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MISSION 5 ブルーリボンにご用心 3・4

 3

 

 明大烏山高校に姿を現したその人物に僕は背後からゆっくりと近づいた。連れがいないことはすでに確認済みだ。あとは僕が彼にひと声かければ、最後にして最大の正念場が開始されるだろう。

 四校交流戦の二試合目――明大烏山対九路松の一戦はもう始まっていた。裏門に近いこの位置からでもグラウンドからの歓声が聞こえてくる。

 西大島団長と涼子さんは自校の応援に立っているはずだ。応援団を率いる立場にある彼らがこの大一番を外すわけにはいかない。つまり、ここから先は先輩たらの助けは借りられないということだ。僕ひとりで彼との決着をつけなければならない。

 いちおう、裏門で待ち伏せを始める前に、涼子さんから切り札も受け取ってはいる。正確にいえば、切り札を作るための道具だ。それを使う腹積もりはできている。ただ、切り札を手にしたところでそれをどこでどう切るかが問題だ。涼子さんの指示は受けられない。つまりは自分の判断だけが頼りである。

 やや早足で歩を進める彼を、僕はつかず離れずの距離を保ちつつ追いかけた。熱気を含んだ歓声を彼はどんな思いで聞いているのだろうか。できれば、少しでも良心の呵責を感じていてほしいと思うのは、こちらの勝手な願いなのだろうか。

 分かれ道にさしかかった。一方はグラウンドへ続く道、もう一方は来客用の応接室のある校舎へ向かう道だ。校舎の正面入り口へは正門からのほうがアクセスしやすいが、応接室へ行くのは裏門から入ってこの道を通ったほうが近い。彼はそのことを知っている。

 彼が校舎へ続く道に入ったところで、僕は小走りで彼との距離をつめた。

「あの~、すみません」

 ひと言では気づかれなかった。もう一度呼びかけると、ようやく彼は振り向いてくれた。

「はい?」

 怪訝そうな顔をする彼に、僕は困り顔を作りながら近づく。

「携帯電話を貸していただけませんか? 野球の観戦に来たんですけど、友だちとはぐれちゃって……」

「ん……?」

「わたし、携帯持ってなくて。電話したらすぐに来てもらえると思うんですけど……」

 僕はいかにも弱ったという態度を示す。

 彼はじろりと僕を窺った。ある程度不審感を抱かれることは覚悟していた。ただ、彼が警戒を解くのにそう時間はかからないだろうとも当てこんでいた。制服姿の僕を見れば彼はこう思うはずだ。九路松高校の女子生徒だろう、と――。

 目論見どおり゛彼は背広のポケットから携帯電話を取り出し、僕にさしだしてくれる。

「私のものでよければ使いなさい」

「ありがとうございます!」

 僕は携帯電話を受け取ると、大げさに頭を下げてみせた。

「使い方は分かるかね?」

「大丈夫です。両親のを使ったことはあるので」

 さあここからが難儀だ。僕は彼に背を向けて、携帯を操作するふりをする。ふりといってもボタンを押す真似をするのがせいぜいだ。携帯を耳に当てて通話しているように見せかけるなんてことはできない。それをすると携帯の充電コネクターに差しこんだ機器を彼に見とがめられる恐れがあるから。

 涼子さんの話によると機器の作業が完了するまで三十秒ほどだというが――。

「どうしたのかね? やはり操作を教えたほうがいいかい?」

 いつまでも話しださない僕を見かねたのか、彼が声をかけてきた。僕は軽くすくみあがってしまう。

「い、いえ! もう大丈夫です」

 慌てて機器を取り外し、携帯電話を彼につきかえした。心の中で数えていた秒数は二十七で中断されてしまったけれど、作業は完了していると信じるしかない。

「いや、しかし……、電話をしていないじゃないか」

 思わぬかたちで携帯を返された彼は困惑の表情を浮かべる。

 僕は一度深呼吸をし、気を落ち着かせた。

 準備は整った。ここからは、交渉の時間だ。

「ありがとうございました。高野連理事の境先生」

 僕はわざとらしく彼の名を呼んで会釈をした。

 当然、向こうは怪訝そうな表情を浮かべる。

「私を知ってるのか?」

 いぶかしげな目でこちらの正体を探りはじめた彼――境先生に、僕は不敵に微笑みかける。

「存じてますとも。それに、あなたの今日の予定もね。先生はこれから三鷹君の件で事情聴取に行くんですよね? それ、ちょっと待っていただけますか?」

 僕はいきなり本題をきりだした。境先生の顔に困惑の色が広がる。

「何者だ、きみは?」

「はじめまして――、でもないんですけどね。あの夜、三鷹君に助けてもらった者、っていえばわかりますか?」

「なんだと?」

 境先生はかっと目を見開いた。

 僕は確信する。やはりこの人は、あの晩、三鷹君と僕が剃りこみたちから逃げている最中に曲がり角でぶつかった、あの男性だ。

 あのとき、僕たちと剃りこみたちのいざこざを直接目にした第三者は、最初の現場となったファミレスの店員を除けば、逃走中に接触したその人物しかいない。そして事件を高野連に通報したのが店員や剃りこみたち自身でも、三鷹君や僕たち諜報部の誰かでもないとすれば、必然的に残されたもうひとりということになる。単純な消去法だった。

 くわえてその人物は三鷹君が剃りこみとアッシュ髪に合気道の技を仕掛けるところも目撃していたはずだ。勘違いか悪意によってかはとりあえず脇におくとしても、あの場面を「喧嘩」として通報する条件は備えているわけだ。

「境先生、三鷹君とあいつらとの『喧嘩』を目撃して、高野連に『通謀』したのはあなたですよね? 正確にいいなおすならば、あなたが通報を受けたふりをした」

 高野連にはおそらく、自分の元へ知り合いから直接連絡があったとか説明しているのだろう。通報者の身元については本人の希望があって明かせないとでもいっておけば詳しくは訊かれないはずだ。

「……なんの話をしているのか、把握しかねるな」

 境先生は僕の追及を鼻で笑いとばす。まるで焦った様子はない。

「あの夜の目撃者をあなただと推測する論拠はあります。目撃者は、薄暗い夜道だったにもかかわらず相手を三鷹君を識別できた。つまり彼は三鷹君のことを知っていたということです。明大烏山野球部の関係者ならば、この条件を満たすでしょう。もし自分の判断に確信が持てなければ後日学校へ行って直接三鷹君の顔を確認すればいい。それも関係者であれば容易に実行できることです。実際、あなたは壮行会のあと、明大烏山へ赴いて練習を見学しにいきましたよね?」   

 僕と涼子さんは、たまたま同じ日に明大烏山へ潜入していて、境先生が三鷹君を気にかける様子を目撃している。

 思えばあのときに僕は境先生が前日に道でぶつかった男性だと気がついてもよかったのだ。いや、もっと遡るなら境先生が壮行会で挨拶しているときにぴんときてろよって話だ。さっきアッシュ髪と剃りこみの記憶力について散々なことをいったことを謝りたい。僕だって全然人のことを馬鹿にできなかった。僕が早くに境先生に気づいて涼子さんなり西大島団長なりに相談していれば、こんな事態になる前になにか手を打っておけたかもしれない。

 自分の間抜けさの埋めあわせにはならないかもしれないけれど、境先生が推理の証拠を示せと迫ってきたときは僕自身が証言者になってやる。

 しかし境先生は馬鹿馬鹿しいといわんばかりに嘲笑を漏らすだけだった。

「たしかに私は以前この学校の野球部を率いていた。その縁で今でも部に顔を出しにいくこともある。きみのいうとおり、先月も私はここを訪れたよ。だがそれはきみが邪推するような目的ゆえではない。交流戦も近いので激励に行っただけだ。申し訳ないが、きみの妄想はまったく理解に苦しむ」

「で、でも……」

 なおも食い下がろうとする僕を境先生は強引に制した。

「それになんだ? この学校の関係者だというならば、私以外にも大勢いるだろう? 現監督の橋本君や、顧問の柴崎君だってそうだ。無論、彼らがどうこうというわけではない。きみが私を標的にする根拠が分からないといっているんだ。誰になにを吹き込まれたのか知らないが、この学校の関係者だというだけであらぬ疑いをかけられるのははっきりいって迷惑だよ」

