MISSION 3 夕映えの再会にご用心 4・5
4
壮行会の撤収作業は正午までにすべて終了した。応援打ち合わせから戻ってきた浜町副団長が陣頭指揮を取ってからというもの、作業のスピードは格段に上がった。やっばり統率する人がいると効率が違う。別に副団長の鉄拳制裁を恐れて皆頑張ったわけじゃないよ?
作業終了とともに、西大島団長から解散の声がかかった。僕たち応援団の今日の活動はこれにてお開きだ。週明けからの活動予定が簡単に告げられたあと、団員たちは各々帰路についた。
そして僕は他の団員の目を盗みつつ、旧校舎へと向かった。目指す場所はもちろん一階の階段。階段下収納――に模した入り口から、諜報部の部室に入った。
午後からの予定があいたのは、いうまでもなく西大島団長のはからいによるものだ。これで僕は心置きなく諜報部の活動に専念できる。応援団の団長と諜報部の部長を兼ねていると、こういうときに調整が利きやすいんだな、きっと。練習中に団員がひとり姿を見せないとなれば、浜町副団長みたいな人が黙っていないだろうし。
……ひとりだけ皆とは違う活動メニュー(もっぱら団室掃除)を課されている僕にとってはあまり関係ない話かもしれないという可能性は、この際忘れておこう。
とにもかくにも、僕は部室で待っていた涼子さんと合流し、諜報部員としての行動を開始した。
小一時間ほどで支度を済ませ、僕たちは部室を出た。
そしてやってきたのは明大烏山高校。正門のところには守衛さんが立っていたが、僕たちは何食わぬ顔でそこを通過。野球用グラウンドへ向けて歩みを進めた。
なぜ僕らが守衛さんに止められなかったのか? それは、僕たちが明大烏山の制服を着ていたからである。つまり僕たちは明大烏山の生徒に扮して難なく潜入を果たしたってわけだ。この手を考えたのはもちろん作戦参謀の涼子さんである。アイデア自体はすごいと思う。……ただねえ。
「これ、僕が女装する必要なくないですか……?」
ライトグレーのブレザーにチェック柄のブリーツスカートという女子用学校制服をまとった自分の体に目を落としつつ、僕はそれとなく涼子さんに抗議をしてみた。なぜここ女装? 守衛さんをやりすごすだけなら男子用制服でもよかったじゃないか……。
「だから調査の結果しだいではこの後、次の段階へ作戦を進めるんだって。そのための装備よ。そう言っておいたでしょ?」
「たしかに聞かされてはいましたけど……、でも、この恰好のまま作戦を実行するわけじゃないんですよね? だったら作戦開始までは普通に男の恰好でもよいのでは……?」
「私みたいな美少女が男連れで歩いてたら、いくら明大烏山の生徒に化けてるからって目立っちゃうでしょう? これでも私、近隣の学校じゃちょっと顔が知れてるのよ? 九路松高校の美人チアリーダーとして」
涼子さんが言うと自慢に聞こえないから、悔しいけど反論できなかった。美人でスタイルもいい涼子さんがチアガール姿で踊っていたら、そりゃあ男子生徒の目は釘づけになるだろう。ただ、諜報部員なのに名前や顔が知れ渡っていて大丈夫なのかとは思うけど。
「あ……その眼鏡と三つ編みって、ひょっとして変装ですか?」
「ふふん。この姿なら誰も私のことに気づかないでしょう?」
涼子さんは得意げに銀縁眼鏡をくいと持ち上げた。たしかに普段の涼子さんのイメージとは似ても似つかないスタイルだけど、逆に目立つ気がしないでもないんだよなあ……。
ちなみに九路松の校内もこの姿のままさほど怪しまれずに移動することができた。午前中に四校交流戦の壮行会が開かれていたからである。今日に限ってのこととはいえ、二校の間を自由に動き回れるこの恰好、たしかに効率的ではある。
「ん? でもやっぱり、僕は別に男子生徒に化けても問題ないような……」
男連れだと目立つのは、涼子さんが変装してない場合なはずだから。
「チッ……、蒼君は今日、三鷹泰に顔を見られてるでしょ? だから変装してもらう必要があったの。……気づかれたか」
「前後の小声での台詞がなかったらたぶん僕、納得してましたよ……」
前々から感じてはいたけど、涼子さん、僕に女装させること自体をおもしろがってますよね? だいたい、面が割れているというなら僕だけじゃなくてアオイもそうだと思うんだけどな。……うん、なるべく三鷹君に気づかれないように注意しておこう。
「とにかく、この場では女子生徒に化けたほうが紛れ込みやすいのよ。ほら、見てみなさい」
涼子さんがくいと顎を上げて前方を指した。
「あ……」
