上げる。
無言で続きを促すと、ミレイユは目を伏せて語り始めた。
***
接触してきたのはシャルルの方だった、と言えるだろう。
夕方、学園の外を歩いていたミレイユは、見上げたテラスに人影があるのを不審に思って見に行った。そこは黒蜘蛛の君が定位置としている特別な席で、一般生徒ならとても座ろうなどという気を起こさないはず。
足早にテラスに上がったミレイユを待っていたのは金髪の女性徒だった。待っていた、というのは明白だった。シャルル・クロイツはずっと通路の方に顔を向けていて、ミレイユの姿を見て取るなり腰を上げてテーブルの前まで出てくると、ミレイユが近づいてくるまでじっと立ち尽くしていたから。
「――ミス・ランブルスキ」
ミレイユが黙って足を止めると、シャルルが深々と一礼する。
「勝手に座ってごめんなさい。あなたとお話したかっただけなんです。……少しだけ、いいでしょうか?」
編入生から直接言葉をかけられるのは初めてのことだった。もとよりミレイユは愛想の良い人種ではない。手続き的な内容を除いては、ほとんど誰とも口を利かずに過ごしていた。シャルルもそれを分かっているのだろう、他の同級生に接するときよりもおそるおそるといった態度になっている。
黒蜘蛛の君が編入生を好いていないことは承知している。冷たく拒絶することは可能だが、編入生は愚かではない。話を聞き入れてもらえないことは予想しているだろうし、常から不愛想なミレイユに無視されたとて、深く傷つきはしないだろう。
話を聞いてやる利の方が大きいはずだ。日頃は控えめな態度を貫いている彼女がわざわざ声をかけてくるからには、何かの思惑があるに違いない。
ミレイユが黙って見返すと、目を伏せたシャルルはおずおずと唇を開いた。
「……フレデリック王太子殿下が、たびたび私とお話してくださいます」
一瞬、目の前の女の殊勝な顔つきは仮面なのだろうかと思った。今にも伏せた顔を上げてミレイユを見据え、不敵に笑うのではないか、と。
「殿下が、ご不安を抱いておいでのように思えるんです。黒蜘蛛の君のお気持ちが、いずれ殿下から離れていってしまうのではないかと怖がっておいでのようでした……」
何が言いたいのか、と追及する言葉は内心にとどめ、ミレイユは黙って続きを待つ。
「……失礼な言い方とは存じています。でも……黒蜘蛛の君はどうして殿下を安心させてあげようとなさならいのでしょうか? きっと殿下のお気持ちは分かっていらっしゃるのですよね。もちろん、お考えがあってのことなのは承知しています。でも、今の殿下は本当に、黒蜘蛛の君をお慕いになっています。お二人で幸せになることを望んでおいでだと思います。……もし、黒蜘蛛の君にお気持ちがおありなのでしたら、殿下の憂いを晴らしてほしいと……おこがましいこととはよく分かっていますが、そうお願いしたいのです」
シャルルはそう言ってのけると、視線を上げてミレイユを見つめた。
その目には――真摯な色しかうかがえなかった。
***
「それで、喜んであの子の伝令になったというわけかしら」
黒蜘蛛の君は冷ややかな言葉をミレイユに返す。
口をつぐんだミレイユは、どこか切なげに眉をひそめた表情を変えなかった。
ミレイユとて、シャルル・クロイツがわざわざこんな情報を与えたのには裏の意図があると考えてはいるはずだ。それでもこうして黒蜘蛛の君に伝えたのは、きっと自分も同じ心配をしているからなのだろう。
王子は黒蜘蛛の君の気持ちを確かめたがっている。それを分かっていてどうして放っておくのか。王子がシャルル・クロイツに近づけないようにする方法はいくらでもあるだろうに、なぜそれをしないのか。
当を得た懸念であることは違いない。
イリアナスタは昔から、自ら王子に尻尾を振って駆けよるような真似はしてこなかった。王子を惹きつけるためだ。与えられるものより、自分の手で求めるものに価値を置く王子には、つれないくらいの態度の方が効果的だから。
王子が不安を抱いているということは、イリアナスタへの愛着が強いということの証に他ならない。わざわざ彼を安心させるために動く必要はないのだ。ただ動じず、いつも通りに見守っていて、支えてやればいい。見かけよりも聡明な王子は、そんなイリアナスタの自然な愛情を悟っていずれ落ち着くことだろう。
今までならば、それでいいのだが。
「……結局誰も、あの子の手から殿下をお守りできていないのね」
黒蜘蛛の君はため息まじりに呟いた。
「結構なことですわ。やはり、わたくし自ら動かなければいけないようね。……あなたも、そんなにあの子の使い走りをしたいのなら好きになさい。どうせわたくしの役には立たないのですもの」
話は終わりだと、黒蜘蛛の君は書き物に戻る。
立ち尽くしたミレイユは数秒の後に一礼し、閉めた扉に手をかける。そのまま退室する――その前に、ふと振り向いたミレイユはかすかな声で言った。
「……私は、いつまでもお側におります」
そうして黒蜘蛛の君の反応を待たず、部屋を出て行った。
廊下に出て、閉めた扉の前に立ったミレイユは深々とため息をついた。
テラスでシャルル・クロイツから話を聞いたとき、瞬間的にどういう意図なのだろうと頭の中で様々な考えがめぐっていた。彼女の話は真実だろうか、嘘だろうか。ミレイユが大人しく黒蜘蛛の君に伝えると思っているのだろうか。黒蜘蛛の君のどんな反応を望んでいるのだろうか。
だがいくら考えても、シャルルの目の光からは、言葉以上の思惑が感じ取れなかった。彼女は言葉通りに王子から思いを打ち明けられ、言葉通りに黒蜘蛛の君を――心配している。
理解ができなかった。
シャルルと会話を続ける気はしなかった。それで一方的に立ち去ろうとして、最後に一言だけ言葉をかけた。黒蜘蛛の君を思いやっているというのなら、王子に近づくな、王子から話しかけられても答えるな、と。
編入生が悲しそうにうつむくのを見やって、ミレイユはテラスを去った。背後からは、「ごめんなさい」という消え入るような声が聞こえた気がしていた。
まるで告解のような声だった。
そうしてふと思う。黒蜘蛛の君とシャルル・クロイツの言動は、どこか――似通った雰囲気をまとっていると。
ミレイユはくだらない思考に我ながら呆れてかぶりを振る。
月明かりの差し込む廊下を歩き、自身の寮室へと向かった。