1.世界の終わり
見切り発車ではじめてみました。よろしくお願いいたします。
ジョセフィーヌがソナタの最後の和音を奏でるべく、細い指先を鍵盤に押し込んだ時、侵入者によって殺戮のトリガーが引かれ数発の弾丸が放たれた。創造と破壊。二つの音はサンプリングされ、世界が終わる音になった。
静寂。
ジョセフィーヌは耳が良い。彼女の住む屋敷は部屋数が四十もある豪邸だったが、その銃声が正確に一階のリビングルームから聞こえたことが分かった。
次いで、耳が痛くなるような叫び声が上がる。父の声だ。
背後を振り返る。そこにはレッスン時にはいつも、影のように寄り添っている口数の少ない年老いたピアノ教師がいるはずだった。
彼女はいた。顔を引き攣らせ、震えながら両手を掲げている。痩せた白樺を思わせる老女が、このような表情をジョセフィーヌに見せたのはこれが初めてだった。ピアノ教師は毛細血管の浮き上がった赤い瞳を、ぎょろりと動かして、入り口を示す。
そこには黒の装甲に身を包んだ不気味な兵士達が三人、異界から現出した幽霊のように立っていた。彼らの手には小銃が握られ、底なし穴を思わせる銃口は真っ直ぐこちらに向けられている。
「なぜ……」
ジョセフィーヌは兵士に尋ねた。声が生まれたての小鳥のように、か細く震えている。だめよ、毅然としなさい。いつもお父様から、言われていたでしょう。疚しいことがなければ、恐れることはない。自分の正義を信じなさいって。
「どなたか説明してください。何が起こったの?」
兵士たちはゼンマイ切れの人形のように沈黙したまま、威嚇の姿勢を崩さない。質問に答えるのは彼らの仕事ではないのだろう。
ほどなく固い靴底がマホガニー材の床を踏みしめる音がすると、一斉に直立し、黒いカーテンが引かれるように入り口を明け渡す。
すらりとした長身の男が姿を現した。皺ひとつない漆黒のカソック。ブラウンの髪は後頭部に綺麗に撫でつけられ、生え際には少しだけ白いものが混じっている。鼻筋の通った端正な顔立ちと冬の冷え切った海を思わせる深い蒼の双眸には、嘲りとも哀れみともつかない表情が浮かんでいた。
ジョセフィーヌは、そのハンサムな顔を見たことがあった。かつて、この屋敷で開かれた将校たちのお茶会に出席していたはずだ。名前は思い出せない。広大な庭園で開かれるパーティーには多くの将校たちやその家族が出席していたし、顔を合わせたのは、その一回きりだったから。
彼は部屋の中心まで悠然と歩いて来ると、白い歯をこぼして笑顔を作った。完璧すぎて、まるで作り物のように見える。
「こんにちは、お嬢ちゃん。しばらく見ないうちに大きくなったものだ。いくつになったのだね? 12歳? 13歳?」
「15歳……」
「ふうむ、その割にはあまり肉もついていないし、痩せっぽちだな。ちゃんと好き嫌いをしないで食べているのかい?」
革手袋に包まれた男の手がジョセフィーヌの肩に触れたので、彼女は小さく悲鳴を上げた。
「無礼な!お嬢様から離れてください」
ピアノ教師が男の手を弾いて、ジョセフィーヌを庇うように立ちはだかった。
「あなたは?」
「ジョセフィーヌ様のピアノ教師です。このような無礼な行為は、許されるものではありませんよ」
「勇敢な女性だね」
男はさも愉快といった口調で言った。それから腰のホルスターに手を伸ばすとベレッタを取り出し、ピアノ教師の眉間をためらいなく撃ち抜いた。ジョセフィーヌの白い顔に血と脳漿が降りかかった。老女は足場を失くした積み木のように床に崩れ落ち、数回痙攣して動かなくなった。
「先生!」
老教師に縋ろうとすると、男はジョセフィーヌの腕組を掴んで引っ張った。
「離してください」
抗おうとしても、力の差は歴然だった。男が顔を近づけて言った。
「悲しい事実だが、君の血は汚染されているのだ」