どうやらおしゃべりしているうちに野球部専用のグラウンド付近まで来ていたようだ。グラウンドと外部を仕切る高いフェンスと、その前にできた人だかりが僕の視界に飛び込んできた。さらに近くに行くと、話し声も聞こえてきた。
「やっぱり野球部ってカッコいいよねー」
「ねえねえ、どの人がタイプ? 私はやっばりキャプテンかな」
「え~、趣味しぶーい! やっばり入ったばっかの一年生に今のうちから唾つけといてさあ――」
フェンス越しに野球部の練習を見学していた三人から四人くらいのグループが、ざっと見渡すかぎりで五、六組はいた。そのほとんどが女子生徒である。彼女たちの興味は野球というより選手たちのほうにあるようで、こそこそと選手たちのルックスを批評したり、目当ての選手のプレーを見て時折キャッキャッとはしゃいだりしていた。なんていうかまあ……お盛んである。
「まるでアイドルのおっかけね。ま、甲子園常連校の野球部員だったら、そういう目で見てもおかしくはないのか」
隣で騒ぐ女子たちを一瞥し、涼子さんはぼそりとつぶやいた。口調にとげがある。涼子さん、こういう手合いのこと、あまり好きじゃないっぽいもんなあ。
「たしかにこのなかに男子生徒が混じったら、ちょっと浮いちゃいますね……」
これ以上いたずらに涼子さんの機嫌を損ねるのもはばかられたので、僕は彼女の考えに同調した。それに、男としてちょっと居心地がよくないのは本当だ。
「ま、私たちはこの子たちをカモフラージュにして自分たちの目的を果たしましょう。ほら、三鷹泰の番みたいよ」
涼子さんに視線で促され、僕はグラウンドへ目を向けた。今はノック練習の最中らしい。三遊間付近で明大烏山の選手が列を作り、監督からのノックを待ち受けていた。
「あ……」
ひとつ前の人が抜け、ちょうど列の最前列に出た選手に僕の目は奪われた。
「お願いします!」
威勢よく声を張り、守備の構えをとったのはそう――三鷹君だった。
腰を落としてグラブを構える三鷹君へ向けて、監督がトスバッティングで鋭いゴロを放つ。緩い打球ではなかったとはいえ、コースとしては厳しいところには飛んでいない。しかし――。
「コラア、なにやってる! このくらい捕れなくてどうする!」
「すみません!」
三鷹君はこの球を捕り損なってしまった。足元に転がったボールを急いで拾い、ファーストへ送球すると、三鷹君は悔しげに唇を噛みながら列の最後尾へ戻っていった。
「おやおやぁ? 三鷹君、どうも調子が上がらないみたいですねえ」
顎をさすりながら意地悪そうな笑みを浮かべる涼子さん。うさんくさい解説者みたいな口調である。
「た、たまたまですよ、きっと」
「え~、そうでしょうかねぇ? 私の目には、どうも悶々として野球どころじゃないって感じに見えますが?」
涼子さんがにやついた目つきで僕を見てきた。
そんな、まさか……だよね? プロのスカウトも注目するくらいの野球選手である三鷹君が、昨日少し言葉を交わしただけの女の子に集中力を乱されているとでもいうのか?
「……あ」
驚きのなかで三鷹君を注視していた僕は、ある事実に気がついた。三鷹君の左肘にサポーターが巻かれていたのだ。
他の人にとってはなんでもない些事かもしれない。だけど僕は知っている。あのサポーターが隠している肘に、三鷹君が先日怪我を負ったことを。
「それはさすがに杞憂じゃない? あのくらいのかすり傷、もう塞がっているでしょ。メンタルの問題よ、メンタルの」
「……はい」
涼子さんのいっていることは正論だ。いくら投手の腕がデリケートだといっても、肘を擦りむいた程度で調子が左右されることなどないのかもしれない。
それでもやはり、心配になる。怪我の原因を作ってしまった身としては……。
「気持ちは分からなくもないけどね。だったら後で本人に直接お見舞いでも――」
涼子さんがそう提案しかけたときだった。
「ちわっす!!」
グラウンド内にいた明大烏山野球部員から一斉に野太い声が上がった。そのせいで涼子さんの言葉をかき消してしまった。
全員が帽子を脱いで同じ方向へお辞儀をしていた。そんなふうに部員たちから敬礼をされ、ベンチから上がってきた人物は、片手を挙げて部員たちに応えた。
「ああ、いい。私のことは気にせず練習を続けなさい」
グラウンドへ姿を現したのは、茶色い背広を羽織った年配の男性だった。隣には三十代くらいの小太りの男性が付き従っていた。背中に明大烏山のネームがあしらわれたブルゾンを羽織っているところを見ると、若いほうは学校関係者みたいだけど、背広の人は誰だっけ? なんか見覚えがあるような……?
