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MISSION 4 恋のライバルにご用心 2

 2

 

 というわけで女装を終えた僕は、ご近所さんの目を避けつつ家を出て、徒歩十分ほどかけて私鉄の駅までやってきた。駅前に広がる繁華街は、九路松市内ではもっとも賑わう盛り場である。近くには大きな親水公園もあり、若者たちのデートスポットとしては人気のエリアだ。自分自身遊びにきたこともあるけれど、デート目的で足を向けるのは初めてだ。できれば茜と来たかったよなあ。

 デートとあってアオイの女装は前回よりもいっそう念入りだった。今日はセーラー服じゃなくてノースリーブのワンピースだ。その上からカーディガンを羽織っている。春から初夏にかけてのデートにおすすめのコーディネートだ。これで彼をメロメロにしちゃえ! とは僕にこれを着せていた最中に涼子さんの言である。雑誌のアオリ文か。ワンピースの丈が膝下なので服はこれで諦めますけど、髪型のほうはどうにかなりません? 服装に合わせてさわやかにってのは分かるんですけど、ツインテールにすると顔が見えすぎる気がするんですよね。スパイですし、もうちょっと顔を隠したいといいますか、いっそ仮面でもつけたいといいますか……。え、却下? ええ、分かってますよ。いってみただけです。

 そんなわけで今日も僕はアオイ(デート仕様)となり、繁華街へ繰り出した。街ですよ街。ここは以前、三鷹君と走りまわった駅前ではあるんだけど、あのときは夜だったしなあ。今回は昼間で、しかも休日だよ。知り合いにばったり出会う危険性は格段に高まっているといえる。浜町副団長とかに遭遇したら高確率で心臓が止まる気がする。

 そこはかとない恐怖を抱きつつも、僕は待ち合わせ場所へ向かった。改札前に置かれたモニュメントの前に午前十一時。それが三鷹君との約束だった。現在時刻は午前十時半。約束の時刻までまでゆうに三十分はあるが、早めに家を出たから仕方ない。

 待ち合わせ場所に到着した瞬間、僕の携帯電話が着信音を鳴らした。メールを受信したのだ。

『今日楽しみすぎて早く着いちゃった! 約束の場所で待ってます。急がなくていいから気をつけてきてね(はあと)』

 これはアオイの携帯から三鷹君に向けて送信されたメールである。正確にいいなおせば、三鷹君のもとへ送られたメールを僕が今持っている携帯が同時に受信しているのだ。

 ちょっとややこしいかな。つまりはこういうことだ。二通のメールの送信元はどちらも同じ――涼子さんの持つ携帯である。思い出してほしい、三鷹君と実際にメールのやりとりをしているのは涼子さんだ。デートの最中もこのすり替わりは継続されている。つまり、三鷹君が出すメールは涼子さんの持つアオイの携帯に届き、涼子さんがアオイの携帯からこれに返信している。ただ、今日に限っては僕自身もそのやりとりを把握していないと三鷹君との対面での会話に支障をきたすおそれがあるので、また別の携帯――いま僕の手元にある機種へ涼子さんからふたりのメールが転送されることになっている。だからさっき届いたメールは、涼子さんがアオイの振りをして三鷹君に出したメール、ということになるのだ。ホントややこしいな。

 少しも経たないうちにまたメールの着信。今度は三鷹君かこの返信――の転送だ。

『待たせてごめん、遅刻まで来てるからすぐ行くつもり』

 ……文面の乱れから三鷹君の焦りっぷりが伝わってくるなあ。「遅刻まで」は「近くまで」の打ち間違いだろうし、文末も「行くから」とでも入力しようとしたら予測変換によってちょっと変なニュアンスになっちゃったんだろう。走りながら慌ててメールを打つ姿が容易に想像できた。

 三鷹君のメールに対し、アオイ(=涼子さん)は「いいよー」的な返信をしていた。……このスムーズなやりとり、あの人またどこかから僕を窺ってるんだな? いつもいつもどこに身を潜めているんだろう? 今日こそはこっちからも見つけてやろうかと人混みに目を走らせていると、不意に熱い視線とぶつかった。

「あ」

「アオイちゃん!」

 三鷹君だった。僕を見つけると、三鷹君は血相を変えて駆け寄ってきた。

「ご、ごめん! ど、どのくらい待った!?」

 冗談じゃなく息を切らして尋ねてくる三鷹君。メールとのタイムラグから考えてすぐ近くまで来てたのは間違いないだろうけど、ホントに走ってくるとは……。

「へ、平気ですって。わたしも今着いたばっかりですからっ」

 待ち合わせ相手をこれだけ慌てさせると逆にこっちが恐縮してしまう。というか、まだ約束の時刻の三十分前だ。どんだけ早いスタンバイなんだ。

「だ、大丈夫なもんか! また変な連中に絡まれたらどうするんだ!」

「え……?」

 三鷹君がめちゃくちゃ真剣な顔つきでいったものだから、僕は思わず目を丸くしてしまった。変な連中に絡まれるって……、三鷹君、ひょっとしてこのあいだのファミレスでの一件をいっているのか? でもあれは諜報部による仕込みだったし……いや、違う。そういえば手違いで本物の不良に絡まれたんだっけか、僕……。

 戸惑う僕に気づき、三鷹君はハッと顔をこわばらせた。

「ご、ごめんっ、怒鳴ったりして……」

「う、ううん! 全然!」

 顔を曇らせる三鷹君に、僕は慌てて首を振った。怒鳴られるというほどきつくはいわれていないし、なにより心配してくれたのかと思うとちょっと嬉しかったりもした。

「よ、よし! じ、じゃあ、行くか」

「そ、そうですね」

 ふたりのあいだに流れかけた気まずい空気を、三鷹君が明るい声を出して無理やりかき消した。僕もそれに乗っからせてもらう。せっかくのデートなんだし、いたずらにぎくしゃくすることもあるまい。

 ……おや? 僕、今、なんかおかしな考え方をしていなかったか……?

