8.彼と彼女が見つけた魚影
罪悪感で土下座だってしたくなる。
帰りの車内、雄飛と恋理の沈みっぷりと言ったらなく、それに当てられた他の面々は反動のように声が大きい。
雰囲気の改善に努めようと結愛が、風華が、猪野村が様々な話題で腐心するのだが、肝心の二人がドンヨリのままで抵抗もむなしい。
雄飛は罪悪感で、土下座だってしたくなる。
いくらなんでも空気を悪くし過ぎだ。せっかくの合宿だったのに。
だが申し訳ないと思っても、どうしても溌剌とする気分になれず、何と声を掛けられても何の話を振られても、ぼんやりと窓の外をだけ眺めていた。
助手席の恋理も似たようなものだ。
やがて全員疲れてしまって、結愛が緩やかな音楽をかけたのを皮切りに、風華が、猪野村も、眠ってしまう。
雄飛自身はエンジン音と聞き馴染のない洋楽とを併せて聞きながら、昨晩の一件を考えていた。
恋理は、どうしているだろうか。寝てしまったか……そんなことを確認するだけの度胸も、今の彼にはない。
「…………、」
先に猪野村の家に着いた。
「じゃ、お疲れッス」
「おう、また」
「じゃあねー」
そうすると後部座席に風華と雄飛なのだが、何を思ったか恋理がその間に移動してくる。
意図が判らず雄飛は目を白黒とさせるが、やがて再び風華が寝入ってしまって、彼女の肩を借りていた。
恋理なりに友達が寝やすいよう気を遣ったのか。
「…………、」
「…………、」
だが正直、今の雄飛には恋理の体温が毒でしかない。
車体の振動に合わせて時折肩が触れ合い、そのたびに彼の呼吸を乱した。
この距離を、どう解釈すればいいのか難しい。
近くにいるのは嫌じゃないよ、という恋理からのサイン?
それは都合が良すぎるか?
「…………、」
「…………、」
もう数十分して、風華の家の前だ。
「はい風華ちゃん、着いたわよー」
「あ、は、はいっ! ありがとうございますっ!」
飛び起きた彼女を、恋理が甲斐甲斐しく助けて荷物を降ろした。それがあんまりテキパキしたもので、雄飛などは手伝う暇もない。
風華はまだ半分寝ているようで、ムニャムニャとしながら手を振った。
「じゃあねー。ばいばーい」
「うん。またね、風華」
「じゃあな」
去り際、確かに風華から送られてきた一瞬鋭い視線に、雄飛は曖昧に頷いておくに留める。
あぁ、分かってるってば。でもさ……。
風華も猪野村もいなくなっては、いよいよ車の中の空気は重い。
結愛が音楽を大きくすることに、また雄飛は罪悪感を強めた。
恋理は、風華がいなくなっても後部座席に、傍にいた。さすがにさっきまでの密着のような形ではないが。
これだけ近くにいても、視線も交わさないが。
このままだったらどうしよう――不意にその想像が、恐怖となって雄飛の胸中をひたりと撫でた。
恋理と、ずっとこのままだったら。
お互いに避けて避け合って、もう二度ときちんと目も見ないまま、それぞれ大人になっていく……。
そしていつかの将来で、昨晩の一件は、すっかり分厚いカサブタとなってしまったら。
「ねぇ、お姉ちゃん」
突然のように恋理が声を発し、呼びかけられたわけでもない雄飛がびくりとする。
「どこかで、止めてくれない?」
「なに、お手洗い?」
「そうじゃなくて。
歩きたいの、雄飛と。止めて」
いっそ喧嘩腰と言っても過言でないほどの強さで、有無を言わさない調子の恋理に、雄飛の方がハラハラした。
結愛も鼻白んでいる風である。
「歩くって。峰岸くんの荷物どうするのよ」
「車に乗っけといて。
雄飛、いいよね? うちに寄って、取ってけば」
久しぶりに見た、恋理の瞳。
そこには必死な色があって、切迫した気配があって。
あぁそうか、と悟る。
彼女も、カサブタが固くなる前に、剥がしてしまいたいんだ。
「――あぁ。結愛さん、本当にすみません。お願いします」
「えぇ……?」
「ごめんね、お姉ちゃん」
「……ったくもう」
無理を言って止めてもらったコンビニの駐車場で降車した。
といっても当てがあって歩くわけではなく、ただ何となく、二人でブラブラとする。
雄飛はこの辺りの道をよく知らない。きっと恋理もだろう。
が、今はそんなことどうだってよくて、後のことなんか知ったことでもなくて、お互いに思うものを伝えるタイミングを計り続けていた。
「――風華と猪野村くんには、迷惑かけちゃったなぁ」
口火は恋理が切った。
最初の一言という重責を、彼女に任せてしまったことを恥じ入りつつも、雄飛は自分でも思っていなかったほど軽やかに返事する。
「だな。次に会ったとき、なんか奢らないと」
「風華は辛いお菓子がいいよ」
「イノは、なんだ? チョコレートか? よく食ってるし」
「……雄飛は、何がいい?」
「はぁ?」
困ったように、照れたように、隣を歩く恋理は眉をハの字にして笑った。
「雄飛にも、だから。っていうか、雄飛にこそ、だから。迷惑かけちゃって……ホント、ごめんね?」
「気にすんなよ」
ぶっきらぼうに言い返すと、彼女は「そっかそっか優しいな」と小奇麗に笑うのだ。
そういうのが、雄飛は本当に嫌だというのに。
「あのさぁ恋理。いいからな」
「え?」
「無理して取り繕わなくて。お前そういうの下手くそだし、分かるんだからな」
一瞬あっけにとられた後。
恋理はくしゃっと苦笑いを見せた。
そうだ、それでいい……雄飛は思う……それが本当だろう。
「参るなぁ。……こういう風に心が着ぶくれてたから、私の作品はいけなかったのかなぁ」
「いけないってことは、」
「うぅん、ダメだよ。全然ダメ。雄飛と比べたら、ホント、全然」
恋理の諦観のような言葉に、そっちがそのつもりなら、という気になる。
じゃあもう伝わるまで、彼女の物語のどこがいいか、どこに心が震えたか、片っ端から教えてやろうじゃないか。
夜通しだって構わない。全部全部、余すところなく。
「いいか恋理っ、」
「待って待って雄飛! 私ね、考えたの、思いついたの!」
「……あん?」
「楽しく書く方法だってば。雄飛に嫉妬しなくて済む方法」
「……どんな」
踊るステップで三歩前に出た彼女は、振り返るなり、挑戦的に雄飛を指差した。
作り笑いとも違う、苦笑いとも違う、自信に満ち溢れて口角上げて、牙を見せて。
彼女らしい、強い笑顔。
「私が雄飛と同じくらい、上手くなればいいんだよ!」
「…………は?」
「そうすれば、劣等感とは無縁だもん!
