7.インク壺で濡れて
昨日も一昨日も他人任せだったから、今日の雄飛はその分も働いた。
掃除、炊事は出来る限り。もちろん買い出しも。今は、風呂をせっせと洗っている。
「こんなもんかねーっと」
最後に浴槽全体を流し、濡れた手足をタオルできちんと拭いてからリビングへ。
入浴は食事の後か、前か。そういえば腹が減った。先に夕食にしてほしいところだが。
「なぁ、風呂ってもう沸かしていいの?」
問うも、しかし風華は怪訝に訊き返してくる。
「峰岸、恋理って見てない?」
「いや?」
というか、知るはずがない。
沢から帰っても結局まだ一度も会話をしておらず、同じ部屋にいることだってほとんどなかったのだから。
玄関のほうから戻った猪野村が、不安そうに言う。
「部長の靴、なかったっス……」
じんわりとした嫌な予感が、面々の背中を滑り落ちた。
そのとき雄飛が感じる責任は一際だ。
が、結愛がため息を吐きながらやって来て、それを打ち破ってくれる。
「電話つながったわ。あの子、湖に行ってるって」
「湖って……この時間に?」
「そう。何考えてんのかしら、もうすぐ暗くなるっていうのに……ちょっと迎えに行ってくるわ」
風華が何か閃くのが、雄飛にも見て取れたし、何なら音にも聞こえそうだ。
「あ、じゃあそれ、峰岸が行きますから!」
「なにぃ!?」
さっさと仲直りしろ、という風華の意図は分かる。分かるが……。
何も今でなくてもよくないだろうか。もうちょっと間を取って、頃合いを見計らって。
今すぐはまだ、下げる面が分からないというか。
だが風華は有無を言わせない。
その目。閻魔か何かかと見紛う。
「行くわよね。ね。峰岸」
「……行ってきます」
>>>>>>
歩いていくうちにどんどん暗くなっていく。
今はまだいいが、帰り道は懐中電灯を点けなければならないだろう。
まぁ……暗い方が、顔が見づらくていいかもしれないが。
「……ったく」
迎えに来た雄飛を見たら、恋理はどんな態度になるだろうか。
気まずそうにするか。
不機嫌になるかも。
しおらしくなるってことは、あるのか。
雄飛自身は、どんな素振りでいればいいのか。
「――あ、いやがった」
探すまでもなく見つかる恋理の後ろ姿。
じっと湖面を睨むその真剣さは、その背中からも伺えて、何事かと思う。
雄飛は、意を決して。
「おーい、恋理」
どうも聞こえなかったようだ。
もう少しだけ大きな声で、再度呼びかけようとしたとき。
突然恋理が、ざばざばと湖へ分け入り始めた。
靴も脱がずに。濡れるも構わず。こんな真っ暗な時間に。
すわ、入水か。
「ばっ!」
おおいに慌てた。
雄飛はほとんどパニックになって、自らも水の中へ、彼女を必死で追う。
「恋理っ、おい恋理、よせ!」
「えっ?」
「恋理ぃ!」
掴む、彼女の腕。
その拍子に二人してバランスを崩し、派手に飛沫を上げてその場に倒れる。
「「ぅわぁあ!」」
恋理は尻餅をついて、雄飛自身は膝と掌に湖底の滑りを感じた。
全身びしょ濡れである。
「つめたーい!」
「な、にしてんだお前はぁ!」
当然の権利として雄飛が怒鳴ると、恋理はバツ悪そうに目をそらした。
「べつに……」
「あっぶねぇだろうが! 溺れたらどうすんだ!」
「足、つくし……」
子どものようにモゴモゴと言う彼女に、もう言葉も出ないほど腹が立つ。
見に来ていなかったらどうなっていたか、こいつ、どうしていたか。
憤懣やるかたないまま立ち上がった雄飛は、恋理の腕を乱暴に掴んで起こした。
「いい加減にしろよっ!」
すると水を滴らせる彼女の、逆の手にペンが握らているのを見つける。
ペン。
……ぴんと来てしまった。
インク壺の湖。魚。ペン先。口づけ。
まさか、こいつ。
「お前……マジかよ……?」
「…………、」
さすがに恥ずかしいのか、恋理は若干顔を赤らめているようにも見える。
余裕があれば罵詈雑言で思うさま袋叩きにしてやるところだが、今は止めにしてため息だけにして、彼女の手を引いて岸に上がる。
雄飛は恐る恐るとポケットからケータイを引っ張り出す。
これもやっぱりずぶ濡れで、けれども防水がしっかり働いたようで、使用には問題がなかった。
風華に宛ててコールすると、すぐさま出てくれる。
「――オレ。バカ見つけた。バカのせいで濡れた。風呂沸かしといて」
それだけを伝えると通話を切り、もう一度恋理の腕を掴む。
絶対に逃がさない、そういう意志を込めて。
「ほら、帰るぞ」
「あの……雄飛、ごめん」
「本当だよ。おかげさまでビチャビチャだ」
イライラと答える雄飛に、彼女は首を竦めて肩を小さくする。
そしてひどく言いづらそうに。
「それもだけど……それだけじゃなくて……」
「あぁ?」
「……布団、潜り込んで……」
「あぁ……」
そういえば掴んでいる彼女の腕、温かくて柔らかい。
これの何倍もを、今朝……。
今さらのように、恋理の肌に貼りついたシャツを意識してしまう。こんな時に限って、何で色の濃い下着なのか。
雄飛は、我ながら単純なものと自嘲しながら、怒りが誤魔化されていくのを感じる。
「……イノにも謝っとけよ」
