6.『本気』と『才能』の天秤
「わぁーっ! きれーい!」
昼食を済ませた後、近所の沢にくり出した。
透明よりなお軽やかな流水、周囲の豊かな緑に、呼吸が甘い。
「ほら風華! お姉ちゃんも! 早く早く!」
恋理が一番にはしゃぐ。
靴を脱ぎ捨てて、我先にと穏やかな流れの中にバシャバシャと。
「つっめたーい! すっごい気持ちいいよ!」
どうにも必要以上に楽しげに振る舞っているよう思われる。
わざとらしいというか、無理をしているというか。
そう思うのは……雄飛にそう見えるのは、今朝の一件のせいだが。
結局あれから、彼女とは一言も口を利いていない。
視線さえ互いに避け続けていた。
「…………、」
雄飛のほうは持ち込んだ釣り竿の準備を始める。
元々たしなむ程度の趣味で、せっかくだからと持参したものだが、僥倖にも場を離れて一人で考え事をするのにおあつらえ向きの理由となった。
「猪野村くんも! こっちこっちー!」
呼ばれ、猪野村は恋理と雄飛を見比べて、逡巡を覗かせる。
「あー、峰岸先輩? 大丈夫っスか?」
「行ってこい。オレはもうちょい上流にいるから」
言い残し、さっさと遠くに離れた。
実際、水の中で騒いでいる連中の傍で釣り糸を垂れてもしょうがないところで、魚の繊細さを考えればだいぶ移動しなければならないのは事実で……けれども必要以上に距離を取った感は、否めない。
そこらの石をひっくり返して虫を見つけ、容赦なく釣り針に刺し、水面へ投じた。
「……なぁにやってんのかね、オレは」
もやもやする。
ひどく、もやもやする。
無理やりにでも切っ掛けを作って、恋理と話すべきだろうか。
それともいっそ謝るべきだろうか? でもオレ悪くねーし……というのが本心で。
雑念が糸から伝わるのか、魚なんかちっとも掛からない。
なんだか疲れてしまって、その場にしゃがみ込んだ。
「どう? 釣れそう?」
声がして、つい慌ててしまう雄飛である。
一瞬、恋理を期待して。
でもやってきたのは風華だった。
「……全然だな」
「そっか。晩ご飯にしたかったのに」
風華は夏らしく薄着で、川に入ったから裸足で、隣に座られて雄飛は思わず緊張してしまった。
どうも今朝の猪野村の言葉が響いている。そのときは戯言だと思ったはずなのに。
風華と二人きりで沈黙になったって、これまでは平気だったはずなのに、今はいやに落ち着かなかった。
「――恋理と喧嘩でもした?」
不意打ちで問われ、釣り竿が少し揺れた。魚も食いついていないのにだ。
「……喧嘩……でも、ねぇけど……」
「ふぅん? まぁ、あんたたちどっちも頑固だもんねぇ」
「オレは違う」
むっとして言い返すと、風華は鼻で笑った。
「あらそう? じゃあ早めに仲直りしてよね。あの娘、へこみまくってるから」
「そうか? あれで?」
「分かってるくせに」
「……、……あいつが謝るならな。悪くねぇほうが謝るかよ」
今度こそは、風華は声を上げて笑った。
何がおかしいのか分からない雄飛は、彼女とも口を利きたくなくなって、むっつりと竿の先にだけ意識を向ける。
「…………、」
「…………、」
「…………、」
「…………、」
「…………、なぁ、」
結局、雄飛は根負けしてしまった。
今は黙っているのがただ辛い。
「なぁに?」
「松丸さぁ、オレの書くもの、どう思う?」
「感情特化」
「……なんだって?」
思わぬ即答に、つい訊き返してしまう。
風華はすでに敏腕の目つきで、それは季刊誌の編集作業の際に見せる目であり、雄飛は反射的に背筋を伸ばしていた。
「ほとんど全ての行からキャラクターの心が伝わってくるわ。行動描写・風景描写にも心情が込められてる。例えば『風が吹いた』なんて簡単な一文からも、心が読み解ける。前後の文で丁寧に補完されてるから。そうやって読み手の感情移入を強烈に誘うのが、峰岸の強みね」