「境理事よ、高野連幹部の。一緒にいるのは明大烏山野球部の顧問教師」
涼子さんに小声で耳打ちされてようやく思い出せた。そうだ、今日の壮行会で来賓として登壇していた人じゃないか。見たことあるはずだよ。
「でも、高野連の人がなぜここに?」
「さあ? まあ、壮行会で出てきたついでに、母校の練習でも見学に来たってところじゃない?」
たいして興味がないのか、涼子さんの返事は適当だった。でも推測としては間違っていない気もする。境先生は壮行会での挨拶でも、自分は明大烏山野球部の監督を長年務めていたといっていたもんな。
やはりというか、境先生は練習を再開した部員たちを鋭い目つきで眺めはじめていた。
「い、いかがでしょう、先生、今年のチームは……? 橋本監督からは補強もうまくいったと聞いていますし、甲子園予選ではご期待に沿えるかと……」
しばらく経ってから、隣にいた顧問の先生がそう尋ねた。妙にへりくだった物腰だな。
「……柴崎君、前監督であるとはいえ、今の私は高野連理事として県下の全高校を公平に見なければならない立場だ。たとえ母校であっても、特定の高校に対して意見をするわけにはいかないのだよ」
そういうと境先生はぎろりと柴崎先生をにらんだ。
「こ、これは失礼いたしました! も、申しわけありません!」
柴崎先生は慌ててぺこぺこと頭を下げた。額に大汗をかいているのは、きっと春の陽気のせいばかりではないのだろう。
「……引退しても前監督の威光は健在ってわけか」
ふたりのやりとりを横目で眺め、涼子さんが皮肉げな感想を漏らした。
「長年チームを率いて、明大烏山野球の基礎を築いた人らしいですからね」
明大烏山の名将・境監督といえば、僕も名前だけは知っていた。甲子園大会のテレビ中継で姿を見かけたことも、そういえばある。ユニフォーム姿しか拝見したことがなかったから今日はすぐに思い出せなかった。
明大烏山の教師を定年退職するのを機に野球部の監督の座も退いたと聞いている。もっとも、近年は成績不振が続き、チームの改革のために監督を降ろされた、なんて噂もあった気もするが。
冷や汗を拭う柴崎先生を尻目に、境先生は練習の見学に戻っていた。あいからず厳しい目つきだ。その視線を意識したわけでもないだろうけど、監督が打つノックのコースは先ほどよりもやや厳しくなっていた。それでも打球に飛びついてきっちりとファーストへ送球する守備陣はたいたものだ。
選手の好プレーに、フェンス越しに見つめるファンの子たちから黄色い歓声が上がった。
「……なんだね? あの生徒たちは」
だけど境先生は彼女たちを見て露骨に顔をしかめた。
「あ、あれはですね、その……橋本監督の方針で、わが校の生徒ならば自由に練習を見学していいことにしておりまして。試合の際、選手たちが球場の雰囲気に呑まれないように、普段から声援に慣れさせておくためだと、そういう考えのようですよ、はい」
「……まあいい」
境先生は明らかに不満そうだった。うーん……、長年自分が監督を務めたチームの方針を変えられるのはやっぱり気に食わないのだろう。
「お、また三鷹泰の番よ」
涼子さんの声で僕はグラウンドに注意を戻した。本当だ。三鷹君がまた列の先頭でグラブを構えている。
「お願いします!」
三鷹君の声に合わせて監督は三塁線へ球を転がした。勢いはある打球だが、冷静に対処すれば難なく処理できるはず――。
「なあにをぼやっとしてんだ、三鷹ぁ! しっかりと球を抑えんか!」
三鷹君はまたも打球のキャッチに失敗した。捕り損ねたボールを慌ててつかみ、ファーストへ投げるがその球までも相手が大きく伸ばしたグラブを超えてしまった。悪送球だ。
「あ……」
後方へそれた球を拾いに走るファースト役の部員。三鷹君はその姿を呆然と見つめる。
「もういい! 三鷹っ、おまえは次の打撃練習に向けて肩を作っておけ!」
「はい……」
監督の怒号に力なく返事をすると、三鷹君は一塁側ベンチ前へ移り、投球練習を始めた。このあと、打撃練習でピッチャーを務めるらしい。
しかしここでも三鷹君の不調は目についた。キャッチャーを立たせた状態での軽い肩慣らしなのだが、それでも三鷹君の制球は定まらず、キャッチャーを苦労させていた。
し、心配になるなあ……。本当に三鷹君、どうしちゃったんだろう……?
「あれが三鷹という子かね?」
境先生もエースの様子が気になったのか、一塁側へ目を移し、ぴくりと眉を動かした。
「そ、そうです、彼が二年の三鷹ですね。今年は本格的に三鷹君中心のチームを作ると、橋本監督も申しておりました。本人も周囲の期待に応えるべく、一生懸命頑張っておりますよ、ええ」
チームの方針をべらべらと明かす柴崎先生はちょっと得意気だった。すぐ近くに部外者(それも諜報部員)が紛れ込んでいるとは夢にも思っていないだろうなあ。
「彼が中心のチームかね……。私には今のところあの子こそ不安要素に見えるんだがね」
「そ、それはですね……」
境先生から強烈な皮肉を返され、柴崎先生は言葉につまるしかなかったようだ。気の毒だけどこれは反論できないだろう。だって、三鷹君の不調は誰の目にも明らかだもんな。
「……だいたい、彼は少し髪の毛が長すぎるんじゃないかね? 実力はともかく、あれでは下級生に示しがつかんだろう」
帽子を脱いで汗を拭う三鷹君を見て、境先生の顔はいっそう険しくなった。あ、そういうところを気にする人なのか。
柴崎先生も意外だったのか、ニ、三度目を瞬かせる。
「え? そ、そうでしょうかね?」
「あの子だけではない。他にも身だしなみが整っていない者が多いようだが?」
