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MISSION 1 クラブ勧誘にご用心

 MISSION 1 クラブ勧誘にご用心


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 ハニートラップ――。

 それは、恋愛感情や性的関係を利用してターゲットを懐柔したり脅迫したりして情報を引き出す諜報活動の一種である。

 実際に世の諜報機関の多くは、ハニートラップを用いて敵対組織から貴重な情報をかすめとっている。明日の小テストの問題から、ライバル企業の新製品開発状況、外交交渉を左右しかねない軍事機密まで、およそ「秘密」と呼ばれるたぐいの情報は、恋心という甘い蜜に絡めとられて、あなたの知らぬ間に外部へ漏れだしているかもしれないのだ。

 ところでハニートラップをしかけるスパイ側に目を転じて、こんなことを考えてみよう――はたしてどんな人材が、ハニートラップにあたる諜報工作員として適任なのか?

 男性スパイが女性ターゲットを罠にかける場合もあるけれど、ここでは基本形、つまり女性スパイが男性をターゲットにする場合に絞って考えてみよう。

 ハニートラップをしかける側は相手から好意と信頼を寄せられなければならないのだから、当然、それ相応の魅力を備えた女性である必要があるだろう。もちろんターゲット側の好みもあるから一概にはいえないけれど、一般的に「美女」と呼ばれる女性が事に当たったほうが、ハニートラップの成功確率は高まると考えられよう。相手の警戒心を解くという意味では、年齢層をもう少し限定した「美少女」であることが有利に働く場合もあるかもしれない。もちろん、狡知に長け、機転が利くことなど、スパイとしての基礎的な能力も備えておく必要もある。

 しかし容姿や立ち回りの巧みさ以上に、ハニートラップ要員に求められる特性がある。

 情報奪取のあと、ターゲットの前からその存在を完全に消せること――これである。

 もちろん、求める情報を手に入れるまでターゲットに正体を気取られないことも重要だ。しかしそれと同等以上に気を遣わなければならないのは、情報を入手した後の処置である。目的を達成したスパイはターゲットの前から姿を消さなければならない。利用しおえたターゲットといつまでも関係を持ちつづける意味はないし、時には危険でもあるからだ。

 ただ、姿を消すといってもさまざまな方法がある。単純にターゲットの元を離れるだけでは、関係を絶ったとまではいえないだろう。万全を期すならば、ターゲットがこちらを探りだそうとしても絶対に不可能なやり方を考える必要がある。整形手術で顔を変えてしまう? あるいは死亡を偽装する? そんな方法もあるだろう。しかし、もう少し穏便かつ経済的なやり方はないだろうか。

 発想を逆転してみよう。あとで消さなければならないならば、はじめから存在しなければいい――。

 要するに、ハニートラップにあたる女性を、ゼロから作りあげてしまうのだ。最初がゼロならば、すべてを差し引けばゼロに戻る。あとにはなにも残らない。

 存在を消してしまえるハニートラップ要員を作りあげる――意味が分かるだろうか?

 僕はその意味を、我が身をもって理解させられた。

 応援団はきみを漢にする。

 地元の県立九路松高校に入学して三日目、学校の掲示板でそんな惹句が書きつけられたポスターを見つけたところから、僕のハニートラップは始まる。


 1


「貴様ら、そこへ並べ!」

 浜町副団長の指示を受け、僕たち一年生五名は武道場を背にして横一列で整列した。

 先輩たちに倣って腰で手を組み背筋を伸ばす。そんな僕たちの姿勢を、浜町副団長が鋭い視線で点検する。狼を思わせるその相貌もあって、少しでも動けばとって食われそうだ。

「……よし、まあよかろう。ではこれより、九路松高校応援団入団式を執りおこなう!」

「はい!」

「馬鹿者、返事は『押忍』だ!」

「押忍!」

 僕たちは慌てていいなおした。押忍――応援団においてあらゆる場面で用いられるこの挨拶は、団員の精神を象徴しているといっていいだろう。まだ体操着姿とはいえ、僕たちはもう応援団員なのだ。そう思うと少し嬉しくもあった。

 応援団はきみを漢にする――そう書かれた勧誘ポスターを見たその足で、僕は指定された集合場所へ直行した。武道場裏の広場。大声が出しても近所迷惑にならないこの場所が、応援団の練習場所だという。

 厳かに入団式の開式を宣言したこの方は浜町公威先輩。三年生だ。副団長を務めているだけあって、学ラン姿がうらやましいくらい似合っていた。

「まず団長から挨拶をいただく。西大島、頼む」

「うむ」

 浜町副団長の呼び込みを受けて彼はぬっと一年生の前に姿を現した。その姿態を見て僕は思わず目を見張った。で、でかい……。身長はゆうに一九〇センチを超えているだろう。しかも全体的にがっしりとした体格なので余計に大柄に見える。まるで熊みたいなシルエットだ。この人が団長なのか……。

「あ~、三年の西大島伴内だ。いちおう団長って肩書きだが、きみらとは今日から苦楽を共にする仲間だ。なにか意見があれば遠慮せずいってくれたまえ」 

 案外鷹揚な自己紹介をしたあと、西大島団長は僕たち一年生の顔を眺めた。といっても糸目なので表情がよくわからないのだが。ただ挨拶の一言もあってずいぶん気さくな印象を受ける。さっきは熊といったけど、鎌倉の大仏のようだと訂正したい。

 ハッハッハッと闊達な笑い声を上げる団長を見て、浜町副団長は顔をしかめる。

「西大島、おまえはまた後輩を甘やかすようなことを……。おい貴様らッ! 応援団において先輩のいうことは絶対! 口答えすることは許されんからな! 団の規律を守れんヤツは即刻辞めてもらうぞっ。覚悟しておけ!」

「お、押忍!」

 ついさっき、先輩、しかも団のトップである団長からじゃんじゃん口答えせよといわれたばかりなのだけれど、この場合はいったいどうしたらいいのだろう……。

「そう怖い顔するな、浜町。あまり締めつけすぎると新入団員が逃げるって、涼子からもこのあいだ忠告を受けたばかりじゃないか」

「あの女のいうことなど知ったことか! だいたい、ちょっと厳しく指導しただけで逃げ出す腰抜けなど最初からいらんのだ!」

 キッと僕たちをにらみつける浜町副団長。殺気だった視線に僕たちは震えあがる。

 そんな僕たちの心中を知ってか知らずか、西大島団長はにこにことした顔で僕たちに告げる。

「一年生には来月に行われる四校交流戦の野球応援から、正式に団員として応援に参加してもらいたいと思っている。それまでの一か月、この浜町が指導に当たってくれるから、まあ頑張ってくれたまえ」

「覚悟しろ、弱音を吐いた者、軟弱な態度を見せた者、口答えする者には一切の容赦はせんからな……ッ」

 浜町副団長が握りしめた拳に、太い血管が浮かび上がる。え……? それは現代日本の部活動シーンにおいて許されるものなんですか……? そんな疑問が一年生の顔に浮かんだことだろう。

 だけど僕だけは違う。望むところだ! そう思っていた。鉄拳制裁を恐れて男らしさを身につけられるものか!