「っ……」

 語気を強める境先生に、僕はなにもいいかえせない。

 僕をにらみつける境先生に依然として動揺は見られない。

「たしかに、ここの野球部員と思われる少年がファミリーレストランで揉め事を起こしたという報告を私たちは受けている。私は県高野連の代表として事情を訊くためにここへ来た。こんなかたちで母校を訪れるのは不本意なのだがね……」

 境先生はわざとらしく嘆息を漏らした。

 自作自演じゃないか! と叫びたい衝動を僕はぐっとこらえる。

「だったら……、わたしも同席させてください! わたしもあの場にいたんですから、話しあいに加わる権利はあるはずです!」

 僕は胸に手をあてて訴えた。しらを切るつもりなら明大烏山の先生たちに直接説明するぞと脅せばボロを出すのではないか? そんな期待もあった。

 しかし境先生は思ったよりも正確にこちらの弱点を把握していた。

「できない相談だな。きみは知らないかもしれないが、揉め事を起こした生徒はひとりでその場にいたと話しているようだ。となればその生徒から詳しく話を聴くまで、ほかの者を介入させるわけにはいかない。学校側の責任者も同じ意見だと思うがね」

「そ、それは……」

 僕はみたび黙らざるをえなかった。

 そうなのだ。三鷹君が僕の存在を認めていない――僕たちにとって、ここが最大のネックだった。三鷹君がこういいはっている以上、僕の証言能力は根こそぎ奪われてしまっているに等しい。しかも三鷹君がそんな嘘をつきとおそうとするのは、僕をこのトラブルに巻き込まないようにするためなのだ。

 自分自身が黒幕の顔を目撃しているのに、それを証言することが許されていない。くわえて境先生の罪を立証できるだけの物的証拠も持ちあわせていない。歯がゆく、そして厳しい条件だ。だからこそなんとか自ら口を割ってもらおうと揺さぶりをかけてきたのだが、境先生は想像以上に手ごわい。あるいは推理合戦を繰りひろげるうちにこちらの追及に身構える余裕を与えてしまったのかもしれない。だとしたら失敗した……。

「もしきみが本当に今回の件に関わっていると分かれば、そのときにあらためて事情を訊かせてもらうことにもなるだろう。だが今はまだその必要はない。私からいえるのはそれだけだ」

 境先生は校舎へ向けて足を踏みだし、話を切りあげる意志を示した。

「待ってください! 話はまだ終わってません!」

 僕は慌てて彼の前に回り、両手を広げて行く手を塞いだ。

「……通したまえ」

 強引に僕の脇をすりぬけようとする境先生。しかし僕はなおもその前に立ちふさがる。

「通しません。あなたが本当のことを話してくれるまでは」

 僕が毅然とした態度を示すと、境先生の表情にいらだちの色が差した。

「子どもが首をつっこむ問題ではない。きみは九路松高校の生徒だろう? あまり度がすぎるようならば学校へ連絡を入れることになるぞ」

「脅しですか? だったらこちらも同じ手を使わせてもらいますよ」

 僕は境先生から目を離さないようにしながら、胸ポケっトから二枚の写真を取り出した。

「このふたりを知っていますよね?」

 つきつけられた写真を前に、境先生は目をそばめる。

 それは剃りこみとアッシュ髪の顔写真だった。さっきか彼らを解放する前にポラロイドカメラで撮影しておいたものだ。

 境先生はこのふたりに金銭を渡している。八方ふさがりの僕たちが交渉に使える数少ないカードの一枚だ。

  とはいえこんなスキャンダルを境先生が正直に認めるとは思っていない。

「知らんな。いったい誰だね?」

 境先生は写真をまじまじと見てから平然といいはなった。顔色ひとつ変えないとはたいしたものだ。だけどこの展開はまだ織りこみ済みである。

「会ったことがない? 見かけたこともないですか?」

「そういっているだろう。彼らがここの生徒か卒業生だというなら話は別だが、そうだとしても私の知り合いではないね」

「そうですか……、分かりました」

 境先生のすげない答えを聴いて僕は写真を引っ込める。だけど当てが外れて落胆したわけじゃない。

「もういいだろう。茶番はここまでだ」

「いえ、まだです――これ、なんだか分かりますか?」

 今度はスカートのポケットに仕舞っておいた例の機器を境先生に見せた。彼から携帯電話を借りた際、充電用コネクターにとりつけた機械だ。

「なんだね、それは? ただの充電器だろう」

 境先生はいらだたしげにいった。僕は思わず笑みがこぼれそうになる。やはりこの人はIT機器にさほど詳しくないようだ。

 たしかにこの物体、ぱっと見では携帯電話用の簡易充電器にしか見えないだろう。でも涼子さんによれば、これで携帯を充電することなんかできない。

「これはね、携帯電話のデータを吸い出す機械です」

「データ、だと?」

 にやりと笑った僕を境先生は怪訝そうな目で見返した。

「さっきあなたの携帯電話をお借りしたとき、これをとりつけさせてもらいました。すごいでしょう? たったあれだけで、なかに残ってる履歴を全部コピーできるんですよ」

 実際はデータの吸い出しが完了しているか心もとない部分もあるけど、とりあえずは相手がそう信じてくれればそれでいい。僕はなるべく自信たっぷりに虚勢を張った。

「なんという真似を……」

 境先生は眉をひそめた。しかしまだこれで自分が窮地に追いやられたと悟っている顔ではない。

「分かっているのか? きみがやったことは、下手をすれば犯罪行為だぞ」

「高校球児の試合出場を阻むために町の不良にお金まで渡したのだって、道義的には五十歩百歩でしょう?」

 剃りこみたちとの関与を仄めかすと、境先生の眉がわずかに動いた。やはり彼にとってはこれが躓きの石なのだ。

「またお得意の妄言かね? それともなにか? その機械で抜きとった通話記録かなにかが、私が通報者のふりをして高野連に電話をかけたというきみの憶測の証拠になるとでもいいたいのかね? あいにくだが見当違いもは甚だしいな。私だって自分の携帯で事務所に電話をかけることくらいある。発信履歴などなんの証拠にもならんよ。通話の内容も記録されているというなら気がすむまで調べなさい。やましいことなどなにもないからね」

 無論、録音でもしていないかぎり通話の音声までは端末に残らないと見越しての挑発だろう。

 でも違う。それはこちらの狙いを決定的に見誤っている。

 僕は境先生に向けてゆるゆると首を振ってみせる。

「通話記録なんか必要じゃありません。拝借したのは,位置情報の履歴です」

「は?」

 思いがけない返答だったのだろう、境先生の表情が固まった。

「GPSは分かりますよね? 宇宙を飛んでいる人工衛星からの電波を受信することで受信側の現在位置を知ることができるシステムです。最近の携帯電話はほとんどの機種にこのGPS機能が搭載されているんですよ。それもとっても高性能なやつがね。もちろん、先生がお使いの機種にもGPS機能がついていますよ。でね、GPS機能っていうのは人工衛星からの電波を受信して位置を知らせるわけですから、いつどこで電波を受けとったのかという記録、つまりその携帯がいつどこにあったのかという位置情報の履歴が残るんですよ。これがなにを意味するか分かりますか? 普通は誰でも携帯電話を持って移動しますよね? だから携帯電話の位置情報を調べることで、その携帯の持ち主がいつどこにいたのか分かるんですよ。聞いたことありません? 携帯電話のGPS機能が行方不明者の追跡なんかに使われたとかって話」

「そ、それがいったいなんだというのかね?」

「あなたはさっき、写真の二人組には会ったことはないとおっしゃってましたよね? ところであの二人もそれぞれ携帯電話を所持しています。彼らのはスマートフォンですけどね。いかがわしい携帯サイトを頻繁に利用してたようですから、そりゃあもう肌身離さず持ち歩いていたことでしょう。当然、彼らの機種もGPS機能を備えています。しかも彼らは、GPS機能を利用するウェブサービスを愛用してたくらいです。だから彼らの携帯を調べれば、ある日ある時間帯の彼らの足取りを特定することも可能だってことです。さてここで、彼らの携帯の位置情報とあなたの携帯の位置情報、ある日あるときの記録を照合してみるとしましょう。なにが分かるでしょうか? ふたつつの記録がぴったりと一致したら興味深いですね」