「うん。猪野村くん、誤解してた?」
「してなかった。オレと恋理は、そういう感じじゃねぇんだとよ」
「えぇー?」
恋理が眉をハの字にして笑った。
それはどういう「えぇー?」なのか、雄飛は大変気になるが。
ようやく彼女らしいし、自分らしい呼吸になれているよう思う。
「とにかく、帰ろうぜ。服も靴も気持ち悪いし、腹減ったし」
「もうちょっと。もうちょっとだけ。……ダメ?」
「まさかまた水ん中入るつもりなら、」
表情を険しくした雄飛に、恋理は慌てて首も手も振る。
「違うよ! 違うの。……もうちょっとだけ、雄飛と、話したい」
「…………、」
結局押し切られてしまった。上目遣いは反則だ。
話したい、なんて言ったくせに、恋理はしばらく黙りこくってしまう。
今日こそは月の絶えた夜、真っ黒な湖面を二人でしばらく見つめる。
肩の触れるところにいる彼女に。
雄飛は、物語を夢見ているときと似たような痺れを覚えた。
「――スイッチを、探してたの」
ぽつりと、恋理が零した。
その指先で、恥ずかしがるようにペンを弄びながら。
「スイッチ?」
「スイッチ。
雄飛の夢みたいに。垣本先生の、魚の口づけみたいに。
現実をないがしろにして綴ることが出来るようになる、執筆スイッチ」
「…………、」
「私には、無いみたい」
恋理が泣きそうな顔で微笑むが。
雄飛にはなんて答えればいいかなんて、分からない。
「ねぇ雄飛。本当に、書くの嫌い?」
「いや、あれは……」
今朝のやり取り、特に大人げもなく大声を上げてしまった自身の醜態を思い出し、雄飛は口の中を苦くしながら答えた。
「勢いだよ、あんなのは。……まぁ、書くのはつらいけど。
昔ほど、嫌いではないし、恨んでもいないから」
恋理のおかげで。
その一言だけは、喉に閊えて上手く出せなかった。
それでも彼女はほぅっと息をつく。
「そっか。よかった。
――じゃあやっぱり、雄飛はプロになったほうがいいよ」
「なったほうがいいって、お前ね」
鼻白んだ。
じゃあなります、といってなるものでもあるまい。
なりたいかという話であるならば……それも……。
「雄飛なら、なれると思うけどな。それだけの才能があると思う……うぅん、絶対あるよ。見ればわかるもの」
貴方の頭の中には、きっとインクの魚が住んでいるのね。
そう、彼女はお気に入りの一節を諳んじるのと同じ風に詠う。
だが雄飛はバツが悪いばかりだ。
「でも、それは……夢のせいだ。オレの実力じゃない。
オレは思いついてもいなければ、工夫もしてないんだから。
印刷機と何にも変わらない。そんなのでプロになっても……ズルだろ」
「私はっ!」
彼女から放たれた裂帛に、むしろ雄飛は冷静である。
あぁ、また失敗した。
恋理を泣かせてしまった。
夢に助けてもらわなければ、自分の台詞選びのなんて拙いことか。
「……私は、ズルしても、なりたいよ……っ!」
嗚咽が混じる。
それが嫌だった。
「くやしいよ……くやしいの……。
私よりずっと、私の求める才能を持つ人が、私の目指すものに全然興味ないなんて……。
それじゃあ私、まるで、何の意味も価値もないみたい……」
嫌だった。
そんな彼女は嫌だ。
彼女の描く物語は、自由で、奔放で、それは彼女自身もそうだからで。
そんな彼女だから、雄飛は、オレは、
「価値がないなんて言うな……っ」
「……雄飛?」
「価値がないなんて言うなっ! オレは、お前に惚れてここにいるんだぞ!」
無我夢中だ。知らずに恋理の肩を掴んでいる。
少女は「え」と大きく目を見開いて、けれども雄飛自身は自分が何を言っているか、何をしているか、夢よりも曖昧だった。ただ必死だった。
自分の好きなものを、価値がないなんていうやつは、絶対に許せない。
「オレは恋理の書くものが好きなんだ!
伸びやかで、軽やかで、次の行を読者と一緒に探してる! そんなお前の物語が!
結末で何かになろうと必死でいる! 殻を打ち破ろうって、もがき続けてるお前の物語が! オレは!」
「あ、う、うん」
恋理が真っ赤で面食らっているのも知ったことではない。
今こそは傷んでいるのは雄飛の方で、うっかりすれば涙すら流しそうなのだから。
「お前に価値がないんじゃ……今度はオレがバカみたいじゃねぇかよぉ!」
「…………、」
「なんだよ……オレを救ってくれたのはお前だったのに。
オレは……お前を苦しめてんのかよ……なんだよそれ……」
ダメだ。もう耐えられない。
彼女を抱きしめて、彼女の肩に顔を埋めて、子どものように泣いてしまった。
「頼むから……頼むから、自分を追い込まないでくれよ。……オレみたいになんか書かないでくれ。
それがオレのせいってんじゃ、もう……オレ、どうしたらいいか、わかんねぇよ……」
今度は恋理の方がどうしようもなくなって、空を仰ぎ見た。
月もなく、星もない夜ばかりがそこにあって、何も見つからない。
鎖骨まで流れ込んだ彼の涙が、いやに熱いなぁと、どこか別次元のように茫洋と考えながら。
「ごめん、雄飛。……私も、どうしたらいいか、分かんないや」
湖面は魚すら絶え、死んだように凪いでいた。