「ま、まずは映画だよな!」

「え!? は、はひっ、そうですね!」

 三鷹君はぎくしゃくと歩きだしたので、僕もあとに続かざるをえなかった。自分の振る舞いを省みる暇もない。まずいまずい……。ぼーっとしてたらどこかでボロを出しそうだ。なんたって今日は通信機も耳につけていないし、カンペも出ないだろうからな。独力で三鷹君に僕の正体を悟られないようにしなければならない。

 加えて三鷹君から新球種の情報を訊きださなきゃいけないんでしょ? 涼子さんは大詰めだみたいなこといってたけど、どうするつもりなんだろ? ……あれ? 僕また細かいことをなにも聴かされないまま任務に従事させられてないか……?

 僕がまたも涼子さんにはめられていることに、そして今さらになってそれに気づく自分の間抜けさに愕然としているとは露知らず、信号で足を止めた三鷹君は横断歩道の向かいにあるショッピングビルを見上げた。

「あれに映画館――シネコンっていうのが入ってるのか。クラスの連中がよく行ってるって話してたけど、自分で来るのは初めてだな」

 しみじみとつぶやく三鷹君。僕はちょっと驚く。

「そうなの? このビルって服屋さんとかレストランも多いから、家族で買い物にきたりもするけど」

「家族とも仲良いんだな、アオイちゃんは。まあ俺の場合、ひとりでこっちへ出てきて寮住まいだから、親とは一緒に来れないな」

「あ、そっか……」

 三鷹君は九州の出身で、明大烏山へは野球をやるために越境入学をしているんだった。僕ら地元の人間にとっては馴染み深い街でも、三鷹君は暮らしはじめてまだ二年だもんな。

「それに、野球部の練習があってなかなか街に遊びにくる機会もないからなあ。たまの休みは部屋で寝てるか、対戦校の分析ビデオを見たりしてるかだし。ああ、でも最近はちょっと出かけたりもするけど……って、なんか俺、野球ばっかだな。つまんないよな、こんな男」

 三鷹君は苦笑したけど、僕は強く首を横に振った。

「そんなことないです! それだけ野球に打ち込んでるってことじゃないですか! 素敵です!」

 なんにせよひとつのことに一生懸命取り組んでいるのは素敵なことだと思う。身近にもひとり同じように野球のことしか頭にないやつがいるけど、あいつだって人間としてはすごく魅力があるし、僕は憧れてもいるもん。

「そ、そうかな……? み、みんなからはよく野球バカとかいわれてるから、服なんかも今日どんなの着ていったらいいか全然分からなくてさ……」

 照れ隠しなのか、三鷹君はたくしあげたシャツの裾を肘のあたりで上下させた。

「よく似合ってますよ。ユニフォーム姿しか見たことなかったから、なんか新鮮です」

 お世辞抜きに今日の三鷹君の服装は良いと思う。無地のカットソーにチェックのシャツを羽織り、履き物はジーンズというシンプルなファッションだ。変に着飾っていないのが男らしくていいよね。

「あ、ありがとう……。ア、アオイちゃんも、か、かわいいな、そ、そのヘアピンとか……」

 照れくさそうにはにかんでいた三鷹君が急に褒め返してきた。そんなふうにチラチラ見られると、僕も恥ずかしくなるな……。

「これはその……、し、知り合いのお姉さんがつけていけって……」

 僕は前髪を留めてあるヘアピンを触った。リボン状のデザインでカラーはブルー。申告したとおり、知り合いのお姉さんこと涼子さんがセレクトしたものである。ブルーリボン……それは諜報部員としての僕のコードネームなんだけど、こだわるなあ、涼子さん。どうやら三鷹君もお気に召したようなので文句はないけど。ただ僕としては、かわいいと褒められても複雑な心境にならざるをえない。

 三鷹君はなかなか変わらない信号をそわそわと待っていた。頬を赤く染めちゃってまあ……。これまで何回かこうやってアオイとして言葉を交わした印象だけど、三鷹君、見た目のイメージと違って案外女の子に慣れてないよな。それこそずっと野球漬けで恋愛する機会なんてなかったのかもしれない。

 そんな人を騙しているのだと思うと、なんだか胸が痛んだ。

 いつだか涼子さんがんっていた。ハニートラップで情報を手に入れた工作員は、すみやかにターゲットから姿を消さなきゃいけないのだと。それができる非情さが、ハニートラップ要員には必要なのだと。

 僕にそんな非情さがあるかどうか、正直まだ分からない。でもいつかは三鷹君に辛い思いをさせなくちゃいけないのだというならば――。

 信号が青に替わる。僕は自分から三鷹君の手を握った。

「たまのお休みなんですから、今日はおもっいきり楽しみましょう!」

「お、おお……」

 僕は三鷹君の手を引いて、意気揚々と一歩を踏みだした。三鷹君は僕に引きずられるようにしてついてくる。

 お別れが必然ならばせめて、今日が素敵な思い出になるようにする。それが今の僕にできる唯一のことだと思った。


 *

 

