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第一話 泥の家

金もコネもない農家の次男坊が、帳面と信用だけを武器に江戸で成り上がる物語です。

派手なチートはありませんが、商い・人情・信用の熱で読ませる作品にしていきます。

春の田は、冷たかった。


平吉は膝まで泥に浸かりながら、父の背中を見ていた。


父の背中は、大きくはなかった。

ただ、曲がっていた。


米を作る背中というより、米に許しを乞う背中だった。


「平吉」


父が、こちらを見ずに言った。


「手が止まってる」


「……はい」


平吉は慌てて苗を取った。

泥に指を入れ、細い苗を植える。


田植えは、嫌いではない。


泥の匂いも、風の音も、遠くで鳴く鳥の声も、嫌いではない。

朝早くから働き、夕方には腹を空かせて飯を食う。

それも、別に嫌いではなかった。


ただ、時々思う。


この田の端から端まで歩いても、俺の行く先はどこにもない。


父は百姓だった。

祖父も百姓だった。

そのまた前も、きっと百姓だった。


兄の太助は、この家を継ぐ。


父の背中を見て、鍬の入れ方を覚え、畦の直し方を覚え、年貢の頃になると口数が減る男になっていく。


それはきっと、立派なことだった。


平吉も、兄を馬鹿にしているわけではない。

むしろ、兄は偉いと思っていた。


朝は誰より早く起きる。

文句を言わない。

田んぼに文句を言っても米は増えないことを、兄はちゃんと知っている。


だが、平吉は違った。


田に立っていると、どうしても遠くを見てしまう。


山の向こう。

川の先。

村道のさらに向こう。


そこには何があるのか。


何が売られ、何が買われ、どんな人間がどんな顔で暮らしているのか。


考えると、手が止まる。


「平吉!」


今度は兄の声だった。


太助が眉を吊り上げている。


「また曲がってる」


平吉の植えた苗は、列から少しずれていた。


「すまん」


「すまんじゃねえ。植え直せ」


平吉は黙って苗を直した。


兄の植えた苗はまっすぐだった。

父の植えた苗もまっすぐだった。

平吉の苗だけが、どこか迷っているように見えた。


太助が低い声で言った。


「お前はいつもそうだ」


「何が」


「目が、田んぼにねえ」


平吉は返せなかった。


兄は続けた。


「足元を見ろ。こっちは遊びじゃねえんだ」


「わかってる」


「わかってねえから言ってる」


兄の声は怒っていた。

だが、その奥にあるものは、たぶん怒りだけではなかった。


焦り。

苛立ち。

そして少しの羨ましさ。


兄は、この家から出られない。

出ないと決めている。


だからこそ、外ばかり見ている平吉が腹立たしいのだ。


父が一度だけ振り返った。


「口を動かすな。手を動かせ」


それで、会話は終わった。


田にはまた、泥を踏む音だけが戻った。



昼になると、母のおたねが握り飯を持ってきた。


握り飯は小さかった。

具はない。塩だけだった。


それでも、働いた後の飯はうまい。


平吉は畦に腰を下ろし、握り飯にかぶりついた。


妹のいとが、母の後ろから顔を出した。


「兄ちゃん」


「おう、いと」


いとは六つだった。

まだ田の仕事には出ない。

その代わり、家で母の手伝いをしながら、よく平吉の帰りを待っている。


「今日、川に行く?」


「行けたらな」


「行けたらって、いつも言う」


「いつも行けねえからな」


いとは口を尖らせた。


平吉は笑って、自分の握り飯を少しだけ割った。


「ほら」


「母ちゃんに怒られる」


「内緒だ」


いとは一瞬迷ってから、それを受け取った。

小さな口で食べる。


母のおたねは、それを見ていた。

見ていたが、何も言わなかった。


そのかわり、平吉の前に竹筒を置いた。


「水」


「ありがとう」


平吉が飲むと、おたねは田の向こうに目をやった。


「今年は、どうかねえ」


その声は、誰に言ったものでもなかった。


父は答えない。

兄も答えない。


平吉だけが聞いた。


「何が」


「米だよ」


「去年より悪いのか」


母は困ったように笑った。


「まだわかりゃしないよ」


わからない。


大人はよく、そう言う。


だが平吉は知っていた。

大人が「わからない」と言う時は、だいたい良くない時だ。


去年の米は、思ったほど取れなかった。


年貢を納め、借りていた分を返し、種籾を残し、家で食べる分を分ける。


すると、米びつの底は思ったより早く見えてくる。


秋に積まれた米俵が、冬には薄くなり、春には母の顔から笑いが消える。


平吉は、まだ詳しい数字を知らない。


だが、家の空気でわかる。


米は、ただの飯ではない。


米は年貢であり、借金であり、父の沈黙であり、母のため息であり、兄の苛立ちであり、妹の小さな握り飯だった。


「平吉」


母が言った。


「お前、またどこか行くこと考えてたろ」


平吉は水を飲む手を止めた。


