僕の左目をあげる
彼はちょっと、誰の目から見ても、わかりやすく異常だった。
私が彼の存在を知ったのは、彼の方から私に話しかけてきたからである。喋らなければ、私はきっと、彼の異常性も知らず、平穏に生きることができただろうに。
こういう偶然を呪いたくなるのは、私だけだろうか。
私は彼を嫌い、更には私自身をも嫌った。
「君」
初めて彼の声を聞いたとき、話しかけられているのがまさか自分だとは思わなかった。とんとん、と肩を叩かれ、飛び上がらんばかりに驚いたことは、私の人生におけるこれ以上とない恥に認定して差し支えないだろう。びびりすぎた私の反応に「お化けでも見たみたいな反応だね」と彼がからからと笑っていたのをよく覚えている。
その段階では、彼は普通の人にちがいなかった。彼はたまたま近くを通りかかった私に声をかけただけだった。話しかける理由に、何の不思議もない。明らかに私の驚きようがオーバーリアクションというやつで、彼には何の非もなかった。
彼は私が落ち着いたところで、「急に話しかけてごめん」と謝ってきた。繰り返し言うが、ここまでのところ、彼に非はない。
「いえ、私こそごめんなさい。それで、何でしょうか?」
私がそう尋ねると、一瞬の間に背筋をなぞるようなおぞましい感覚が駆け巡り、彼がどこまでも妖艶に、にやり、と笑ったような気がした。
彼は、次いで、私が予想だにしなかった恐ろしい告白をしてきたのだ。
「ねぇ、僕の左目をあげるから、君の心臓をちょうだいよ」
何を言われたのか、わからなかった。頭が、理解を拒否したのだろう。
僕の左目をあげる、だけでも充分猟奇的なのに、君の心臓をちょうだいだって? 何を言っているのかわからない。心臓なんて、命の象徴じゃないか。出会い頭にそんなことを要求するなんて、まともな人間のすることではない。
「な、にを、言ってるの?」
すると彼は飄々と語り出す。
「僕はね、君に恋をしたんだ。だから、恋をした相手には、何か贈り物をしなきゃいけないと思って。左目じゃ、足りなかったかな?」
いやいや、そういう問題ではない。恋? 贈り物? 発想はわからなくもないけれど、それで左目を差し出して、相手には心臓を求める? 思考回路がおかしいとしか思えない。
「いやっ……」
私は恐ろしくなって逃げた。彼が追ってくることはなかった。
ただ小さく風に紛れて、こう聞こえた。
「そっか、君に受け入れてもらえないなら、もう生きる意味もないや」
それから数分後、辺りが騒がしくなって、誰かが飛び降り自殺をしたことを知った。
まあ、こんな病院では、ままあることだ。治らない、と通知された病気、ただ家族の生きていてほしいという自己満足のためだけに延命されて、そんな命に価値があるのだろうか。
私の病気は幸いにも、左目を移植するだけで治るらしいからドナーを待っている。
どうやら自殺した人物の目が適合するらしく、私は手術を受けた。
術後、ドナーの顔を見ないか、と霊安室に連れて行かれ、自分と同い年くらいのやけに綺麗な男の子を何の感慨もなく見た後、私は何事もなかったかのように退院した。
ああ、これで不気味な人物に会わなくて済む、と清々した。