境先生の言葉につられて、僕もグラウンド上の野球部員の髪型や服装に注意を向けた。いわれてみればたしかに、明大烏山の部員の多くが髪や眉を整えていたり、わりと派手な色合いの練習着を着ていたりする。とはいえ練習の邪魔になりそうなアクセサリーをつけていたりする人はいないし、そこまで華美な印象も受けないが……。
「ええ、と、ですね。頭髪などは特に検査しておりませんので……」
「……私の頃は野球部員は原則丸坊主ということにしていたのだがね」
「身だしなみに関しては生徒たち本人が自己責任で考える、という方針だと、橋本監督からは聞いておりますね、はい。も、もちろん校則に違反しない範囲内で、ですが!」
「自己責任、ね……。それをいうならば私がいた頃は部員同士で率先して頭を刈りあっていたものだがね。部室に置いてあったバリカンももう処分してしまったのかね?」
「え、ええと、どうでしょう? 捨てたような話は聴いておりませんが……」
柴崎先生はごまかし笑いを浮かべつつ目を泳がせた。部室にバリカンまで用意してあったのか。今の明大烏山の雰囲気からは想像もできない厳しさだな。
「当時から髪の毛くらい自由にさせてもいいじゃないかという声もあったがね、別に生徒を締めつけるために坊主を強要していたわけではないのだよ。互いの頭を刈りあうことでチームの結束が生まれ、仲間に対する信頼と責任が育まれる面もあった。橋本君の方針ならばとやかく口を出すつもりはないが、自由と無軌道を履き違えることのないよう注意しておく必要はあるんじゃないかね?」
口出ししないといいつつ、結構文句を垂れてるなあ、境先生。
「たいへんありがたいご意見でございます!」
「そう思うなら、あとで橋本君にも伝えておきなさい」
「い、いえ、そのあたりはその、いろいろと難しい事情もありまして……」
「事情?」
言を左右させる柴崎先生に、境先生は眉をひそめた。
「そのですね……、あまり規則を厳しくしますと、他県からの選手獲得に支障が出るとスカウト陣からの意見もございまして……」
「……ふん。野球留学というやつか」
吐き捨てるようにいって、境先生は再び三鷹君に目を向けた。九州地方から明大烏山へ越境入学した三鷹君もいわゆる野球留学生の一人だ。
野球留学というのは、将来有望な選手が自分の出身地から離れた土地にある野球部の強い高校へ入学することである。近年はこうした慣習が広まっており、全国的に有名な野球強豪校ならほとんどが県外から有力選手を受け入れている。もちろんどこの高校へ進学しようとは本人の自由であり、公式に規制されているわけではないのだけれど、この制度に対して良い顔をしない人も結構いる。なにせ場合によってはレギュラー選手全員が県外出身者で占められるというチームも生まれることがあるのだ。それで甲子園に出場して地元の代表といえるのか、という疑問も、心情的には十分に理解できる。
野球留学という言葉に渋い顔をした境先生も、おそらくこの制度には否定的なのだろう。
「……次の試合ではあの子に先発させるつもりかね?」
「それはなんとも……。橋本監督のお考えもありましょうし……」
柴崎先生のひきつった顔がはぐらかした答えを雄弁に物語っていた。大事なシーズン初戦でエースの三鷹君を投げさせないとは考えにくい。
とはいえ、三鷹君もなんだか不調ではあるようだけど……。
「地元の目がないと生活面でも気のゆるみが出るのだ。それにね……、目先の勝利に固執し、一時の感情で自分の将来を棒に振ろうとするような選手は、私は好かんな」
「は?」
境先生は最後のつぶやきに柴崎先生は目を丸くしたが、境先生はかまうことなく「もう行く」といいのこしてグラウンドに背を向けた。
柴崎先生も境先生を追ってベンチへ引っ込んだので、見学する僕らのあいだにはようやく平穏な雰囲気が戻ってきた。
「……典型的な老害ってやつね」
白けた表情の涼子さんがぼそりとつぶやいた。ちょ……、そういう悪口はやめましょうよ。そりゃあ僕だって境先生の価値観を全面的に認められるわけじゃないですけど、具体的に明大烏山へ圧力をかけているわけでもないですし。
「そうね、私たちに直接関係あるわけでもないしね。あんな爺さんは放っておいて、三鷹泰のことを考えましょう」
……爺さんって。刺があるんだよなあ、いちいち。三鷹君を気にかけようって提案はもっともだけど。
といっても、状況は依然変化なし。キャッチャーを座らせての投球練習に進んでもなお、三鷹君は制球に苦しんでいた。
「コラァ三鷹! 肩が突っ込んでるぞ! しっかりヒップファーストを意識しろ!」
不調のエースに、橋本監督の指導が入る。三鷹君があまりにも平凡なミスを繰り返すせいで、かなり苛立っている様子である。
「すみません……」
力なく返事をした三鷹君の表情は険しい。自分でもボールの握りなどを確認しているが、やはりしっくりきていないようだ。
首をひねりながらも三鷹君はセットポジションからスライダーを投げた。しかしこの球もやはりすっぽぬけたような暴投。キャッチ―が飛びあがるようにしてなんとか捕球したほどだ。
「ええい、もういい! このまま続けてもラチがあかんわ。ランニングでもして頭を冷やしてこい!」
とうとう業を煮やしたか、橋本監督は三鷹君に投球練習の中断を命じた。
「おす……」
三鷹君はグローブを外すと、とぼとぼとした足取りでひとりグラウンドを出ていく。
「大丈夫かな、三鷹君……」
僕に心配する筋合いなどないのかもしれないけど、それでも気になってしまう。袖すり合うも他生の縁というけど、そのつてでいえば昨夜僕は三鷹君とずいぶん長く行動をともにしたんだ。知らん顔などできるはずはなかった。
悶々としていた僕の肩を涼子さんがそっと叩いた。
「そう思うなら、なおさら直接会って励ましてあげなくちゃね」
涼子さんは満面の笑み。
え……、直接?