「!」

 境先生が息を詰まらせた。驚愕でいまにも瞳孔を開かせそうだ。しかし動揺しつつもなお、境先生は余裕ぶった態度をとりつくろおうとする。

「お、同じ日、同じ時刻にたまたま同じ場所にいたということも、ありえなくはないだろう」

「境先生、『喧嘩』の現場に居合わせたことをいっているんじゃないですよ、僕は。もっとあとのことです。後日、あなたとあのふたりの携帯が、現場となったファミレスからともに移動していることをいっているんです」

「な……に?」

「なるほど、偶然同じ店で同じ時間帯に食事をとっていただけだといいのがれすることはできるでしょう。でも、それだけの両者が、同じタイミングで店を出て、その後、小一時間に渡って同じ経路で移動し、また同じ場所に留まるなんて偶然が、果たしてどのくらいありえるでしょうか?」

「ぐ、偶然だ……」

「どこかの観光スポットならまだしも、舞台はなんの変哲もない国道沿いの一帯ですよ?  偶然を強調するにはいささか無理があるんじゃないですか? なんならファミレスからの移動ルートと利用した喫茶店、滞在時間も申しあげましょうか? 携帯の位置情報からそういう行動記録が分かるんですよ」

 もっとも、いまこの機器でそれらのデータを見られるわけじゃない。コンピュータでデータを表示させる必要がある。でも境先生が剃りこみたちを連れだした喫茶店くらいならすでに連中から訊きだせている。

 ついに境先生は黙りこんだ。眉間には深い皺が刻まれていた。

 多少心苦しかったが、僕は最後のダメ押しにかかった。

「あなたがある日、この二人組と行動をともにしたこと、この事実は携帯の位置情報記録を使って立証できます。まさか自分の携帯はそのとき手元になかったとはいいませんよね? そうするとどういう理由で携帯を手放していたのか、そしてそれがどうやって戻ってきたのか、説明しなければならなくなりますよ。そんなことはまず不可能でしょう。ほかの時間帯の履歴も調べればすぐに破たんします。だからあなたのこの行動は事実として、高野連の方なり明大烏山の先生方なりに説明することができます。丁寧に説明すればきっと理解していただけるでしょう。そうなるとあなたは、なぜこのふたりと会って、いったいなにをしていたのか、説明しなければならなくなる。そのうちにこのふたりが三鷹君の『喧嘩相手』だってことも明らかになるでしょう。三鷹君だってそのくらいは認めてくれるはずです。要するにあなたは、今回の一件における一方の当事者に、後日、しかも事が高野連に知らされる前に、接触していたということになる。さあ、あなたはご自分の行動について、おおっぴらに説明できますか?」

 僕は境先生をにらみつける。

 境先生は厳しい表情で目を逸らしつづけていた。

 僕は辛抱強く彼からの返答を待つ。こちらの手札はすべて切った。僕はひそかに相手からの反撃がこないことを祈っていた。

「……なにが望みだ」

 境先生が絞りだしたひと言を耳にした瞬間、僕は安堵のため息を漏らしそうになった。でも安心するのはまだ早い。境先生が自ら三鷹君の不祥事を仕立てあげたと暴くことが僕たちの目的じゃない。これはあくまで望む結果を引きだすための交渉材料だ。

「三鷹君の処分を少し待ってあげてください。少なくとも、今日の試合には出られるようにしてあげてほしいんです。そうしたら、あなたの携帯から抜き取ったデータはこの場で破棄しますし、今回のことも、誰にもいいません。あの二人もちゃんと口止めしておきます」

 こちらの希望を矢継ぎ早に伝えると、境先生は天を仰ぎ、大きなため息を吐いた。その姿はまるで、激闘の末に敗者となった高校球児のようだった。

 境先生はなにも答えなかった。代わりに、自らの敗北を招きよせた携帯電話を耳にあてた。

「……境だ。ああ……、すまない。そちらへ向かう途中で少し人と会っていてな」

 境先生はちらりと僕を見る。口ぶりから、明大烏山野球部の責任者と電話しているのだと窺えた。僕は息を呑む。

「いや、いい。その必要はない。今日はもうとりやめだ。ああ……そうだ。その子から事情を訊く必要はなくなった。あれは先方の勘違いだったと連絡が来た。……ああ、私に直接だ。……かまわん、あちらには私が話をつけておく。……そうだ。試合への出場を見送る必要もない。生徒の好きにさせなさい。望むなら今日から試合に出してもかまわない。事前のメンバー発表を見送っただけで、ベンチ入り二十人の登録だけはしてあるのだろう? 公式戦ではないし、ベンチを離れていたことについては相手校に事情を説明して理解を求めなさい。そうすれば彼の出場に支障はないはずだ。ああ、そうだ。我々高野連はこの件にはもう関わらない」

 電話の向こうからはまだ慌てた声が漏れ聞こえていたが、境先生は一方的に電話を切った。

 ゆっくりと振り向く境先生を僕はおそるおそる窺う。

「あ、あの……、三鷹君は……?」

「……聴いたとおりだ。高野連はこの件からは手を引く。これで満足かね」

 返ってきた言葉を何度か反芻した。嬉しさがこみ上げてくるのを抑えられなかった。

「はい……っ。ありがとうございます!」

 感極まった僕は、境先生に向かって深々と頭を下げた。

 ついさっきまで自分を脅していた相手にそんな真似をされて呆れたのか、境先生はフンとわずかに鼻を鳴らした。

「きみはいったい、何者かね? あの子とはどういう関係だ?」

 境先生が怪訝さと興味の色が混じった目で僕を窺った。おそらく、ここまでして僕が三鷹君を助ける理由を知りたいのだろう。

 だとすれば答えは決まっている。僕は、髪の毛を結んでいる青いリボンをほどきつつ答えた。

「わたしは、三鷹君のファンで――全力でプレーする彼を応援したいだけです」

 そう、僕は諜報部員であり応援団員であり――、一之江蒼であると同時にアオイという名の女の子なのだ。

 境先生は僕の真意を測るようにしばらくにらむと、やがて深いため息をついた。

「……なるほどな。きみの気持ちだけはよく分かった」

 そういうと境先生は、ゆっくりと踵を返した。

「あ、あの、このデータは……?」

 僕の手元には、彼の携帯電話のデータが入った機器が残されていた。

「好きにしなさい。もしわたしを告発したいなら、そうすればいい」

 やけっぱちでいっているわけではないと感じた。罰を受ける覚悟ができているのだ。

 もちろんそこまでするつもりはないが――僕は立ち去ろうとする彼を呼び止めた。

「あの!」

 最後にどうしても訊いておきたいことがあった。

「やっぱり……三鷹君のことが嫌いなんですか?」

 足を止めた境先生はこちらに背を向けたまま、すぐには答えなかっだ。

 境先生が自作自演までして三鷹君の試合出場を妨げようとした理由――それが知りたかった。

 明大烏山で長年野球部を率いていた頃、境先生は教え子が地元の高校球児として礼節を持つことを誰よりも重んじていたという。だからこそ、勝利のために有力選手を全国から集める今の明大烏山の方針や、「自由」の名の下に時として浮わついた振る舞いをするい一部の選手を、境先生はよく思っていなかったようだ。野球留学生で、髪の毛も伸ばしている三鷹君は境先生にとってそうした生徒の象徴のような存在だったのだろう。だから三鷹君を懲らしめてやろうとでも思ったのか……?

 絶対に答えてもらいたいわけでもなかった。半分くらいは、聴くのが怖いという気持ちもあった。

 だけど、境先生は感情を殺したかような冷淡な声を僕に返してきた。

「……ああ、嫌いだね。一時の感情で自分の将来を棒に振ろうとするような選手は、大嫌いだ」

 僕からの反応を待たず、境先生はまた歩きはじめた。

 遠く聞こえる試合会場の喧騒から離れていくその足は、どんな言葉をかけてももう止まる気配はなかった。


 *


 境先生が残した言葉は重石のように僕の上にのしかかり、僕はしばらくその場で呆然とするしかなかった。境先生は本当に私情だけで三鷹君を貶めようとしたのか? だったら僕は……、どうすべきだったんだ――?

