12. 黒蜘蛛の決断
週末には授業が行われない。学生たちはおのおの町へ出かけたり実家へ戻ったり、校内でクラブ活動や勉学に励んだりと好きな活動を行う。
黒蜘蛛の君は社交のためにあちこちに外出するのが常だった。
その日は学園に滞在中のフレデリック王太子とともに、市長のマキヴェリエ氏と昼食の約束をしていた。
市庁舎は黒蜘蛛の君にとっては歩き慣れた場所だが、王子は物珍しそうにきょろきょろとあたりを見回し、あちこちの部屋に勝手に顔をのぞかせては職員たちを驚かせていた。
「――ようやくおめでたい話が聞けて何よりですよ」
冬に婚約を発表するのだという知らせを受け、市長の表情には明らかに安堵がにじんでいた。
無理のない話だ。黒蜘蛛の君が王子と親しいことは衆人の知るところではあったが、その関係は長らく非公式なものとされていた。つまり、黒蜘蛛の君が本当に王家の一員となるのか確定していなかったということ。
それがやっと正式に発表されれば、市長がこれまで黒蜘蛛の君の望む便宜をはからってきたことも無駄ではなかったと言えるのだ。
「まだ先の話ですけどね」
照れたようにうなじを撫でる王子に対し、市長は微笑まし気にかぶりを振る。
「すぐじゃありませんか。冬に婚約なさって、春には殿下の戴冠式だ。お二人が国王夫妻になられると思うと実に感慨深いものです」
王子が市長の言祝ぎに喜ぶ顔を返さなかったことを、黒蜘蛛の君は気づいていた。
帰りの馬車の中、どこか上の空のフレデリック王子に優しく声をかけた。
「――フレッド、大丈夫?」
王子は無理矢理というように浮かべた笑顔を返してくる。
「何がだい?」
「とぼけてはいけませんわ。あなたのことはわたくしが一番分かっています」
太ももにそっと手を置いてやると、王子は笑みを寂し気なものに変え、手を重ねてくる。
「……そうだよね。君は僕のことを分かってる……」
王子はそれ以上何も言わず、学園に着くまでただイリアナスタの白い手を親指で撫で続けていた。
常にはうっとうしいほどに陽気な王子の憂鬱が、イリアナスタとの婚約から生まれているのは分かっていた。両親からその条件を告げられたときから、彼の素直な表情にははっきりと陰りが浮かんでいた。
それがどういう感情から生まれたのかは分かっていない。だが確かなのは、フレデリックにとって黒蜘蛛の君との“婚約”が望ましく思えないということだった。
イリアナスタから正面切って追及したところで、彼は素直に打ち明けてくれないだろう。シャルルの編入の件だって、あえてイリアナスタに隠そう画策を巡らすなどと、彼らしくない行動をとった。
無邪気にふるまうフレデリックだが、思いの丈をすべてさらけ出せるほど強くもないのだ。
分かってやるべきだろう。分かっていることを彼に感じさせ、安心させてやるべき。黒蜘蛛の君が女王になるためには、王子を愛してやらねばならない。
だがそれは、黒蜘蛛の君として正しい行動なのだろうか。
イリアナスタはまだ判断がつかずにいた。それゆえ、王子にそれ以上余計な言葉もかけなかった。
婚約の話を除けば、フレデリック王子は憧れの学園生活を十二分に満喫しているようだった。日々校内をすみずみまで駆け巡っては、出くわした幸運な(不幸な?)学生たちに声をかけて交流を深めている。
初めは王子のふるまいに戸惑っていた教師や生徒も、次第にその存在に慣れていった。彼のなれなれしさと愛嬌のたまものか、“王太子殿下”として距離を置かれることも少なくなってきたようだ。
中には、より積極的に距離を詰めてくる者もいるらしい。
初めに黒蜘蛛の君の元に言いつけに来たのは、侍女のドリス・レイノルドだった。
「このところ、殿下に色目を使う女子が増えているように見受けられます!」
テラスのいつもの場所で休憩していた黒蜘蛛の君と侍女の元にやってきて、ドリスはまるで自分が王子の婚約者であるかのように憤りをあらわにした。
「あのダニエラ・ジョンスンときたら! わたしが注意したらなんて言ったと思います!? 『正式な婚約者はまだいないのでしょう。誰と付き合うかは殿下ご本人が決めること、あなたが口出しすることじゃなくってよ』などと言うんです! いったい何様のつもりなのかしら、殿下のお優しさにつけこんで!」
地団太を踏まんばかりのドリスの剣幕に、黒蜘蛛の君は内心で噴き出した。何様、とは彼女自身に言えることだ。王子と直接の関係などないドリスから偉そうな口を利かれれば、ダニエラでなくても反駁したくなるだろう。
可笑しさは胸の内にとどめ、黒蜘蛛の君は物憂げな視線をローザに向ける。察したローザは慇懃に会釈を返し、主の代わりにドリスをたしなめる。