 シネコンで二時間の映画を観終えた僕たちは、同じビルにあるファストフード店で少し遅めのランチをとることにした。

 それぞれ注文した品を持ってテーブル席に座ると、僕たちは二人してまずドリンクを口にして気を落ち着かせた。ストローをくわえたまま視線を上げると、ああ、三鷹君と目があってしまった。

「……お、おもしかったですね、映画」

「そ、そうだな……。話も分かりやすかったし……」

 ぎこちなく頷きつつ、言葉を濁す三鷹君。

 二人して微妙な反応なのは、なにも僕たちの観た恋愛映画がつまらなかったからではない。お互いに思いを告げられないまま離ればなれになった男女の数奇な運命を描いたSF風味の物語は、お世辞じゃなく感動的でおもしろかった。ただ、いくつかのシーンがね……。若手の新人女優さんが体当たりで挑んだというベッドシーンが意外に濃厚だったり、クライマックスのキスシーンもオトナな艶めかしさがあったりと、初々しい高校生カップルが初デートで観る映画としてはちょっと刺激が強かったといいますか……。平気な人もいるんだろうけど、少なくとも僕たちは気まずい感じで映画館を出ることになってしまった。

「こ、この新作バーガー、なかなかうまいなっ」

 大振りのバーガーにかぶりついた三鷹君がわざとらしく声を弾ませた。気を遣ってくれてるなあ、これ……。

「へ、へえ、そうなんだ! わたしもそれにすればよかったなあ!」

「お、おお、よかったら一口食って……あ」

 自分のバーガーを僕へ差しだしかけたところで、三鷹君は失言に気づいて固まった。変な空気の時は往々にしてどうやってもうまく事が運ばないものだ。

 く……こんなぎこちないやりとりも、涼子さんがどこかから見てほくそえんでるんだろうなあ!

「ふ、普段はどんなところでお食事してるんですかあ?」

 なんとか空気を変えようと、今度は僕から話題を投げかけた。テーマは食であまり変わっていない気もするけど。

「あ、ああ。だいたいは寮の飯を食うかな。寮母のおばさんが休みの日は外食するけど」

「あれですよね、ファミレスとか」

「これからはこういうハンバーガー屋行くか弁当買ってくるかになりそうだけど……」

 三鷹君は視線を逸らしながらいいよどんだ。

「あ……」

 そうか。三鷹君が行くファミレスといえば、例の国道沿いにある九州発のチェーン店だ。でも僕たちは先日、その店で騒ぎを起こした。三鷹君自身にはなんの落ち度もなかったとはいえ、あんな騒動を起こしちゃったらもう行きづらいだろう。三鷹君にとっては遠くはなれた地で故郷を思い出せる数少ない場所だったろうに、僕の不始末でそこを奪ってしまった……。

「ごめんなさい、わたしのせいで……」

「ア、アオイちゃんが謝ることじゃないって!」

 三鷹君は慌てたように目を剥いた。

「あいつらと揉めたのは俺が勝手にやったことだし、アオイちゃんが気に病むことなんてひとつもないって。俺の飯くらいどうにでもなるしさ。それに――」

 三鷹君が唐突に言葉を止めた。なんだろうと思って見返すと、三鷹君は顔を横に逸らしながら小声で続きを口にした。

「アオイちゃんと知り合えたことは、俺にとってはむしろラッキーだったっていうか……」

「あ……」

 いったほうもいわれたほうも、かあっと頬を赤くしてうつむく。三鷹君、ちょいちょいこの手の台詞を挟んでくるからちょっと困るな……。どういう意図なんだろう。

「こ、このあとはどうする?」

 再び気まずさをごまかそうというように、三鷹君は声のボリュームを大きくした。

「え、ええっと、どうしようか?」

 そういえば映画のあとの予定はなにも決めていなかったな。いや、三鷹君と昨晩デートの相談をしたのは僕(アオイ)じゃなくて涼子さんなんだけど。しかし涼子さんが行き先を特に指定していないということは、今日のミッションはここまでなのか? 僕、今度こそ本当になにも進展させていないけど……。

「どっか行きたいところとか、ある? 電車でとっか遠くへ行ってもいいし」

 このあとの予定をこちらに委ねるような素振りを見せつつも、三鷹君がどことなくそわそわした様子だった。あ……ひょっとして。

「三鷹君にお任せしますっ。楽しいところがいいかな」

 とっさに男心を汲んだ僕はそう返した。すると思ったとおり、三鷹君は安心したように少し顔をほころばせた。

 急遽決まったこととはいえ、意中の相手との初デート。そんなチャンスにノープランで挑む猛者なんてそう多くはないはずだ。彼女を誘いたい場所について考えてきているにちがいない。

 僕の予感はどうやら的中したようだ。三鷹君は少し考えるポーズをとったあと、決心をしたように僕を見つめた。

 さて、三鷹君はどんなデートコースを用意してきたのだろう。下世話だけど純粋に居見があった。池で一緒にボートを漕ぐとかおしゃれなカフェでコーヒーとか、初デートで女の子が喜びそうな素敵なプランを考えてきてるんだよ、きっと。

「じゃあさ……、バッティングセンターに行かないか?」

 え……マジすか?


