空知らぬ~と詠うは 巻の二 「空知らぬ雪と詠うは彼の君か」
時は、大正ロマン華やかりし頃、世は戦争への機運が高まっているが、その足音をまだ、誰も聞こうとしていない。まして、鬱蒼と生い茂る杜が、世間からこの場所を隔離しているようだ。泉水流宗家は、静かに、確かに、250年の舞の道を歩んできた。
第15代宗家和泉雅太郎が、車寄せから車に乗って出ていった。それを止めることもできず、妻の和泉花舟が、ゆがめた顔を見せたくないと深々とお辞儀をして見送った。
桜の花びらが風に散る様子を、空知らぬ雪と先人はいう。
「空知らぬ雪かと人のいふなれば 桜の冬は風にざりける」
男が杯を傾け、紀貫之の歌を、朗々と詠った。
冬の嵐が、ガラス戸を震わしていた。一人の部屋から、稽古場へ向かう。凍り付くような稽古場に踏み入ると、ぴしっと床が鳴った。
ここのところ、なかなかに、舞が舞えないでいる。心がちりぢりに揺れているからだ。我が夫は、今宵も帰ってこないのだろう。
誰の下へ、通っているのか。彼が何も言わず出かけた夜は、私は、いつも稽古場で朝を迎えている。
舞い始めの少女だった私が、夢中になって、舞っていたころが幸せだった。自分が家元と結婚するなどと思っていなかった。それは、夫も同じだったと思う。
先代が、私を、息子の嫁にと言ったのはなぜだろう。夫は、家元は、なぜ、受け入れたのだろう。そして、わたしは、なぜ、結婚を承諾したのだろう。
ー判っていた。おこがましくも、私は、彼が、好きになっていたのだー
随分昔のことだ。舞いに、迷いが出て、苦しんでいた時に、一人、稽古場で、舞っていると、夫がふらっと入ってきて、黙って私の舞を見ていたが、
「舞う時は、自分の心と向き合わないとね」
「鏡に映る、姿かたちだけを追ってはダメだよ」
「大丈夫。迷いは稽古の産物だ。君は、たくさん、稽古してきたんだね。」
ただの気まぐれだったとしても、私にはかけがえのない言葉となり、深く感謝した。
尊敬の念は、あこがれへと変わり、大切な思い人となっていた。それに気づかないまま、10年、あの背中を追って来たのだ。
彼が次期家元になるのであれば、どこまでも支えていきたいと思うようになっていた。それが、突然、結婚となり、私は、彼の家元としての立場ばかり守ろうとしていた。支えるとは、そんなことではなかったのではないだろうか。結婚して、しばらくすると、彼は夜になると外出するようになっていた。
一人寝の夜は、つい、悲しい思いに囚われてしまい、眠れないまま朝を迎えることが怖くて、稽古場へ向かってしまうのだ。
つま先の感覚が無くなっている。それでも、舞い続けた。吐く息も白く、かじかむ指先では、想うように扇が持てない。
それでも、舞を辞めたくない。今の私は、舞うことだけが生きてる証だから。
日中のけいこ場は、華やいでいる。彼のしなやかな所作に、誰しもがため息をつく。手に取れそうでいて、永遠につかむことのできない水面の月。
弟子たちが、舞を舞う先にある、彼でしか到達できない境地をそう称える。それでもバカな私は、水面の月を手にしたいと本気で思う。
私は、稽古場の隅で、必死に目で追い続ける。光り輝く月が彼であるのならば、私は、その光が映し出す、深い影でも良い。彼と一緒に舞いたい。
そう思って来たのに、現実にその夢がかなうとなると、うれしさよりも恐れる私がいた。
ふーっと息を吐きだし、彼が舞っていた「桜」を舞う。4月に、家元と連れ舞をしなければならない。風の音だけが,私を包む。どれくらいたっただろうか、今日も上手く舞えない。
「舞う時は、自分の心と向き合わないとね」
彼の声が聞こえてきた。
―ぜんぜん、だめだー
幾日とつづく、一人の舞。もうすぐ、家元と舞わなければならないと言うのに。
今日は、これくらいで止めよう。稽古場を出た中庭には、早咲きの桜が一本植えてあって、その桜が、今を盛りの満開だ。
季節が春へと変わっていることを、私は楽しめていない。足を止めて見上げると、一陣の風で、花びらが舞った。
「空知らぬ雪かと人のいふなれば 桜の冬は風にざりける」
紀貫之が、千年の時を超えて、私に問いかけている。
「桜の花びらが散っている様は、空を知らない雪のようだ。だとすると、桜の冬とは、風のことだったのだなあ。」
桜が咲くほどに、季節は温かくなっている。それを私は、冬のように冷たい心で舞っていた。
―そうだ、これではいけないー
この美しい景色を、空知らぬ雪を、両手で受け止めよう。そして、散ってしまう桜を悲しむのではなく、また、めぐり来る季節を楽しもう。
「空知らぬ」ことは、寂しいことではないのだ。頑なな自分と言う桜の木に、風が吹いていた。
花びらを散らさないために、つぼみのままでいようと、無駄なことをしてきたような気がする。
空を恋焦がれるだけの桜の木でいては駄目だ。
空知らぬ雪が舞う時、桜の晴れ舞台に違いないが、花は、咲き、鮮やかに風に舞う。そして、緑の葉が生い茂り、赤く色付き、その葉もまた、散ってゆく。冷たい北風も、その身で受けて、季節は巡り、また、見事な満開の時を迎えるのだ。
もう一度、舞いたいと、稽古場へ向かった。
ふっと身体が軽くなっていく。ゆっくりと瞼を閉じて、己一人を、舞台に立たせた。
「さくら」を舞うとき、その輪廻をつま先にも、指先にも、吹き込んで、舞わねば、「さくら」ではないのだと、気付く。
―私も、粛々と季節をめぐらして行こうー
4月の連れ舞の為ではなく、いつか、家元と言う月を映し出す、清らかな水を満々と称える湖となれるように。
男が女と、顔を見合わせ、二人はにっこりと笑った。
「恋は、波のような物。力押しでも、彷徨うだけでもダメですなあ。」
「もっと、軽やかに、生きましょう」
そう言うと、男は嫣然と女の手をとって、抱き寄せた。
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涼音色 ~言ノ葉 音ノ葉~ 第36回 空知らぬ雪と詠うは彼の君か と検索してください。
声優 岡部涼音君(おかべすずね♂ )が朗読しています。
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