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MISSION 2 ピンチな出会いにご用心 3・4

 3

 

「みた……っ!?」

 なによりもまず湧き上がった感情は驚きだった。いったいなにが起こっているんだ!?

「誰、あんた? 後から割り込んでくるとかマジなくねえ?」

 今度はアッシュ髪が三鷹君をねめつけた。口調こそ軽かったが、目つきは狂気をはらんでいた。

「誰でもいいだろ。こんなところで暴れてる連中に名乗る義理なんざねえよ」

 しかし三鷹君は一歩も引かない。両側から柄の悪い連中にすごまれているというのに、まるでひるんだ様子を見せていなかった。

 三鷹君の後方にお手洗いの案内板が見えた。そうか……。三鷹君は一時的に店内から姿を消していた理由が分かった。そして僕にとっては運悪く、三鷹君がトイレに立っている合間に柄の悪い連中が店内に現れたというわけだ。

 しかし、三鷹君の登場が遅きに失したとはいうまい。だって戻ってきたらいきなり訳の分からない騒動が勃発していただろうに、まったくひるむことなくこうして柄の悪い連中に立ち向かっているのだから。

「つーか、離せや、手! なめた真似してんじゃねえぞ、コラ!」

 三鷹君に手首をつかまれたままだった剃りこみが、その手を振りほどこうと大きく腕を振るった。

「ひうっ!」

 その動きによって、僕は扉のほうへ弾き飛ばされた。圧迫されていた右腕が、不意に軽くなる。

 たたらを踏んだ僕の様子を見て、三鷹君はくわっと目を見開いた。

「逃げろ!」

 三鷹君の叫び声が店内に響いた。突然の大声はその場にいた全員の動きを一瞬止めた。

 が、間抜けな僕はその言葉が自分に向けられたものだと気づくのが一瞬遅れてしまった。

「チッ……、ふっざけんなよ、てめえ!」

 すばやく動いて再び僕を拘束しにかかったのはアッシュ髪だった。それまでのおちゃらけた態度は一変、アッシュ髪はまさに悪漢といった形相で僕に手を伸ばしてきた。

「ひ、ひゃっ!」

「チッ……!」

 身をすくめてしまった僕に届きかけたアッシュ髪の手はすんでのところで止まる。捕まえたのは三鷹君だった。アッシュ髪の右手首を左手でつかんだ三鷹君は、そこから上体を開くようにして、アッシュ髪の体を自分のほうへ引き寄せた。

「うお――ぐはッ!?」

 次の瞬間、アッシュ髪の体は下から風にでも煽られたようにふわりとひっくり返り、そのまま背中から床に落ちた。ドスンと大きな物音とともに、アッシュ髪は苦しげな息を漏らした。

「なっ……!? てめえ!」

 床に転がされた相方を見たのも束の間、今度は剃りこみが三鷹君に襲いかかった。

「あ、危ないっ!」

 剃りこみの右拳が三鷹君に迫る。僕は目をむいた。威嚇でもなんでもない、手加減など微塵も感じさせない乱暴な一撃。それが三鷹君に襲いかかる。やられる――!

「――ハッ!」

 しかし、三鷹君は剃りこみのパンチは華麗に交わした。いや交わしだだけではない。剃りこみの腕をつかんで引くと、相手の勢いを利用して仰向けに転ばせてしまったのだ。

「ぐっ!?」

 倒れた剃りこみの肩を三鷹君が抑え込んだ。

「ちょっとばかし痛えぞ」

 ぼそりと告げると、三鷹は剃りこみの肩にぐっと指を押し込んだ。

「イ――ッ」

 声にならない悲鳴をあげる剃りこみ。必死にもがいて三鷹君の手から逃れようとするが、三鷹君は親指一本でさらに剃りこみを攻め立てた。

 さっきの投げ技といいアッシュ髪への対応といい、これはひょっとして合気道か!