「あ……」

 答えの出ない自問に囚われかけた僕を正気に戻したのは、ポケットのなかで鳴り響いた携帯電話の着信音だった。

 相手は確かめるまでもなかった。こんなありがたいタイミングで電話をくれる人なんて、僕が知るかぎりひとりしかいない。

「蒼君、大丈夫? 境とはもう別れたのよね?」

「ああ、涼子さん……」

 涼子さんの声は少し慌てていた。試合はもう始まっている。涼子さんはたぶん、応援の合間に電話をくれたのだ。

「境が学校から出ていったって報告が入ったわ。うまくいったのね?」

 涼子さんがせっつくように尋ねてきても、僕の胸のモヤモヤはまだ晴れなかった。

「あ……、は、はい。ただ――」

「蒼君!」

 叱咤するように呼びかけられ、僕は吐きだしかけた悩みの種を飲み込まざるをえなかった。

「悩むのは後にしなさい! きみにはまだやるべきことがあるでしょう!?」

「やるべき……こと?」

「小川君が初回からバンバン三振取ってて、結構速いペースで試合が進んじゃってるのよ! もう七回が終わるところ……。このままじゃ三鷹泰の出番がなくなるわよ!」

 涼子さんの声がきんと耳に響き、ようやく僕の頭もクリアになってきた。

 そうか……。三鷹君を今日の試合に出場させなければ、アオイに科された任務は完了したことにならない。

  僕は強めに頭を振ってもう一度自分を奮いたたせた。

「三鷹君が投げられたとして、幸太郎と直接対戦する見込みはありそうですか?」

「どうだろう……。打順を考えると、ギリギリってところかも」

 涼子さんは小さく舌打ちをした。状況の厳しさを理解するにはそれで十分だった。

 電話の向こうからは涼子さんを呼ぶ声が漏れ聞こえてきた。

「ヤバイ、もう行かなくちゃ……。とにかく、三鷹泰は職員室横の応接室にまだいるはずだから! 晴れて自由の身になった王子様を迎えにいってあげなさい」

 まくしたてるようにそう告げると、涼子さんからの電話はぶつりと切れた。

「……ありがとうございました」

 受話器に向かってそうつぶやくと、僕は目的の校舎を探して駆けだした。


 *


 目指す校舎はすぐに見つかった。一階に事務室や職員室、そして来客用の応接室が入った大きな校舎だ。

 応接室の場所もすでに把握していた。あたりに人がいないことを確認しつつ、校舎の裏手に回る。腰をかがめ、いくつかの窓をやり過ごし、目当ての窓にたどりつく。窓は締められていて、カーテンも引かれているが、隙間から室内を窺う。

「!」

 思わず叫びそうになった。

 三鷹君がいた。ソファに浅く腰かけ、出口のドアのほうを見つめていた。その横顔はどこか不安げに見えた。

 僕ははやる気持ちを抑え、もう一度慎重に室内の様子を確かめる。三鷹君以外の人は……いない。……よし。

 僕は思い切ってガラス窓をノックした。

「三鷹君」

 抑え気味で、しかしなかに届けと念を込めて、彼の名を呼んだ。

「!?」

 三鷹君は弾かれたようにこちらを向いた。その目は怪訝そうに窓の辺りを窺っている。

 僕はなんとか気づいてもらおうと、わずかに開いただけのカーテンの隙間から必死で視線を送った。

 念が通じたのか、僕と目が合った三鷹君はぎょっと目を見張った。

「ア、アオイちゃん!? どうしてここに……?」

 三鷹君はこちらに駆け寄りカーテンと窓を開けてくれた。複雑な表情で僕を見下ろす。三鷹君からすれば本当に唐突で意味不明な展開なのだろうけど、ゆっくりと事情を説明している時間はない。

「わたしを助けてくれたときのことが問題になってるんでしょ? それで、今日の試合に出られなくなったって……」

「ど、どうしてそれを?」

 ますます驚く三鷹君。だけど今は本当に説明している暇がないんだ。

「知り合いからたまたま聞いたの――わたしのことをかばって、喧嘩の理由も話せなかったんでしょ?」

「そ、それは……」

 三鷹君は僕からさっと目を逸らした。やっぱり、僕の身を案じてくれていたんだ。

 僕は優しく三鷹君に微笑みかける。

「もう、いいんだよ。喧嘩なんて誤解だったって、監督さんたちにはちゃんと伝わってるから」

「なんだって?」

 三鷹君は怪訝そうに眉根を寄せる。ああ……、このあたりは特に説明が難しいな……。

「さ、さっき、顧問の先生とかがここで電話を受けてなかった? あれで全部なしになったんだよ」

「電話……?」

 思いあたる節があったらしく、三鷹君は振り返ってドアのほうを見た。おそらく、境先生の電話を受けた顧問の先生が対応のために部屋を出ていってしまったのだろう。

「と、とにかくさ! あとは三鷹君が試合に出たいっていえば、それで全部終わりになるはずだから!」

 実際のところはもう少し複雑なやりとりが必要になるのかもしれないが、出場停止とか退部とか、そういう大事に発展する事態は避けられるはずだ。

「……そうか」

 三鷹君は瞼を閉じ、神妙につぶやいた。

「そうだよ! だから、早く試合に行こう? もう終盤なんだ。早くしないと試合が終わっちゃうよ」

 僕は三鷹君がすぐに準備にとりかかってくれるものだと信じて疑わなかった。

 だけど三鷹君はうつむき加減のまま、重々しく首を横に振った。

「……アオイちゃんには悪いけど、試合に出ることはできない」

「え……? どうして……? 先生に頼めば今日の試合だって出られるんだよ?」

 僕は耳を疑った。ひきつった笑みが顔に張りついていることが自分でもわかる。

 三鷹君は悔しさをこらえるように、下唇をかみしめた。

「……きみを助けるためだったとはいえ、俺が揉め事を起こしたことは事実だ。下手すりゃチームの出場停止だってありえた……。そんな真似をしておいて、なんの罰も受けずにのこのことチームに戻れない。せめて迷惑をかけたぶんをちゃんと償うまでは……」

「め、迷惑だなんて、そんな……」

 三鷹君はなおも首を振って僕の説得を拒絶した。

「俺のやったことは許されることじゃない。こうして問題になって、チームのみんなを動揺させた。それにきみにも……。詳しいことはよく分からないけど、アオイちゃん……俺のためにいろいろ骨を折ってくれたんだよな? それはめちゃくちゃ嬉しいよ。でも……、これ以上は迷惑かけられないよ。俺に関わってたら、アオイちゃん、きみまで危ない目に遭うよ、きっと。だからもう、俺とはこれきりで――」

「ダメだよ、そんなの……」

「分かってくれ。これは……男としてのけじめなんだ」

 三鷹君は両膝に手を置き、僕に向かって頭を垂れた。

 揺るぎない決意を示しているつもりなのだろう。

 だけど……、だけどそんなのは――。

「そんなのは……」

「え?」

 僕がぼそりとつぶやくと、三鷹君は虚をつかれたように顔を上げた。

「そんなのは男っていわないんだよ、三鷹泰っ!」

 僕は窓の向かうに手を伸ばし、三鷹君の胸倉につかみかかった。

 思いもよらぬ行動だったのだろう、三鷹君は目を丸くしていた。

 ああもう……台無しだ。三鷹君はアオイみたいにおとなしくて可愛らしい女の子が好みなのに、これじゃ幻滅されるよな。

 でもかまわない。かまうもんか! 僕はいいたいんだ。三鷹君にいいたいんだ。声を大にして認めさせたいんだ――僕はアオイだって!

