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1.魚住恋理の放言

 インク壺の底でしか生きられない魚がいる。

 それに気付いたのは、手前味噌(てまえみそ)ながら、私が書き手として十分に熟達した時だった。

 インク壺の底には、魚が住んでいる。そこでしか生きられない魚が。

 この美しく冷たく、宝石さながらの鱗を(まと)った生物は、私がペン先を近づけると(まれ)に口づけをくれて。

 ――その稀こそが、私の書き手としての力量そのものなのだけれど。

 キスに濡れたペン先から(すみ)が乾くまでは、筆の乗りはひとしおである。



 ……以上が彼女の敬愛する夭折(ようせつ)の天才、垣本(かきもと)栄威一(えいいいち)が遺作『墨黒(すみぐろ)湖畔(こはん)』の一節である。

 この一連は、つまりはメタファーで、物書きなら誰しもが一度は経験する「筆が乗る」という状態について、かの文聖(ぶんせい)垣本が情緒(じょうちょ)豊かに(うた)った文章だ。


「その垣本先生ゆかりの地なんだって! まっさらな湖で、月のない夜には本当にインク壺みたいに見えるの! ほら見て!」


 放課後に文芸部の部室に行くと、いの一番に恋理(れんり)がケータイを突き付けてきた。

 写っているのは真っ暗闇の湖面で、彼女がまくし立てる内容を要約すると、『墨黒の湖畔』のモデルになった場所らしい。


 扉を開けて一秒で直面した恋理のテンションに、当然ながらついていけるわけもなく、雄飛(ゆうひ)は「へぇ……」とだけ答える。

 そのおざなりが、恋理はお気に召さなかったようだ。


「反応悪い! 女の子が写真を見せたら興味深そうにするのが男でしょ!」


「無茶言うなや……」


 恋理を(かわ)して部室に入ると、疲れ切った顔の猪野村(いのむら)が既にいた。

 多分先に来て、同じように恋理に捕まって、今まで過ごしていたのだろう。可哀想に。


「おつかれ、イノ」


「っスー……峰岸(みねぎし)先輩、やっときてくれた……」


「なぁ、恋理どうしたわけ?」


「さぁ……知らんス……六限目寝てたんじゃないスか? いやに元気だし……」


 男子二人のコソコソは余所のこと。いま恋理は一人で垣本作品の素晴らしさを朗々と語るのに忙しい。

 が、その(らん)とした目が再び向けられて、雄飛も猪野村も表情が引きつる。


「ね? 二人もそう思うよね? ね?」


「いや、まぁ、そうだな……」

「ッスね……ッスよ……」


 話なんか聞いていなかった。

 曖昧(あいまい)に答えてごまかしを(はか)る。

 が、とっくに雄飛は悟っていた。きっと猪野村もだ。


 これ、絶対、めんどくせーやつ。


「そうだよねそうだよね! やっぱホンモノ見に行きたいよね! 実際にこの湖行ってみたいよね! 行こうよ! もうすぐ夏休みだし、みんなで!」


「「あぁー……」」


 遠出して観光しようって話のようだ。

 そのくらいであればまぁ、(やぶさ)かでもないが。


「で、それ、どこなんだよ?」


「長野県の端っこのほう」


「長野かぁ……」

「何時間かかるんスかね」


 遠い。県を四つ(また)ぐのはさすがに遠い。

 男子の再びの反応悪さに、恋理はまたムッとする。


「なによー! 部があたしたちの代に移って初めての季刊誌をもうじき作るんだよ!? 願掛(がんか)けしに行こうよ、インク壺の魚に! あやかっとこうよ!」


「そんな肩肘(かたひじ)張るほど大した部でも季刊誌でもないだろうに……」


 一応、歴史だけは長い。

 開校と同時に文芸部もあって、当時の校長だか理事だかの方針で、文芸部室がわざわざあるほどだ。

 ……が、近年ではとんと人気がなく、引退した前の代はたった二人。

 うち一人は漫研がないから代わりに所属していたというだけで、もう片方は名前貸しの幽霊部員という有様だ。


 この代もあんまり状況は変わっていなくて、雄飛と恋理に加えてもう一人二年生がいて、一年は猪野村だけ。合計四人だ。


 それでも恋理のやる気は、何ら(かげ)らない。


「あたしたちが変えていけばいいじゃん! いいものを書いて、いい季刊誌を作れば、きっと来年には新入生ウハウハよ!」