半ば放心したままジョセフィーヌは、男に腕を掴まれて、引き摺られるように階段を降りていく。
途中で顔色の悪い、黒髪の少年とすれ違った。彼は何か汚い物を見るような視線で、ジョセフィーヌを睨み付ける。
一体、何が起きたのか、さっぱり理解できなかった。今日まで彼女は、人里離れた邸宅で幸せに暮らしていたのだ。確かに世界は平和とは程遠い状態だったが、戦争は遥か遠くで起きていることで、彼女の日常には怒りや争いなどは一切存在していなかった。なのにどうして、このような理不尽な暴力の襲来を受けなくてはいけないのか。
リビングから、獣じみた唸り声が聞こえてくる。悲しみと怒りが交じり合ったそれは、まぎれもなく父の声だったが、ピアノ教師の死を間近で見てしまったショックのせいか、どこか遠くから聞こえてくるような、すべて現実でないような、そんな気分になっていた。
私は悪い夢を見ているんだわ。きっと、ベッドで目覚めれば、いつもと同じ日が始まるんだろう。ほら、目を閉じればいい。もう一度、瞬きしたら夢から覚めるわ――。
しかし、そうはならなかった。
眼前には凄惨な光景が広がっていた。
それは終わらない悪夢、すなわち残酷な現実だった。
思わず、後退しようとするジョセフィーヌの背をカソックの男の手が押し留める。
「よく見なさい」
彼女は戦慄した。どうして、こんな事態が起こったのか、想像力を遥かに超えていて、もはや理解不能だった。
きつい火薬と濃厚な血の臭いに鼻孔が刺激され、涙がこみ上げてくる。見たくないのに、目を逸らすことが出来ない。
部屋の中央には、毛むくじゃらの獣が横倒しに倒れていた。犬ではない。尻尾や四肢は犬よりも太く、顔は頬骨の位置が高く目がつり上がっている。狼だった。金色の艶やかな毛並みの所々には赤く穿たれた銃創があり、溢れ続ける鮮血がウールの絨毯を汚していた。
部屋の隅に目を移すと、兵士二人に銃を突き付けられた父親が、力なく膝をついていた。
頬が涙で濡れている。ジョセフィーヌは驚愕した。誇り高き父親が泣いたところなど、これまで見た事がなかったからだ。兵士に殴られたのだろうか、くすんだ金髪は乱れて一部が赤く染まっている。
「お父様!」
ジョセフィーヌは叫んだ。父の視線がこちらに向けられる。次の瞬間、放心していた表情は鉄のように引き締まり、枯葉色の瞳は怒りに燃えて金色になった。
「カラン、貴様!」
カラン――カラン・ロス。そうだ。このカソックの男はそういう名前だった。同時に、かつて父親が中庭でこの男と煙草を燻らせながら、親しげに談笑している記憶が呼び覚まされた。母とジョセフィーヌの前でカランは、慇懃に頭を下げた。その時、父は彼をヴァチカン時代の士官学校の後輩だと紹介した。当時、カランが父を見る視線は、尊敬と羨望に溢れていて、とてもこんな野蛮な仕打ちをするような人物には思えなかったのだが。
「娘に手を出すな!」
父親が叫ぶと同時に、カランはベレッタをジョセフィーヌの側頭部に突きつけた。
「命令できる立場かな?」
銃口が触れた部分が燃えるように熱くて、ジョセフィーヌはひいと声を上げて抗った。だがカランは容赦しない。焼きごてのような金属が彼女の皮膚を焼き続ける。
「やめて、痛い!」
耐えがたい痛みがこみ上げて、ジョセフィーヌは涙をぼろぼろと流した。
「痛いだろう、お嬢ちゃん。この痛みは、裏切り者の父上の所為なんだよ」
ねっとりとしたカランの声が、耳の中に注がれる。たまらず、ジョセフィーヌは悲鳴を上げた。
「命令だ。すぐに娘を離すんだ!」
父親が怒鳴った。
「黙れ!」
カランは父親を一喝する。
「失望しましたよ……あなたのような英雄が血を汚すような真似をするなんて」