「みんなに迷惑から責任とって試合に出ない? 危ない目に遭わせるのが嫌だからさよならする? そんなの……、そんなの、逃げてるだけじゃないか!」

 僕の声は裏返っていた。大声を出すといつもこうだ。男らしくなんて全然ない。

 それでも僕は、男として渾身の言葉を彼にぶつける。

「チームに迷惑かけたならその分、野球で借りを返せよ! 好きな子を危険に晒したくないなら、もっと強くなってみせろよ! 何度だって守ってみせろよ! 恰好つけるだけで満足してるんじゃないよ! 男なら……もし本当に男としてケジメをつけたいっていうなら……僕のために投げてよ、三鷹君!」

 胸倉をつかんだまま僕は三鷹君を強くまなざす。女の武器というにはいささかはしたない涙目だっただろう。でもこれが今の僕の偽らざる思いだ。

 三鷹君は大きく目を見張ったあと、息を詰まらせた。

「お、俺は……」

 ガチャリとドアを開ける音がしたのは、三鷹君がなにかをいいかけたそのときだった。

「!」

 僕は反射的に窓の下へ頭を引っ込め、口をふさぐ。三鷹君が慌てて振り返る気配も感じられた。

「どうした? 窓なんか開けて」

 聞き覚えのある男の人の声が聞こえる。たぶん顧問の柴崎先生だろう。

「いえ、少し風に当たっていただけです」

 頭上に目をやると、カーテンにかけられた三鷹君の手が見えた。僕を匿ってくれるみたいだ。

 カーテンを閉めきる直前、三鷹君はチラリと僕を窺い、一瞬柔らかく微笑んだ。小さく動いた唇を読むことはできなかった。だけど、僕はもう安心していた。

 部屋のなかからは落ち着きのない足音が聞こえてきた。柴崎先生が室内をうろうろしているらしい。

「あ~、それでな、三鷹。今回の件なんだが、ちょっと話がこじれているというか……」

「先生、お願いがあります」

 決然とした三鷹君の声と同時に、足音が止む。

「な、なんだ?」

 僕は固唾をのんで三鷹君の決心を聞きとどけた。

「先生、俺を試合に出してください。でもその前に……、部室に寄らせてください。グラウンドに行く前に、やっておかなきゃならないことがあるんです」


 *


 九回裏二死満塁。

 僕がスタンドに駆け込んだときにはもう、試合は文字通り最終局面を迎えていた。

 攻める九路松高校は二点差を追いかけている。ラストイニング、あとワンアウトで試合終了であることを思えば決定的な点差と感じられるかもしれない。しかしスタンドに諦めムードは皆無だ。いやむしろ、逆転に向けた期待感に満ちている。というのも塁上はすべてランナーで埋まっている――すなわち満塁なのだ。

 明大烏山の先発投手は八回まで堅実な投球で九路松打線を一点に抑えてきたらしい。しかし、さすがに疲れも溜まってきたのだろう、ここに来てついに制球が乱れたのだという。この回先頭の七番バッター、そして続く八番バッターこそセカンドゴロとレフトフライで打ち取ったものの、続く九番にファールでしつこく粘られた末、死球を与えてしまった。これで動揺したのか、あるいは勝負を焦ったのか、次のバッターに放った変化球がキャッチャーの手前でバウンド。この球をキャッチャーがファンブルしてしまった。このワイルドピッチの隙にランナーは二塁へ。さらにこのあと、甘く入った変化球を叩かれて三遊間を抜かれてしまう。ツーアウトながらランナー一塁三塁。後ろに控えるクリーンナップを考えれば、二番バッターで試合を決めたいと思うのは道理だろう。ベンチからも勝負のサインが出たようだ。ところが九路松の二番は冷静だった。フルカウントからの六球目、この日はストライクゾーンを外れることの多かったスライダーの軌道をきっちりと見極め、四球で出塁する。

 バッテリーの目論見は外れて、二死満塁。

 そして続くバッターは――三番、小川幸太郎。

 幸太郎はこの試合、先発投手として明大烏山に真っ向勝負を挑んでいた。得意の速球を武器に三振を量産。八回に四番のスリーランホームランで三点を奪われはしたものの、強打を誇る明大烏山打線相手にこの結果なら互角以上といっていいだろう。

 そして幸太郎の活躍は投球だけに留まらない。九路松高校の一点も、幸太郎のソロホームランで上げたものだ。

 二死満塁の局面に、攻守で結果を出しているスーパールーキーの登場。九路松高校スタンドでは否が応にも一打逆転の機運が高まる。大きな小川コールが巻きおこるのは必然だった。

 明大烏山ベンチはたまらずタイムをとり、マウンドへ伝令役を向かわせる。

 が、伝令役の選手は、ベンチから一歩出たところで突然監督に呼び止められた。

 明大烏山ベンチがにわかに慌ただしい雰囲気に包まれる。

 監督は伝令役を引っ込め、代わりに自らがグラウンドへ出て球審を呼ぶ。

 選手交代――唐突な作戦に、スタンドからはどよめきも起きる。

 だが、よりいっそう大きなどよめきは、交代選手の名が告げられたときに起きた。

 アナウンスを受け、ベンチから出てきた彼は、まず帽子を脱いでグラウンドへ向かって一礼した。

 彼の風貌の変化に気づいた者はそう多くなかったかもしれない。

 でも僕には彼の誠意が十二分に伝わってきた。

 彼は駆け足でマウンドへ向かう。その途中で、彼は打席のほうへ目をやった。

 バッターボックスの横で入念に素振りを繰り返していた幸太郎は、彼の視線に気づき、不敵な笑みを返した――彼が来ることを、信じていたとでもいうように。

 ふたりはしっかりと視線を交わす。それはあの日の続きを始めるためのアイコンタクトだった。

 九回二死満塁。

 一打逆転のチャンスに、バッターは小川幸太郎。

 そんな局面でマウンドを任されたのは、押しも押されもせぬ明大烏山のエース。

 待ちに待った対決を前に、スタンドを埋めつくす観客の誰もが固唾を呑む。

 打席に入った幸太郎はバットを構え、十八メートル先のマウンドをまっすぐ見据える。

 幸太郎の視線を受け止めた彼――三鷹君は、セットポジションから渾身の第一球を放った――。


 4


 人のいなくなったグラウンドは静けさに包まれていた。先刻までの賑わいがまるで一夜の夢だったかのようだ。吹き抜ける風で外野では砂埃が舞う。そんな音も明瞭に聞こえてきそうだった。

 スタンドはがらんとしている。試合に出場した選手はもうグラウンドをあとにしていた。応援の観客もすでに引き払っている。整然と並んだ座席がなんとなく寂しげだ。

 陽はまだ落ちていない。しかし、午後五時を迎えた空は目を離せばすぐさま明るさを失いそうで、どこか危うげだった。

 マウンドの上で立ち止まってそんな空を見上げていたのは、ユニフォーム姿の少年。

 一塁側のベンチからグラウンドに出た僕は彼に近づく。僕がファールラインを超えたなたりで、彼は僕に気づいた。

「アオイちゃん」

「帰ら――ないの?」

「……わがままいって試合に出してもらったからさ、せめてトンボ掛けくらいは最後までやっておきたくてさ」

 三鷹君は重そうな整備用具の柄を小さく振ってみせた。

 微笑んでくれた三鷹君に、僕は笑顔を返せなかった。僕は彼になんて声をかけるべきなんだろう? どんな言葉で三鷹君をねぎらうべきなんだろう……?

「あ、あの……」

「心配してくれてありがとな。でも、もう大丈夫だから」

 言葉に詰まる僕を気遣ったのか、三鷹君は幾分明るい調子でそういってくれた。

「三鷹君……」

 僕は三鷹君を見つめる。すると、三鷹君は戸惑ったように視線をうろうろさせはじめた。

「やっぱ恥ずかしいな、この頭……」

 三鷹君は左手で自分の頭を撫でまわした。自分の頭を僕に隠そうとしているようにも見える、

「そんなこと、ない。恰好いいよ、三鷹君」

 心からそう思う。どんなオシャレな髪型よりも、今の頭のほうがずっと恰好いい。

 三鷹君は頭を丸刈りにしていた。伸ばしていた髪の毛は見る影もなく切り落とされ、五分ほどの長さに刈りそろえられていた。丸坊主だ。

 四十分ほど前に終了した四校交流戦の第二試合――明大烏山対九路松の一戦、その九回裏にリリーフとして登板した時点で、三鷹君はもうこの頭になっていた。グラウンドへ向かう前、部室に寄った三鷹君は、そこにあったバリカンで自ら断髪をおこなったのだ。

 自分の行動で仲間に迷惑をかけた以上、なにもなしにチームに戻るわけにはいかない。そう考えた三鷹君がつけたけじめ、それが頭を丸めるということだった。たかが髪の毛――と思われるかもしれない。でも、自らの意志で筋を通そうとした姿勢に、僕は心から敬意を表したい。

 三鷹君が自分の頭を刈ったバリカンは、境先生が明大烏山の監督だった時代に使われていたものだ。チームに対する責任を表すために頭を刈る。境先生がいつかそんな持論を口にしていた。三鷹君は皮肉にもそんな思想を実践したことになる。もちろん、三鷹君自身はそんな皮肉など知るよしもないだろうけど。