「きっついハードルだなぁ……いや、(こころざし)は立派だけどさ」


 そこで猪野村が「あれ?」と呟いた。


「でも、見に行くって、夜にいくんスか? 昼じゃインク壺に見えないんでしょ?」


 言われて雄飛も確かに、と首を(かし)げる。

 長野のどこぞへ、夜に湖を見に行く。その後は? どうやって帰ってくるつもりか。


 恋理は、嫌なことに、自信満々だ。


「なので! 私は文芸部の夏合宿を提案しまーっす!」


「「夏合宿ぅ……?」」


「そう夏合宿! そこで英気を(やしな)ってさ、夏休み中に季刊誌作成を仕上げてさ、二学期の頭に配布するの!」


「夏合宿……この部、そんなんあったんスか」


 猪野村は怪訝(けげん)そうに、あえて恋理でなく雄飛へ(たず)ねる。

 が、()かれたところで雄飛も怪訝だ。


「聞いたことねぇよ」


「ってことは……またいつもの?」


「だなぁ」


 魚住(うおずみ)恋理(れんり)は、文芸部の部長である。

 だが。

 魚住恋理は、思い付きで行動する少女である。

 そして。

 魚住恋理は、強引にでも実行する奴である。


 まずい。さすがに長野は面倒くさい。

 だが、やめろといってやめる少女ではないのだ、恋理は。

 どう攻めたものかと雄飛は必死で思考を(めぐ)らせるが。


 ドアが開いた。

 最後の部員、松丸(まつまる)風華(ふうか)が現れる。


「おつかれー」


 雄飛は地獄に仏の気分で、恋理は新しいウサギを見つけた獣の様相だ。


「松丸ぅ! いいとこ来たマジで!」


「ね、風華! ね、風華! 今ね、夏合宿のこと話してたんだ!」


「な、何よいきなり……」


 風華は鞄をいつもの場所に置きながら、その件についてはやはり雄飛へ訊ねる。


「夏合宿って言った? そういうのあるのね、この部」


 怪我で陸上部を辞し、一年の終わりに入部した風華はその辺の事情を知らない。

 だが()(かえ)しになるが、最初からいる雄飛だって合宿なんて知らない。

 手振りでそう答えると。


「……あ、そ。なかったのね」


 さすが部内一の切れ者、大方(おおかた)の事情を察したらしい。

 しかし合宿に対してそう消極的でもないらしく、椅子に掛けると若干声を弾ませている。


「で、どこに行くの?」


「あのねあのね! これ見てこれ!」


 恋理がさっきと同じプレゼンを始めるが、風華は男どもよりもずっと乗り気で、ふんふん頷きながら楽しそうに聞いていた。

 例の湖が遠方だと知っても、それほど及び腰でないらしく、話を前向きに検討しているらしい。雄飛としては、あちゃー、という心境だが。


 だがやがて、風華はもっとも重要なところに切り込んだ。


「それで、費用はどれくらいかかるの? 少しは部費から補助が出るのよね、合宿なんだし」


「ん?」


 恋理はニッコリと、実に可愛らしく微笑んで、首を傾げた。

 それを受けて、風華も微笑む。ただしこちらのは、なんというか、黒い。


「んー?」

「んん」

「んっんー」


「「んふふふふふふふふ」」


 不気味に笑い合っていたかと思えば、いきなり風華は真顔だ。


「 は ? 」


 その剣幕に恋理は滝のような汗を吹き出した。

 まるっきり傍観者(ぼうかんしゃ)の体となった男子たちは、やっぱり松丸は頼りになるなー、と呑気(のんき)でいる。お金の事情など、ちっとも頭が回っていなかった。


「あ、あのねあのね? 文芸部の部費は、ギリッギリなのです。……年に三回、季刊誌を()ったら、おしまいなくらい……」


「じゃあ、全額自腹ってわけ?」


「……に、なり、ますです」


 はぁあー、と大げさにため息をついた風華は目元を押さえる。

 そして指の間から、しょんぼりと肩を落とした恋理を見て。猪野村を見て。雄飛を見て、もう一度ため息をついた。


「……まぁ。多少お金が掛かっても、あんたたちと一夏の思い出を作りに行くってのも、悪くないんだろうけどさ」


 途端に恋理は顔を輝かせる。


「だよねだよね!」


 旗色が悪いのは雄飛だ。

 せめて予算のことで風華がこっち側についてくれれば、まだしも目はあったのに。


「いや待て待て! オレそんな金あるか怪しいぞ!