「ぐあああっ!」

 剃りこみが額に脂汗を浮かべて獣のような咆哮をあげたところで、三鷹君は剃りこみの巨体から飛び退いだ。

「逃げるぞ!」

「えっ……、あ、は、はい!」

 三鷹君に手をとられるまで、僕は間抜けにも一連の攻防をぼんやりと眺めていた。僕は三鷹君に急かされるようにガラス扉を押し開く。

「すんません! これ、この子と俺の分の代金!」

 三鷹君は唖然として突っ立っていたウエイターのお兄さんにお札を握らせると、僕の手を引いて店の外へ飛び出した。

「あ、あの……」

「走れ!」

「は、はいっ」

 三鷹君の喝に押されるように、僕は前を向いて駆けだした。

 僕たちは国道を目指してファミレスの駐車場を駆け抜ける。駐車中の車もなかったので前方に僕らを邪魔するものはなにもなかった。

 だけど後方となるとまた話が違った。

「っの、ガキ!」

「待てやコラ!」

「ひっ!」

 振り向いた僕は恐怖に顔をひきつらせた。

 追いかけてきてる! 剃りこみとアッシュ髪!

「ちっ……ひとりは完全に潰したと思ったのに」

 歩道へ出る直前、三鷹君も後ろをちらりと確認していまいましげに舌を打つ。相手を制圧しきれなかったのは三鷹君にとって誤算だったらしい。

 逃げる三鷹君と追う二人組。剃りこみとアッシュ髪の身体能力がどの程度かは知らない。が、三鷹君はまぎれもなく一流のアスリートだ。本来なら難なく相手を振りきれるはずである。

 しかし今回ばかりはそうもいかない。なぜなら三鷹君は、僕というハンデを抱えての逃走だったからだ。

「へっ、捕まえたぜ!」

 歩道へ出て三十メートルほど走ったところだろうか、僕たちはあえなく二人組に追いつかれてしまった。アッシュ髪が三鷹君の服をつかんで足を止め、その隙に剃りこみが僕らの前に回り込んだ。見事な連携プレーだった。

「くそ……あっちへ逃げろ!」

「きゃっ!」

 三鷹君は左手に小さな脇道を見つけ、そちらへ向かって僕を突き出した。

 一瞬たたらを踏んでしまったが、僕はなんとか態勢を立て直す。さすがに三鷹君の足を引っ張ってばかりもいられない。三鷹君は僕を逃がそうとしてくれている。ここはその厚意を無駄にすべきじゃない。僕だけでも一旦この場を離れ、誰かに助けを求めよう!

 僕は急いで脇道に駆け込もうとしたが、そこで思わぬアクシデントに見舞われた。

「おおっ!」

「危な……っ!」

 振り向いた瞬間だった。僕はちょうど脇道から出てきた人とぶつかってしまったのだ。

 幸いお互いに急ブレーキをかけたため、派手な衝突とはならなかった。が、それでも正面から腕をぶつけあった衝撃は結構なもので、僕はその場で尻もちをつき、相手は抱えていた買い物袋を落としてしまっていた。

「す、すみません!」

「あ、ああ……」

 僕はぶつかった相手と一緒に、足元に散らばった買い物袋の中身を慌てて拾い集める。品は本だったようだ。割れ物でなくてよかった……などと安心した僕は本当に馬鹿。自分の置かれている状況を一瞬でも忘れてしまうとは。

「なにやってんだ! ちっ……行くぞ!」

「え……きゃっ!」

 三鷹君は僕を引っぱり起こし、その勢いのまま立ちふさがる剃りこみめがけて突進した。

「うおっ!」

 ラグビーのタックルみたいに体を当たられた剃りこみは少しよろけた。不意打ちだったこともあって剃りこみもうまく対処できなかったようだ。

 三鷹君はその隙に、剃りこみの脇から僕を通過させる。大胆な正面突破策だった。あるいは、脇道の入り口には僕とぶつかったおじさんが塞いでしまっていたから、苦肉の策だったのかもしれないが。

 一瞬だけ振り返ると、背広を着た初老の男性と目が合った。困惑した顔だった。別れ際にかろうじて本は返せたからその点はよかったものの、ちゃんと謝れなかったことは心が痛む。でも今はとにかく逃げなければ!

