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13. シャルルと祈り

 シャルルはほとんど孤立していた。アンリと一緒の授業に出るときはいいものの、そうでない場合は誰もシャルルに近づいてこない。

 黒蜘蛛(くろくも)(きみ)が圧力をかけている効果が大きかった。シャルルが猫を被った性悪女だという評判を信じている生徒がすっかり多くなってしまったのだ。それに、多少は理性的でシャルル本人をなんとも思っていない者でも、黒蜘蛛の君の侍女が露骨にシャルルを嫌厭すれば、女王の機嫌を損ねたくないがゆえに同調せざるをえない。


 大きな教室の授業では、自分だけがぽつねんとしている情況に気が滅入りそうになることもある。逆に小規模なクラスならば、シャルルの他にも一人で出席している生徒も少なくないため、気兼ねせずにいられることが多かった。


 ヒロ・ミーチャムに再び出くわしたのも、そんな小さな教室でのことだった。


 前の授業が長引いてしまったせいで、シャルルは小走りに次の祈祷クラスに向かっていた。階段を駆け上がって、教室の位置する本棟の最上階にたどり着く。なんとか間に合うだろうかと焦りながら廊下の角を曲がるや、そこに人の後姿があった。ぶつかりかけて慌てて立ち止まるシャルルを、その人が振り向く。


「ごめんなさい――」


 謝る言葉をかけながら、あ、と思った。知っている人だと。

 彼の方もシャルルを認識したらしく、挨拶するように手を挙げかける。


 その瞬間、授業開始のチャイムが鳴り始めた。

 慌てたシャルルは、彼まで遅刻させてはいけないと「とにかく行きましょう!」と背中を押して一緒に教室に入った。


 珍しいことに、マウリウ講師はまだ姿を現していなかった。出席している生徒も常と同じくまばらで、それほど広くない教室であるものの空席の方が目立つ。

 シャルルがほっとして端の席につくと、あとについてきた彼は通路に立ったままシャルルを見下ろした。


「――ごめんなさい。私のこと、覚えてる?」


 ばつの悪い気がしながらシャルルが尋ねると、彼は呆れたように笑ってうなずく。


「覚えてるよ、シャルル・クロイツ」

「よかった。この間は声をかけてくれてありがとう。ちゃんとお礼を言えてなったから気になっていたの。名前も聞けてなかったから」


 シャルルにとって彼は、この学校で親切にしてくれた数少ない同級生の一人だった。

 早くきちんと話がしたいと思っていたものの、この学園も広いもので編入当日以来彼の姿を見かけることがなかったのだ。男子とは寮の棟が異なるせいもある。それにアンリが言うには、彼はシャルルが受けているような芸術のクラスにはあまり興味がないらしいから、同じ授業を受ける可能性も低かったのだろう。


 彼はシャルルの脇に立ったまま、何やら所在なげにしている。


「座らないの?」


 シャルルが尋ねると、彼は教室にまばらに座った生徒たちを見やり、しばらくためらうようにそわそわととしたあげく「そうだね」とシャルルの隣に腰を下ろした。


「……名前だっけ。僕はヒロ」


 ようやく名乗ってもらえて、シャルルは顔をほころばせる。


「よかった。あなたのこと、きっとミスター・ヒロ・ミーチャムだろうってアンリが言っていたの」


 ヒロはどこかシニカルに肩をすくめた。


「君がこんなクラス取ってるとは思わなかったな」


 こんなクラス、と言う吐き捨てるような口ぶりに、シャルルは小首を傾げる。

 祈祷というのは確かに変わった分野かもしれない。神学や歴史学のような学問というよりは工作や武術のような実技に近い。だが実技と言っても、成果が目に見えて現れるものでもない。


「祈祷なんてバカバカしい。鑑賞するって目的がある分、芸術の方がマシだよ。こんなの何の意味もない」


 シャルルは目をぱちくりさせる。

 彼は無神論者なのだ、とアンリが笑い交じりに言っていたことを思い出した。


「でも……クラスを取ってるってことは、あなたも興味があるんでしょう?」

「僕は取ってない」

「え?」

「君に引きずり込まれた」


 勘違いを悟ったシャルルは思わず唇を押さえる。てっきりヒロも、授業を受けるために教室の外にいたのだと思い込んでしまっていた。


「ご、ごめんなさい――」


 また謝る言葉を口にした瞬間、教室の扉が開いてマウリウ講師が入ってきた。ヒロもそちらに目をやって、今更いいよ、と言うように無言のまま肩をすくめて見せる。シャルルは申し訳なく身を縮こまらせながらも、とにかく授業に集中することにした。


 マウリウは手にした杖で床を探りながら教壇の前に進む。そこに据えられた椅子にいつものように腰かけると、ヒロのいる方に顔を向けた気がした。視力が弱い分その他の感覚が鋭いのだと、最初の授業で彼女自身が言っていたことだ。

