空知らぬ~と詠うは 巻の一 「空知らぬ雨と詠うは彼の女(ひと)か」
男が、女の手を取って、雲の階段を上って、ゆっくりと天の川の淵にとめた船にいざなう。今宵は、二人で、地上の詠み人知らずの女たちを見守ろうと言う、おもしろき宴だ。
時は、平安後期
後白河法皇が、時の権力をその手に握ろうとして、宮廷が大童になるのは、もう少し先の話となるため、時代はほんのひと時の静寂の中にいた。雲の切れ間から見える、その屋敷にも、まだ、宮廷の喧騒は聞こえてこないようだった。
見目麗しき姫が、ただ一人、庭の桜を扇子の端から、はらはらと花びらが散っている様を見て、涙を流している。
涙のことを、空知らぬ雨と、先人は、歌う。
「空知らぬ雨にも濡るる我が身かな 三笠の山をよそにききつつ」
天の川の船より、女がささやいた。
あの日、父君の開いたお月見の宴に、彼の君がいらっしゃった。都随一ともてはやされている方。私は、母さまとともに、御簾の中から彼の君の姿を一たび見ただけで、ため息をついていた。
「本当に、お美しい方ね」
母さまでさえ、思わず声に出されていた。そんな彼の君が、その夜、私の元にお尋ねになるとは。恥ずかしさのあまり声を出すことさえ出来ず、女房たちが気づいたのは、彼の君からの後朝の文が届いた時だった。
一度の逢瀬の後私は恋に落ちた。
彼の君にお会いするまで、まだ童女のように、はしゃいで母さまを困らせながらも、母さまや女房たちを笑わせて、小さき姫様と皆から呼ばれ、憂いなどと言う心を知る由もなかったのに。
日々の暮らしは、彼の君を迎えることだけがすべてとなっていた。
慌ただしく、私付きの女房も増え、父君より、新たに屋敷も与えられた。彼の君は、三晩続けて、お通いくださって、
「彼の君が、今日から小さき姫の正式な夫となられた」
と、胸をなでおろされ、父君は、母さまと手を取り合って、お慶びなされ、そして私は、時姫と呼ばれるようになっていた。
今日、彼の君がいらっしゃると、先ぶれがあった。女房どもも、なにやら華やいでいる。各々が、今日の衣装をこらしていた。
私は、五衣も唐衣も、どの色を重ねようかと朝から、迷っていた。萌黄、韓紅と部屋いっぱいに衣装を広げ、女房どもが姦しい
そして、衣に香を焚き染め、髪は、念入りに梳いておく。
ーああ、夕暮れが迫ってきたー
今日は、満月。あまり月明かりが入らぬよう、撥ね戸を下げておくように、女房に言っておかねば。
そして、私は、そわそわと、耳を澄ませた。
彼の君が、やっと訪れたのは、満月が空から下りてしまう頃だった。ほのかに、伽羅の香りをさせて。彼の君は、ことのほか、麝香の香りを好んでいらしたから、私は、ふと、心が震えることを禁じ得なかった。
それでも、彼の君のおとずれは、うれしいものだから、彼の君のさかずきに、ササを満たし、にっこりと笑みを浮かべた。
そんな日が、幾度やって来たのだろう。
もう、彼の君は、通ってきてはくれない。
後朝の文が、あんなに愛おしいものだったのに。
今宵こそはと、待ちわびている私のもとに、聞かずともよいうわさが伝わってきた。彼の君は、四条の宮家へお通いになっていると言う。
妻となって、父君も母さまと、喜んでいただいたのに、彼の君はただの気まぐれだったと言うことか。
私は、今、出てはいけないとたしなめられながら、部屋の縁にでて、おぼろ月を見上げている。はかない逢瀬と、京雀の口葉にささやかれるのだろうか。
日々の憂いを慰めようと後撰集を徒然に、さらっていると、巻十一 恋三 に、詠み人知らずの歌が、私のことのように切ない。
「空知らぬ雨にも濡るる我が身かな 三笠の山をよそにききつつ」
女は、ただただ、待っているしかないのか。
いえ、もう、待つことを止めよう。
風のたわむれに、耳を澄ますことを止めよう。
せんないことを、思い続けることはない。
空知らぬ雨
もう、瞼を濡らすことはない。
階にでて、朧月を見上げた。私は、もう、小さき姫ではないのだ。そっと、お腹に触れてみると、ぽこんと中から、答えてくれた。
私は、母になり、強く生きていく。
男が女と、顔を見合わせ、二人はにっこりと笑った。
「恋は、はかなきもの。愛しきものは、女を強くするもの」
「もっと、しなやかに、生きましょう」
そう言うと、女は、恥じらいを見せつつ、男の胸に手をやった。
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涼音色 ~言ノ葉 音ノ葉~ 第35回 空知らぬ雨と詠うは彼の女か と検索してください。
声優 岡部涼音君(おかべすずね♂ )が朗読しています。
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