 *


 マジだった。

 ファストフード店を出た僕たちは駅前の繁華街からも離れ、国道沿いで営業するバッティングセンターへ移動した。十五分ほど歩いただろうか。徒歩で向かうにはそこそこの距離だったので、道中、三鷹君がしきりに気遣ってくれたけど、女装姿とはいえこのくらいは余裕だ。伊達に応援団で鍛えてないっすよ! ……まあそれはもちろん口にはできなかったけど。

 しかしまあ、バッティングセンターとはね。いや別に文句があるわけじゃない。ただ意外だっただけだ。てっきりそれなりにムードのあるところへ連れていかれるのだろうと予想してたから、まさかこんな、マンネリ気味の同棲カップルが刺激を求めて来てみるようなデートコースになるとは思いもよらなかったのだ。

 その点は三鷹君もある程度自覚していたのか、店内に入るなり不安げに僕を窺ってきた。

「こんなところでホントによかったかな……? わりい、遊べるところっていったら、ここくらいしか思いつかなくてさ……」

「い、いいじゃないですか、バッティングセンター! わたしも体動かすのわりと好きですし!」

 精一杯の笑顔をとりつくろう僕。せっかく誘ってくれたんだ。露骨に嫌な顔を見せるのは失礼というものだろう。

「そ、そっか」

 三鷹君はほっとしたように表情を緩めた。こういう顔を見てると、とてもこの人がプロのスカウトも注目する高校球児だとは思えないな。

 まあ、デートコースについて上から目線で批評したって仕方ない。今日の予定だって昨日急に決まったって話だしね。そんな状況なら僕だって自分にとって馴染みのある場所をデートコースとして選ぶかもしれない。知らない場所へ彼女を連れていってとんでもないところだったらそれこそ目も当てられないしね。

 三鷹君の先導で僕たちはフロントを通りすぎ、バッティングエリアへ向かった。見た感の足取りに迷いはなかった。左手にはゲームコーナーも見えるけど、お目当てはやはりバッティングのようだ。

 というかだんだん思い出してきたけど、この店、僕も来たことがあるや。小学生くらいのときに、数回といったところだけどね。たしか幸太郎に連れてこられたんだった。ホームラン打っても怒られない場所があるっていって。あの頃からスポーツ少年団で野球をやっていた幸太郎は、打撃練習で長打を連発して河川敷のグラウンドの向こうを流れる川へ何個も球を落としていたもんなあ。当時の監督は幸太郎のせいで予算がなくなると頭を抱えていた。

 記憶を蘇らせてみると、店内の様子は当時の面影を色濃く残していた。そうそう、バッティングエリアにはこんなふうに十個ほどのケージが並んでいるんだよな。球速の異なるマシンを擁するケージが数カ所ずつ用意されていて、初心者から上級者まで自分のレベルに合わせてお好みで遊ぶケージを選べる仕様だ。

「あそこは埋まってるか……」

 エリアの最奥にあるブースを見やりながら三鷹君はつぶやいた。おお……あそこは「一五〇キロコース」じゃないか。この店でもっとも高難度のケージである。迷いなくあそこを選ぶあたり、さすがは現役の高校球児である。

「どうします? 空くまでゲームコーナーにでも行きますか?」

「いや、別のブースでやろう。他は空いてるんだし、待つこともないって」

 意外にあっさりと目当てのケージを諦めると、三鷹君は目の前にあったケージに入っていく。「一四〇キロコース」だ。さりげなく二番目に速いコースだね、うん。

 三鷹君が準備に取り掛かっているあいだ、僕は懐かしさも手伝って何気なくあたりを見まわした。バッティングエリアにいる客は、僕たちを除くと一五〇キロのプースで金属音を鳴らしている人だけだった。ゲームコーナーにも客はポツポツといったところだったし、休みなのに流行ってないな、ここ……。昔はもう少し賑わっていた気もするけど、今の時代、バッティングセンターもいろいろと工夫を凝らさないと客を集めにくいのかもしれない。近年は自分で球のコースや球速・球種を調整できたり、前方のスクリーンに映像を写しだしてプロの投手との対戦を疑似体験させる設備を備えたところもあるらしい。それに引き換えこの店は昔ながらのむき出しのピッチングマシン相手だ。しかも球速が速いマシンで使われているのは硬球だったんじゃないか、たしか? これじゃ親御さんとしては小中学生の子どもを行かせづらいよな。小学生で最速コースへ挑み、しかも「おもしれえ」とかいって打ちこなす野球バカはこの界隈に限ればそれこそ幸太郎くらいのもんだろう。僕が一回だけ一五〇キロの打席に立ったときは正直ちびりそうだった。

「危なくはないと思うけど、ちょっと下がって見てて」

「あ、はい」

 僕が情けない過去を思い出しているうちに、三鷹君は準備を終えたようだ。僕は三鷹君の忠告に従ってケージから少し離れる。

 バットを構えて約十八メートル先のピッチングマシンを見据える三鷹君。間近で見るそのたたずまいはさすがに堂に入っていて、僕は思わず見とれてしまう。

「ふっ!」

 短い吐息とともに、カキーンと甲高い金属音。ピッチングマシンから放たれた一四〇キロの速球を、三鷹君は見事に正面へ打ち返した。

「お、おお……」

 次々と放たれる球を難なく打ち返していく三鷹君の姿に、僕は感嘆を漏らした。ピッチャーとはいえ、そこはやはり名門・明大烏山のレギュラー選手。打撃のほうのも高いレベルにあるということか。

 結局、ワンプレイ二十球をひとつも漏らさずバットでとらえた三鷹くんは、バッターボックスで一息ついてから、こちらへ振り向いた。

「こんなもんか。やっぱりこのケージだとちょっと球が遅いな」

「す、すごい! すごかったです、三鷹君!」

 僕は惜しみない拍手でケージから出てくる三鷹君を出迎えた。

 本当に感激だ! プロからスカウトがくるような人のプレーをこんなふうに目の当たりにできるなんて!