「お、おぉ……どうも……」
「ただあえて改善点を上げるとしたら、硬い文が多すぎ。もっとポップな表現も入れて、全体の緩急を意識するといいんじゃないかな。その方が『急』も映えるわ、きっと」
「お前。すごいな」
「このくらい、なんとも」
風華は肩を竦めるだけだ。
しかし、そういえばこのように感想や評価を求めることも、これまでしてこなかったという事実に雄飛はやっと気付く。
彼の場合、答えは最初から夢の形で与えられていて、文章も自然と沸き上がってくるものであって、誰かに意見をもらって試行錯誤するという当たり前とずっと無縁だったのだ。
書くにあたって、雄飛は人一倍の苦痛を味わってきたつもりだが、それでも『迷う』ということだけは一切なかった。
彼女には、恋理には、それが妬ましかったのだろうか。
「……じゃあ、恋理の書くやつは、どうなんだ?」
今度の風華は答えてくれず、ふ、と口元にからかうような笑みを結んだ。
「あんた自身は、どう思ってるわけ?」
「オレぇ?」
質問に質問で返すのは反則だろうに。
雄飛はため息を吐き、ぽつぽつと語る。
「……なんていうか、目が離せないんだよな。オレは松丸みたいに文章の分析とかできないから、印象だけどさ。
あいつの物語は、次の章には、次のページには、次の行には、何かが起こるような感じがずっとしてる。ハラハラするんだよ。
オレからすればオレのなんかより、恋理の小説のが、よっぽど読み応えはあると思うんだけどな」
「それ、直接言ってあげなさいよ」
風華は微笑み、それから「あたしも好きだけどね、恋理の書くもの」と一応のように前置きしてから。
「あたしも同じ感想かな。複数のキャラクターに同じ表情させたり、対比になること言わせたり。そういうのが多いから、伏線を巡らせてるように読めるのよね。
でも恋理はそれ多分、天然でやってるから。読者が『こうなるかも?』って思った方向に行かないことが多いのが残念。それでモヤモヤして、主軸とずれてるように見えて、拙さに映っちゃうことがあるんだけど。
持ってるものは、あの娘持ってるから、その辺が整えばぐっと伸びるでしょう」
雄飛は皮肉ではなく、ベテランのようなことを言うやつだと風華に感心する。
「松丸さぁ、なんかすごい見る目あるけど。お前、そういうののプロ目指してたりすんの?」
「プロぉ? まさか。あたしはそんなに本気じゃない。あんたたちほどじゃね」
あんたたち。
そこに括られたことに、雄飛は表情を曇らせる。
恋理は間違いなくそうだろう。彼女は物語を生業にしたいと、ずっと抱いている。
では自分はどうか。雄飛には、その先が分からなかった。
「オレは……別に、そんなつもりは……」
「ふぅん? そうなの? もったいないわね、あんなに夢中でやってるくせに」
風華は優しい。少なくとも雄飛はそう思う。今の台詞を、本当にどうでもよさそうな声音で言ってくれるのだから。
しかし恋理にはそれが、どうでもよくなかったのだろうか。
才能を押し入れに仕舞おうとしている雄飛が。
書くことに本気でいる彼女には、許せなかったのだろうか。
「もしかして、喧嘩の原因ってそれ? 小説とか将来の話とか?」
「まぁ……そんなとこ」
「そっか。じゃあ……恋理のこと、大目に見てあげてよ。
あの娘、自信満々だった新作の出だしで、書いたり消したりずっとしてたから。焦ってるんだと思う。
どうしても、峰岸のこと意識しちゃうのね」
「……オレなんか気にしないで、好きに書きゃいいのによ」
「そうもいかないんでしょ。あんたの書くもの読んでたら。
ホント、罪作りね、峰岸って」
風華はいたずらっぽく言うが。
雄飛にはそれが、呪いに恋理を巻き込んでいるよう感じられ、ちっとも笑うことが出来なかった。