「まあ、ほどほどにな」

 釘をさしているのかいないのかいまいち判然としない西大島団長の一言とともに、いよいよ僕の応援団員としての日々が幕を開けた。


 まず行われたのは、一年生の自己紹介だった。

 なんだ自己紹介か、と侮ってはいけない。応援団でおこなわれる自己紹介は、ただの自己紹介ではない。他の部活動ならば儀礼的におこなわれるだけのこのイベントも、応援団の手にかかれば鍛練の場に様変わりするのだ。

 先輩たちから指名を受けた新入団員は、ひとりずつ前へ出て、名前と学年・クラス、出身中学を発表し、自己アピールをおこなうのだが――。

「――中学出身! し、趣味は――」

「声が小さぁいっ!」

 最後までいいきらないうちに先輩の大きな怒号が飛ぶ。こうなると自己紹介は強制的に中断させられ、やりなおしとなる。

「し、趣味は――」

「馬鹿者ッ! 途中から始めるヤツがあるか! 最初からだ最初からッ!」

「す、すみません! スゥ……ふ――」

「声が小さぁいっ!」

 ……先輩たち全員の耳に声が届くまで何度でもやりなおす。それが応援団式自己紹介のルールだった。

 一年生の声が聞こえない場合、先輩たちは即座にその旨を申しでる。それはもう容赦ない。武道場のほうから柔道部や剣道部の掛け声も漏れてくるとはいえ、精一杯張り上げた大声が十メートル先の人の耳に届かないはずはない。けれど、先輩が聞こえないといえば、その声は聞こえていない。先輩のいうことは絶対なのだ。自己紹介を通して、僕たちはそういう精神を学ぶ。

 少なくともひとり十回はやりなおしを命じられているだろうか。先輩たちを納得させるためにはそれこそ喉が潰れるくらい大きな声を出さなくてはいけないわけで、なんとか「合格」を貰えたときには誰もが例外なく玉のような汗を額に浮かべていた。

「よおし! まあよかろう!」

 浜町副団長の一声が、無間地獄からの解放の合図である。こういうと浜町副団長が情けをかけているような感じがするが、誰よりも多くの回数自己紹介を中断させているのも彼なのである。

これで五人中四人の自己紹介が終わったところで、浜町副団長が息の上がった一年生たちをギロリとにらんだ。

「この程度でヘバっているようでは話にならんぞ! 我ら応援団員が誰よりも汗を流すからこそ、選手たちは苦しい場面で踏ん張ることができるのだ。つまりは、試合に勝つも負けるも応援しだいなのだ! 貴様ら、これを肝に銘じておけ!」

「押忍ッ!」

 試合に勝つも負けるも応援しだいか……。それは応援団の覚悟なのだろう。僕はいわれたとおりその精神を胸に刻みつけた。

「よし、自己紹介は次で最後だな。最後の者、前へ出ろ!」

 浜町副団長に促され、僕は慌てて一歩前へ出る。最後のひとりは僕である。

 膝が震える。怖いわけじゃない。武者震いだ。

 応援団はきみを漢にする。

 僕の脳裏に、応援団に入るきっかけとなったあの勧誘ポスターの文句がよぎった。

 男らしくなりたい。

 そんな願いを抱いて、僕は応援団の門を叩いた。

 険しい道だってことは承知している。こんな僕が男らしくだなんておこがましいのかもしれない。それでも僕は、自分を変えると決めたんだ。

 この自己紹介は、その第一歩だ。

「よし、始め!」

 浜町副団長の合図を受け、僕は大きく息を吸い込む。一度息を止め――思いの丈を乗せた声を先輩たちにぶつけた!

「一年七組、一之江蒼! 出身は雲見第二中学! 好きな作家は北方謙三、尊敬する人物は白洲二郎です!」

 僕が自己紹介をすべていいきると、辺りはしんと静まりかえった。

 …………ん?

 自己紹介を、すべていいきった? 

 おや? いいのか、これで? ここは即座に先輩の怒号が飛んできて、やりなおしを命じられる場面なのでは?

 予想だにしなかった展開に戸惑い、僕は周りを窺う。

 先輩たち、そして後ろにいる一年生の仲間たちまでもが、一様にぽかんとした表情を浮かべていた

 え? なに、この反応……? 僕、なにかおかしなこといったかな?

 それとも僕の自己紹介が一発で先輩たちを黙らせてしまうほど完璧だったとか?

「な…………」

 空いた口から漏れたような声で沈黙を破ったのは、鬼の副団長だった。

 ひょっとしたらお褒めの言葉がもらえるのかも? 

 一瞬でもそんな期待を抱いた僕が馬鹿だった。

「……なんだその女みたいな声はァァァッ!」

 返ってきたのは怒り狂った叫び声だった。

 え……ええっ?

「お、女……っ!?」

 びっくりしすぎて、浜町副団長が目の前まで詰めよってきたのも気にならないくらいだった。

「ふざけてるのか、貴様はッ! 誰が女の声真似をしろといった!」

「そ、そんな……! 僕は精一杯男らしい声をですね……」

「あんな小鳥のさえずるような声でなにが男らしくだ! 冗談は顔だけにしろ!」

 鉄拳こそ飛んでこなかったけれど、浜町副団長の怒鳴り声に僕はすくみあがる。ていうか、声だけにとどまらず顔も……?

「ハッハッハ。そういえばきみ――一之江君といったか、よく見ると実にかわいらしい顔つきをしてるよな」

 西大島団長が愉快そうに笑って、あらためて僕の顔を眺める。なぜだろう……、怒られるより笑われるほうが意外にショックが大きかった。

「とにかく! やりなおしだ! 次ふざけた声を出したら今度こそ容赦せんからなッ!」

 浜町副団長は僕の鼻の頭に人差し指を突きつける。ふざけた声って……。

 けど、いいだろう。やってやるさ! もし副団長が気に入らないなら、何度でもやりなおしてやる! それで僕が男だってことを証明してみせる!

