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11. シャルルのレッスン

 午後の空きコマの時間、エルバルドと約束していたシャルルは音楽教室へ向かう。

 エルバルドは黒蜘蛛(くろくも)(きみ)にたしなめられた通り、シャルルへのレッスンを授業外で行うことにしてくれた。シャルルにしても余計な反感を買わずに済むに越したことはない。


 北棟の階段を上っていくと、その時間の授業に出るところなのだろう生徒たちの流れに会う。楽譜を持っているということは音楽の授業だろう。

 声楽の担当はエルバルドだが、他にも様々な楽器、作曲などのクラスも開かれている。今の時間は何の授業があったろうと何気なく思いめぐらせながら、シャルルは最上階のエルバルドの教室をノックした。


 間延びした応答の声を聞きとって扉を開ける。

 ピアノの横に据えた蓄音機の前で、エルバルドが床にかがみこんでいる。


「こんにちは、先生」


 挨拶しながら中に入る。広い教室を自分だけに使わせてもらうのはいつも申し訳ない気がする。だがそれを言うなら、エルバルドを独り占めすること自体が畏れ多いことなのだ。


 うずくまったエルバルドは、床に並べたレコードから何かを探しているようだった。珍しく眉根を寄せて真剣な顔をしている。


「先生?」


 声をかけると、エルバルドはシャルルに目もくれずただ片手を振って見せる。

 シャルルはおとなしく、授業でやっているのと同じ発声を始めた。


 しばらくして、「これだ、これだ」と言いながら立ち上がったエルバルドが、くるりと振り向いてシャルルを指さす。もう一方の手では一枚のレコードをつまみあげていた。


「君はどうも胸の中の空気を全部出さないね。自分でも分かるだろう?」


 つかつかと寄ってきたかと思うと、レコードの縁でシャルルの腹をつつく。


「呼吸すると筋肉の膜が上下に動く。きちんと息を吐き切ったら膜が上がるはずだが、君のは途中で止まってる」


 指摘されたことは確かに自覚していた。


「……あまり、うるさくしてはいけないと思って。他の教室では授業をしているのですよね?」

「君はバカか、ミス・クロイツ」


 さらりと言ったエルバルドは、戻って行って手にしたレコードを蓄音機に載せる。


「ここは私の教室で、私は授業なんかより君の訓練を優先してるんだ。誰よりも大きな声を出す権利は君にあるに決まってる」


 シャルルはぱちぱちと目をしばたたく。

 そういえば、と思い出した。エルバルドの声楽のクラスにはいくつかの日程があった。同じ内容だからシャルルはそのうちの一つしかとっていないが、他の日程は――まさにこの時間だった気がする。


「先生、本当は今、授業の時間なのでは……?」


 試しに尋ねると、エルバルドは肩をすくめた。


「助教に任せてあるから心配ない」


 シャルルは呆れたのと申し訳ないのとで思わずため息をつく。

 授業なんか、というエルバルドの言は単なる得意の憎まれ口ではないらしい。エルバルドが相当に奔放な気風であることは理解していたが、仮にも教師の言葉にしてはあまりに無責任に聞こえる。


「みなさんはエルバルド先生の授業を受けたいのではないんですか?」

「だから何だい? いくら私だってセンスを教えることなんかできないんだ。君みたいにセンスがあれば理屈を教わることで上達するが、そもそもセンスを持ち合わせてない人間が理屈だけ知ったってどうにもならない」


 エルバルドは、腑に落ちない表情を浮かべている編入生を見やった。


 彼にしてみればしごくまっとうな主張であり、それを不思議に思う方が理解できない。

 芸術は生きることそのものと似ている。客観的な描写を他者と分かちあうことはできるが、感じるものそれ自体は当人にしか分からない。言葉や記号で表してみたところで“もどき”の領域は出られない。真の姿は感じ取った者だけが知るもので、他人の感覚などは事実として存在しえない。

 教師として教えられるのは“もどき”だけ。それを芸術に昇華できるかどうかは、当人の感覚以外に拠るものはないのである。


 価値のあるセンスを備えた者はそうそういないが、時折この編入生のように見込みのある才能が現れる。普段はたいして意味のない教育に甘んじてやっているのだから、めったにない生徒を得られたときくらいは価値のある仕事をしてもいいはずだ。そもそも、生徒の能力を高めることが教育者としての役目であるはずなのだから。


 君にとっても不満に思うことなんかないはずだ――と言いかけて、エルバルドはシャルルの瞳の憂慮する色に気が付いた。


「ああ……ひいきされてるって責められるのが嫌なの?」


 エルバルドにも充分に覚えがあった。庶民の編入生を必要以上に特別扱いしていると、生徒のみならず教員の中にもそう言う者がいる。その娘が女として好みだからではないのか、などという気味の悪い勘繰りすらはばからない人間が。