「別に」


「嘘が下手だねえ」


母は笑った。

だがその笑いは、少し寂しかった。


「江戸かい」


その言葉に、平吉の胸が跳ねた。


父の手も、わずかに止まった気がした。

兄は露骨に顔をしかめた。


「またそれか」


太助が吐き捨てた。


「誰が言った」


「お前の顔に書いてある」


「顔に字なんかねえよ」


「江戸、江戸、江戸。そんなに江戸が偉いのか」


平吉は握り飯を握りしめた。


「偉いとかじゃねえ」


「じゃあ何だ」


「……何かある気がする」


兄は鼻で笑った。


「何か、だとよ」


平吉は言い返そうとした。

だが、言葉にならなかった。


江戸に何があるのか。

平吉自身、はっきりとは知らない。


大きな店。

たくさんの人。

品物。

銭。

仕事。

火事。

喧嘩。

祭り。


噂で聞いたものばかりだ。


だが、それでも思う。


この村で一生を終えるより、そこには何かある。


「平吉」


父が静かに言った。


「飯を食ったら戻れ」


その一言で、話は終わった。


父は江戸の話を嫌う。


怒鳴るわけではない。

ただ、終わらせる。


その沈黙が、平吉には一番こたえた。



夕方、田仕事が終わると、平吉は背中を伸ばした。


腰が痛い。

指先は泥でふやけている。

足の裏は冷え切っていた。


兄は鍬を担ぎ、父の後に続いた。


平吉も歩き出そうとした時、畦の脇に落ちているものに気づいた。


折れた櫛だった。


黒い櫛。

片側の歯が何本か欠けている。


村の女が落としたのだろう。

もう使い物にならない。


平吉はそれを拾い上げた。


「何してる」


兄が振り返った。


「櫛」


「捨てとけ」


「直せば使えるかもしれねえ」


「そんなもん誰が使う」


「歯を削って、小さくすれば」


兄は呆れた顔をした。


「お前は本当に、変なものばかり拾うな」


平吉は櫛を懐に入れた。


変なもの。


そうかもしれない。


だが平吉には、壊れた櫛もただのゴミには見えなかった。


誰かが欲しがるかもしれない。

欲しがる人に渡せば、何かと替えられるかもしれない。


米以外のものにも、値はある。


それを考えると、胸の奥が少し熱くなる。


家に戻ると、母は囲炉裏の前で夕飯の支度をしていた。


粟と少しの米を混ぜた飯。

大根の葉。

味噌汁は薄い。


いとは眠そうにしながら、平吉の袖を引いた。


「川、行けなかったね」


「明日な」


「また明日」


「明日はきっと」


「兄ちゃんの明日は、来ない明日だ」


平吉は笑った。


「難しいこと言うな」


いとは得意げに鼻を鳴らした。


夕飯は静かだった。


父は黙って食べる。

兄も黙って食べる。

母は皆の椀を見て、自分の椀にはあまり手をつけない。


平吉はそれに気づいていた。


母はいつも、少しだけ残す。


「腹いっぱいだから」と言う。


だが、嘘だ。


母の腹が鳴る音を、平吉は夜中に聞いたことがある。


「母ちゃん」


「何だい」


「俺の分、少し食えよ」


「馬鹿言うんじゃないよ。育ち盛りが」


「俺はいい」


「よくない」


母は笑って、平吉の頭を軽く叩いた。


「男が飯を譲るのは、もっと稼げるようになってからにしな」


稼げるように。


その言葉が、平吉の胸に残った。


稼ぐ。


百姓は米を作る。

では、商人は何を作るのか。


銭を作るのか。

違う。


銭は作れない。

銭は動くものだ。


では、どうやって自分のところへ動かすのか。


平吉は、まだ何も知らなかった。


ただ、知りたいと思った。



その夜、父と母が小声で話しているのを、平吉は聞いてしまった。


寝たふりをしながら、薄い布団の中で耳を澄ます。


囲炉裏の火は落ちかけていた。


母の声。


「今年も、庄屋様に少し待ってもらえないかね」


父の声は低かった。


「去年も待ってもらった」


「でも、このままじゃ秋まで持たないよ」


「わかってる」


「太助に、婿の話も来てる」


「まだ早い」


「でも、家を継ぐなら考えなきゃならない」


父は黙った。


母は続けた。


「平吉は……」


そこで声が止まった。


平吉は息を殺した。


母が、少し小さな声で言った。


「あの子は、この家に置いておけるのかね」


父は答えなかった。


置いておけるのか。


その言葉は、平吉の胸に冷たい水のように染みた。


やはり、そうなのだ。


この家に、自分の席は多くない。


兄が家を継ぐ。

妹がいる。

母がいる。

父がいる。


食う口はある。

働き手もいる。


だが、未来の席はない。


平吉は布団の中で拳を握った。


悔しいのか。

悲しいのか。

腹が立つのか。


自分でもわからない。


家族は嫌いではない。

むしろ好きだ。


父の無口も、母の痩せた手も、兄の真面目さも、妹の寝言も、全部この家の音だった。


でも、好きだからといって、自分の居場所ができるわけではない。


父の声がした。