「この野郎……っ、待て!」

 しかしやはり相手に比べ僕たちの脚力は劣勢だった。いや問題はやっぱり僕だ。ただでさえ足が速いほうじゃないのに、服が気になって余計にスピードを出せていなかった。せめてスカートを履いていなければ……。

「おらあ! 来いこの野郎!」

 再び走りだしていくらもいかないうちに、三鷹君は剃りこみに捕らえられてしまった。

「おっと、あんたも逃さねえぜ」

 アッシュ髪のほうは抜け目なく僕の行く手を塞いだ。このふたり……やはり見た目によらずしっかり連携がとれている。

 一瞬にして僕たちは二人組に挟まれてしまっていた。

「しつけえな、あんたら……」

 三鷹君がいまいましげにつぶやいた。

 優勢と見たか、剃りこみはニヤリと口元を歪めた。

「さっきはずいぶんなめた真似してくれたなあ……。礼はたっぷりさせてもらうぜ!」

 剃りこみはくわっと眉を吊り上げると、ショルダータックルをしかけた。さっきのお返しのつもりか。

「ぐ……っ」

 三鷹君はガードを固めてこれを受け止めるが、剃りこみの体格がいいだけに衝撃を殺しきれなかった。三鷹君はよろめくようにして少し後ずさる。

「とどめだ!」

 勝機と見たか、剃りこみは一気に畳み掛けてきた。凶悪な目つきで三鷹君を見据え、その顔めがけて大きなモーションで拳を繰り出した。あんなもの、まともに食らえばタダでは済まない!

「――フッ!」

 しかし三鷹君はむしろこれを狙っていた。カッと目を見開いてパンチの軌道を見極めると、ギリギリまで引きつけて相手の一撃を交わした。そして相手の懐に潜り込み、剃りこみの肘と肩のあたりをつかむ。さらに驚かされたのはここからだ。相手の腕をつかんだまま三鷹君が腰を落とすと、剃りこみは前方宙返りをしたかのようにその巨体を翻らせ、背中から地面に落ちたのだ。

「がはっ!」

 剃りこみは肺から無理やり息が押し出されたような呻き声を放った。

 足元でもんどりうつ剃りこみを尻目に、三鷹君はキッとアッシュ髪をにらんだ。

「こ、このガキ!」

 瞬間的に頭に血が上ったのか、アッシュ髪は僕を押しのけて三鷹君に襲いかかった。

 だがこれも三鷹君の狙いだった。

 考えなしに突っ込んできたアッシュ髪を難なく受け流し、三鷹君は相手の背後をとった。間髪入れずに相手の腕を締め上げ、身動きをとれなくする。

「……ったく、あんたらのせいでもうあの店に行けなくなっただろうが」

 そんなぼやきが勝どき代わりだった。

「イ――ッ!」

 三鷹君はアッシュ髪の肩甲骨のあたりに親指をグッと押し込んだ。さっき店で剃りこみを無力化したのと同じ技だ。やはり相当痛みはあるようで、アッシュ髪は二の句も継げずにその場でくずおれる。

「よし、こっちだ!」

 三度僕の手を引いて走りだす三鷹君。

「は、はい!」

 今度こそヘマはしまいと、僕は全速力で三鷹君に付き従う。地面に倒れたままの二人組を飛び越え、僕らは近くの路地へ駆け込んだ。

 スカートが風に翻るのもかまわず、僕はがむしゃらに走った。途中で振り返って追っ手の存在を確認する。柄の悪い連中の姿はもう見えなかった。

 

  4

 

 僕たちはその後、何度か角を曲がり、大通りと側道を交互に通って、駅前の繁華街にたどり着いた。同じ道を引き返せと言われてもとてもできないような複雑な経路である。これなら連中も簡単には追ってこれまい。

