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10. 黒蜘蛛の役目

 黒蜘蛛(くろくも)(きみ)の寮室も、王子と同じ広い一人部屋だった。

 太陽の昇り始めた早朝、常と同じ時間に目を覚ましたイリアナスタは、ベッドに横になったままいつになく物思いにふけっていた。


 フレデリック王太子の自由な気性と振る舞いは、彼の両親――すなわち国王夫妻にも悩みの種である。

 常識にとらわれない柔軟な思想、と言えば聞こえはいいものの、王家が築いてきた伝統と権威を軽んじていいものではない。それは神によって与えられた揺るぎのない地盤であり、世界そのものを支えるのだから。

 しかし王子を抑圧することが逆効果であるのは明らかだった。制限を厳しくすれば彼はいっそう反発し、権威に逆らうことそのものを目的としてしまう。そうなってしまうよりは、世界を良くしようという彼なりの信念に沿って活動していた方がよほどいい。


 黒蜘蛛の君は国王夫妻の憂慮を心得ていた。二人の信頼を得たのもそれが理由だ。

 王子の思いつく小さな改革が実現する手はずを整えてやり、一方で王家としての役目を忘れぬように促してやる。王子は自分が自由であることに満足しているからこそ、少々の妥協は妥協と思わず、以前は脱走していたような式典や会合にもきちんと出席する。

 黒蜘蛛の君ならば王子の手綱を握っていられる、と王室関係者から信頼されるのは願ってもないことだった。


 王子の留学を決定するときも、イリアナスタは王室での会談に呼ばれていた。


 言い出したのは王太子本人だった。戴冠する前に、普通の若者として学校生活を送ってみたいのだと。

 黒蜘蛛の君にしてみてもいい機会だった。自身が牛耳る学園への留学を認めさせれば、王子の身柄を預けるに足るとみなされていることの証明になる。


「絶対にいい経験になるよ。王室にこもってたら見えない世界が見える。いろいろな人と会って一緒に生活すれば新しいことを学べるし、王様になるには広い知識が必要だろ?」


 興奮気味に留学の意義をまくしたてる王子に対し、王妃は心配をあらわにする。


「次の春には戴冠式なのよ。王として身に着けておかないといけないことがまだたくさんあるのに――」

「だからこそ今じゃないと! 王になったら忙しくなることくらい、僕だって分かってるんだ」

「でもフレデリック、あなた、城にいてもすぐに行方をくらませるじゃありませんか。外に出したらそれこそどこで何をしでかすか心配で仕方ないわ」


 ねえ、と王妃に目を向けられ、国王もうなずいた。


「お前が気儘に遊ぼうとしてるだけなんじゃないかと心配なんだ。フレデリック、お前にはきちんと落ち着いてもらわないと困る」

「遊ぶつもりなんかじゃない! 僕は良い王になりたいんだ、そのために勉強したいって言ってるだけなのに――」

「王として視野を広げようという殿下のお考えはすばらしいものですわ」


 黒蜘蛛の君は冷静に口を挟んだ。


「勉強なさりたいというのも間違いなくご本心ですことよ。陛下の目を盗んで遊蕩しようだなんて、勤勉な殿下がお思いになるはずございません」


 王子は嬉しそうに黒蜘蛛の君を見やり、こくこくと頷いて見せた。


「ですから留学にするにしても、ご心配をおかけすることのないよう最大限配慮するおつもりなのだと存じますわ。そうでしょう、殿下?」

「もちろん! どうすればいい? どうしたら認めてくれる?」


 黒蜘蛛の君はにっこりと国王夫妻に笑いかけた。

 二人はその意図を理解していた。昔からそうだった。イリアナスタは王子の主張を全面的に認めて見せて、王子に譲歩させるためのお膳立てをする。


 結局、フレデリック王子は留学を認められることになった。週末には城に帰って学園生活の報告をすること、無断で外を出歩かないこと、城で勉強する予定だった政治学や儀礼のしきたり等はきちんと学ぶこと、王太子として必要な行事には必ず出席することが条件だったが、学校に通えることが嬉しくて仕方ない王子はさしてこだわりもなく受け入れた。


 そうしてもう一つ、王子だけでなくイリアナスタに課せられた条件があった。

 冬の舞踏会にて、二人が正式に婚約することだ。


 イリアナスタにとってはこれが、卒業後に王家に受け入れられることの保証となったのだった。


 王子がイリアナスタに好意を抱いていることは間違いないと思っている。

 だが、シャルル・クロイツの存在が何の影響も及ぼさないとは思えなかった。


 フレデリック王子は偶然シャルルを見出し、自分の留学先であるブルクリアス学園への編入を推薦した。偶然というきっかけは、彼のように感覚を重視する者には大きな意味を持つ。