「そう。ランニングコースへ先回りして、三鷹泰と接触するのよ。三鷹泰がひとりになる――このチャンスを逃す手はないでしょう。いざ、第二ミッション敢行よ!」
力強くいいきったときにはもう、涼子さんは僕の手を引いてファンの集団から抜けだしていた。
ああ……そうだった。僕、三鷹君をハニートラップにはめている最中だったんだよなあ……。
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ランニングコースについてはもちろん調べがついていた。川を挟んで明大烏山高校を眼下に見ることのできる土手――明大烏山野球部の校外ランニングコースの終盤に位置するその場所に、僕と涼子さんはやってきた。目的はもちろん、三鷹君の待ち伏せだ。
僕たちは木陰に身を隠し、並木道の先へ目をやる。まだ人の姿は見えない。三鷹君はいつやってくるのだろうか? できれば邪魔は入らないでほしいところだ。この前みたいに柄の悪い連中が通りかかったら今度こそ収集がつかなくなる。時刻は現在、午後四時前。晩春の陽はまだまだ高い。天気もいいし、散歩してる人とか来ないかな……?
「心配ないって。この時間にこの道を通る人がほとんどいないことはリサーチずみだし。万が一誰か来ても、高校生同士が立ち話してるのをいちいち気にとめないだろうしね」
ただ、高校生同士っていっても、同じ高校の生徒じゃないんだよなぁ……。実態としてもそうだけど、現時点では見た目もそうだ。
ここへ来る前、僕はトイレの個室を借りて衣装チェンジした。つまり僕はもう明大烏山の制服を着ていない。僕がいま身にまとっているのは、昨夜も着ていたセーラー服。乙女七つ道具が詰まったボーチも律儀に装備させられていた。
なお、着替えに使えと案内されたトイレは当然のように女子用だった。すでに女装してたから自然といわれればそれまでだけど、女装して女子トイレに侵入とかバレたらお縄ですよ、お縄。
明大烏山の制服を着たまま三鷹君と顔を合わせるわけにはいかないのだから、この着替えは必然だ。でもなぁ……。この恰好になると、どうしても嫌な記憶が蘇るんだよな……。涼子さん、また僕に内緒でよからぬことを考えてないでしょうね? もう嫌ですよ、いざってときに連絡がとれなくなるとか。
「このあいだのことはホント悪かったって思ってるわよ。だから今日は、私もここに残ってちゃんとフォローしてあげるからさ」
「フォローですか……。そういえば僕、三鷹君が来たらどうすればいいんですか?」
肝心要なところを聴いてなかった。ミッション敢行とかいわれたけど、またなんか突飛なことやらなきゃならないんですか? 涼子さんが持っているスポーツバッグが怪しげだけど……。ああ、でもあれは僕の着替えが入ってるだけなのか。
「きみと三鷹泰とは顔見知りになったとはいえ、まだお互いに名前しか知らない段階だからね。でもここで運命的な再会を果たして、いよいよふたりの関係が始まるって寸法よ」
「まあ再会はするでしょうけど……どこが運命的なんですか?」
道端で出会うだけだ。まあ、僕、というかアオイがわざわざ三鷹君に会いにきたとはいえるけども。
「そこはほら、話芸でいくらでも盛り上げられるでしょ?」
簡単にいいますけどね。
「話芸なんて、僕に期待されても困りますって……」
自分の大根役者っぷりも昨日嫌というほど思い知らされた。
「演出プランはばっちり考えてきてあるから、任せてよ。ほら、来たわよ」
涼子さんに促されて道の先を見ると、野球用の練習着を来た人影が、淡々としてペースを刻んでこちらへ近づいてきていた。
「わ、わっ、来た」
自分の出番が迫りつつあった。そりゃ慌てますって。
「落ち着け。相手に毒は仕込んであるんだから、流れに身を任せてれば勝手に落ちてくれるわよ」
「え!? ちょ……っ」
三鷹君が僕らが隠れる木の側を通りかかる少し手前で、涼子さんは木陰から僕を押し出した。
「とりあえずこの間のお礼でもいって話をつなげなさい」
そんなおおざっぱな指示を最後に、涼子さんの気配がすっと消える。振り返っても涼子さんの姿はまったく見えない。いったいどう隠れたらそこまで気配を消せるんですか。忍者かなにかなのか?
「……え?」
これは三鷹君の声だ。三鷹君は最初、木陰から飛び出してきた僕を避けてそのまま通りすぎようとしたのだが、すれちがった直後に僕のほうを振り返り、ランニングの足を止めた。
「ご、ごめんなさいっ」
僕はとっさに頭を下げた。こういうときとりあえず謝っちゃうのは日本人気質ってやつだね。
「ア、アオイ……さん、だよな?」
僕はなんとなくうつむいたままだったのだが、三鷹君のほうから探り探りといった感じで訊かれた。
驚いたし、なんかちょっと恥ずかしくもあった。うおお……、ホントに顔と名前、覚えられていたよ……!