 ……で、その結果。

「ぐぬぬ……、もういいッ!」

 三度目のやりなおしを終えた時点で、とうとう浜町副団長の堪忍袋の緒が切れた。

「うう……」

 僕は恥ずかしいやら情けないやらで、涙をこらえるのに必死だった。そりゃあ自分でも一般的な男子よりちょっと声が高めだと思ってたけど、ここまで応援団で求められる声質と相反しているとは……。

「……ふむ。しかしこれは、なかなか面白い人材が入ってきてくれたな」

 西大島団長がひそかにつぶやいた内容は耳に届いていたけれど、ショックに打ちひしがれる僕にはその意味を考える余裕はなかった。


 2


「はあ……」

 きれいに整理整頓された団室を眺め、僕は深くため息を落とした。塵ひとつ残らないよう掃除した床に、僕の憂鬱が広がっていくようだった。

 換気のために開けた窓から、熱心に一年生を指導する浜町副団長の声がうっすら聞こえてきた。下校時刻までまだたっぷり二時間はある。今日の練習はまだ続いているのである。

 それなのに僕ひとりが団室掃除に精を出しているのは、練習に参加させてもらえなくなったからである。自己紹介でいきなり失態を演じたあとも、まあいろいろあってとうとう浜町副団長から団室掃除を命じられたのだ。つまりは戦力外通告である。

「……はあ」

 そりゃあため息も出るってもんですよ。男らしくなるとか息巻いて応援団に入ったくせに、初日から「女みたい」なんて応援団員失格ともいえるレッテルを張られちゃってるんだもんなあ……。

「やっぱり僕なんかが漢になるなんて無理なのかなあ……」

「それはやり方しだいじゃない?」

 独り言に答えが返ってきて、僕は驚いて振り向いた。

 入口のドアを背にして女の人が立っていた。いつのまに入ってきたんだろう?

「えと……?」

 男所帯の応援団室に似つかわしくない来訪者を僕は思わず窺った。ふわりと風に舞いそうなさらさらのロングヘアに涼しげな目元。小顔でずいぶんと綺麗な人だった。そしてひときわ目を引くのが制服のスカートからスラリと伸びたおみ脚。ファッションモデル顔負けのプロポーションである。

「きみが一之江蒼君?」

 魅惑的な微笑みをたたえながら、彼女は僕へ近づいてきた。

「は、はい。僕が一之江ですけど……」

「はじめまして。私は森下涼子。チアリーダー部の三年よ。いちおう部長もやってるわ」

 すっと手を差しだされたので、反射的に握り返す。

「チア部の部長さん、ですか……」

 チアリーダー部は応援団の女子部門みたいなものだから、応援団とも交流があるのだろう。でもわざわざ団室までなんの用だろう? 先輩たちはまだ外で練習中ですよ?

「今日はきみに用事があって来たのよ。ていうか、そうでもなきゃこんなムサイ部屋に入りたくないし。あ、私のことは気軽に涼子って呼んでくれていいから」

「は、はあ……」

 わりと早口でしゃべる森下先輩――涼子さんに圧倒され、僕は生返事しかできなかったというか、僕に用事ってなんだろう?

 しかし涼子さんはいぶかしがる僕に構うことなく、なぜか興味深げに室内を見回しはじめた。

「この部屋、きみが掃除したんだよね? ふうん、ずいぶんキレイになるものねえ」

「あ……ありがとうございます。においはたぶん、消臭剤じゃないかと」

 涼子さんが形のいい鼻をひくひくと動かすのを見て、僕はそう補足した。仕上げとしてシュシュッと振りまいたのだ。

「応援団の連中がフローラルな香り漂う団室に帰ってくるって考えると笑えるけどね」

 その場面を想像したのか、涼子さんはくすくすと忍び笑いを漏らす。僕が笑うわけにはいかない冗談だった。

「あ、あの、それで僕にご用というのは……?」

 失礼を承知で再度尋ねると、涼子さんはもったいぶるように肩をすくめ、近くに椅子に腰を下ろした。脚を組んでちょっと前かがみになると、すっと目を細めてまた僕に微笑みかける。

「まあ、ひと言でいえば勧誘かな。部活動への勧誘よ」

「勧誘……ですか? でも、僕もう、応援団に入っちゃってるんですけど……」

 応援団は内部規定でクラプの掛け持ちを禁じていたはずだ。

「それは大丈夫。だって私、伴内君――きみのとこの団長から話を聴いてここへ来たんだから。応援団におもしろい子が入ってきたから、よければ誘ってくれってね」

「西大島団長から?」

 そこで僕はハッと顔をこわばらせる。これはまさか……応援団を辞めて他の部活に移れって話!?

「あはは、違うって。きみは応援団にいてくれていいよ。むしろそのほうが好都合だし」

 僕の最悪の想像を涼子さんはケラケラと笑い飛ばした。僕はとりあえず安堵したのだけれど、そこで涼子さんの目元がなんか邪悪な感じに歪む。

「でも、きみが応援団にいづらいっていうなら、退団を止めはしないけどね。きみ、自己紹介で浜町君を怒らせたんだって?」

「う……」

 いきなりトラウマを抉られた! 

 思わず胸を押さえた僕を、涼子さんはニヤニヤと眺めた。

「まあ、浜町君は硬派至上主義なところあるからねえ。これだけかわいい声じゃ不興を買うのもしょうがないね」

 またかわいいっていわれた……。僕の声、そんなに変かなあ……?

「変とはいわないけどさ、電話口とかで女の子と間違われたこととかない?」

「……あります」

 正確には、うちに掛かってきた電話をとると、今でも高確率で相手から尋ねられる。娘さんですか? って。

 いちおう断っておくけれど、僕は男だ。身も心も正真正銘、男。僕の体はXY染色体を持つ細胞で構成されているはずだし、下品な話だけどつくものはちゃんとついてる。自分が男であることに疑問を抱いたこともない。口紅を引きたいなんて思ったことはないし、幼い頃は人形遊びやままごとよりも虫取りや模型作りを好むやんちゃ坊主だった。

 それなのに昔から僕はあまり男して見られてこなかった。小さい頃は気づけば女子の列に並ばされていたし、マクドナルドでハッピーセットを頼むと高確率で女児用のおもちゃをつけられた。温泉やトイレで男のほうへ入ろうとして変な目で見られたなんてざらにある。

 そんな自分を変えたいと応援団に入ったはいいけれど……ふたを開けてみればこのざまだ。男を磨けずに団室の床を磨いているとか、洒落にもなりゃしない。

「まったくね。でも、自己紹介がダメだったくらいじゃさすがに浜町君も即刻クビにはしないでしょう?」

「いや、クビにはなってないんですけどね……」

 いってるほうがむなしくなるような訂正を入れてみるも、頬杖をついた涼子さんは「他にもなにかやらかしたんでしょ?」的な期待に満ちた目を僕に向けてくる。……ちょっと。なんか楽しんでないですか? まあ、答えますけども……。

「学ランをですね、貸していただけることになったんですけど……」

 僕はハンガーラックに陰干ししてある学ランへちらりと目をやった。長ランと呼ばれる変形制服である。

「ああ~」

 僕と学ランを見比べて大きく頷く涼子さん。ね、お分かりいただけたでしょう?