「た、たいしたことじゃないって、このくらい」

 謙遜を口にする三鷹君だったが、嬉しさは顔ににじみでていた。褒められて悪い気はしないらしい。だったらもっと褒めさせたいただきますよ!

「カッコよかったです! やっぱり野球やってる三鷹君は素敵だなあ……」

 ホント、あのくらい自在に体を動かせた応援団でもきっと活躍できたんだろうなあ……。羨ましいかぎりだ。ないものねだりだってことは分かっているけど。

「ハハ……、サンキュ。お世辞でも嬉しいよ」

「本気ですって! このお店、よく来るんですか?」

「ああ、まあね。最近は部活がない日とか、たまに……まあ、遊びで」

「そうなんですか、ふふ」

「え? 俺、なんかおかしなこといった?」

「いえ、なんでもありません。こっちのことです」

「え~、なんだよ、気になるじゃん」

 口振りとは裏腹に、三鷹君は笑顔だった。

「ホントになんでもないですよお。ちょっと思い出し笑いしちゃっただけです」

 休みの日にまで野球だなんてどこかの野球バカみたいだな、と思ったのだ。そのくらい野球が好きでないと一流選手にはなれないってことなのかな?

「ま、最近は速球対策も兼ねて来てるってところもあるんだけどさ」

 和んだやりとりのなかで、三鷹君が何気なしにそんなことを漏らした。

「速球対策?」

「アオイちゃんいってたじゃん? 交流戦での小川との対戦、応援してくれるって」

「あ……」

 いわれて僕は思い出した。そういえば先週三鷹君にアオイの連絡先を渡したとき、僕、そんなことを口走った気がする。コウタロウ・オガワ、もとい幸太郎との対戦するなら頑張ってほしいとかなんとか。

 あんなの本当に失言をごまかすために苦し紛れに口にしただけだったのに、三鷹君、本気にしてくれてたんだ……。

「小川の売りは一五〇キロ超のストレートだろ? だからそいつを打ち下せるように、ここで自主練してんだ、最近……って、はは。なんか必死だよな、俺?」

 三鷹君は照れ笑いを浮かべたが、僕の胸にはむしろ熱いものがこみあげていた。

「いいじゃないですか、必死で!」

 僕がぐいと身を乗り出すと、三鷹君は驚いたように少しのけぞった。

「そ、そうかな?」

「そうですよ! ライバルに勝つために努力を重ねるなんて、なんていうかすっごく男らしいです!」

 まさに野球は男と男の磨き合いだね。誰になにをいわれようと、努力を恥じることなんて全然ない。

 僕の絶賛を受けて気をよくしたのか、三鷹君はしばらくうれしそうに頭を掻いていた。

 が、その三鷹君が不意にまじめな顔つきになる。

「あ、あのさ!」

 今度は三鷹君がぐいと身を寄せてきた。え……、なに、いきなり……?

「ど、どうしたの……?」

 僕は身を引こうとしたが、三鷹君は僕を逃すまいとさらに詰め寄ってくる。二人の距離はもはやゼロに近かった。三鷹君の息遣いすら聞こえてくる。

 な、なになに、いったい!? どういう状況なの、これ? いきなり豹変した三鷹君の態度に、僕は理解が追いつかなかった。

 三鷹君が身を硬くする僕の手を取った。注がれる熱い視線。僕は息が詰まってなにもいえなくなる。

「こ、今度の交流戦でさっ、もし俺が小川に勝てたら、その時は――」

「ち、ちょっと待って!」

 本能的に危険を察知した僕は三鷹君の言葉を遮り、握られた手も強引に振りほどいた。

「あ……」

 その途端、三鷹君は悲しそうな顔を見せた。正直、胸が痛む。でも僕にだって分かる。すんでのところで頭が追いついた。これ以上いわせればもっと深く三鷹君を傷つけることになる。

「そ、そうだ! わたし、なにか飲み物買ってきますねっ」

 僕はわざとらしく断ると、逃げるようにバッティングエリアの出口へ向かった。

 三鷹君は追ってこなかった。


 *

 

「……はあ~~」

 ロビーに置かれた自動販売機のボタンを押すと、僕は深いため息とともにその場でうずくまった。ガゴンと音がして、取り出し口に缶ジュースが二本落ちてくる。その様子をぼんやりと眺めたあと、僕は自動販売機に額をつけた。ブウンという低い機械音が僕の頭のなかで響きわたる。

 ……三鷹君には悪いことしたよなあ、やっぱり……。さっきの言葉の続き。それを想像するのは難しくない。言葉にならずとも三鷹君の態度が彼の気持ちを能弁に語っていた。

 告白だよなあ、あれは……。

 思い返してみれば、今日一日ずっと、三鷹君はそこへ持っていこうとする態度を随所で見せていたじゃないか。だけど僕は見て見ぬ振りをしていた。心の準備ができていなかったのだ。

 いや、それは体のいい言い訳か。僕がしていることを考えれば、遅かれ早かれこのときはやってきただろう。そしてどれほど僕たちの仲が深まろうと、最終的に僕は三鷹君の前から消えなければならない。できることならばその瞬間をいつまでも先送りにしたいと、いつのまにか心のどこかで思ってしまっていたのだ。