 すなわち、“運命”であると。

 彼がシャルルに親し気な態度を取ったのは、生来のなれなれしさに加え、イリアナスタの気を惹こうとしたから。だが、いつまでもそれに留まるとは思えなかった。


 シャルル・クロイツは“素敵な子”だ。彼女は接する者をすべてを受け入れ、受け入れられているという安心感を相手に与える。


 幼いころ自分を「王子に向いてない」と評していたフレデリックは、今もなおその感覚を捨てられずにいる。自由にふるまうのは、正統な王子らしい行動をとる能力がないと無意識に思っているからでもあった。自信のなさを奔放さで隠している。


 イリアナスタはそんな彼のありようを認めてやった。彼に懐かれるにはそうすることが必要だと知っていたから。

 シャルルもまた、認めるだろう。図ってのことではない。彼女の本性が自然とそうさせるに違いない。

 つまりフレデリックにとって、シャルルもまたイリアナスタと同様に魅力的な人物となるはずだった。


 ほうっておくわけにはいかない――という思いは、イリアナスタの思考をうつろっていた。

 本当にそうだろうかという疑いの声が頭の中でささやかれるのだ。


 黒蜘蛛の君は、自身の任ぜられた使命を考え続けてきた。


 悪とは何であるのか。

 たとえば何者かを殺したとして、投獄されればただの罪科人。隠し仰せ、もっと多くの人間を殺した方が悪に違いない。

 だが神の使者は、人を蹴落とし自身がのしあがることと表現していた。それは暴力を自らの手で犯すようなことではない。もっと大きく、広く、彼女の姿を見たことのない者にすら畏怖を与えるもの。

 それには権力が不可欠だ。権力とは、必ずしも実力を伴うものではない。空手でもいい。名と評判さえあればいい。

 “黒蜘蛛の君”という名は、最も強力な武器の一つだった。


 イリアナスタは静かにベッドから起きだす。シーツを整え、カーテンを開け、祈りをささげる。体を洗い、身支度を整えると、日課の散歩のため部屋を出る。


 まだ誰も活動を始めていない静かな学園を歩くのは、心落ち着くひとときだった。


 黒蜘蛛の君は油断をしてはいけない。常に気を張り、周囲に注意を配り、そして周囲から見られることを意識して行動せねばならない。

 以前はつらく感じたこともある。黒蜘蛛の君でありつづけることに疲れたこともある。

 今は違う。慣れたというだけではなく、別の面に気付いたからだ。外から見える姿は完璧な黒蜘蛛の君でなくてはならないが、心の中は自由であること。


 何を思い感じようと、それは己のみが知ること。


 イリアナスタには感情を殺す必要はない。思想を変える必要もない。どうふるまい何と見せかけようと、イリアナスタの自我そのものは自由だった。


『――それも一つの才能だよ』


 神の使者からの言葉を思い出す。

 カルロ・カーリィと名乗った使者とは、これまで二回だけ会っていた。神からの使命を賜った朝と、その後――黒蜘蛛の君として学園に入学し数か月が経ったとき。


『世の中には、人から見られる自分こそが真の自分だとみなしてしまう人もいる。あなたは違う。人から見られる自分ではなく、意識する自分を真と思える。どちらがいいというものではないんだけど、この任を果たすには、あなたのような自我の在り方が必要だと思う』


