2.峰岸雄飛の夢枕
深編の笠を被った虚無僧が一人、峠を行く。
旅具の一通りが収められているのか巨大な匣を背負っており、しかし健脚を発揮して荒れた道も物ともしない。
擦り切れかけた草履、色の褪せた装束が、控えめに言ってもみすぼらしく、またこれまでの旅路の長さを言外に語っているようでもある。
ただし、腰に佩いた刀。これが見事なもので、鞘込めのままでも業物と容易に察せられた。
虚無僧が一人、峠を行く。
そのずっとずっと手前には、手や、足や、胴や、首。
粉微塵となった人間が幾人分も転がっており、一面が血だまりとなっている。
ここらに巣食った野盗の成れの果てで、この虚無僧を安い獲物と読み違えた末路だ。
斬った。
虚無僧が斬ったのだ。容易に斬って捨てた。
京より遠く離れ、御上の威光も届かぬこんな人外魔境では、人は二本足の獣といった趣であり、斬るのに躊躇うほどのこともなし。
まっこと、人の値打ちなど、三文にも劣る。
虚無僧が一人、血の香りと共に行く。
やがて峠の終わりに差し掛かり、その路傍に、小さな地蔵があるのを僧は認めた。
「――――、」
立ち止まる。
虚無僧は地蔵を眺めた。
地蔵も、その細い眼で、僧を見返しているようでもあった。そのくせ、どこをも見ていないとも取れた。
石の面構えはただ穏やかに凪いでいて、これより先に何が起こるにしても、ただ受け入れる風である。
「――――、」
虚無僧が笠の中、深く、深く、息を吐いた。
腰の刀を、無音のままに抜き放つ。
そして大上段に振りかぶり、もう一度深く、深く、深く、息を。
人を斬るに、もはや痛痒なぞ覚えぬが。
この菩薩を斬るのは、さすがに……。
「ふ、」
白銀の刀身が、燕の軌跡で翻る。
それは過たず地蔵の細い首を通り抜け、しんと鞘まで戻るのだった。
ごろりと、石の生首が力を失い、転げ落ちる。
虚無僧は、耳に念仏を覚えた。
自らの唇が編んだものではない。周囲には他に人影はなし。
それでも念仏は確かに響くのだ。
この、耳朶の内側に。
虚無僧は、胸に情の破裂を感じ、苦痛を感じ、頬に伝う熱を感じ、虚無僧は、虚無僧は、
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目が覚めた。
まだ夜明けまではしばらくある、窓の外は真っ暗な時間。
「う……あ……」
雄飛は布団にうつ伏せに、胸を押さえて、必死に呼吸に努める。
目からは涙が零れた。
心臓は自分のものでない感情で張り裂けそうで、滅茶苦茶に鼓動している。
「う……っそだろ……っ」
喉が詰まる。
息が出来ない。
ぞわぞわとした衝動が身体の下の方から何度も何度も、波となって這い上がって来て、今にも寝床にぶちまけてしまいそうだった。
今しがたまで居た眠りの中で、目の当たりにした物語が、出たい出たいと雄飛をノックし続けているのだ。
「なんで……っ!」
よりにもよって、今日。
今日、朝になれば合宿だ。文芸部の面々と待ち合わせて遠出する。まさに今日。
夢を、見るなんて。
だがこうなっては仕方ない。
もう苦しくて、一秒だって我慢できない。
喉が詰まる。
息が出来ない。
目の前が手元さえ薄くなり、代わりにありもしない景色が視界にちらつく。
「くっそぉ!」
書くしかない。
パソコンを立ち上げた雄飛は、ワードソフトへ向かって、猛然と綴り始めた。
夢は、現実に戻って来てもちっとも綻びてはくれず、むしろもっと早くと急き立て来る始末。
早く字に起こせと。速く文の姿にさせろと。
指の遅さが、本数が十本しかないことが、今の雄飛にはもどかしい。
――数時間して。朝になっても部屋に籠りきりの彼を、妹が様子を見に来た。
「お兄ちゃん? 今日、部活の合宿じゃないの? もう起きないと、」
「…………あぁ」
雄飛は顔も向けない。半分以上、上の空だ。手も一切休ませなかった。
鬼気すら迫る兄の姿に、妹は眉根を寄せる。
「……また発作?」
「…………あぁ」
妹の瞳に、わずかに同情の色が差す。
が、雄飛は気付かない。そんなことに目を向ける余裕はない。
「そう。お水、いる?」
「…………頼む」
彼は、やはり上の空のまま答えた。
さらに千字を書き連ねてから、妹が置いていってくれた水2ℓをグビグビと呷る。
そして息継ぎの隙に、ケータイで恋理へとメッセージを送った。
【ユーヒー@峰岸喫茶:
悪い いつもの 先行って 後から行く】
何とかそれだけ打ち切って、また雄飛は物語に戻る。
疲れただとか、指が痛むだとか、そんなことは今は意識の端にも登って来ない。
とにかく、今は、一文字でも先に。
物語が胸の中で、腐敗し始めるより前に。
早く。