 っていうか、だいたい、落合先生はなんて言ってるんだよ!」


 落合。文芸部の顧問だ。

 まだ三十手前の若い教師だが、やる気に(みなぎ)るってタイプでは決してなく、まず部室にも顔を出さない人ではあるが。

 合宿というからには話を通すのが筋だろう。


 だが、恋理はニッコリと、実に可愛らしく微笑んで、首を傾げた。


「ん?」


 雄飛も微笑む、というよりは顔を強張(こわば)らせる。


「んー……」

「ん」

「んん……」


「「んふふふふふふふふ」」


 もう目眩(めまい)すら覚えるようだ。


「お前まさか、言ってねぇのかっ!?」


 何ら悪びれる風もなく、恋理は唇を尖らせてなんかいる。


「だって。先生に言ったら、絶対ダメって言うでしょ」


「あー、まず賛成はしないでしょうね、あの人じゃ」


 猪野村が頷き、まぁそれは雄飛も想像に(かた)くないところではあるが。

 となると問題があるわけで。


「保護者どうすんだよ!」


「それさぁ。必須?」


 実に不思議そうに、恋理は訊き返してくるのだから。


「必要不可欠なんじゃないですかねぇ!?」


「まぁまぁまぁ。雄飛は大げさだって。仲のいいメンバーで、ちょっと旅行に行くだけじゃん?」


 むしろ雄飛には、恋理の楽観こそ分からない。

 高校生の男女だけで、県外に泊まりで出かけるとなって、咎めないまともな大人がいるだろうか。


「バレたら百パー大目玉だぜ……」


 説教で済むレベルを超えている。

 悪ければ停学か、それでなくとも親も学年も巻き込んで問題になるはず。


「じゃあ、雄飛は行かない?」


 すげなく恋理が言うと、もう雄飛もムキだ。


「行くよ!」


「いや先輩、行くんスか」


「そら行くよ! 仲間外れは寂しいだろうが!」


「先輩ってたまに可愛いこと言うんスよね……」


 彼が陥落(かんらく)してしまえばもはやメンバーに(いな)やを唱えるものはおらず、恋理は勝ち誇ったように胸を張る。


「じゃ、決まりね。みんなくれぐれも、周りにバレないように注意してね。

 詳しいことは私が詰めて、また連絡するから!」


 ――その夜。

 風呂から上がって自室に戻った雄飛は、ケータイのチャットアプリにメッセージが届いていることに気付いた。

 恋理からだ。


【恋コン@文芸部部長:


 お姉ちゃんにバレた!

 合宿のこと!

 ママにもバレた!

 顧問にも! ぎにゃー!】


 これに対して雄飛は、一切表情も動かすことなく返信する。

 一言、こうだ。


【ユーヒー@峰岸喫茶:


 バカめ        】


 そしてケータイをベッドに放り、毎週楽しみにしているバラエティを()に、リビングへ。

 ひとまずはこれで恋理も大人しくなるだろうと、ほっと胸を撫で下ろしながら。


 ……その後の顛末(てんまつ)()(つま)むと、合宿はすることになった。

 顧問と恋理の母・姉の間で話し合いが持たれた結果だ。

 恋理は当然こってりと(しか)られたのだが、それはどうも勝手な計画を立てたことについてらしく……。

 彼女にとことん甘い母・姉は合宿の実現にあれこれ知恵を(しぼ)ったそうだ。

 合宿の決行に難色を示し続けた顧問に、この人たちが出した結論が、「なら家族旅行に友達を(まじ)える、という形なら、学校は関知しませんよね?」


 つまり魚住姉妹の旅行に文芸部が同伴(どうはん)する体を取るという。

 大学生の魚住姉は妹のために車を出すことも(いと)わなかったそうだ。大した溺愛(できあい)ぶりである。


塞翁(さいおう)が馬、ってやつだよね」


 そんなことを言ってホクホクしている辺り、恋理は反省なんて、さっぱりしていないのだった。


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