「え、えと……はい」
今さらごまかしようもないと思い、僕は返事をしてちらりと視線を上げた。
三鷹君は複雑な表情で僕を見つめていた。驚いてもいるようだけど、それよりも困惑しているっていうほうがやや強いのかな。
だったら今度こそ、謝るに足る場面だろう。
「れ、練習中なのにすみません! 一言お礼をいいたくて……。先日は、本当にありがとうございました!」
僕は早口でまくしたてて、今度もしっかりと腰を折った。とりあえずこの前のお礼をしろという涼子さんの指示に従ったともいえるけど、気持ち自体は本物だ。昨夜危ないところを三鷹君に助けてもらったのは本当だからね。こんな恰好で礼を尽くしたといえるかは微妙なところだけれど、きちんとお礼がいえて、僕としてはようやく心のつかえがとれた気分だ。
「え、ええと……なにが?」
ところがなぜか、三鷹君からはとぼけた反応が戻ってきた。
「え、えと……、あの、柄の悪い人たちから助けてもらったので……」
「あ、ああ! そ、そうだったよな、うん!」
三鷹は僕の補足を聴いてしきりにうなずく。その後も体のあちこちをむやみに掻いたりして落ち着かない様子。な、なんだ、クールな三鷹君らしくないこのうろたえぶりは……?
初対面の印象との違いに僕が目を丸くしていると、三鷹君はふいに思いつめたような顔になってうつむく。
「ごめん……。もう、会えないと思ってたから……」
三鷹君は練習着の胸のあたりをぎゅと握りしめた。それはまるで、胸の中に暴れるどうしようもない感情をなんとか押さえつけているようだった。
え……、なにこれ? 三鷹君、本当におかしいよ。僕なんかを相手にこんな、気になる異性を前にしたみたいな態度をとるとか……。
返答に困ってしまった僕にできることは、ひとつだけだった。
「……ま、待ッテタンデス」
僕が棒読みでそう告げると、三鷹君は驚いたように目を見張った。
「みたっ、三鷹君……ですヨね? 明大烏山の……」
……さきほどから棒読みのうえに噛んでしまってたいへんお聞き苦しいとは思うけど、ご寛恕願いたい。これには理由がある。三鷹君の背後の木陰をご覧いただきたい。
木陰から半身をのぞかせた涼子さんが、スケッチブックを僕に向けているのである。
『ここに台詞書くからそのまま読んで』
スケッチブックにマジックで大書きされていたのはそんな指示。そして次のページから、本当になんか台詞っぼい文言が書き込まれていたのだ。涼子さんはうながすようにスケッチブックを揺らし、目では無言の圧力を加えてくる。読むしかなかったのだ。
フォローだとか話芸だとか演出だとかいってたのは、こういうことですか……。つまりテレビ番組で進行を指示するディレクターとそれを受けて振る舞う演者みたいな関係を演じろと。それじゃ僕、まるっきり芸人じゃないですか。
今日は例の通信機を持たされていないと思ったら、こういうカラクリで僕を操るつもりだったのか……。僕の着替えを入れるために持ってきたと思ってたスポーツバッグも、本命の内容物はこのスケッチブックとペンだったんですね……。
「お、俺のこと知ってたの?」
自分の前後でそんな茶番が繰り広げられていることに気づくことなく、三鷹君は自分の顔を指さした。その顔はなんだろう……ちょっとだけ期待感がにじみでているようにも見える。
「え、えと……、前に投げてる、試合を見た、ことがあって」
台詞が変な区切り方になっているのは、スケッチブック上の改行に釣られているからです。
「そ、そうだったんだ……」
「三鷹君も、私のこと、を覚えていてくれて、嬉しい、です」
ああ、スケッチブックの字面を追いかけているとどうしてもこんな感じになっちゃう……。最近のボーカロイドとかのほうが何倍も滑らかにしゃべれるんじゃないか? そんなふうに思っていると、涼子さんがまた一枚ページをめくった。
『(これはいわなくていい)あんまりこっちばかり見ないこと。バレたらカンペの意味ないからね』
あれ、今急いで書いたわけじゃなかったよな……。現状を予見していたかのような注意書きが存在していたことに少し戦慄してしまった。
「でも、どうしてここに……?」
三鷹君のもっともな疑問に、僕はカンペ通り答える。
「えと……、昨日、名前は教えてもらった……でしょ? それであの三鷹君だって分かって、こ、ここで待っていればひょっとして会えるかな、って……」
多少たどたどしいところもあったけど、僕はこの長台詞をいいきった。初見でここまでやれれば充分だと思う。
「そっか、そうだったんだ……」
三鷹君は小さくつぶやいた。頬が緩んでいる。喜びを噛み締めているって感じだ。
……ん? 嬉しいんだろうか、これ? 相手の素性が分かったから学校付近で待ち伏せてたって下手すりゃストーカーだよ?