 よく見れば三鷹君の頭にはところどころ濃淡がある。それは、終盤を迎えていた試合に三鷹君が急いで駆けつけたことをありありと物語っていた。

「……試合、終わったね」

 僕はようやくそのひと言を口にした。

「ああ」

「……おめでとう」

 三鷹君は一瞬の間をあけて目を細めた。

「うん……ありがとう」

 三鷹君が祝福の言葉を素直に受け取れない理由は分かっていた。

 試合は、三対二で明大烏山の勝利に終わった。

 幸太郎が三鷹君からタイムリーヒットを放ち三塁ランナーを生還させたものの、九路松の反撃はそこまでだった。三鷹君は続く四番打者を三振に仕留めたのだ。

 試合結果を見れば、三鷹君がチームの勝利に貢献したことは明白だ。しかし――。

「試合に勝って勝負に負けた――って感じだよな」

 三鷹君は幸太郎からヒットを奪われた。前回の対決のルールからいえば、それは三鷹君の敗北条件となる。

 まさに試合に勝って勝負に負けた――だ。

「――おいこら! 俺があんな勝ちを喜ぶとか本気で思ってんのかよ!」

 重苦しい空気を切り裂いたのは、遠くから飛んできた怒鳴り声だった。

 僕と三鷹君は声のしたほうへ同時に目を向ける。グラウンドの出入り口である。

 そこに立っていたのは、ジャージ姿の幸太郎だった。

「小川……」

 幸太郎はずんずんと三鷹君に向かっていった。三鷹君の目の前で止まった幸太郎は、怒ったような顔で三鷹君をにらみつける。

「な、なんだよ?」

 困惑を見せる三鷹君をにらみつづけながら、幸太郎は不意に相手の左腕をつかんだ。

「――っ!」

 三鷹君は慌てたように幸太郎の手を振りほどき、半身になって左肘をかぼうような態勢をとる。

「み、三鷹君? ど、どうしたの?」

 三鷹君は後ろめたさを隠すようにさっと目を逸らした。

 幸太郎はその様子を見て、ガシガシと頭を掻く。

「やっぱりあんた……、肘を悪くしてるんだな」

「え……?」

 肘……? 僕はすぐには事態が飲み込めず、幸太郎と三鷹君を交互に窺った。

 先に口を開いたのは三鷹君だった。

「どうして――いや、いつ分かった?」

「河川敷であんたと投げあったときだよ。あのときからあんた、肘をかばった投げ方してただろ?」

 幸太郎は真剣な顔つきで答えている。

「そ、そうなの……?」

 僕には全然分からなかった。あのときだって三鷹君の投球は素晴らしかった。とてもどこか故障を抱えているようには見えなかったけど……。

「去年の関東大会でのあんたの投球はもっとすごかったよ。変化球のキレが全然違う。あのときと比べるとセンバツで投げた球は一段威力が落ちてた。球種の組み立てでカバーしてるような感じがあったぜ」

「へ……。手厳しいな。うまくごまかしてたつもりだったが、バレちまうもんなんだな、やっぱ……」

 三鷹君は自嘲気味につぶやき、空を仰いだ。その顔はようやく重荷を降ろしたかのようにすっきりとしていた。

 それにしても信じがたいのは幸太郎の眼力だ。三鷹君の過去の投球を見たっていったって、それは映像での話だろう。

「それだけで変化球のキレや、ましてや三鷹君の体の不調まで見抜いちゃうなんて……」

「俺だって直接対戦するまでは単に調子が良くないだけなのかって思ってたさ。三鷹サンが肘に爆弾抱えてるんじゃねえかって疑ったのは、この人が高速チェンジアップを投げたときだ」

 幸太郎はいくらか穏やかな顔つきになって、僕の独り言に答えた。

「なんだって?」

 眉をひそめたのは三鷹君。

「あんたが高速チャンジアップを覚えたっていったとき、ふと不思議に思ったんだよ。今までの球種だけでも十分勝負になるのに、なんでわざわざチェンジアップに、それもとりわけ難しい高速チェンジアップなんて球にチャレンジしてんだ、ってさ」

「それは……投球のバリエーションを増やすためじゃないの?」

「ま、それもあるんだろうけどさ。ただ、技巧派のピッチャーがチェンジアップに手を出すのってさ、少しでも肘への負担を軽くしたい、って理由もあるんだよな。シンカーの替わりにチェンジアップを覚える場合は、特にな」

「!」

 三鷹君は大きく目を見張った。この表情を見ればもう明らかだ。幸太郎のいうとおり――なのだろう。

「三鷹サン、あんた最近の試合じゃ全然シンカーを投げてないよな? 関東大会じゃまだ決め球に使う場面もあったけど、今年のセンバツじゃ一球も投げてない。その頃にはもう肘に違和感を持ってたんじゃねえか? だからシンカーを投げるのを控えた。変化球はどうしたって肘へ負担をかけるもんだけど、シンカーは特に肘への負担が大きい球だからな」

 幸太郎が問いつめると、三鷹君は一拍置いて大きくため息をついた。幸太郎の考えを肯定するかのように。

 そうか……。三鷹君は武器を増やすために新しい球種に取り組んでいたわけじゃなかったのだ。それは武器を減らさないためだった。シンカーを投げられなくなったから、なるべく似た変化をする高速チェンジアップを身につけたんだ。

 三鷹君が肘を悪くしていた――おそらく涼子さんや西大島団長はこの事実を知らなかったと思う。知っていたら真っ先に野球部に情報をもたらしているはずだ。三鷹君に対するアプローチも多少は変わっていただろう。ひょっとしたら三鷹君を骨抜きにして試合に出場させなくするという作戦が採用されていたかもしれない。そう考えるのは甘すぎるだろうか?

「肘、結構悪いのか?」

 幸太郎の問いかけに、三鷹君はゆるゆると首を振る。

「心配すんな、今はなんとか騙せてるさ。これでも体のケアには人一倍気を遣ってんだ」

「そっか。今日の試合、先発で出てこねえもんだからよ、無理な投げ込みでもしていよいよ肘やっちまったんじゃねえかって思ってたんだよ」

「ああ、それは……」

 三鷹君は苦笑を浮かべつつ僕を窺った。まあ……そうだよね。喧嘩沙汰云々をわざわざ幸太郎に打ち明けることもないだろう。あれはもう終わったことなのだ。

「まあ……いろいろあってな。それにしても驚いたぜ。肘のことは監督にもチームメイトにもバレないように気をつけてたのに、まさかおまえに見抜かれるとはな。……ただのバカかと思ったら、案外細かく分析してやがる」

 話題をごまかすためなのか、三鷹君は冗談めかした感想を幸太郎に返した。

「へ! いったろ、あんたの球は全部頭に入ってるってよ」

 幸太郎は得意げに胸を張る。まあ、こと野球に関してはこいつは常人離れした天賦の才に恵まれていると認めざるをえない。野球バカという天才なのだ、小川幸太郎は。

「ま、俺だって人のことはいえないのかもな。今後のことを考えたら今は投げるべきじゃねえとは分かってるんだ。だけどさ、俺はどうしても、今、このチームで思いっきり野球がしたいって思っちまうんだよな」

「分かるぜ。自分が思い描くピッチングも捨てられないんだろ?」

「そう! そうなんだよ! 俺は変化球にこだわりたい。いろんなパターンで球種を組みあわせて、バッターの心理も読んで、思ったとおりに相手を打ち取るのが、最高に気持ちいいんだ!」

 熱っぽく語る三鷹君の目は爛々と輝いていた。うんうんとうなずく幸太郎も楽しげだ。前も思ったけれど、投手としてのスタンスやキャラクターは全然違っていても、やっぱりこのふたりはどこか似た者同士なのだ。

「だから俺は変化球を捨てられない。先月、練習を見にきた前の監督さんにも忠告されたけどさ、変化球主体のピッチングは体への負担が大きいから将来も投手を続けたいなら考えなおせって……。でもやっぱり、俺は変化球でどこまでやれるか試してみたいんだ」

「……え?」

 それまでふたりの野球談議に微笑ましく耳を傾けていた僕の胸に、そこで冷たいものが落ちてきた。

 三鷹君は、今なんといった?

 前の監督から、投球スタイルについて忠告を受けた?