 商店が軒を連ねる通りに入る頃になると、僕たちは足を緩め、息を整えながら歩くようになっていた。すれ違う人の賑わいをよそに僕たちはとぼとぼと前だけを目指す。

 しばらくのあいだあてどなくさまよい歩いていたが、メインストリートのはずれにある小さな公園がふと目に留まり、僕たちはどちらからともなく園内に足を踏み入れた。

 街灯に照らされた木製のベンチに、僕たちは同時に腰を下ろす。

「はあ……」

 ベンチに腰を落ち着けた途端、安堵のため息を漏らしたのは僕だ。きっと間の抜けた顔をしていることだろう。

「大丈夫……か?」

 どこかおずおずと、三鷹君が声をかけてきた。

「あ……はい。こっちは……」

 少なくとも外傷はないはずだ。まだ心臓がドキドキいっているが、これは走ってきたせいもあるし、一連の出来事全般に対する心理的反応でもあるのだろう。

「そうか……。じゃあさ、あの、手……?」

「手?」

 気まずそうに視線を下げる三鷹君に釣られて僕も下を向く。

 僕の右手が、三鷹君の左手をしっかりと握りしめたままだった。

「どわあっ! す、すみませんすみません!」

 僕は慌てて立ち上がって手を振り払い、何度も三鷹君に非礼を詫びる。初対面の相手に馴れ馴れしく触れられたら、三鷹君だってそりゃあ嫌だろう。

「そ、そんな謝らなくてもいいって! こっちも悪かったし……」

 三鷹君は困惑した顔で首筋をかきむしった。

 そっぽを向いた三鷹君の頬は少し上気しているようにも見えた。アスリートとはいえ息も上がったんだろう。それなりの距離を走ってきたし、その前もあの連中と大立ち回りを演じたのだし――。

「――あっ! あ、あの、ありがとうございました! 助けていただいて」

 お礼がまだだったことに気づき、僕は急いで感謝を告げた。

 勢いよく頭を下げたのは気持ちの現れと思ってもらっていい。ただ、そのせいでカツラがずれそうになり、「ひゃ!?」なんて奇声を上げて頭を抑えたのはご愛嬌である。

 唐突に僕は自分がアオイなのだと思い出した。今さらながらだし、嫌な思い出し方だな……。

 三鷹君に正体がバレていないか、急に不安になってくる。僕、ここまで怪しまれるような態度をとっていないだろうな……。なにせ逃げまわるのに必死で、自分の言動をはっきり思い出せなかった。

 おそるおそる、上目遣いで三鷹君を窺うと、こっちを見ていた三鷹君が慌てたように目を逸らした。

「べ、別に礼をいわれるようなことでも……、お、俺が勝手に割り込んだだけだし……」

 言葉につまりながら頬を掻く三鷹君。どうしよう……、三鷹君が一向に目を合わせてくれないんですが……。これはやっぱり、不審に思われてる?

 三鷹君は落ち着きなく自分の体を触っていた。彼の右手が左の肘に触れたとき、僕はそこに赤色が滲んでいることに気がついた。

「あ! け、怪我!」

 血の滲んだ三鷹君の左肘を見て、僕はさっと血の気が引いた。

 しかし三鷹君はけろりとした顔で自分の肘を覗きこむ。

「ああ、たぶんさっきデカイほうのタックルを食らったとき、擦りむいたんだな。このくらいの傷、いちいち気にすることでもないって」

「だ、だめですよ! ちゃんと消毒しておかないと!」

 僕は怪我を隠そうとする三鷹君の手をむんずとつかんだ。

「ちょっ……! だ、大丈夫だってこのくらい!」

「だめです。ばい菌でも入ったらどうするんですか!」

 強い口調で訴えると、観念したのか三鷹君は手を引く力をゆるめてくれた。うん、ありがとう。

 僕を助けようとして負った怪我だ。かすり傷とはいえ、応急処置だけでもちゃんとさせてもらわないとこっちも気がすまない。なによりピッチャーの三鷹君にとって肘は宝物だ。そんな部位の傷をほったらかしにさせるわけにはいかない。

 ええと、応急処置応急処置……。なにか役立つものはないかと僕は身の回りを検める。肩掛けしていたポシェットの存在に気がつくのに時間はかからなかった。

 まさかの出番である、乙女七つ道具。

「ちょっと待っててくださいっ」

 ポシェットからハンカチを取り出すと、僕はベンチの向かいにあった水場へ走った。蛇口をひねってハンカチを湿らせ、三鷹君のもとへ駆け戻る。

「痛かったらいってください」

「あ、ああ……」

 僕は濡れたハンカチを傷口にそっと押しあてる。三鷹君はわずかに身をこわばらせたものの、痛がる素振りは見せなかった。滲んだ血を丁寧に拭きとると、続いて濡れていない面で残った湿り気を吸いとった。