 自分の見方をふりかざすことしかできない間抜けなどほうっておけばいいのに、人の好いシャルルはいちいち相手にせずにいられないらしい。


「言わせておけばいい。誰からも好かれるなんてどだい無理なんだから」


 軽く言ってのけるエルバルドの背中に、シャルルはもはや反論しなかった。


「さて、じゃあこの曲を覚えてくれ」


 シャルルは気持ちを切り替えて、蓄音機から流れてくる曲に耳を傾けた。

 マイナー調の弦楽器の伴奏に荘厳な印象を覚える。重々しい調子の前奏に対し、入り込んできたヴォーカルは意外にも澄んだソプラノの女声だった。


「――アントン・ブレイですか?」


 と、突然通りの良い青年の声が割り込んできて、シャルルは驚いて教室の入り口に目をやる。

 フレデリック王太子が立っていた。例によって顔中に人懐こい笑みを浮かべている。

 笑顔の王子はエルバルドとシャルルを見比べ、嬉しそうに両腕を広げてエルバルドに歩み寄ってくる。


「先生、お久しぶりです!」


 挨拶されたエルバルドの方は、蓄音機によりかかって眉を捻じ曲げて見せる。あからさまに歓迎していない表情を作っていた。


「何か用?」

「用も何も、ご挨拶に来たんですよ」

「手紙で話したろう。それほど久しぶりじゃない」

「やだなあ、相変わらず意地悪なんですから」


 シャルルは二人が親しい関係だということを知らなかった。きょとんとした緑の目に見つめられた王子は、ああ、と察した声を上げて説明してくれる。


「昔、城で先生に音楽を習ってたんだ」

「何も教えちゃいない。君が好き勝手にわめくのをほうっておいただけだよ」

「そうなんだ、僕は音痴でね。でも先生が矯正してくれた」

「矯正しきれなかったから城を追い出された。私がクビになったのは殿下が音痴なせいだ」

「ひどいな、クビになったのは自業自得じゃないですか!」


 シャルルはくすりと笑みをこぼす。フレデリック王子の犬がしっぽを振りたくるような愛想の良さに対し、エルバルドはつれない憎まれ口を返すばかり。なのにその表情や口調から、二人の仲が良いことはこれ以上ないほど感じ取れた。


 二人は王太子と元王室楽士――と、シャルルは改めて気づき姿勢を正す。確かに二人とも気さくに接してくれるけれど、本当ならシャルルなど気安くそばに寄れる身分ではないはず。へらへらと笑ってしまったのも本来失礼なのでは、とシャルルは授業で習った礼儀作法を思い出そうとする。

 そんなシャルルの緊張を察したエルバルドが、王子に向かってあしらうように手を振った。


「用がないなら出て行ってくれ。彼女のレッスンが進まない」


 王子は「彼女のレッスン」という言葉だけに反応して再び目を輝かせる。「出て行け」の方は耳に入らなかったらしい。


「そうそう、アントン・ブレイですよね? 彼女を歌劇に出すんですか?」

「歌劇?」


 シャルルは思わず口を挟んだ。


 “アントン・ブレイ”というのは戯曲の名だ。殺人を犯した逃亡者の女と恋に落ちた遊行僧のアントン・ブレイが、女の罪を雪ぐため自ら煉獄に堕ちる悲劇を描いた演目である。

 有名な戯曲であるから歌劇になっているのは分かるが、今流れているこの曲が劇中歌だとは知らなかった。


 ――我が手を刺した紅の棘 肉を貫き魂まで

  清ら面は深く裂け 流るるこの身風任せ――


 ひずみのない声が空気にまっすぐ筋を引くようにソプラノを歌い上げる。

 重く暗い曲調に、どこか痛ましく儚げな声の表情。そうと分かって耳を傾ければ、罪人の女アベーラの歌なのだと理解できた。


 のんきに納得しているシャルルをよそに、フレデリック王子は一人で興奮気味にはしゃべり続けている。


「シャルルがあの舞台に出られたらすごいよ! 市井の子が推薦されてきたことなんて、初めてじゃないかな? きっとみんなシャルルに注目する。彗星のごとく現れたスターだって――」