「いや、早合点は禁物よね。蒼君、ちょっとそれ着てみせてよ」

「ええ、今ですか!?」

「浜町君が独断専行している可能性も否めないわ。だから私がこの目で確かめてあげる」

 真剣な目つきで僕を見つめる涼子さん。

 そこまでおっしゃるならと、僕は再び長ランに袖を通した。

 彼女が親身になってくれていると一瞬でも思った僕が馬鹿だった。

「アハハハハハ!」

 僕の学ラン姿を見て、涼子さんは手を叩いて笑った。

「ひどい! やっばり分かってたんじゃないですか!」

「ごめん、ごめん。でも想像以上だったわ。その全然サイズ合ってない感じ、お父さんの背広をこっそり着てみた小学生じゃん」

 いいえて妙なたとえだった。たしかに袖が長すぎて手が完全に袖に隠れているし、肩幅も全然合ってない。裾に至っては膝を通り越してかかとまで達していた。

「ていうかさ、なぜによりにもよってそのサイズ?」

「これが今部室にある中で一番小さいサイズだって話なんです……」

 僕たち一年生に貸し与えられる学ランは去年引退した先輩たちからのおさがりだ。代々の先輩たちは皆、これをジャストサイズで着こなしていたという。体格がよかったんですね。うらやましいかぎりです。

「う~ん、これだけ裾が余ってると、演舞で動き回ろうものなら裾を引きずって踏んづけて破っちゃうか」

「はい……」

 応援団員が正装である学ランを踏んづけるなんてあってはならないことだ。学ランを着た演舞の練習に参加させてもらえなかったのも当然だった。

「まあ、伴内君がそのうちサイズが合うのを発注してくれると思うけど……、うん、でも良かった。蒼君、やっばり体つきも華奢だったし」

「はい?」

「ないとは思ってたけど、これで蒼君が細マッチョだったりしたらちょっと計画が狂っちゃうもんねえ」

 謎の発言を繰り返す涼子さんは、長ランを脱いで自分のジャージを着なおす僕を値踏みするような目つきで眺めていた。え……、なんか恥ずかしいんですけど。

 なんとなく頬を赤らめる僕とは対照的に、涼子さんは表情を素に戻す。

「応援団だとほかに……そうね、太鼓とかもあるじゃん?」

「太鼓もいちおう叩かせてもらったんですけど、非力だから話にならないって……」

 団長が見せてくれた手本とは、音量がまるで違った。ついにはバチを取り落としてしまい、浜町副団長からこっぴどく怒られたうえで太鼓係も解雇となった。

「腕も細いもんねえ、きみ。だったら旗手なんてなおさら無理か」

 ……おっしゃるとおりである。旗手は校旗もしくは団旗を持つ役の者で、試合となれば応援をしているあいだずっと旗を掲げていなければならない。旗もまた応援団においては神聖な備品のひとつで、試合中に下ろしたり、ましてや布を地面につけることなど絶対に許されない。それだけに旗手には並外れた体力と腕力、そして精神力が要求されるのだ。僕には到底務まりそうもない。

 声も出せず演舞もできず、太鼓も打てなければ旗も持てない……。いよいよ参加できる練習がなくなった僕は、かといってぼんやり見学というわけにもいかず、とりあえずの仕事として団室掃除を命じられたのだった。応援団員としては用無しになったといっても過言ではない。

 思い返すと情けなくて泣けてくる。涙をこらえようとすると、代わりに心情が口から漏れた。

「……僕、男らしくなりたくて応援団に入ったんです。子どもの頃から女の子みたいだっていわれるのがコンプレックスで……。応援団で鍛えてもらえばこんな僕でもたくましくなれると思ったんですけど、やっぱり甘いですよね……」

「男らしく、ねえ……」

「馬鹿みたいって思われるかもしれませんけど、でも僕は本気なんです」

 僕は唇を結んで顔を上げる。男らしくなる。時代遅れかもしれないけれど、それはきっと僕のアイデンティティに関わる問題なのだ。

「理解できるとはいわないけどさ、自分を変えようっていうその志は、結構好きよ」

 涼子さんは優しげな笑みをたたえていた。ちょっとドキッとした。

 涼子さんは椅子から立ち上がると、ゆっくりとした足取りでドアのほうへ向かった。

「きみの気持ちはよく分かったわ。そこまで強く男になりたいと思っているなら、応援団を辞めるわけにはいかないわよね」

「は、はいっ。ですから、お誘いはたいへんありがたいですけど、勧誘のお話はなかったことに……」

 お断りの台詞を口にしながらも、同時に疑問も頭をかすめた。そういえば、涼子さんはなんのクラブに僕を勧誘しにきたのだろう?

 すると涼子さんは、いたずらっぽく笑って僕を見返した。

「どうして断るの? むしろこれで折り合いがついたじゃない。いったでしょ? 蒼君が応援団にいてくれたほうが、私たちにとっても好都合だって」

「え? でも……」

 僕が戸惑いの表情を返すと、涼子さんは意味ありげにすっと目を細めた。

「男らしくなれるかどうかはともかくさ、私につきあってくれれば、自分を変えたいって志は応援してあげられると思うよ?」

 涼子さんは魅惑的な微笑みとともに、団室のドアを開けた。


 3


 廊下がぎしりと軋む。懐かしい感触だった。木造の校舎を歩くのは久しぶりな気がする。普段の授業がおこなわれる新校舎は鉄筋コンクリート製だもんなあ。

「まあ、築十年以上の建物をいまだに新校舎って呼んでるのも変な話に思えるけどね。こっちが取り壊されないかぎり、呼び名は変わらないんでしょうね」

 半歩先を行く涼子さんがそんな皮肉を漏らす。ただ、僕は曖昧な返事をすることしかできなかった。気にかかることはもっとほかにあるんだもん。この状況自体だ。

「あの……、僕たち今、どこへ向かってるんですか……?」

 団室を出たあと、涼子さんが僕を連れてきたのが、この旧校舎だった。旧校舎は敷地の西端にあり、文字通りかつては教室が入っていた建物だ。九路松高校では十数年前から順次校舎の建て替えをおこなっていったらしいのだが、事業計画の見直しがあったとかで一部の校舎が建て替られずに残ってしまった。そこが現在、旧校舎と呼ばれているわけである。

 一年生から三年生まで三十クラスぶんの教室、そのほかの特別教室、それに職員室や事務室など、普段使う部屋は建て替えのすんだ二棟で充分に足りていたため、残ったひと棟を早急に建て替える必要もなかったらしい。結果、旧校舎はレトロな趣をたたえたまま残されることとなった。古くさい建物だし、廊下からちらっと教室を覗いてもどこも使われている形跡はない。学び舎の機能はとうに失われている感じなのですが……?