言いながらジョセフィーヌの頭に押し当てていたベレッタを、父親によく見えるように突き出した。両側のスライドには目立つ銀の十字架が埋め込まれ、マズルからグリップに至るまで細かい文字がびっしりと彫り込まれている。銃がジョセフィーヌの肉体から離れたことで焼けつくような痛みは去ったが、見ていると震えが止まらず力が抜けていくようだった。
「どうして、この娘はこんなにも十字架を怖がるのかな? さっきもあんなに痛がっていたね。血が汚れている証拠じゃないか」
カランがわざとらしく言った。
「この娘に罪はない。罰なら私がすべて引き受ける。もうこれ以上、私から奪うのは止めてくれ……」
威厳に満ちていたはずの父親がこんなに弱弱しく懇願するなんて。ジョセフィーヌの小さな胸は痛んだ。涙が止まらない。ジョセフィーヌは天を仰ぐ。神様――私たちがどんな罪を犯したというのですか。こんなことは間違っています。どうか私たちを助けてください。
カランは兵士にジョセフィーヌを託して、床に横たわる狼の前まで足を運ぶと、芝居がかった仕草で空に十字を切った。
「私の親友をたぶらかした悪魔め。はじめて君を見たときは、あまりの美しさに目が眩んだものだったが、まったく見事に化けたものだ」
カランがブーツの先で獣を蹴るとびっしりと生えた鋭い歯の間から、だらりと赤い舌が垂れる。灰色の目はガラスのように虚ろで、この狼が死んだのは間違いないようだった。
「これ以上、マリオンを冒涜するのは止めてくれ」
力なく懇願する父の言葉を、ジョセフ―ヌは信じられない気持ちで聞いた。いま、何と言ったのか。なぜ父親は、死んだ獣を母の名前で呼ぶのだろう。
「おや、お嬢ちゃんが狐に包まれた表情でいるじゃないか。この娘は何も知らないのだね。君は罪深い男だな。辺鄙な田舎に居を構えたのは妻子の正体を隠すためだろうが、ここは恥ずべきバビロンだ。欺瞞の帝国は滅びなくていけない」
その時、とっくに躯になったと思われた狼が低く唸った。カランが銃を構えるより素早く、前足を蹴って彼のブーツに鋭い牙を立てる。
「くそ!」
カランはベレッタを獣の脳天に突き付け、続け様に三発撃ち込んだ。狼は断末魔のうなり声を上げて、床にドサリと崩れ落ちる。カッと見開いた瞳がジョセフ―ヌを見据えた。瞳孔が徐々に拡大していく。眼球に水滴が溢れ、毛深い頬を伝って流れ落ちた。
「あ、ああ……」
ジョセフィーヌは喘いだ。狼の瞳の色。その優し気な淡い灰色は、まぎれもなく母のものだ。
父親はがくりと頭を垂れた。カランが彼の髪を掴んで、顔を上げさせる。
「頼む……娘だけは、見逃してくれ」
「往生際が悪いぞ、グライフ」
その声は冷たい。
「この娘は、生きているだけで罪だ。彼女には贖罪をしてもらわなくてはならない」
カランはジョセフィーヌに向き直って、足元に転がる狼を指差した。
「見たまえ、お嬢ちゃん。君はこの汚らわしい獣の胎から生まれたんだ」
「嘘よ……嫌……こんなの嘘だって言ってよ!」
胸が張り裂けそうに痛い。言葉にならない叫びが喉元から溢れ出る。悲しみ、絶望、怒り、あらゆる感情がオーバーヒートして、小さな心には収まりきらない。それはパチンと弾けてジョセフィーヌの視界をブラックアウトさせる。
意識がゆっくりと黒い絶望の谷に落ち込んでいく。これは悪い夢なのよ。もう一度、眠らなきゃ……。
やがて彼女は暗闇の底に辿りつく。そこら中、生臭い臭気で満ち、空気は湿って生暖かい。ごつごつした岩だらけの不気味な場所だった。
「お父様! お母様!」
ジョセフィーヌは叫んだ。どうしてこんな目に合わなくてはならないのか。いつの間にか悲しみは消えて、激しい憤怒の嵐が小さな体の中に吹き荒れている。それは衝動的な力を伴っていた。苦しい。怒りに飲み込まれてしまいそうだ。この苦しみから逃れる術は、たった一つ。すべてを破壊しなくてはならない。