 明大烏山の、前監督。それはつまり――。

 ――一時の感情で自分の将来を棒に振ろうとするような選手は、大嫌いだ。

 あの人が去り際に残したひと言が脳裏に蘇ったとき、ちょっと怒ったような女の子の声が僕の耳朶を打った。

「あ、本当にここにいた! 幸太郎!」

 茜だった。彼女はグラウンドの入口から僕らのもとへ早足で近づいてくる。

「おう、茜。おまえ、まだ帰ってなかったのか?」

 とぼけた挨拶を返す幸太郎の二の腕を、茜は気安くはたいた。

「あんたを探してたの! もう、勝手にいなくならないでよ。探すの苦労したんだからね!」

「わりい、わりい。ちょっとこの人と話があってさ」

 幸太郎は親しげに三鷹君を指さした。気軽な感じで紹介された三鷹君と茜はなんとなく遠慮がちに会釈をかわしあっだ。

「そ、それならそうと、いっておいてよね。先輩たちが教えてくれなかったら分からなかったわよ」

 グラウンドの入口に目を向けた茜に釣られて、僕たちもそちらを見た。そこには茜をここまで案内してきたのであろうふたりの先輩――西大島団長と涼子さんがいた。

「あ、ちわーす!」

 ゆっくりとこちらへ近づいてくるふたりに向けて幸太郎が頭を下げる。

「おう、小川君。今日の試合は惜しかったな」

 片手を挙げて幸太郎に応えると、西大島団長は三鷹君のほうにも視線を向けた。

「明大烏山の三鷹君だよな。俺は九路松高校応援団長の西大島という。今日は素晴らしい試合をありがとう」

「あ、どうも……」

 三鷹君は会釈を返しながら求められた握手に応じた。

 その隙に涼子さんはさりげなく僕の隣に並ぶ。

「り、涼子さん、あの、僕……」

 喉の渇きを感じながら口を動かすが、うまく言葉にならない。涼子さんがなにをどこまで気づいているのか、僕がなにをどこまでいっていいのかも分からない。推測ははっきりとしたかたちで組みあがっていた。しかし一方で、気持ちのほうはどうしようもなく混乱していた。

 僕は境先生が三鷹君の試合出場を阻もうとしたのは、頭髪をはじめとした身なりを高校球児らしく改めようとしない三鷹君を戒めるためだと考えていた。でもそれは僕の大きな勘違いなんじゃないか? 境先生は、肘の不調をおして試合に出場しようとする三鷹君を止めようとしたんじゃないか? しかし高野連理事という立場にある以上、たとえ自分がかつて率いたチームであっても、選手の起用に関して大っぴらに口出しすることはできない。どの高校に対しても公正であろうとすれば、特定のチームの特定の選手に対する干渉は控えなければならない――たとえ個人的に才能をおおいに買っている選手であっても。せいぜいが自分の体を大事にするようにそれとなく忠告できるだけだろう。それも聴かないとなると強硬手段に出ることも考えなければならない。おあつらえむきに、その選手が街で揉め事を起こす場面を自分は目撃している――。

 境先生がお金まで握らせて剃りこみたちを口止めしたのは、逆説的だが、おそらく三鷹君を守るためなのだ。情報をうまくコントロールして、とりあえず今日の試合だけでも出場を阻もうとした。時間を稼ぎつつ三鷹君を説得し、肘への負担が大きい変化球主体のスタイルにこだわる考えを改めさせる――そんな思惑を抱いていたのではないか? 

 喧嘩をしたといっても、三鷹君は女の子を助けただけだ。境先生はそのことを承知していた。三鷹君が女の子を連れて不良たちから逃げる姿を目撃しているし、おそらくは剃りこみたちから話を聴いて確信も得たのだろう。境先生は、三鷹君が当然正当防衛を主張すると踏んでいたのだと思う。それならば大きな問題にはならないだろう、とも。自分が事情聴取を担当することで、事態をうまく収集させることもできる。

 ところが境先生は二つの誤算に直面した。

 ひとつは三鷹君がなぜか連れの女の子の存在を認めなかったこと。

 そしてもうひとつは――僕が境先生の企みを中途半端に暴いてしまったことだ。これで境先生は三鷹君から手を引かざるをえなくなった。

 僕は、今日の試合で幸太郎と勝負したいという三鷹君の望みを叶えた。しかしそれは、本当に三鷹君のためになることだったのだろうか――。

「――まったく、きみは知らなくていいことまで探りあてちゃうんだから、ホント諜報部向きだわ」

 いいしれぬ不安に押しつぶされそうになる僕を横目に見て、涼子さんは呆れた口調でいった。

「涼子さん……、僕は……」

「でもね、諜報部員にはてんで不向きだともいわざるをえないわね。いつかいておいたでしょう? 関わったターゲットに情を移しちゃスパイ本人が自ら身を滅ぼす行動をとりかねないって。きみが今回やったのって、まさにそういうことなんだからね」

 耳が痛かった。たしかに、少しでも下手を打てば境先生に身元を探られ、そこから諜報部の存在が露わになる危険だってあったのだ。

「きみ自身が困ったことになってたかも、っていってるのよ。あれだけ女装がバレたくないとかいっておきながら、どうして出会い系サイトで男を呼び出すとか黒幕にあのときの女ですって名乗りでるとか、自分から危ない橋を渡ろうとするんだか」

 ちなみに各サイトにばらまいたアオイの登録情報は諜報部のほうですでに削除してくれたとのこと。本当に皆さんにはご迷惑をおかけしている。

「やっぱり……、三鷹君の新球種を突きとめた時点で手を引くべきだったんですよね?」

「そうね。作戦が完了したらすみやかにターゲットの前から消える。それがハニートラップの鉄則だもの。女装のハニートラップ要員を使うってのは、いいアイデアだと思ったんだけどなあ」

 涼子さんはおおげさにため息をついた。さばけた口調にアイロニーをにじませながら。

「僕のわがままにつきあってもらって、涼子さんには心から感謝してます」

「ま、私だって結局最後まで手を貸したんだから同罪か。あ~あ、それにしても。これでもうしばらく三鷹泰にアオイのふりをしてメールを送らなくちゃならなくなったわ。ああ、面倒ねえ」

 気だるげにそういったかと思うと、涼子さんはいきなり僕のお尻をつねってきた。

「ひゃっ!」

 僕は思わず女の子みたいな悲鳴をあげてしまった。そりゃそうだろう。

 輪になって世間話をしていたほかの四人が一斉に僕のほうを振り向いた。涼子さんは素知らぬ顔で口笛なんか吹いてるし、一方の僕は両手で口元を押さえちゃっていた。悲鳴の主が誰か、もはや火を見るよりも明らかな状況である。

 三鷹君も幸太郎もいきなり変な声をあげた僕を不思議そうに見つめていた。だけど、もっと怪訝そうな目を向けてきたのは――誰あろう茜だった。

 あ……。そういえばこれ、アオイの姿を思いっきり茜に見られちゃってるじゃないか!

「え、えと、えと……っ」

 僕は主に、「そういえばどちら様ですか?」みたいな視線を全身に突き刺してくる茜に向けて、うまい言い訳をひねりだそうした。でも全然出てきやしない。そういえば僕、九路松の制服着たままだし(いうまでもなく女子用)、ホント何者なんだよって状態じゃないか! こんなのどうやって茜に説明しろっていうんだよ!

「そうそう、やっぱりきみは、そうやってアワアワしてないとおもしろくないのよね」

 僕のピンチを見て涼子さんはクスクスと笑う。たしかに涼子さんには多大なご迷惑とご心配をおかけしましたけども……、その報いとしてもこれはあんまりな仕打ちじゃないですか!?