「どこって、そりゃあ部室よ。クラブの勧誘をするんだから」

 涼子さんはこともなげにそう答えた。さっそうと廊下を進む足が止まる気配はない。

「旧校舎に部室があるんですか?」

 でも部室棟なら別に設けられていたはずだ。応援団の団室が入っているのも、その部室棟の一階である。校庭や体育館からも特別教室棟からも遠い旧校舎にわざわざ部室を構えているクラブなんてあるのかな?

 そもそも、涼子さんが誘ってくれている部活がなんなのかすら教えてもらってないんだよなあ。ここまでの道中で何度か聞き出そうともしたのだけれど、なんとなくはぐらかされてしまっていた。

「着いたわ。ここよ」

 僕が不安と不審を募らせているうちに、目的地に到着したようだ。涼子さんは階段のすぐ手前で足を止める。え……ここですか? 教室はすでに通りすぎてしまっていた。僕たちが立ち止まっているのは、ニ階へ続く階段をちょうど裏から見る場所である。

「ここ、なにもないですけど……?」

 僕は目の前のスペースを指さして疑問を投げかける。そこにあるのはただの壁である。

「なにもないことはないでょう。ちゃんとドアがついてるでしょ?」

 呆れたようにいう涼子さんは顎で壁を指し示す。ええと……? あ、たしかにちょっと小さめのドアみたいなものがありますね。よく見ると腰くらいの高さに引手がついていた。

「でもこの中って物置かなにかでしょう?」

 階段裏のデッドスペースである点を勘案すると、その用途しか思いつかなかった。

「いえ、間違いなくここが部室の出入口よ。待って、鍵を開けるから」

 宣言と同時に涼子さんはボケットから小型の電卓のような機器を取り出した。

「鍵って……それがですか?」

「持ち歩くの面倒だからスマホに組み込んでって言ってるんだけどねー。セキュリティの問題でダメなんだって」

 僕にとってはまるで見当違いな返答をよこしながら、涼子さんは手元の機器で何桁かの数字を打ち込んだ。慣れた手つきだった。涼子さんは画面の確認もそこそこに機器をドアに向け、送信ボタン(らしきもの)を押し込んだ。

 するとどうだろう、ドアからガチャリと錠が外れる音がした。

「な、なんですか……これ?」

「電子ロックなの。あ、あとで蒼君にも鍵を渡すから安心して。さ、遠慮せず入って」

「え!? ち、ちょ……っ」

 遠慮もなにも、涼子さんは僕を無理やりドアに押し込もうとする。だいいち、施錠のシステムについて尋ねたわけではない。問題は、なぜ物置のドアがこんな厳重にロックされているかってことだ。やばいブツでも保管しているのか?

「ある意味ではそうかもね。でもここは物置じゃなくて部室だから。あ、しばらく天井が低くなってるから頭、気をつけてね」

 注意を促す涼子さんの声が反響していた。涼子さんもすでに中に入っているようだ。後方でガチャリと今度は錠が閉まる音。さりげなく退路を絶たれた……。前に進むしかなかった。

 ドアの先は階段になっていた。下りだ。外からの光がなくなり、灯りは低い天井からぶら下がる小さな裸電球だけになっていた。薄暗いなか、両側の壁に触れながら慎重に階段を降りる。通路の幅は人ひとりが通れるくらいである。

「そこ、回って。ドアがあるでしょう? それは鍵かかってないから自分で開けて中に入ってね」

 階段は思ったより短かった。涼子さんにいわれたとおり、踊り場で方向を変える。すると、目の前に二枚目のドアが現れた。今度はさっきよりもひと回りほど大きな普通のドアだ。

「開けて……いいんですか?」

 ドアノブに手をかけてから斜め後ろを振り向く。ちょっと手首をひねればこのドアは開いてしまう。

「なにビビってんのよ。男になりたいんでしょ? だったらこんなところで無駄に躊躇しないの」

「う、うわっ」

 涼子さんは肩をつかんで無理やり僕を前に向き直させた。その勢いで僕はノブを回してしまう。ドアが開かれる。拍子抜けするくらい軽いドアだった。

 ここまでくるともう中へ入るしかなかった。僕はおそるおそるノブを引き、ドアの向こうへ体を入れる。

当たり前といえば当たり前だけど、そこは部屋だった。正方形の作りで、広さは団室と同じくらいか。つまり八畳間ほどの専有面積である。室内の第一印象としては、どこかの会社のオフィスみたいといったらいいだろうか。そう感じたのは、室内にパソコンを置いたデスクがいくつか見えたからだ。

 職員室や事務室を除けば学校内にある部屋としては異質な空間だ。しかしもっと意外だったのは、そこにいた人物のほうだった。

「だ、団長?」

 いぶかしげに呼びかけると、その人物はオフィスチェアを回してこちらへ顔を見せた。

「やあ、一之江君。すまないな、わざわざこんなところまで」

 大仏様のような笑みを浮かべるその顔は見間違えようもない、九路松高校応援団団長、西大島伴内先輩だった。

「だ、団長がどうしてこんなところに……?」

「うむ。きみが団室で涼子と話しているあいだに、先回りしていたんだ」

 明朗快活なお答えをいただいたけれど、残念ながら僕の疑問はまるで解消しなかった。聞きたかったのはそういうことじゃない。

「伴内君も私たちの部の仲間なのよ。ていうか、彼が部長よ」

「ぶ、部長?」

 涼子さんの説明も、ますます謎を深めるだけだった。部長? 団長じゃなくてですか?

 僕が困惑の目を向けると、西大島団長はおもむろに椅子から立ち上がった。

「あらためて自己紹介しよう。俺は、九路松高校応援団――諜報部部長の、西大島だ」

 団長は凛々しい顔つきでいうと、僕に右手を差しだしてきた。

 しかし僕は握手に応じることができない。

 混乱は極まっていた。「応援団」のあと、なんていいました? ちょうほう?

「で、私は作戦参謀の涼子さん。よろしくね」

 にこやかな笑顔を振りまくと、涼子さんは西大島団長の隣に並んだ。

「一之江君、ご足労を願ったのはほかでもない。きみにはぜひ、この諜報部に加わってもらいたいのだよ」

「私たちと一緒に諜報、しよ?」

 団長の言葉に続けて、涼子さんが猫なで声でスマホゲームのCMの台詞っぽいことをいう。

 ようやく理解した。涼子さんが僕を入れたがっていたクラブって、これだったんだ。でもここってなんてクラブっていってた?