「会えて、よかったです。どうしてもちゃんとお礼をいいたかったから」
どっかでボロが出るんじゃないかと内心ハラハラしながらも僕はカンペを読みつづける。ところどころ僕の本心からの台詞が混ぜられているのは偶然なのか涼子さんの狙いなのか。
「っ……お、俺もっ、そ、その、会えて嬉し……かった」
三鷹君の口調が不安定になったのは、カンペを読んでいるから……ではもちろんないだろう。
「あ」
三鷹君が腕を落ち着きなく動かしていたため、肘のサポーターが僕の目に入った。
「ああ、これ」
僕の視線に気づいた三鷹君は自分の肘をすっと僕から隠した。
「傷……、ひどかったんですか?」
「ち、違う違う!」
僕の心配を打ち消すように、三鷹君は慌てて両手を交差させた。
「傷はもう塞がってるんだけどさ……」
ちょっとはにかむと、三鷹君はサポーターを外し、左肘を僕に見せた。
「あ、絆創膏……」
三鷹君の肘にあったのは、昨夜僕が応急処置として貼り付けた絆創膏だった。
「願掛け……みたいなもんかな。これ張ってればまたきみと会えるかも、って……」
三鷹君は自分の肘に貼られた絆創膏を大事そうにさすった。その姿を目の当たりにして、鈍い僕もさすがに察した。ああ、三鷹君、本気でアオイのことを――。
「で、でも、ちゃんと治療してくださいねって昨日いったじゃないですかっ」
なんか急に恥ずかしさがこみ上げてきた、僕は照れ隠しに三鷹君を叱ってしまった。
「あ、はは。ごめん……。なんかキモイよな? 男がこんなのさ……」
最初こそ笑っていたものの、三鷹君は不意に目を伏せた。
「あ……い、いえ! そ、そんなつもりでいったわけじゃ!」
僕が慌ててとりつくろうと、三鷹君は不安げにこちらを窺った。
「そ、そうかな……?」
「は、はい! 分かりますから、そういうの」
三鷹君を安心させたくて、僕は微笑みを返した。意中の相手からもらったものを大事にした経験くらい僕にだってある。たとえば中二のバレンタインに茜からチョコと一緒にもらったハンカチなんて今も……ってなにをいわせるんだよ!
「あ、あのさっ」
僕が照れくさい思い出に気をとられていると、三鷹君が思いつめたような顔で僕を見つめた。僕は思わず背筋をピンと伸ばす。
「は、はいっ」
「お、俺、きみとその……な、仲良くなりたいんだ! だからその、なんていうか……、くそ……っ」
緊張してうまく言葉が紡げないのか、三鷹君は苛立たしげに頭を掻きむしった。
えとこれは……、僕はどう反応したらいいの? 困った僕は涼子さんの指示を求めてさりげなく視線を動かした。ところが僕の目に飛び込んできた文面は驚くべきものだった。
『ここはアドリブでお願いします』
この局面で!? ち、ちょっとちょっと! こういうときこそディレクターが手腕を発揮するものでしょ!
『(これは言わなくていい)あんまりこっちばかり見ないこと。バレたらカンペの意味ないからね』
僕の心理を読んだかのように、涼子さんはページを戻した。はからずも無言の会話が成立していた。
「お、俺はきみのことが……、いやきみのことを……?」
目の前にはいまだ言葉を探している三鷹君。その後方には涼子さんがカンペを揺らしてアドリブを催促してくるし……。ええい、もう!
「こ、幸太郎!」
追い詰められた僕の口から飛び出したのは、自分でもこれはないだろうと思うひと言だった。
「え? な、なんだって?」
三鷹君は困惑の表情を浮かべた。当然だ。
「ええと、その……、コ、コウタロウ・オガワ! そう、小川幸太郎です!」
なんとかごまかそうと苦し紛れに口を動かした結果、ごまかすどころか墓穴を掘っていた。直前に茜のことなんか考えていたから頭の回線が無意識に幸太郎のところへつながっちゃったんだろうね。フロイト先生の偉大さを痛感した瞬間だった。
「お、小川って、九路松の小川のこと?」
三鷹君が怪訝な表情を浮かべる。三鷹君も今日幸太郎と対面したぱかりだから、すぐに、ピンときちゃったんだろうね。
「ち、違うんです!」
僕は慌ててかぶりを振った。なにかをごまかそうとしているやつの典型的な動作だった。
「小川がどうかしたの……? ま、まさか、アオイちゃん、あいつと――」
ま、まずい。三鷹君の想像があらぬ方向に行きかけてる。ここで僕が幸太郎の知り合いだと気取られるのはまずい。下手したら僕の正体がバレてしまう!
「こ、今度の四校交流戦で、三鷹君、こうた……そ、その人と対戦するって聞いて……」
「え? あ、ああ、うん……」
苦しい言い訳かと思われた台詞は、意外にも三鷹君を引き下がらせた。とっさに口をついてでた台詞しては悪くない感触。こうなりゃこの線で行くしかない!
「えとその……、わたし、三鷹君のこと応援してます! 頑張ってください!」
とにもかくにも自分が三鷹君の味方であることをアピールする。すまん、幸太郎……。話のダシに使ったうえにライバルのほうに与するのは本当に心苦しいんだ。でも今だけは許してほしい。僕の男としての人生がかかっているんだ。
人生なんて大仰なものがかかると、人間、自分でも思いもよらぬことをしでかすもんだね。僕は無意識のうちに、三鷹君の両手を正面からぎゅっと握りしめていた。
「あ!」
三鷹君が驚きの声とともに僕の手を振りほどいた。
「ご、ごめんなさいっ」
これは僕もやっちまったなと思ったよ。ほとんど初対面に近い相手の手をいきなり握るとか、失礼にも程がある。さすがにこれは三鷹君も嫌だったか――。
「ち、違うんだ!」
ところが三鷹君は、なぜかうろたえてさっきの僕みたいな弁明を口にした。
「み、三鷹君……?」
「ご、ごめん、嫌だったわけじゃないんだ! い、いきなりだったからさ、とっさにっていうか、びっくりしたっつーか……、むしろその……嬉しかったっていうか……」
しどろもどろになりながら言い訳をまくしたてたかと思うと、三鷹君はカアッと沸騰したみたいに顔を赤くして、気まずそうにうつむいてしまった。……おや? どうなってるの、これ?