 クラスを登録していないヒロがいることで怒られてしまうのでは、とシャルルは心配したが、マウリウはヒロのことに触れなかった。


「遅れてごめんなさいね。王太子殿下に捕まってしまったの」


 マウリウのかぼそい声が楽しげに言う。豊満な体つきから発せられるには意外に聞こえる弱弱しい声色だが、彼女にはそれが普通なのだとシャルルにも分かっていた。


「みんなは殿下とお話ししたかしら? 私は初めてお会いしたのだけど、立派な子ね。エナジーを分けてもらえた気がするもの。人にはね、外にエナジーを振りまく方が得意なタイプと、内にエナジーを取り込む方が得意なタイプがいるの。天与の才だから、どちらがいいというものではないのよ。ただどちらなのか知っていると、その人を幸せにする方法を見つけやすくなるから」


 マウリウの講義はいつもこんな調子だった。とりとめのない世間話やら思い出話やらかと思っていると、教訓めいた言葉が混ぜ込まれる。ぼんやりしていると聞き逃してしまう。


「昔ね、南方にいたことがあるの。とても田舎の閉鎖的な集落でね、外界との交流は一人の祈祷師がすべて行っていたのだけど、住民には内緒にしていたの。啓示を受けたことにしていた――いいえ、本当に啓示を受けていたのかもしれないわね。そんなことどうだっていいの。大事なのは彼が、自身に取り込んだエナジーをみんなに分け与えていたということ」


 出席している学生は少ないものの、だからこそマウリウの話に興味を抱いている者がほとんどのようだった。緊張感のない授業ではあるものの、みな気を逸らすことなくマウリウの話に耳を傾けている。

 いや、もしかしたら興味の的はマウリウ自身なのかもしれない。褐色の肌に白い髪の彼女が変わった風体であるのは確かだが、そこには神秘的な美しさがあった。

 アンリなどは彼女の雲をつかむような話しぶりが苦手だと言っていたが、嫌厭されやすい一方で一部の学生には多大な人気があるらしい。


「人を感じる方法は知ってるかしら? 目で見ること、音を聴くこと、匂いをかぐこと。これはみんなと共有できる、もっとも表層的な手段ね。肌で触れること、舌で味わうことは、もう一歩深いわ。自分だけが感じられる領域。でも、さらにもっと深い部分がある。自分でもどういう感覚なのか、認識できないような心の奥底の感覚。言葉にして説明することもできない。自分に分からないのだから、他人に伝えることはもっと大変ね」

「夢みたいなものでしょうか?」


 前方に座った生徒が静かに質問する。マウリウは目を伏せたまま彼女に顔を向けると、柔らかく微笑んだ。


「そうね。それは理解しやすい例えだわ。色んな感覚が混ざり合って、他人と分かち合うことのできない心の領域。神様と人が何かをやりとりするとしたら、もっぱらこの領域を使うの――」


 マウリウは南方の祈祷師が神と人との仲介をするやり方を、身振りをまじえて説明する。これまでの授業でも、ある民族における祈祷の方法を様々な例で示したのだった。


 と、聞こえてきた深いため息の音に、シャルルは隣に目を向ける。


 頬杖をついたヒロが死んだような目つきで教壇を見つめている。どうやら心底興味がないらしい。改めて引きずり込んでしまったことが申し訳なく、シャルルは無言のままごめんなさいと表情で訴えかける。

 シャルルの視線を感じたらしいヒロがちらりとこちらを見て、肩をすくめる。そうしておもむろに手を挙げた。


「先生、もし“神様とのやりとり”が当人にしか分からない領域で行われるとしたら、それが社会的に認められる根拠はなんでしょうか? 何かを感じたとしても結局個人の頭の中でしかないのなら、瞑想みたいなものにすぎないですよね」


 挑発的な発言にシャルルは目を丸くする。

 驚いたと同時に、ちょっとだけおもしろくも思った。ヒロの質問をある種もっともだと思えたこともある。それに、今までこの授業でマウリウに批判的な質問が投げかけられることはなかったのだ。穏やかなマウリウがどう回答をするのだろうと、好奇心も覚えてしまっていた。


 マウリウはヒロの方に顔を向けて、先ほどと同じように柔らかな笑みを浮かべる。


「“神様とのやりとり”――祈祷というものには二つの側面があるのよ。一つはパフォーマンス。祭祀に代表される民族文化の表出であり、これはいわば芸術とも言えるものね。もう少しミクロな単位では、例えば僧侶が『あなたのために祈ります』というようなこと。これもまたある種のパフォーマンスね。これらは、同じ社会の中で価値観を共有するという儀式なの。意識としては確かに超自然的な成果を求めているのかもしれないけれど、実際的な意義としては、共同体としての連帯感を高めることにあるのね。祈った結果望む奇跡が起こらなかったからと言って、祈る行為自体に意味がないとするのきわめて表面的だわ。科学者はよく、事実、という言葉を使うけれど、事実が何かを決めているのは人の意識だということを忘れてはいけないの」