 騙して、もてあそんでいるのだ、僕は三鷹君を……。

 その事実に、今さらながら胸が痛んだ。いや、こんなふうに傷ついた振りをしていることすら、どこか自分を安全地帯においているからできることなのかもしれない。これは僕がやっていることじゃない、アオイがやっていることなんだと思って……。

「男じゃ……ないよなあ」

 僕は額で自動販売機を押し、顔を上げた。

 よし……。やっぱり三鷹君とちゃんと向き合おう。彼の気持ちに答えることはできないにしても、なんらかの誠意だけは見せておかなけばならないと思う。

 取り出し口に手を入れる。二本の缶と決意を胸に抱え、僕は立ち上がり踵を返した――その時。

「ひゃっ!」

 誰かとぶつかってしまった。突然のことで心臓が跳ねあがる。すぐ後ろに人が来ていたことに気がつかなかった。

「あ、わり」

 相手は短く謝ると、その場に屈んだ。ぶつかった拍子に僕が落としてしまった缶ジュースを拾ってくれるようだ。

「す、すみません」

 一瞬、三鷹君かとも思ったけれど、どうやら別人のようだ。その人物は、ジャージ姿で、スボーツバッグとバットを肩に抱えていた。うう……、また人様にご迷惑を……。場合が場合とはいえ、あんまりぼうっとしてちゃいけないな。

「ほい、これ」

「ありがとうござ――イッ!?」

 拾い上げた缶ジュースを手渡してくれた人物の顔を見て、僕は今度こそ心臓が止まるかと思った。

「こ、幸太郎……!?」

 よく見知った幼なじみの顔が、そこにあったのだ。

「あれ? なんで俺の名前? あんたと俺、どっかで会ったことあったっけ?」

「……っ!」

 きょとんと首をかしげる幸太郎の前で、僕は慌てて口を塞いだ。しまった……! 僕は今、アオイの姿なんだった!

「あ、あははは……、えとその……、ひ、人違いでしたっ!」

 なんとかごまかそうと口をついてでたのはそんな苦しい言い訳。本人の名前を呼んでおいて人違いもなにもあるか。

 しかしどうしてここでいきなり幸太郎が出てくるんだ? ひょっとして涼子さんの仕込み――いや、それはないのか。今朝の時点で涼子さんは幸太郎の動きを把握していない様子だったし。幸太郎の出現スポットとしてバッティングセンターというのは納得できるけれど――。

「……あ」

 そこで僕は幸太郎がこの場にいる理由にはたと思いあたった。

『茜を誘うなら、せめてバッティングセンターとかにしてあげて~』

 いった! 僕、今朝、幸太郎がうちを訪ねてきた時に、たしかにそんなことをいった!

 とすると、幸太郎は僕が何気なくかけたひと言を真に受けてここに――ハッ!

「あ、茜は!?」

 僕はとっさに周囲を警戒した。幸太郎だけでなく茜までいるとなると、いよいよ事態はのっぴきならないものになる!

「茜は来てねえよ。誘ったんだけど断られちまってな。だから一人で一五〇キロ打って遊んでたんだ」

 なるほど……。さっき一五〇キロのブースを占有してたのはこいつだったのか。それならあれだけ快音を響かせていたのも納得がいく。

「てか、あんた、茜とも知り合いなのか?」

「はっ!?」

 度重なる失言に気づき、僕は激しく狼狽した。バカか僕は!? 茜の名前まで出したらほとんど僕だって名乗ったようなもんだろ!

 ここで正体がバレるわけにはいかない。絶対にいかない。隠密行動が絶対原則の諜報部員が作戦行動中に知り合いに見咎められるなんてありえない事態だし、それ以上に女装して街をウロウロしてるとか知られたら僕は家族会議にかけられてしまう。お父さんもお母さんも泣いちゃうよ。

「ん~、俺ら、どっかで会ってたっけ?」

 幸いまだ身元が割れてはいないようだったけれど、幸太郎は怪訝そうに僕をまじまじと見つめてくる。

「い、いえ、そのような事実は記憶にございませんと思いますけど……」

 汚職の弁明をする政治家のような文句を口にしながら、僕は前髪で顔を隠そうと両手で髪をすいた。でも利用できる髪はそう多くない。く……だからツインテールはやめようっていったんだ!

「そうかぁ? なんかどっかで会ったことある気もするんだけどなあ」

 幸太郎は首をひねってううんと唸る。正しい、その感覚は圧倒的に正しいよ、幸太郎。そうです、僕はきみの十年来の親友、一之江蒼です。しかしそれを認めてしまうわけにはいかない。

「た、他人のそら似じゃないですかねえ」

「う~ん、割と最近会ってる気もするんだけど」

 最近も最近、今日の午前に顔を合わせています。

 少し考えこんだ幸太郎は、なにかを閃いたように掌を打った。つ、ついにバレた!?

「分かった! 茜のクラスメイトだ!」

「ち、違います!」

 端的に嘘だった。

 高校では茜とクラスが別になったので、正確には元クラスメイトだけど。

「ありゃ、違った? う~ん、おかしいな……」

 当てずっぽうが外れて幸太郎は残念そうに眉をしかめた。喉に魚の小骨が引っかかったような顔つきだけど……、逃げるならこのタイミングしかないか。

「じ、じゃあわたしはこれで……」

「あ、ちょい待って」

 そそくさと幸太郎の脇をすり抜けようとした僕の腕を、幸太郎がむんずとつかんだ。

「な、なんですか!?」

 一般的な男子なら女の子にこんなバリバリ警戒されたらショックで一週間は寝込むと思うけど、そのあたり幸太郎は並みの男と精神構造が違う。幸太郎は恐れおののく僕を意に介さず、ちょいちょいと地面を指さす。

「これ、あんたのじゃない?」

「あ……!」

 地面に落ちていたのは、青いリボンを象ったヘアピン。たしかに僕がつけていたものだ。さっき前髪がいじった時にとれてしまったのか。

 ブルーリボン。それは諜報部員としての僕の、いわば象徴的な品だ。

 そんなものをこの場に残していくのは非常にまずい!