悪かったのは、私が下手だから。努力が足りなかっただけ。
いつか雄飛に追いついて、それで追い越しちゃうもんね!」
しばらく、雄飛は彼女の言葉を反芻する。
それ、本当に、解決になっているんだろうか?
現状に何か、変化ある?
「……ははっ」
でも、その我武者羅な前向きが、たまらなく恋理らしくて。
雄飛は身体をくの字に曲げて、久しぶりに快活に笑った。
「あっはははははっ! それ、きっと正解だぜ恋理!」
「うんっ。……だから雄飛、見てて? 私の書くものを。書く私を。
私も、雄飛のこと、ずっと見てるから」
「あぁ、分かった。見てるよ。
だからお前も見てろ、オレが書くの。んで、たまに水くれよ。これからも」
「――うん!」
すっかり元気を取り戻した恋理は、スキップさながらに弾みながら歩き始める。
雄飛も胸に暖かいものを抱きながら、その後をのんびりと追った。
「次、何を書こうかなぁ!」
「んだなぁ」
「雄飛は今書いてるの季刊誌に載せるの? あのお坊さんのやつ。だったら私は明るくて楽しいのにしたいなぁ」
あぁでもどうしよう、と彼女は嬉しそうに悲鳴を上げる。
あれも書きたい、こんな展開もいいかも、こういう設定は?
恋理の口から次々に出てくる物語の雛たちは、千夜一夜でも過ごせそうで、雄飛の心も釣られて焦げた。
「どうしよう雄飛、どうしよう! 私、溢れそう! 書き切れるのかなぁ!」
「大丈夫だろ。いっつもそうしてんじゃん」
「今回は一際なの! あぁ、私のインク壺にも魚が住んでたらよかったのに! 口づけしてほしい!」
「んだなぁ」
緊張の抜けきった雄飛は、陽気を楽しみながら適当にならない程度で相槌を打つ。
と、雲が切れて、西日が彼の顔を激しく照った。
「っ、」
掌を掲げてやり過ごす。
そして気付いた時には、目の前に恋理がいたのだ。
「ね」
「ん?」
突然、唇に触れるもの。
その柔らかさを、甘い吐息を、痺れを、彼は夢のように感じていた。
離れたとき、恋理は耳を真っ赤にして、自らの唇を押さえながら、してやったり顔だ。
「今なら、書けそうかも。筆の乗りもひとしおって感じ」
「オレが魚ってかぁ?」
照れくささから苦い顔をしてみせるが、雄飛もまた心臓が高鳴り、その音は恋理にバレていたに違いない。
ぴょんぴょんと彼女が跳ね回る。
「んんーっ、漲ってきたーぁ! 書くぞ書くぞぉーっ!」
「ペン先が乾いたら、またしてこいや」
少しだけ調子に乗って言うと、振り返った恋理は、歯を見せて笑う。
「ばーか!」
そうして駆けて行ってしまう彼女を追って、彼もまた走り出した。
このときはまだ、恋の淡さに誤魔化されて、気付いていない。
自らの胸の内からどうしようもなく沸き上がる、熱に。
彼女に追いついて腕を掴まえたとき、雄飛は知ったのだ。
あぁこれ、これが、この衝動が、『そう』なのだと。
真の意味で夢を描きたい――少年は初めて、その熱情に総身を震わせた。
私が部長だった高校の文芸部に、峰岸雄飛のような部員がいました。
もちろん作中では能力としてだいぶ誇張しましたが、当時の彼は見た夢をテーマに作品を書く、ダリのような試みをずっと続けていて、執筆の態度は「夢に逃げられないように」と、それはすさまじい勢いだったことをよく覚えています。
そんな彼が最近プロの作家として活動を始めたと聞き、この物語を書くことにしました。
我が部には合宿などなく、長野へ湖を見に行ったこともなく、というか部長の私が女子でなく……と空想だらけですが(笑)
心だけは、高校時代に戻ったように、瑞々しくあることが出来ました。
ご一読有難うございます。
彼の一層の活躍を願って。