 目の前のふたりはめっちゃ歓迎ムードだ。でもごめんなさい、やっばり僕の目にはおふた方が応援団長とチアリーダー部長にしか見えません……。

「驚かせてしまったかな? 諜報部というのは応援団とチアリーダー部の下部組織でな。代々、応援団長とチア部長が組織を統率することになっているんだ」

 団長が説明をするあいだに涼子さんは僕の背後に回り、やけに体を密着させつつ室内の案内を始める。

「見てのとおり、この部屋が私たち諜報部の部室。格好良く言うと活動拠点ね。まあ活動自体は外へ出ておこなうことか多いんだけど、作戦会議とかで集まるときはここを使うから。出入りはさっきやってみせたとおりよ。鍵と暗証番号はあとで渡すけど、部外者には出入りを見つからないように注意してね。秘密基地だから、ここ」

「あ、あの……、ち、ちょっと……」

「ここにあるパソコンは全部共有で、ネットにつながってるから好きに使ってくれていいわ。エッチなサイトの履歴が残っててもお姉さんは生暖かく見逃してあげるし。あ、ただ、そっちの一台だけはスタンドアローンだから注意してね。機密情報の保管用なのよ。最近は個人情報保護についてうるさくいわれる世の中だからねー。あとは……ああ、そうだ。きみの仕事のことだけど――」

「ち、ちょっと待ってください!」

 僕は声を張り上げて、涼子さんの矢継ぎ早の説明を止めることにようやく成功した。

 僕に振り払われた涼子さんは少し不快そうに顔をしかめる。

「なによお、ここからがいちばん大事なところだったのに」

「新入部員を迎えて嬉しいのは分かるが、一旦落ち着け、涼子。そういっぺんに説明されたんじゃ一之江君だって理解が追いつかんだろう」

 涼子さんをなだめると、西大島団長は片手で僕の前にオフィスチェアを勧めた。一礼をして僕がそれに座ると、団長も別のチェアに腰を降ろした。男らしく股を開いて座った団長は、にこやかな笑顔を僕に向けてきた。

「さて、ひとつずつ説明していこう。まずは一之江君゛諜報というのは分かるかな?」

「ちょう、ほう?」

 完全にひらがなでオウム返しをしてしまったが、団長が気を悪くした様子はなかった。それどころか、わざわざホワイトボードを引き寄せて盤面に漢字を記してくれた。「諜報」と。

「謀って報せる。まあいろいろと策を巡らせて情報を仕入れるといった意味だよ」

「はあ……?」

 情けないことに、まだいまいちピンときていなかった。

「まあ平たくいえば、スパイだ」

「ス、スパイィ?」

 今度はイメージが明確になっただけに、素っ頓狂な声を上げてしまった。

 スパイって、007とかミッション:インポッシブルみたいな?

「殺しのライセンスはさすがに持ってないけどね。あ、でも指令テープが自動で燃えるしくみは使ったことがあるっけ。趣味で」

 涼子さんが妙な合いの手を入れてきた。趣味って……。

「要するにスパイといっても、俺たちがやるのはあくまで部活動の範囲内だってことだ。校内のクラブが対外試合をおこなったり大会に出場したりすることがあるだろう? その際に戦局を有利に運べるよう、各部のオーダーに合わせてさまざまな情報を収集し提供するのが、我々諜報部の仕事だ」

「試合で有利になる情報……ですか?」

「いろいろあるでしょう? 次の試合のスタメンとか秘密兵器とか戦術とか、ゲン担ぎになにをやってるかとか部内の微妙な人間関係とか」

 後半が怪しげだったけど、まあ部活動に関係する情報といえなくもない……のか?

「でもそういう情報収集って、それぞれの部が自分たちでやるんじゃ……。野球部ならスカウティングとかやりますし」

 スカウティングとは、ライバル校の試合をビデオに撮ったり独自にスコアをつけたりして相手の戦力を分析する調査のことである。高校野球でもいまや大抵の学校がスカウティングに取り組んでいる。同じようなことは野球に限らずほかのスボーツでおこなわれていると思う。

「そうね。でも、そういう普通の手段じゃ手に入らない情報を入手するのが、私たちの存在意義なのよ」

 涼子さんはニヤリと微笑むと、近くにあったパソコンに手を伸ばした。スタンドアローンだとかいっていたデスクトップ型である。

「あ、あの……、なにしてるんですか?」

 パソコンを操作しはじめた涼子さんの背中に話しかけた。スパイの話が途中なんですけど……。

「活動内容のデモンストレーションよ。新入部員勧誘の常套手段でしょ? 蒼君に見せてあげるわ、私たちの諜報部の成果をさ」

「成果って、どんな?」

「へえ、蒼君って中学の頃は野球部だったんだ。それでさっき野球のスカウトがどうとういいだしたのかあ」

 涼子さんがディスプレイに目を向いたまま軽やかにいった。あれ? 僕が中学で野球部だったってこと、涼子さんに教えたっけ?

「あれ? でもなんで三年間マネージャー? 医者から運動を止められてるとかじゃないわよね?」

「えと、それはですね……、選手として入部届を出したんですけど、なぜか顧問の先生に女子マネ志望だって勘違いされちゃって――って、え?」

 わりと痛ましい過去をつい告白してしまったあとで、僕は急速に違和感に囚われた。どうして涼子さんは僕がマネージャーだったってことまで知っているんだ?

 不穏な雰囲気を感じとったときにはもう手遅れだった。ディスプレイに目を走らせていた涼子さんがふと視線を止め、にやあっと音がしそうな笑みを顔に浮かべた。

「横山茜」

「なっ……!」

 胸に秘めた女の子の名前をふいに出され、僕はこれ以上ないくらいに目をむいた。

「なーるほど。蒼君が男らしくなりたいなんていってるのは、この子が理由かあ。なになに? へえ、茜ちゃんとは家が近所で、幼稚園の頃からの幼なじみなんだあ。小さい頃は家族ぐるみで旅行とかも行ってたのね。当然、同じ部屋で枕を並べて寝たりもしたのよね? まあその頃からきみが色気づいてたのかは知らないけど。ふうん、中学では一緒に野球部でマネージャーを。毎日一緒に部活やってたんだからさぞ楽しかったでしょうね。それとも他の部員をかいがいしく世話する彼女を見て、ちょっとジェラシー妬いてみたり?」

「ど、どどど、どうして……!?」

 そんなことを? 涼子さんが? 混乱極まった僕は最後まで言葉にできなかった。

 涼子さんが次々と口にした内容は、たしかに僕の人生のエピソードだった。

 もちろん、そんなことを涼子さんに語った覚えなどない。それなのに涼子さんは、僕のライフヒストリーを事細かにいいあてた!