「おやめなさい。黒蜘蛛の君のご不安をあおりたいのですか?」
「ローザは悔しくないというの!? 黒蜘蛛の君を軽んじる輩がいるのよ!」
「黒蜘蛛の君を代弁してやろうなんて、あなたの方がよほど軽んじていると思えますが」
言い返せないドリスは頬を膨らませ、遠くに視線をやっている黒蜘蛛の君にすがるような目を向ける。
「黒蜘蛛の君は……よろしいんですか?」
ドリスにしては――とイリアナスタは心の中だけで褒めてやる。ドリスにしては当を得た質問だ、と。
王子との正式な婚約が迫った今、黒蜘蛛の君は決断しなくてはならない。
問題はダニエラのような有象無象の女ではなかった。
シャルル・クロイツだ。王子が黒蜘蛛の君との婚約をはばかる理由がもし他の女にあるのだとしたら、それはシャルルでしかありえない。
神の思し召しだからだ。
留学が決まってからフレデリックはシャルルと出会い、エルバルドの助力で学園への編入を許させた。シャルルは何も知らずにそのめったにない機会を受け入れた。そうして彼女には実際、特別扱いされるにふさわしい資質を備えている。
デザインされたシナリオに違いないと、イリアナスタにはそう思えてならなかった。感覚ではないのだ。これはまぎれもない道理。シャルルが王子に見初められることは、天の采配が決めていた。
そうとなれば、黒蜘蛛の君の脳裏に訴えてやまない使命感にもうなずける。
黒蜘蛛の君はシャルル・クロイツを一目見たときから、その存在を意識せずにいられなかった。この世の悪であらんとしてきた野望が、シャルルにとっての悪になるべきという思いに転換していった。
どこへとはなしに遠くを見つめる黒蜘蛛の君は、今朝唐突に現れた訪問者を思い出していた。
三度目でも未だ鮮やかに映る、使者の黄色い帽子。
日課の散歩で北棟の裏に回ったイリアナスタは、先日、歌の練習をしていたシャルルと出くわした場所で、まぶしい黄色を目にしていた。
使者は初めて会ったときとまるで変らぬ様相で、イリアナスタに笑いかけた。言葉をかけてくることはなかった。イリアナスタが必要としていないことを分かっていたのだろう。
『あなたが……来てくださったのなら』
イリアナスタはゆっくりとスカートの裾を持ち上げて礼をする。
『信じられますわ。己が本当の使命を直観したのだと』
顔を伏せたまま瞼を閉じる。
語った言葉は使者に向けたのではない。自分自身に言い聞かせたのだ。
使者が本当に存在したのかどうか、それはどうでもいいことだった。
黒蜘蛛の君は意識を現在に戻し、深く息をつく。
背後に立ったミレイユから向けられる、心配そうな視線を感じていた。
「――ミス・ジョンスンのことなどは放っておきなさい」
おもむろに口を開いた黒蜘蛛の君に、ドリスとローザの視線も向く。
「殿下に決して近づけてはいけない女が誰なのか、申し上げずともお分かりでしょう?」
黒蜘蛛の君はけだるげに頭を傾けて、侍女たちの一人一人を冷たい目で見据える。
「わたくし、役に立ちもせず耳障りなだけの側女などいりませんの」
ドリスは明らかに体をこわばらせ、落ち着かないふうに腹の前で合わせた手の指先をもてあそび始めた。
ローザは自分は無能ではないと主張するように見返してきた。
アリヤは常のように不機嫌な主と関わるのはご免だと目を伏せていた。
ミレイユは無表情を装い、目の奥に浮かべたいたわしげな色を隠そうとしていた。
侍女たちは己の意思で黒蜘蛛の君に従っている。恐れゆえではない。おのおのが享受できる何らかの形での恩恵を期待しているから。
だから問題ない。黒蜘蛛の君が女王になるかどうか、そこから何を得られるかを見極めるのは彼女たち自身の問題だから。
***
黒蜘蛛の君が外出している間は、侍女たちも思い思いの活動をしている。
ドリスは月に二回、週末の一日を実家で過ごすのが習慣だった。
レイノルド家は大きな商船を保有しており、交易によって資産を殖やしてきた。一人娘のドリスも昔から船が好きで、実家に戻る折にはいつも港に船が戻っているか確認するのを楽しみにしている。
父母とは昔から関係が良かった。ブルクリアス学園に入学するときも最大限の出資をしてくれて、黒蜘蛛の君と親しくなったこともたいへん誇らしく思ってくれているらしい。
実際、黒蜘蛛の君は侍女の実家に便宜を図っている。彼女の口利きで大規模な通商を請け負ったり、船の修理に出資を受けたりといった恩恵があり、レイノルド家は黒蜘蛛の君を全面的に信頼しているのだった。
ドリスは黒蜘蛛の君が経済界に実力を有していることを不思議に思ったことはなかった。王子の婚約者で、未来の女王であるのだから当然だと信じているだけ。レイノルド家を優遇してくれることも、ドリスに対する寵愛の証だと無邪気に喜んでいた。