 鮮やかな黄色の服をまとった奇妙な青年は、学校の休暇中に再びヴィドワ家を訪れたのだった。


 イリアナスタは既に黒蜘蛛の君の名を得ていた。疲れ始めていた。

 使者はそれを分かっていたのだろう。


『神は無用なことをわざわざしない。あなたに使命を与えたのは、あなたでなければ為せないから。あなたが必要だからです』


 使者を寄越して鼓舞させるのも必要だからなのだろう、とイリアナスタは理解していた。


 そして“悪”もまた必要なもの。


『本当にそう思えてる?』


 使者の質問は、疑いから出てきたものではない。イリアナスタ自身にはっきりと自覚させるため。それを己に言い聞かせるよう促すため。


 悪は善を映し出す鏡だ。善しか存在しない世界に、“善”はありえない。画一の世界には必ず特異が生まれ、確立した価値を疑い始める。

 善を善たらしめるためには、相反する悪の存在が不可欠なのだ。


 イリアナスタが悪を引き受ければいい。世界に対して悪を体現して見せる。だがイリアナスタの内心が悪に染まる必要はない。イリアナスタにはそれをやってのける能力がある。

 黒蜘蛛の君が行使する悪に反して生まれてくるのは、真に求められるべき善に他ならない。


『あなたにしかできない役目があるんです』


 使者はそう言い残して、再び去って行った。


 イリアナスタは己の役目を理解しているつもりだった。

 だがその理解が――不足していたのではないかと、今は思い始めている。不足どころか、誤りではなかったかと。


 シャルル・クロイツだ。

 彼女の存在が、黒蜘蛛の君の揺るぎなかったはずの目的をうつろわせる。


 イリアナスタは直感を信じない。思考には必ず合理的な理由があると信じていた。だがそれにもかかわらず、シャルルの存在はイリアナスタの感覚に働きかけてくる。

 シャルルこそが、イリアナスタが果たすべき本当の使命の化身なのだと。


 思考にひたっていた黒蜘蛛の君は、ふと、朝の静けさを揺らすかすかな声に気が付いた。

 歌声だった。

 小さく息をつき、歩みの方向を変える。


 北棟の裏手に足を踏み入れるのは、庭師を除き、朝の散歩で学園をぐるりと回るイリアナスタくらいのものだ。ほとんど全体が日陰にあたり、通路もなければ広場もない。誰にとっても無用の場所。

 もっとも、彼女もそうと分かってここを選んだのだろう。


「――相変わらず、素敵な声ですわね」


 背後から静かに声を掛ければ、歌声の主は金髪を揺らして振り向いた。

 目を丸くしたシャルルが、慌ててこちらに向き直り姿勢を正して一礼する。


「ご、ごめんなさい。うるさくしてしまって――」

「あら、どうして謝るの? 人に聴かせるために歌っているのでしょう?」


 黒蜘蛛の君は冷ややかな声を出した。

 二人きりで言葉を交わすのは初めてのことだと気が付いていた。


「いえ……練習中、ですから。お聴かせてできるようなものではなくて……」

「まあ、謙虚ですのね――とでも言われたいのかしら」


 シャルルは目を伏せ、心底恥じ入った表情を浮かべている。

 彼女には悪意がないとイリアナスタは判断していた。たとえあったとしても、うわべで見て取れるたぐいのものではないのだと。


「卑屈さはかえって傲慢になりますことよ。わたくしは、あなたの歌は素敵だと思うわ。でもあなたがそう思わないということは、わたくしがあなたより劣っているということになるのでなくて?」

「……」

「あなたはわたくしを見下しているのよ。本当は分かっておいでなのでしょう?」


 シャルルが挑発に乗らないであろうことは予想がついた。


 彼女を心無い言葉で責めるのは黒蜘蛛の君だけではない。嫉妬を抱く生徒たちにいくら詰め寄られても、シャルルはいつも黙っている。申し開きすらせず、ただ言いたいことを言わせている。

 意図は分からなかった。まさか言われたことが事実だと認めているわけでもあるまい。おそらく、何も言わなければ火に油を注ぐことはなく、最も穏便に済むと思っているのだろう。


 怒りを覚えにくい人種が存在することは分かっている。他者への怒りが自身への失望に変換されるたぐいの人間。シャルルがそうだとしたら、挑発は無駄ではない。いかに理不尽な主張であっても、彼女の心をむしばんでいくはず。


「あなたは優越感に浸っているのだわ。だから何を言われても黙っていられる。あなたにとってみれば単なる負け犬の遠吠えにすぎないからよ。王太子殿下まで味方に付けるなんて、本当にしたたかな子だわ。よほど成り上がりたいようね」

「……は、はい」


 思いがけず返答があったことに、黒蜘蛛の君は不覚にも驚いた。おまけにそれが肯定の言葉であることにも。

 シャルルはまだ目を伏せていた。だがその瞼は震えておらず、視線はまっすぐに保たれている。怯えているわけでも自信がないわけでもない。


「……きちんと、身分を得るべきだと思っているんです。そうしたら、身の程をわきまえないことで皆様に不愉快な思いをさせずに済むから。今はできるだけご迷惑をおかけしないように努めます。どうぞご容赦ください、黒蜘蛛の君……」


 シャルルはきわめて明瞭にそう言ってのけた。皮肉めいたところなどない真摯な口調。それが本心だと直感させる、誠実な表情。


「……好きにすればいいわ」


 黒蜘蛛の君は冷たく言い放ち、その場を後にした。

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