「やだな、そんな化け物でも見るみたいな目を向けないでよ。私はただ、ここに書いてある内容を拾い読みしただけよ」

 振り返った涼子さんはディスプレイを僕のほうへ向けた。

 僕はたまらずディスプレイに飛びつき、表示されていたテキストファイルを凝視する。

「な、なんだこれ……っ!?」

 テキストファイルに記されていたのは、僕の氏名、年齢、血液型に住所、さらには学歴、学業成績、家族構成、趣味嗜好、そして交友関係まで……。要するに、僕の個人情報だった。それもかなり詳細な。ネットでエゴサーチかけたってこんなの出てこないぞきっと。

 瞳孔が開かんばかりにディスプレイにかぶりつく僕の頭上で、涼子さんは得意げに鼻を鳴らした。

「分かってもらえた? これがつまり、普通の手段じゃなかなか手に入らない、貴重な情報ってやつよ」

「一之江君、きみのことは少し調べさせてもらった。諜報活動を任せるにあたって、二重スパイの疑いを消しておかなければならかったのでな。どうか気を悪くしないでほしい」

 振り返ると、西大島団長がすまなそうな面持ちを浮かべていた。このファイル、本当に団長たちが……。

「さて蒼君。想像してほしいんだけど、ここに書かれてるようなことを知ってる誰かがきみに接触してきて、今度の試合で役立ちそうなことをなんでもいいから教えてほしいって頼んできたら、きみならどうする?」

「お、脅しじゃないですか!」

「あら、せめて交渉といってほしいわね」

 相手の弱みにつけこむことを交渉と呼ぶのは日本語に対するひどい冒涜だと思う。交渉材料に偏りがありすぎる――あっ、だったら!

「け、消してください!」

 僕はハッとしてマウスを手にとる。ファイルごとデータを削除しようと思ったのだ。ところがいくら右手を動かしても、カーソル自体がうんともすんともいわなかった。なんで!?

「無駄よ。さっきパソコンにロックをかけたもの。だいたいねえ、そのファイルだけ消したところで元データは別にとってあるし。なお、蒼君がパソコンごと破壊しようとした場合は、向こうのパソコンに入れてあるきみの恥ずかしいデータが自動的にネット上に拡散するようになっている」

「や、やめてくださいよ!?」

 僕は慌ててマウスから手を離してハンズアップ。自分の過去の行状が世界中に発信されるとかたまったもんじゃない。というか、さっき個人情報保護がどうとかいってたくせに……。

「冗談よ。そんな仲間を売るような真似、するはずがないじゃない。ただ、あまりに非協力的な態度をとる仲間には、心苦しいけどおしおきが必要かもしれないけどねえ?」

 にんまりと微笑む涼子さん。僕は背筋が凍った。

「おいおい、そんな誤解を招くような言い方はよせ。その口振りじゃ、俺たちの活動が脅迫かなにかだと勘違いされるだろうが」

 西大島団長に諌められると、涼子さんはすねたように唇をとがらせた。

「分かってるわよ。実際の諜報活動では脅しなんて無粋な真似はしないんだからね。集めてきた情報をもとにターゲットの趣味嗜好や行動パターンを分析して相手に接触するための作戦を練る。そして相手の懐に潜り込んで情報を入手する。できれば相手が情報をとられたことさえ気づかないくらいが理想ね。こういうスマートかつエレガントなやり口が真の諜報なの。諜報活動が脅しだなんて、勘違いしないでよねっ」

 涼子さんは腕を組んでぷいっと顔をそむけた。ツンデレっぽく見えるがデレの要素がなかった。というか、さっきの僕に対する言動を暗に脅しだと認めてるし……。

 だけど、なかば茶化されてはいるものの、話自体は重いものだった。諜報――スパイとはまさにそのとおりだ。つまり彼らは、他の学校の内部事情を探る活動をしているわけだ。それも、およそまともとはいえない手段を使って。ここまで聴かされて不審感を抱くなってほうが無理だ。

「あなたたちはいったい……なにをやっているんですか?」

 疑わしげな目を向けると、団長と涼子さんは困ったように顔を見合わせた。

「もちろん我々が各部に提供する情報は、こういったプライベートなものではなく、あくまでも戦術や戦力状況などの競技に関わる情報だけだ。ただ、そうした情報を得る過程で、我々はターゲットのプライベートな情報も扱わねばならないということだ。もちろん、決して外部に漏れないように情報の取り扱いには細心の注意を払っている。こんな人目につかない場所に部室を構えているのもその一環だよ。ただ、だからといって我々がやっていることが正当化されるというつもりもない。いいかえれば我々は、仲間の勝利のために手を汚しているのだよ」

「ま、バレたら後ろ指さされることは確実よね。軽蔑した?」

「そ、そういうわけでは……」

 軽い口調ではあったが、涼子さんのひと言は僕を戸惑わせた。別に、彼らのおこないを非難したいわけじゃ……ない。

「やっていることがやっていることだけに、いくら言葉を重ねても苦しい弁明にしかなりはしない。それは重々承知しているつもりだ。しかしひとつだけ分かってもらいたいことがある。それは、俺たちが諜報活動をおこなうのは仲間を応援するためだ、ということだ」

「応援……ですか?」

 意外な言葉だった。僕は思わず眉間に皺を寄せた。

「ああ、俺たちは仲間の勝利を心から願って、情報を集め、提供している。そこに他意は一切ない」

「諜報部が応援団とチアリーダー部の下部組織なのは、そういう理由からなのよ」

 西大島団長は力強くいいきった。涼子さんの口調にも、茶化したところはない。

 僕の心は揺らいだ。試合に勝つために相手の情報をかすめとってくるなんてとんでもないと思っていた。けれど、団長たちは伊達や酔狂で活動しているわけじゃなさそうだ。少しでも仲間の力になりたいという思いは、本物のように思えた。

「……僕は応援団に入ったままでいいって涼子さんがいったのも、諜報が応援だから、ですか?」

 問いただされた涼子さんは、目を細めて僕を見返した。

「そうね。そういう理解でも、間違いとはいえないわ」

「諜報も応援か。いい言葉だな」

 西大島団長は感慨深げにつぶやくと、真剣な顔つきになって、大きな体を僕に向ける。

「あらためてお願いする。一之江君、きみの力を我々諜報部に貸してほしい」

団長が僕につむじを見せた。最敬礼だ。三顧の礼といかずとも、ここまでされて心が動かないのは……男じゃない。

「……分かりました。僕なんかがお力になれるなら」

 よろしくお願いします、と僕は丁重に礼を返した。

「こちらこそよろしく頼む。いろいろと嫌な思いをさせて、すまなかった」

 どこかホッとした様子で西大島団長は僕に右手を差し出してきた。

 僕は今度こそその手を握り返した。肉厚で、頼もしい手のひらだった。

「よしよし、これで蒼君も私たちの仲間ね。蒼君、その手を離しちゃダメよ?」

手を取り合った僕たちを見て、涼子さんはウインクを投げる。いわれるまでもありませんって。男なら仲間に入れてもらった以上、自分から手を切るとかありえませんから。

「あ、でも……。僕なんかでいいんでしょうか……? その、僕、どんくさいから……」

 僕のていたらくについてはすでに団長に目撃されてしまっている。太鼓すら満足に叩けない僕に、スパイなんて務まるのでしょうか? バチの扱いとスパイのセンスに共通点があるかは知らないですけど……。