その日、ドリスは早々に学園へと帰ってきていた。父母に外出の予定があり、船も戻ってきていなかったため、実家ですることが大してなかったのだ。
提出期限の迫っている課題を終わらせてしまおうと寮室に向かう途中、廊下の曲がり角で誰かと勢いよくぶつかった。
尻もちをつきかけたドリスは、慌てて壁に手をかけ体を支える。相手に文句を言ってやろうと顔を上げるや、正面から投げかけられた声にぎょっとした。
「――ああ、ごめんね!」
朗々とした声で謝りながらドリスの背中を支えて起こしてくれたのは、フレデリック王太子だった。
「ぼうっとしてたんだ。怪我はない?」
黒蜘蛛の君の背後で面会したことはあるが、こんなふうに正面きって言葉を交わすのは初めてのことだった。王子らしく上品に整った顔立ちが間近にあって、澄んだ青碧の目でまっすぐ見つめられてしまうと、ドリスもつい赤面してしまう。
「あ……は、はい、王太子殿下」
いけないいけない、と内心で自戒しながら慌てて姿勢を正す。王子に色目を使う女をたしなめていた自分が、王子にうっとりしてしまっては仕方がない。
「こ、こちらこそ失礼いたしました」
「いや、僕が悪かったんだ。謝らないで」
王子はそう言って去って行く――と思いきや、どうしてかなかなか動かない。
ドリスが顔を伏せ気味にしたまま上目遣いにうかがうと、王子は眉を八の字にして視線を横に流していた。唇を噛みあわせるようにして、何か迷っているような様子だ。
どうかされましたか、と声をかけようとした矢先、王子の方が口を開く。
「ドリス、ちょっと聞いてもいいかな……」
名前を覚えていてくれたことに反射的に舞い上がりながらも、ドリスは平静を保とうと努めた。
「は、はい。なんでしょうか?」
王子は小さく息をついて、歯切れの悪い口調で話し始める。
「その、イリア――黒蜘蛛の君はさ、……君たちといるとき、僕の話をすることって……あるかな?」
思いがけない質問に、ドリスは目をぱちくりさせる。明朗快活な王子のこんなにはっきりしない物言いも、初めて耳にするものだった。
「ええ、もちろん、ございますよ」
「そっか。……それで、イリアは……つまり……」
王子はまた深々と息をつくと、ドリスをまっすぐ見つめて言った。
「イリアは、僕のことが好きだと思う……?」
ますます突拍子もない質問だと思った。
ドリスは思わず笑みをこぼし、ゆっくりとかぶりを振る。
「もちろんですわ。黒蜘蛛の君はいつだって、殿下のことを愛情をこめて“フレッド”とお呼びになります。他の女性に殿下をとられてしまわないかだってお気になさってるんですから」
「……そう」
「ええ。学園に招待されたのだって、きっと殿下と生活をともにしたいという黒蜘蛛の君の愛情ゆえです」
「そうかな……」
「それに、殿下はとても魅力的でいらっしゃるじゃありませんか。黒蜘蛛の君もあれほどお美しいかたですもの、殿下ほどのおかたじゃないととても釣り合いません。お二人は神様が引き合わせたと思えるほどお似合いですわ」
ドリスが確信を込めて言い聞かせると、王子は弱弱しいながらも笑みを浮かべてくれた。
「……そうだね、ドリス。ありがとう」
手を振って去って行く王子の背中を、ドリスは満足げに見送った。
***
妙な興奮をはらんだドリスの報告に対して黒蜘蛛の君が浮かべた嘲笑を、ドリス本人は気づいていないようだった。
しっかり見ていたのはミレイユだ。だが彼女もまた、その嘲りがどのような意味であるかを理解してはいないだろう。ミレイユはドリスに比べたらはるかに聡明だが、自身の視野にとらわれていることには違いない。だがそれを自ら主張してこないことは、黒蜘蛛の君が彼女を気に入っている理由の一つだった。
とはいえ、今回のドリスの報告はある程度役に立つものだった。
フレデリックが疑っているのは黒蜘蛛の君の愛。本人の前で愛を示して見せていても、それが心の底からの情に基づくものなのかが分からずにいる。
彼はイリアナスタを愛している。だがイリアナスタからは同じだけの愛が感じられない。
憂鬱のもとはそれだ。婚約、という形式的な関係ができてしまえばなおさら、愛情などという結びつきは必要がなくなる。
フレデリックは道化をふるまう。だがその実、物事の本質に気付くだけの慧眼も備えていた。
役者はそろっている。初めからそうだった。
悪を悪たらしめるのは、それを映す鏡があればこそ。シャルル・クロイツがその媒介なのだ。
黒蜘蛛の君は、正しい結末に向かうことを心に決めた。