 マウリウはふわふわとした語り口調を変えぬままそう答えた。

 だが言っている内容をよく聞いてみれば、超自然的な祈祷という行為に懐疑的なヒロに対して、いつもより明確な説明の仕方をしているように思える。


 ヒロもこんな返答が戻って来るとは思っていなかったのか面食らった表情で一瞬黙り込んだが、やがて再び質問する。


「先生が高次の立場を取っているのは分かりました。でも、当事者にしてみれば“成果”が目的なのは確かでしょう? もしも当事者が同じように祈る行為を俯瞰でとらえたとしたら、やはり祈祷自体は意義を失うのではありませんか? 客観的な視点というものは、それを主観的にとらえる者がいて初めて成立するように思えます。つまり……バカな大衆をだます詐欺師、みたいな立場になるんじゃないかなって」


 ヒロのあけすけな物言いに教室がざわつく。シャルルもさすがに言い過ぎではないかと思いながらも、マウリウの反応が気になっていた。

 マウリウは気分を害した様子はなく、ただおもしろそうに小さく声を上げて笑う。


「だますと言うのは、偽りを真実と見せかけて相手を欺くことね。この言葉こそ、確固たる真実が存在すると言う前提に基づくと思わない? 厳然たる真実があると思うことはとても素直だわ。自分の感覚に素直。でも、真実の存在を信じている人に対して、その信仰に寄り添ってあげるのが“だます”ことだとは私は思わないわ」

「信仰なんてものじゃない。真実とは揺るぎのない真理のことです」

「ええ、そうね」


 マウリウは穏やかな笑みを絶やさない。

 どうやら主張が通りそうもないと悟ったヒロが口をつぐむと同時に、授業の終了ベルが鳴る。


「――最後にだけれど、みんな、祈祷のもう一つの側面を忘れないでちょうだい。私が思うに、本質はこちらにあるの。それは自分自身の閉じた世界。ミスター・ミーチャムは瞑想だと言ったけれど、それも間違いではないわ。自分と向き合い、自分の進む道を決めるための思考。信じようとする必要はないのよ。ただすがればいい。求めてはいけないわ。受け取ることができるように、手のひらを開けておけばいいの。それが祈るという行為の意義よ」


 ヒロは肩をすくめて立ち上がる。

 シャルルも後に続いて教室を出ると、ヒロの隣を歩きながら声をかけた。


「本当にごめんなさい、授業に出させてしまって」

「いいよ、まあ、たまには息抜きも悪くない」


 息抜き、という割にヒロの表情は少しもリラックスしていない。先ほどの態度から察するに、マウリウの講義の内容に単に興味がないというよりは、ある種反感のようなものを抱いているように思われる。


「……ヒロは、神様の存在を信じていないの?」


 シャルルが尋ねると、ヒロは顔をしかめた。神経を逆なでしてしまったかもしれないが、シャルルはヒロの考え方にも興味を抱いていたから、話を聞きたかったのだ。


「神は概念的な存在だよ。大きな社会的権力のこと。それを擬人化して、まるで全知全能の人間がいるみたいに扱うのはバカバカしいと思ってる。マウリウ先生がなんと言って煙に巻こうと、結局祈るってことは空想の友達に話しかけてるのと同じだ、意味なんてあるわけない」


 ヒロは怒っているような厳しい口調で言った。

 シャルルは彼が何に対して憤っているのかが気になっていた。理性的なヒロがシャルルの発言を別の尺度で曲解する心配はないだろうと思えていたから、率直な意見を口にする。


「人格があるのかどうかは関係ないのじゃないかしら。天候だとか、穀物の豊穣だとか、そういうものを決めている何かに対して、自分の声を聞いてほしいと思うものじゃない?」


 シャルルが祈祷のクラスを取ったのもそれが理由だった。手の届かない場所にある、なにがしかの大きな物差し。占いがそのものの在り方を知る方法だとしたら、祈祷はそのものに意思を届けようとする行為に違いない。


 ヒロは笑ってかぶりを振る。


「願いをかなえてくれる魔人なんていない。問題に対して祈ってる暇があったら、今そこに実在してる状況下でなんとかしようと励むべきだ」


 シャルルは彼の言葉に、つい笑みをこぼす。

 なるほど、と思った。マウリウが「素直」だと表現した意味が理解できた気がした。

 ヒロは天与のものをすべて受け入れている。受け入れることに抵抗がない。いや、抵抗しても無意味だと悟っていて、自身の能力が及ぶ範囲が限られているのだと認めている。


 シャルルには――どうしても同じようには考えられなかった。


 ヒロは正しいのかもしれない。天に祈ることは無駄な行為なのかも。でもシャルルにとって、それを認めてしまうのはひどく心痛むことだった。

 天の与えるものが必ずしも、幸福をともなうとは限らないのだから。

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