「やっぱりあんたのか。さっき頭からなんか落ちたなって――」

 幸太郎がヘアピンを拾おうと地面に手を伸ばす。

「ま、待って――っ」

 幸太郎に先んじようと慌てて動いたのがいけなかったのだろう。僕はバランスを崩して前につんのめった。

「きゃっ」

「おっと、危ねえ」

 転びかけた僕を幸太郎がとっさに抱き留めた。

 ていうか、転びかけた僕を幸太郎がとっさに抱き留めた!?

「jkl;:っ!?」

 あまりの事態に慄然とし、僕は幸太郎の胸の中で声にならない悲鳴をあげた。は、早く離れないと男だってバレちゃう……っ。僕だってバレちゃう! 頭ではそう分かっているのに、なぜか体が動かなかった。完全に硬直している。感じられるのは、幸太郎の筋肉質な胸板や腕の感触と、少し高めの体温。ほのかに汗のにおいがするのも、決して嫌じゃない。こいつ、なんでこんなにたくましいんだよ……。ああ、茜がオーバーヒートしちゃうのも、少しだけ分かる気がしてきた……。

「おいおい、大丈夫かぁ?」

「ご、ごめんなさ――っ!」

 ようやく弱々しい声を出したそのとき、背筋にゾクリと悪寒が走った。背後に視線を感じたのだ。冷たく、それでいて怒気をはらんだ視線を。

「……おい。なにしてんだ、てめえ……」

 このロビーに今、声の主を除けば僕たち以外の人間はいない。ドスの利いたその声がこちらに向けられたものなのは疑う余地がなかった。

 僕はおそるおそる首を後ろへ回す。幸太郎に肩を抱き留めれたまま。

 視界の端にとらえたのは、憤怒の表情を浮かべて拳を握りしめた、三鷹君の姿だった。

「み、三鷹君!」

 最悪だ! いろんなことが重なりすぎていたもうなにがなんだかわからなくなってきたけど、これだけは直観的に分かる。この状況は最悪だ!

「なにしてんだよ、おい!」

 今度は鋭く問いただすと、三鷹君は大股でこちらへ詰めよってきた。

「お?」

 間の抜けた声をあげたのは幸太郎。

 そんな幸太郎の胸倉に、三鷹君は有無もいわさずにつかみかかった。

「その子になにしてるんだっつってんだよ!」

 三鷹君の怒声が人気のないロビーにこだまする。

 ああ……、やっぱり完璧に勘違いしてしまっている。

 考えてみればこの状況、先日僕と三鷹君が例のファミレスで遭遇したケースと、似ていなくはないもんね。僕がまた柄の悪い輩(幸太郎)に絡まれている。目の前の状況を三鷹君はそう認識しているにちがいない。

 でも違う。そうじゃない。勘違いなんだ。なんとか誤解を解かないと……!

「三鷹君、ち、違うの! これは……」

「早くその手を――って、おまえ……小川じゃねえか!?」

「ありゃ? 三鷹さん?」

 ここで双方、相手の正体に気づいたようで、それぞれ驚きに顔色を変えた。

 よし、これで少し事態が好転した。僕は幸太郎の腕から逃れ、ふたりの間に立つ。とにかくまずは三鷹君に説明を!

「そ、そうなんです! たまたま偶然、こ……お、小川君とここでばったり会いまして!」

 決した嘘ではない状況説明である。たまたま偶然ばったりと冗長表現もいいところだが、今はこの状況が必然でないことを強調することが最優先事項だ。

「ねっ? そうですよねっ?」

「ん? おお、約束してたわけじゃねえからな」 

 僕が同意を求めると、幸太郎はきょとんとしつつもうなずいた。よしよし、いいぞ。

「偶然、だと……?」

 三鷹君はピクリと眉を動かした。

「そ、そうなんですよ、いやぁ、ホントにこんなことって――」

「てことは小川、てめえ……、やっぱりアオイちゃんと前から知り合いだったってことかよ……?」

 僕の言い訳など聞かずに、三鷹君は幸太郎をにらみつけた。あ、あれえ? こちらが意図してたのとずいぶん違う理解をされちゃってます?

「知り合い? うーん、たぶんそうだけど、あんまりよく覚えてねえんだ」

 幸太郎は悪びれることなく困ったふうに笑った。いや、まあ、悪気はないというか、幸太郎に罪はないもんねえ……。でも今この状況でその返答は火に油を注ぐようなものだ。

「覚えてない、だと……? そりゃあつまり、おまえにとってアオイちゃんは何人も声かけた女の子のなかのひとりでしかねえってことか……?」

 三鷹君の押し殺したような声。漂う一触即発のムード。三鷹君、幸太郎のことをとんだスケコマシだと思っちゃってるな、これ……。

「み、三鷹君、あのね――」

 僕はなんとか話を聞いてもらうおうと口を開くが、なんて説明すればいいんだ、これ。今の状況も幸太郎との関係も、三鷹君を納得させるだけの言い訳がまるで思いつかない。そもそも、今現在の僕の身柄が幸太郎の側にあることが致命的だった。

「小川、おまえがどこでどんな女といちゃつこうと、俺の知ったことじゃねえ。だが、この子に手を出すのだけは許さねえ! アオイちゃんは俺の――」

 そこまで勢いよく回していた口を止め、三鷹君は一瞬僕を見て、かあっと頬を紅潮させた。

「ア、アオイちゃんは前にもナンパで嫌な思いをしてるんだよっ」

 あ、いいなおした。

「ナンパ?」

「そ、そうだよ! だから、もしこの子に変な真似をしやがったら承知しねえぞ!」

 三鷹君がそう啖呵を切った瞬間だった。

 ピリリリリ!