「あの強面の理事先生をいいくるめたアオイちゃんなら、このくらいの苦境はささっと切り抜けてもらわないと」

「あ、あれは携帯の位置情報履歴っていう切り札があったからできたことで……!」

 僕は今回非常にお世話になった例の電子機器を取り出した。あいかわらず見た目はただの携帯用小型充電器だけど、その正体はれっきとしたスパイ道具だと、涼子さん自身のお墨つきももらっている。

「ああ、いいわすれてた。それね、ただの携帯用小型充電器だから」

「……へ?」

 なにを告げられたのかすぐには理解できず、僕は間抜けな顔を返すしかなかった。

「だから、そんなものじゃ携帯のデータなんか吸い出せないのよ。まあその手の機器もあるにはあるんだけど、パソコンとかも必要になってくるし、あの場面じゃ使えないでしょ? 用意も間に合わなかったしね」

「だ、だけど、涼子さん! これを交渉の切り札に使えっていって渡してくれたんじゃないですか!?」

「切り札に使えとはいったけど、それであの人の行動を証明できるといった覚えはないけど? 私はきみが不安そうだったから、ちょっと自信を持たせてあげただけよ」

「そ、そんな……騙された」

「敵を騙すにはまず味方から。きみがIT関係に詳しくなくて助かったわ」

 ペロリと舌を出す涼子さん。

「あんまりだ……。これ、充電なんかできないっていってたのに……」

 僕だって最初からどう見ても充電器たよなと思いながらやってたんだ。涼子さんがただの充電器じゃないといいはるから信じたのに……。

「だから嘘はいってないでしょう。それ、充電なんてできないわよ。だって電池が入っていないもの」

 平然といいはなつ涼子さんを前に、僕は絶句するしかなかった。

 ダメだ……。やっぱりこの人には逆立ちしたって敵わない。

「あ、あの~……」

 そうこうしているあいだも、茜は僕の様子を探っていたようだ。不審さを隠しきれない声色でいよいよ声をかけてきた!

 ヒソヒソ話だったから涼子さんとの会話の詳細までは聴かれていないと思う。とはいえ、学校の先輩と位置情報だの交渉だの不穏な単語を交わす女……。怪しさ満点だよなあ。

 涼子さんが頼れないとなると、あとはもう西大島先輩しか! 助けてください、団長!

「ふむ、いいことを思いついたぞ」

 僕の懇願が届いたのか、西大島団長がいい声で皆の注目を集めてくれた。

「え、ええと……?」

 茜もやや逡巡したものの、空気を読んで僕から視線を外してくれる。とりあえずひと安心だ……。

 団長は幸太郎と三鷹君のあいだに移動し、後ろから二人の肩をぽんと叩いた。

「今日、白熱の対戦を見せてくれた両人がこうして揃っている。そこでどうだろう? 今後の健闘も祈って、特別に二人へエールを送らせてはもらえないだろうか?」

「俺たちに?」

「エール?」

 目を丸くし、お互いに顔を見合わせる幸太郎と三鷹君。僕も唐突な申し出で面食らった。

「それってあの……、団長さんがおやりになるってことですか?」

 茜が尋ねる。僕のことからは完全に意識が逸れたようだ。

「まあ俺がやってもいいんだが……、今日は試合の応援でだいぶ喉を潰してしまっているのでな」

 バリバリの良い発声でいう、応援団長だった。手で喉元を押さえるしぐさが実にわざとらしい。

「だからここはひとつ、この中で誰よりもふたりのことを応援する気持ちの強い者に代わりを任せたいと思うんだ」

 団長は大仏のような笑みを浮かべたまま、その場にいた全員を見わたす。そしてひとりの人物をとらえたところで視線を止める。

「え――?」

 僕は間抜けな顔を西大島団長に返した。

「九路松高校応援団長として命じ――いやお願い申し上げる。きみ、俺に代わってひとつ、彼らにエールを送ってやってはいただけんか?」

 命令といわれようとお願いといわれようと、応援団長からの指名を一介の平団員が断れるはずがなかった。


 *

 

「やれやれ、伴内君にも困ったもんよね。エールをやるっていったって、準備もなにも考えてないんだから」

「ホントにこの姿でやるんですか……?」

 口ぶりとは裏腹に涼子さんは明らかにおもしろがっていたが、僕の戸惑いは本物だ。

 西大島団長から指名を受け、僕は幸太郎と三鷹君へのエールを披露すべく、僕は涼子さんとともにスタンドへ上がった。涼子さんは僕のために応援用の衣装を準備してくれたのだ。

 応援をやるわけだから着るとしたらやはり学ランしかない。幸いにして僕は自分用の学ランを持ってきていた。茜に預けたバッグを涼子さんが受け取ってくれていたらしく、学ランそのものは問題なく用意できた。

 問題は、それを着る僕のほうだ。

 アオイのままなんだよね……顔が。

 茜たちがいる以上、女装を解いて再登場するわけにはいかない。だいたい、アオイが指名を受けたエールを僕がおこなったら、一発で正体がバレてしまう。

 というわけで、アオイが学ランを着て三鷹君と幸太郎に対してエールを送るという、ややこしい状況が発生していた。

 アオイが何者なんだか、ますます謎になっている気がする……。西大島団長は僕の窮地を救ってくれるもんだとばかり思っていたのに、とんだ見込み違いだった。

「そうでもないんじゃない? 伴内君にしてはなかなかおもしろいこと考えたと思うけど?」

 冷や汗で崩れかけていた僕のメイクを手早く直しながら涼子さんは軽やかにいった。おもしろいって……。

「そりゃあ、エールを担当するなんて僕の身にあまる大役で、ずっと憧れてはいましたけど、まさかこんなかたちで悲願が叶うことになろうとは……」

 応援団員としての晴れ舞台に、僕は諜報部員として立とうとしていた。

 いや、そもそも僕は今、諜報部員なのか? それとも応援団員なのか? 

 一之江蒼なのか、アオイなのか?

 元は男の僕が化粧とかつらで女役のアオイになり、そのアオイが男物の学ランを着ている――これは果たして、何装といえばいいんだろうか? 女装なのか、男装なのか……?

「ま、どっちでもいいんじゃないの? 水をかぶると女になっちゃう特異な体質ってわけでもないんだからさ」

 僕の悩みなんてその程度だといわんばかりに、涼子さんは引用と戯れた。

 僕も不思議と、少し視界が開けた気がした。

「……ですね」

 男でも女でもいい、僕は僕だ――なんてありきたりな自己同定で締めくくるつもりはない。

 やっぱり僕は、男らしくありたい――漢になりたい。

 でも、どうして僕は漢を目指すのだろうか?

 その理由は、以前とは少し変わった気がする。

 こうして学ランに身を包むことで、アオイのままでも、諜報部員のままでも誰かを応援できるんだ、きっと。

 僕はやっぱり全然男らしくない。体は小さいし、声だって高いし、非力でビビりでヘタレでにぶちんだ。

 おまけに女装までさせられ、男らしくなることからすっかり逆走している。

 だけどそんなマイナス地点にいるからこそ、漢を目指そうと思える。漢を目指して、なにかをできるようになりたいと思う。そんなふうに思えることが、漢になるということなのかもしれない。

「浜町君に見られたら絶対どやされるでしょうけどね」

「それは……勘弁してください」

 顔をひつきらせる僕を見て、涼子さんはおかしそうに微笑んだ。

「さ、そろそろ出ますか。せっかくなら陽が落ちないうちにやっちゃいたいでしょ」

 涼子さんはスタンドへの出口を見やりながら僕の背中を叩いた。空はほんのりと夕焼けに染まりはじめていた。

「……頑張ります」

 僕は覚悟を決めて出口の前に立つ。もう一歩踏みだせば、夕日が照らす舞台へ飛びだせる影の中だ。

「あ、ちょっと待って」

 最後の一歩を踏み出そうとする直前、涼子さんが僕を呼び止めた。

「頭、これ巻いていきなさい。色つきっていうのは応援団の正装としては締まらないけど、まあいいわよね」

 そういって涼子さんは僕の頭に一本の布を巻く。

 キュッと気持ちのいい音とともに、僕のこめかみは気持ちよく締めつけられる。

 応援団員が頭に巻くものといえば、白いハチマキと相場が決まっているが――結び目から垂れるハチマキの端が視界をよぎった。

「これは――?」

「アオイちゃんにはやっぱり、これがなきゃでしょ?」

 涼子さんが僕の頭に巻いたのは、青いリボンだった。

「これで準備万端。さあ、返事はどうした、応援団員?」

「は、はい!」

「ちょっとちょっと。そんな返事じゃ、また浜町君にどやされるわよ?」

 涼子さんの皮肉げな微笑みを見て、僕はあ、そうかと気づく。

 応援団員の返事は、やっばりこれだよな。

「……押忍!」

 僕は威勢よく答え、スタンドへと飛びだした。青いリボンをなびかせながら。


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