「勝手なことをお言いでないよ、殿下」


 うろうろと蓄音機の周りを歩き回る王子の鼻をエルバルドがつまんだ。

 王子が口をつぐんだ隙に、シャルルもさすがに疑問の声を挟んだ。


「あの、舞台というのは……?」


 エルバルドは鼻をつままれもがく王子を数秒間責めるような目で見ていたかと思うと、やがて手を離して肩をすくめる。


「私の知人が主宰する劇団がある。年初めに若い役者を抜擢して舞台を催すんだ」

「王室も招待されるんだよ。今年の演目はアントン・ブレイだって聞いてる」

「まあ、つまり……君にその気があれば主宰に紹介しようかとは思ってた」


 きょとんとするシャルルの反応に、エルバルドは目をすがめて王子をねめつける。


「折を見て話そうと思ってたのに、殿下は人の予定を狂わせるのがうまくて困るね」

「それは、すみません……でもいいじゃないですか! 僕はぜひシャルルに機会をあげてほしいです。彼女ならきっとやってのけるはずですよ」


 シャルルにはまるで話についていけなかった。


 つまり、エルバルドの知り合いが催す歌劇の舞台に役者として出演するよう勧められている、ということだ。だがシャルルは歌の訓練を受けるのも初めてなら、演劇に至ってはろくに観たこともないほど。とても舞台に立てるとは思えない。

 エルバルドも王子もシャルルの能力を買ってくれているのはありがたいことだが、根拠のない過大評価としか思えない。


 シャルルは内心でため息をついた。


「あの……私、何の経験もないんです。そんな大役ができるとはとても思えません」

「だからこそ勧めてる。もともとそういう趣旨の舞台なんだ、素人あがりの新人にチャンスを与えるっていうね」

「エルバルド先生が付いてるんだから心配ないよ。先生はこう見えてもすごい人なんだから」


 シャルルの控えめな口ぶりを、エルバルドも王子もまるで意に介さないようだった。


 ――いけない、とシャルルは小さくかぶりを振る。また逃げ隠れしようとしてしまっている、と。


 シャルルは昔からずっと運に恵まれてきた。目立たず普通にしていようとしても、親切な人がなぜかシャルルを見出してくれる。声をかけてくれた男性が後になって立派な家柄の人物だったと分かったのも、今回が初めての例ではなかった。


 いつもは理由が分からない。どうして自分が、と聞いてみても納得のできる答えが得られることはなかった。君は特別だ、君は素敵だ、と抽象的な賛辞をいくら受けても、シャルルにはそれが本気であるとも自分にふさわしいとも思えなかった。

 それが、今回は違う。ちゃんとシャルルの能力を見て、可能性を買ってもらえたのだと思った。教育を受けて自分の能力を伸ばす機会を与えられたのも、今までにないことだった。シャルルにはそれが嬉しかったのだ。


 これまでずっと、自分の実力にふさわしくない扱いを受けてきた。でも今この学園で努力して実力を身に着ければ、どんな扱いを受けても堂々とふるまえる。それが自分にふさわしいのだと、胸を張って言えるようになる希望を抱いていた。

 だから今は与えてもらった機会を辞退すべきではない。それは認めさせるチャンスなのだから。他人にではない、自分に自分を認めさせる、かけがえのないチャンス。


「そう……ですね。私、頑張ります。先生にも殿下にも、恥をかかせないようにしないと」


 笑顔を作って見せるシャルルに、王子もまた弾けんばかりの笑顔を浮かべた。


「その意気だよ、シャルル! 僕はいつでも君を応援してるからね」

「フレディ、そうまなじりを下げてると蜘蛛に噛まれるよ」


 蓄音機を止めてピアノに向かいながら、エルバルドが人の悪い笑みを浮かべる。

 黒蜘蛛の君のことを言っているのだと分かって、シャルルはまた肩を縮こまらせてしまう。


 エルバルドの言はもっともだ。いくら王子本人にその気がなくても、恋人が別の女子に親しくふるまうのは喜ばしくないはず。


 ただでさえ、彼女に嫌われていることは分かっている。聡明な黒蜘蛛の君は、シャルルが受けているのが過大な評価であると気付いているのだ。シャルルが心の奥底でそれに甘んじているということにも気づいている。

 シャルルの方はそんな彼女を憎く思えなかった。むしろ、彼女にこそ認めてもらえるよう努力せねばならぬと感じていた。


 指摘されたフレデリック王子は気にすることもなく、むしろ得意げな笑みを浮かべる。


「いいんですよ、やきもち妬いてもらえるなんて嬉しいくらいだ」

「そうは言ってられないと思うけどね。とうとう正式に婚約するんだろ?」

「ああ――はい、そうなんです」


 かと思うと今度は急に声をすぼめた。明らかに覇気のない表情になると、気まずそうに自分の肘をさすりながら、「じゃ、失礼します」と言い残して去って行った。


 分かりやすくしょげかえった王子の後姿を見送って、エルバルドは首を傾げた。


「魔法の言葉かな。ミス・クロイツもあいつを追っ払いたかったら『黒蜘蛛と婚約』って言ってやりな」


 エルバルドが軽口を叩く一方、シャルルは王子のことが心配になっていた。


 王子は陽気で前向きな態度が目立つ人物だが、心が傷つかないわけではないはず。むしろ普段明るくふるまっているのは、心の中で悲しい感情を持て余しているからなのではと、そんな気がしていた。

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