戸惑いに目を瞬かせていると、視界の隅に白いものをとらえた。思えば久々の、涼子さんのカンペである。
『あそこで手を握るとはね! 私も予想しなかった口説きテクだわ! この天然ビッチめ!』
急いで書いたのか、字が乱れており、皮肉にもそれが涼子さんの興奮を表しているかのようだった。鼻の穴を広げた涼子さんの顔とカンペの文脈で褒められているのは分かるけど、天然ビッチって……。
三鷹君は依然として頬を上気させて落ち着きなく視線を泳がせていた。だけどプルプルと震える唇から今にも次の――おそらくは決定的なひと言が飛び出してきそうだった。
そんな三鷹君と駆け引きをおこなっていたのは、僕ではない。涼子さんだ、
『ポシェットのなかのびんせんわたして』
今度こそ殴り書きのような乱れた文面。だけど意図は伝わったし、切迫した意思はもっと直接的に僕の体を動かした。僕は肩から下げていたポシェットに慌てて手を突っ込み、平べったい物体をつかみ、三鷹君の眼前につきつける。
「これは……?」
自分の手からなにかが抜き取られる感触があって、僕は顔を上げた。三鷹君を受け取ったものを目にするのは僕も初めてだ。なにかと問われれば、三鷹君の背後を見て答えるしかない。
「お、お礼のお手紙です! そ、それとわたしの連絡先も書いておいたので、よかったらメールください!」
……て、えええっ!? 僕の連絡先、三鷹君に教えちゃうんですか!?
『なに慌ててんの。蒼君のメアドなわけないでしょ。アオイちゃん用の携帯を買ってあるから、その番号よ』
思わず目を剥くと、涼子さんからそんな文面で説明をされた。ちなみにこれは事前に用意されていたページのようだ。ていうか、お礼の手紙渡す指示はその場で書いたのに、なんでその後のフォローは用意してあるんですか……。涼子さんがカンペを用意する基準が全然分からなかった。
「メ、メール……してもいいのか?」
三鷹君はごくりと息を呑み、便箋と僕を交互に見比べた。背後の黒幕には気づいていないようで、僕は胸を撫で下ろした。
「も、もちろんです。わたしからもメールしたいから、早めに連絡ください」
この歯の浮くような台詞はもちろん涼子さんのディレクション。そうとは知らず三鷹君はパッと顔を輝かせる。
「お、おお! 練習終わったらすぐメールするから!」
『そろそろ切り上げ時ね。適当に締めて』
適当にって……。イベントの司会とかでそこそこ場数を踏んだ芸人さんとかじゃなきゃ対応できないんじゃないかと思うくらい緩い指示でどうしようかと思ったけど、救いの手は意外なところから差しのべられた。川の向こうから小さくチャイムの音が聞こえてきたのだ。
「やべ、もうこんな時間かよ。そろそろ行かないと……」
三鷹君は川向うの母校を見やった。そういえば三鷹君、罰走の途中だったっけ。
「すみません、練習の邪魔しちゃって……」
「邪魔だなんて、そんな!」
僕が恐縮すると、三鷹君は慌てて両手を振った。なんだかんだ優しいよな、三鷹君。
でもさすがにこれ以上の長話はしていられないようで、三鷹君は名残惜しそうにしながらも走りだす態勢をとった。
「今日は会えて嬉しかった……絶対連絡するから!」
そう宣言すると、三鷹君は弾かれるようにスタートを切った。
「ま、待ってます」
別れ際に呼びかけると、三鷹君は一度こちらを振り返り、便箋を持った右手を高々と掲げた。連絡をするという再度の合図だろう。
「うおおおおっ!」
僕が手を振って応えると、三鷹君は雄叫びを発しながら走り去っていった。ぐんぐん遠ざかっていく背中に僕は手を振りつづけた。
「つい一時間ほど前まで不調にあえいでた選手とは思えな元気さねえ」
涼子さんが木陰から出てきたのは、三鷹君の姿が完全に見えなくなってからだった。あれだけ大胆にカンペを出してたわりに変なところで慎重ですよね……。
「お疲れさま。うまくいったわね」
涼子さんが満足そうな顔を浮かべ僕の肩を叩く。三鷹君との距離を縮めるというのが今日のミッションの目的だった。連絡先を渡せたから、クリア条件は満たしたとはいえるけど……。
「無茶ぶりすぎますよ、もう……」
案の定というか、今日も涼子さんにいいように弄ばれた気がする。カンペを使うとか聴いてなかったし。芝居を打つならせめて台詞の練習とかさせてくださいって。いきなりやれっていわれるのがホントいちばん困るんです。
「いやいや、やっぱり蒼君は下手に段取り教えないほうがいい仕事してくれるじゃん?」
「人をリアクション芸人みたいに……」
テレビのバラエティ番組ってのはガチンコも含めてもろもろ『了解済み』でやってらっしゃるお仕事だから、よい子は真に受けて真似しないほうがいいと思うんですけど。
「ま、作戦は順調に進んでるんだからいいじゃない。今日のところはこれにて終了。締めはこれでお願いね」
涼子さんはにっこり微笑むと、脇に抱えていたスケッチブックを僕に向けた。
『ここはアドリブでお願いします』
勘弁してくださいよ、もう……。