「よし……」

 僕は次にポシェットから絆創膏を取りだし、慎重に三鷹君の肘に貼りつける。幸い出血量はわずかだったため、一枚で事足りた。ガーゼ部分から血が滲んでくる様子もない。

「よくこんなの持ってたな……」

 多少違和感もあるのか、三鷹君はニ、三度腕を屈伸させながらつぶやいた。

「たまたまですよ。あ、でも、帰ったらちゃんと誰かに診てもらってくださいね。これはあくまで応急処置ですから」

「そこまでしなくても二、三日もすれば……いや、あ、ありがとう」

 僕がじっと目で訴えると、三鷹君は素直に頷いてくれた。

「大事な体なんですから、無茶はしないでください……」

 三鷹君にいいきかせるように、僕は彼の両手をそっと包み込んだ。トラブルに巻き込んだ張本人がいうべきことじゃないのかもしれないけど、本音を漏らさずにはいられなかった。三鷹君に怪我を負わすなんてこと、こちらとしても本意じゃないのだ。

『そのためにこそハニートラップをしかけてるんだしね』

 そのとき不意に耳元で声がして、僕は飛び上がりそうになった。

「りょ――っ」

 ここで声を抑えこめたことにかんしてはよくやったといってもらいたい。僕は自分が今なにをしているのかを唐突に思い出した。そうだ。僕は三鷹君をハニートラップにかけるためにあのファミレスで待機していたんだった。ゴタゴタが続いたせいで所期の目的がすっぼりと頭から抜けていた。

 叫び声をあげていたら確実に三鷹君に怪しまれていたところだろう――って三鷹君?

 僕は思わず眉をひそめた。なぜって、三鷹君が激しく狼狽したように、顔を真っ赤に染めていたからだ。

「あ、あの……?」

 僕は目の前の三鷹君に呼びかけたのだが、反応は別のところからあった。

『大丈夫、そのまま動かずターゲットの反応を待って。クライマックスよ』

 まるでこちらの様子が見えているかのように指示を出してくる涼子さん。涼子さんの存在もすっかり忘れていたけど、近くにいるのか?

「あ、あのっ、あのさ!」

 まるで涼子さんからキューを出されたかのようなタイミングで、三鷹君が調子っぱずれな声を僕にぶつけてきた。

「は、はいっ」

 緊張が伝染し、僕も思わず背筋を伸ばしてしまう。

 何度か口だけをわななかせたあと、三鷹君はようやく弱々しい声を漏らした。

「そ、その……、お、俺、飯まだなんだ……。よ、よかったらさ、このあと――」

 三鷹君が言葉をつまらせながら僕の肩に手をかけた瞬間だった。

『今よ! ターゲットから離れなさい!』

 涼子さんの鋭い声に弾かれるようにして、僕はすばやく三鷹君から身を引いた。ほとんど条件反射だったといっていい。

「あ……」

 僕に拒絶された三鷹君は、ひどく絶望的な表情を見せた。

 僕はぎゅうっと胸を締めつけられながらも、涼子さんが耳元でささやく台詞を口にする。

「ご、ごめんなさい! ぼ――わ、わたし、もう行かなくちゃ!」

 ニ、三歩よろよろと後ずさりしてから、僕は踵を返して三鷹君に背を向けた。

「ま、待って!」

 呼び止められ、僕は足を止めてしまう。しまった……。このまま走り去るべきだったのか? しかし涼子さんからの指示はない。

「お、俺、三鷹! 明大烏山高校二年の三鷹っていうんだ! せ、せめて、名前だけでも……」

 最後は絞りだすような声だった。

 僕は躊躇する。どうすべきなんだ、これ? 作戦は完璧に失敗しているし、名乗るべきじゃないのか? でも……。

「アオイ……です。わたしの、名前」

 迷った末、僕はそう答えた。まがりなりにも助けてもらった相手に、名前も教えずに立ち去るのは気が咎めた。

「アオイ――」

 三鷹君は噛みしめるようにその名をつぶやく。

 このあたりが限界だった。名前を知られてしまった。これ以上言葉を交わせば正体がバレる気がした。僕は別れも告げずに公園を飛び出し、駅へ向かう人の流れに身を滑り込ませた。

『協力して危機を脱したことでお互いの気持ちが盛り上がる。ピンチな出会い作戦は完璧に成功ね』

 改札をくぐり、ちょうどホームに入ってきた電車に飛び乗ったところで、イヤホンから久しぶりに涼子さんの声が聞こえてきた。

 いわれている意味はよく分からなかったけれど、力なく手すりに寄りかかる僕に、涼子さんが上機嫌な理由を問いただす元気はもう残されていなかった。

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