「その点は安心してほしい。きみにしかできない役目を用意してある」

「ていうか、そのために蒼君をスカウトしたんだけどね」

 そういうと涼子さんは、なぜかひとりで部屋の隅へ向かった。パソコンデスクの傍らに置かれていた簡易クローゼットからなにかを取り出す涼子さん。その様子を僕はぼけっと見守るしかなかった。だって、片手を西大島団長に握られたままで、その場から動けなかったんだもの。

「さて、蒼君。きみ、自分を変えたいっていってたわよね?」

 戻ってきた涼子さんは、にこやかな笑顔を浮かべて僕に問いかける。後ろ手になにか隠している……?

「は、はい。そのために応援団に入ったんですから!」

 応援団で男を磨いて、自分を変えたいんだ! ……後ろに隠してるものが気になるなあ。

「フムフム、男を磨くためならどんな努力も惜しまない、と。どんな厳しい修行でもやりとおす覚悟はあるの?」

「あります! 絶対に全力を尽くします!」

 もとより、簡単に男らしくなれるとは思っちゃいない。それが男のなかの男――漢であればなおさらだ。……後ろに持ってるの、ホントになんですか?

「蒼君はこれから応援団と諜報部、二足のわらじを履いていくことになるけど、それでも漢を目指すっていうのね?」

「やります! 男に二言はありません!」

 僕もだんだんと乗ってきた。涼子さんがなんか服みたいなものを取り出したけど、もう気にしちゃいられなかった。……服?

「じゃあさ、蒼君。ハニートラップって、聞いたことある?」

「え? ハニー……っ!?」

 その瞬間、僕の視界が奪われた。涼子さんが突然、頭から布のようなものを被せてきたのだ。

「はい、おとなしくしててね~。こっちに身を委ねてくれれば、すぐにすむから」

「も、もがっ!?」

 すっぼりと覆われた布のなかでは、くぐもった声しか出せなかった。

「暴れないでいてくれると助かる。手荒な真似はしたくないのでな」

 聞こえてきたのは西大島団長の声だった。僕はいつのまにか体の自由を奪われていることに気づく。羽交い締めにされていた。団長の手を離さなかった結果がこれである。

「さ、お着替えの時間よ、蒼君。私があなたを変えてあげる」

「――っっっ?」

 やけに艶めかしい涼子さんのささやきを聞いたのを最後に、僕の意識は一旦途切れる。

 

 4


 意識が飛んでいたのは、ほんの数分といったところだろう。

 回復しはじめた視界に映ったのは、涼子さんと西大島団長の姿。二人は色物でも見るよような視線を僕に注いでいた。

「こ、これは……想像以上の出来栄えだわ」

「うむ、これならば誰にも正体を気づかれずに事に当たれそうだな」

「ちょい垂れ目なのがソソるのよねえ。男に好かれそうな顔しやがって! く~っ、たまらん!」

「おまえはどちらかというといじめたくなるって顔してるけどな」

「いろいろ着せ替えもできそうだし、楽しみねえ、これから」

 涼子さんが満足げに頷いた。にやにやと、なにやらいやらしげな顔つきである。

 僕の意識のほうも徐々にはっきりしてきた。でも状況は杳としてつかめない。涼子さんと西大島団長はいったいなんの話をしているの? そしてどうしてそんなまじまじと僕の様子を眺めているのか?

「そういえば、涼子。この子の名前はどうするんだ? 一之江君のままでは、作戦決行時に不便だろう」

「それなんだけどさ、『アオイ』とかってどうかな? 蒼君の名前を訓読みしてアオイ」

「アオイか……。うむ、それなら違和感もないし、いいんじゃないか?」

「じゃあ決定! この子は今日からアオイちゃんってことで。苗字は……まああとで適当に考えればいいか。内々での連絡にはコードネームでもあれば事足りるし」

「コードネームなら俺も『ブルーリボン』というのを思いついたぞ」

「ああ、それか。たしかによく似合ってるもんねえ、青いリポン」

 涼子さんの視線につられて僕も自分の胸元へ目を落とした。

 青いリボン。角度的に見にくくはあるけど、僕の首に巻かれているのは、たしかに蝶々形に結ばれた青色のリボンだった。

 え……なんだこれ? 僕、こんなものつけた覚えはないよな? ていうか、なんだこの服は? 僕は自分の服装がおかしいことに今さら気づく。さっきまで着ていた体操着は見当たらなかった。いや正確にいえば、それは僕の足元に脱ぎ捨てられていた。だから僕は今、別の服を身につけている。白の二本ラインが入った紺色の大きな襟。ブラウスは白地の長袖で、僕が普段着る服よりもずいぶんと丈が短い。おかげでちょっとお腹が涼しい。いや下半身が涼しげなのはむしろ履き物のせいだな。スカートなんだからそりゃあ落ち着きませんよ。

「――ってこれ、セーラー服!?」

 絶叫した僕を見て、西大島団長はぽんと手のひらを打った。

「おお、悪い。自分でもちゃんと確認しておきたいよな」

 団長は傍らにあった姿見を担ぎ、僕の前に置く。

 鏡面に僕の姿が映る。

 僕の姿……だよな?

 鏡の前に立っているのが僕である以上、そこに映るのは僕であるはずだ。

 しかし困惑しきった顔でこちらを見返しているのは、どう見てもセーラー服に身を包んだ女の子だった。髪を耳の下でツインテールに結わえた女の子。涼子さんのいうとおり、胸元を飾る青いリボンがいたいけな顔立ちにやけに似合っていた。

 激しく瞬きを繰り返すその子の肩に背後から手が置かれた。涼子さんだ。満面の笑みを浮かべた涼子さんは、その子の耳元にそっとささやきかける。

「きみにはこの姿でハニートラップをやってもらうから。相手は明大烏山野球部のエースよ。来月の四校交流戦までに、相手の新球種を突き止めたいの。よろしくね、アオイちゃん?」

 振り返ると、そこにあったのはやはり涼子さんの顔だった。にこやかな表情とは裏腹に、涼子さんの両手は僕の肩をがっちりつかんで離さない。

「ハニー……トラップ?」

 かろうじてそうオウム返しにするのが精一杯だった。

 ハニートラップ。

 その言葉がぐるぐると頭を巡るうちに、僕の視界は吹雪のなかへ放り込まれたみたいにまた真っ白になった。

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