ジョセフィーヌは唇をひん剥き、歯をむき出した。いつの間にか肉体の変化が始まっている。か細い手足には金色の毛が生え始め、ナイフのように変形した爪が床に食い込ませて背中を丸めると、服がビリリと破けて、布地の隙間から尻尾が飛び出した。顔が柔らかい毛に覆われると同時に、頭蓋骨が変形していく。鋭くなった牙の隙間から、恐ろし気な唸り声と涎が同時に垂れ流される。
尊大だったカランの顔に驚きの表情が浮かんでいる。その中に恐れが混じっているのを見て、ジョセフィーヌは狂喜する。
ああ、こいつの喉笛を噛み千切ってやりたい。整ったハンサムな顔。その頬に歯を食いませて、肉を食い破り、動脈を抉り出して血潮を啜ってやる。
黒い兵士達が、一斉にアサルトライフルを構える。こんな状況なのに不思議と恐れを感じなかった。邪魔をするなら、こいつらから始末してやる。私には出来る。銃弾よりも早く動いてやるのだ。ジョセフィーヌは、威嚇するように咆哮した。
「撃つな!」
カランが兵士達に命じる。彼はすっかり金色の獣に変化した、ジョセフィーヌを睨み付けた。
「やっと正体を現したな。来い、化け物」
彼は右手に先ほどのベレッタを構え、胸元に垂らしていた十字架を左手に翳した。
両者は睨み合い、間合いを詰める。なぜカランが部下の攻撃を止めさせたのか、ジョセフィーヌはそれが引っかかった。この卑怯な男が、一対一の戦いを望むだろうか。だが、考えている暇はない。ジョセフィーヌは、このチャンスをものにしたかった。壊された世界を元通りにするには、カランを殺すしかない。
腹の底から咆哮すると、力が内側から溢れ出るような気がする。今や前足と化した両手で地を蹴り上げて、カランの喉笛を狙う。できるはずだ。私はいま、力に溢れている。
カランの銃口から弾丸が飛び出す。それはジョセフ―ヌの肩を掠め、彼女の軌道を僅かに誤らせる。燃えるような痛みを感じたが構っていられない。生か死。その間には、何もない。
ジョセフィーヌはカランの胸元に飛び掛かり床に引き倒す。純白のカラーの隙間から白い喉元が見えた。そのまま食い破ろうとするが勝利を確信したジョセフィーヌは、カランの左手が円を描くように動いたのを見逃した。白銀の鎖がジョセフィーヌの首元を締め上げる。鋭い苦痛に襲われて、彼女は悲鳴を上げた。肉の焦げる臭いがする。すぐにそれが自分の肉だと気付く。
「ウウ~ッ」
もはや獣そのものとなったジョセフィーヌは唸り、暴れ、何とかして戒めを解こうとするが、カランから離れようとするほどに鎖はきつく締められていく。カランは手慣れた仕草で鎖を手繰り寄せると、ジョセフィーヌの腹を思い切り蹴り上げた。
「ギャンッ」
床に叩き付けられて、ジョセフィーヌは喘いだ。すぐさま立ち上がって反撃に出たいところだったが、首に巻かれた十字の首飾りが彼女の力を奪っていた。
「もう終わりか?」
カランは立ち上がって、乱れた髪を整えるとジョセフィーヌの顔を覗き込んだ。彼女は苦しい呼吸をしながら、憎い男を睨み付ける。
「あなたを絶対に許さない」
そう言ったつもりだが、ジョセフィーヌの口から出たのは野獣の唸り声でしかない。痛みで意識が遠のいていく。首元の鎖を解こうと鍵爪で必死に喉を掻き毟ったが、それは自らの肉体を傷付ける行為でしかなく、彼女の毛皮は瞬く間に鮮血で染まっていく。
視界に茫然と立ち尽くす、父親の姿が目に入った。取り返しのつかない悲劇に見舞われた男の顔。
お父様は、きっと獣になってしまった私を恥じているに違いない。
もう、戻れない。
美しい庭園での散歩も、午後の紅茶とケーキも、暖炉の前で聞くお父様の武勲も、寝る前にくれるお母様の優しいキスも全部、消滅した。
ジョセフ―ヌは悟った。
この世界は終わったのだ。
To be continued.