 甲高い電子音があたりに鳴り響いた。

「ん?」

 三鷹君が眉をひそめてジーンズのポケットから携帯電話を取りだす。どうやら鳴ったのは彼の携帯だったようだ。

 携帯の画面を見た三鷹君の表情が複雑にゆがむ。な、なんだ?

「そうか……アオイちゃん、小川の前じゃ怖くて声を出せないからメールで……?」

 三鷹君はハッとした顔を上げて僕を見る。

 メールって……あ。僕は慌てて自分の携帯を開いた。

『助けてくれてありがとう……でもわたしにかまわず逃げて! もしも三鷹君が怪我とかしちゃったらわたしどうしていいか……(From:アオイ、To:三鷹君)』

 僕は思わず目を見開いた。な、なんじゃこりゃ!

 一瞬頭が混乱しかけるも、すぐに事態を把握した。これ、涼子さんが三鷹君に送ったアオイからのメールだ!

「心配してくれるのは嬉しい……。けど、それでも俺はきみを助けたい!」

 ヒロイックに叫ぶと、三鷹君は大股でこちらへ詰めより、僕の腕を強く引っ張った。

「き、きゃっ」

 強引に幸太郎のもとから引き離された僕は、よろめくように三鷹君の胸元へ。

「な、なんだなんだ?」

 幸太郎はまだ事態をよく飲み込めていない様子。無理もない。幸太郎をおいてきぼりにして謎のヒーローアクションが展開してるからね。

 でも、これで完璧に幸太郎はアオイにちょっかいを出したちんぴらのポジションに収まってしまった。本人は小悪党とも呼べないほど間抜けな面を晒しているけど、三鷹君の目にはそうは映っていないのだろう。

「小川……、おまえにアオイちゃんは渡さねえ……っ」

「なんかよく分かんねえんだけど……、とりあえずこれ、返したほうがいいか?」

 困惑に首を傾げながらも、幸太郎は僕が落としたヘアピンを返そうとこっちへ手を伸ばしてきた。

 だがそんな善意の行動さえ三鷹君にとっては魔の手に見えるらしい。

「触るな!」

 僕を背中に隠し、幸太郎の魔手を防ぐ盾となる三鷹君。

「いやだからこれをさ……」

 幸太郎はなおも僕にヘアピンを渡そうとしてくる。気持ちは嬉しいけど、もうちょっと場の空気ってものを察知しようよ……。明らかに三鷹君から敵視されてるでしょ、今。

「意地でもアオイちゃんを連れてくつもりかよ……。よし、分かった。それなら俺もとことんつきあってやる。勝負だ、小川!」

 三鷹君はそっと僕を後ろへ突き放すと、幸太郎に向けてファイティングポーズをとる。え……っ!? まさか……こんな場所でおっばじめる気!?

 止めなきゃ! とっさにそう思った僕の行動を先読みしたかのように、またもや三鷹君の携帯がメールの着信を知らせた。

『けんかはやめて! わたしのために争わないで!』

 こっそり自分の携帯を開いた僕の目に飛び込んできたのは、懐メロの歌詞のような文言だった。

 メールの差出人はもちろんアオイ。つまりは涼子さんだ。アオイ(僕)自身がこの場で叫んでいてもおかしくないジャストなタイミングと内容である。だからどこから僕らを監視してるんだよ!

 後ろ姿から察するに、三鷹君も同じメールを目にしているようだった。三鷹君は、携帯を握りしめた僕をちらりと振り返り、慈しむように目を細める。

「そっか……それがアオイちゃんの望みだったもんな。分かった。そこまでいうなら、俺は真っ向勝負するよ。俺は、負けない」

 語り終えた三鷹君は前へ向きなおり、再び幸太郎と相対する。

「真っ向勝負……?」

 僕は三鷹君の言葉に違和感を覚えた。だって変じゃないか。たしかにさっきのアオイのメールは暗に争いを煽るような内容ではあったけども、それにしても真っ向勝負とはなんのことだ?

 疑問を募らせる僕を尻目に、三鷹君は幸太郎の顔に人差し指を突きつけた。

「小川! アオイちゃんを賭けて俺と野球で勝負しろ!」

 ……は? と声をあげたのは僕だ。野球で対決……?

 これでいいだろ? といいたげな顔で僕に確認を求める三鷹君。……あ、もしかして!

 僕は慌てて携帯の画面に目を凝らす。さっきのメール……まだ続きがある!

 一文目に続く文面は、ご丁寧にも改行を繰り返したあとに置かれており、すぐには読めないようになっていた。急いで画面をスクロールし、ようやく三鷹君を炊きつけたであろうアオイの台詞にたどりつく。

『ケンカするならせめて、せめて決着は野球でつけて!』

 ……自分を巡って争う男たちに野球対決をけしかけるとか、なんの冗談だよ。


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