「あいつは、田を見ていない」


母は何も言わなかった。


「あいつの目は、道の向こうを見てる」


平吉は目を開けた。


父は、見ていたのだ。


怒っているだけだと思っていた。

江戸の話を嫌がっているだけだと思っていた。


でも父は、平吉がどこを見ているのか知っていた。


母が言った。


「出したら、帰ってこないかもしれないよ」


長い沈黙。


やがて父が言った。


「帰ってきても、いい顔はできん」


「なんで」


「一度外を見た者は、田に戻っても田だけを見られん」


その言葉の意味は、平吉には半分しかわからなかった。


だが、父の声が少し寂しそうだったことだけは、わかった。



翌朝、平吉はいつもより早く起きた。


外はまだ薄暗い。


鶏も鳴いていない。


平吉は昨日拾った折れた櫛を取り出した。


囲炉裏の残り火のそばで、小刀を使って欠けた歯を削る。

使える部分だけを残し、小さな櫛にしていく。


不格好だった。


だが、手のひらに収まるくらいにはなった。


「何してる」


背後から声がして、平吉は飛び上がった。


父だった。


「……櫛を直してる」


「なぜ」


「いとにやれるかと思って」


父は黙って、平吉の手元を見た。


「売るのではないのか」


平吉は少し驚いた。


「売れるほど、きれいじゃねえ」


「欲しがる者がいれば、売れる」


父はそれだけ言うと、外に出た。


平吉は小さな櫛を見た。


欲しがる者がいれば、売れる。


父の言葉は、意外だった。


父は商いなど嫌いだと思っていた。

銭の話をすると顔をしかめる人だと思っていた。


でも違うのかもしれない。


百姓も、米を売る。

年貢を納める。

借りる。返す。

買う。譲る。待つ。耐える。


父もまた、銭の世界から逃げているわけではない。


ただ、黙って耐えているだけだ。


平吉は直した櫛を、いとに渡した。


いとは目を輝かせた。


「これ、くれるの?」


「折れてるぞ」


「でも、かわいい」


「かわいくはねえだろ」


「かわいい」


いとは櫛を大事そうに握った。


その顔を見た瞬間、平吉は不思議な気持ちになった。


昨日まで捨てられていたものが、今は誰かを喜ばせている。


価値は、物の中だけにあるのではない。


誰かが欲しいと思った時に、初めて生まれる。


平吉は、まだその言葉を知らない。


需要、などという言葉も知らない。


ただ、胸の奥で何かが鳴った。


米だけじゃない。


壊れた櫛にも、値はある。

手をかければ、誰かの顔を変えられる。


ならば、この世には、まだ自分の知らない値がいくらでもあるのではないか。



その日の田仕事の帰り、平吉は村道の先を眺めた。


遠くから、一人の男が歩いてくる。


背に大きな箱を背負っていた。


箱には、布がかけられている。

腰には巾着。

足取りは軽い。


村の子どもたちが騒ぎ出した。


「商人だ!」


「行商だ!」


女たちが家から顔を出す。

老人たちも目を細める。


男は村の広場に荷を下ろし、にこりと笑った。


「針、糸、櫛、薬。上方の手ぬぐいもあるよ」


その声を聞いた瞬間、平吉の足が止まった。


箱が開く。


中から、色が溢れた。


村にはない色だった。


赤い紐。

青い手ぬぐい。

小さな鏡。

薬の包み。

飴。

古着。

細い筆。

白い粉の入った小箱。


米俵よりずっと小さな箱から、村人たちの目の色が変わっていく。


母たちが値を聞く。

子どもが飴を欲しがる。

老人が膏薬を手に取る。

若い娘が手ぬぐいの柄を見つめる。


平吉は、動けなかった。


この男は、田を持っていない。

米を作っていない。

鍬も持っていない。


なのに、村中の心を動かしている。


平吉は思った。


あの箱の中には、何が入っているのだろう。


品物か。

銭か。

それとも、道の向こう側か。


行商人が、平吉の視線に気づいた。


「坊主」


「……はい」


「そんな目で見るな。穴が空く」


周りの大人が笑った。


平吉は顔を赤くした。

だが目は逸らさなかった。


行商人は面白そうに笑い、手ぬぐいを一枚広げた。


「欲しいか」


「銭がありません」


「正直だな」


「はい」


「じゃあ、欲しくないのか」


平吉は黙った。


欲しい。


自分が使いたいわけではない。

ただ、それがどこから来て、なぜここで銭に変わるのかを知りたかった。


行商人は手ぬぐいを畳んだ。


「品物はな、土から生えるんじゃねえ」


平吉は顔を上げた。


「人の欲しがるところへ運ばれて、初めて値がつくんだ」


その言葉は、平吉の中に落ちた。


泥の中ではなく、胸の奥に。


田に植えた苗より、深く。



その夜。


平吉は囲炉裏の火を見つめていた。


父は黙って縄をなっている。

母は針仕事をしている。

兄はもう寝ていた。

いとは、平吉が直した櫛を握ったまま眠っている。


平吉は、今日見た行商人の箱を思い出していた。


小さな箱。

村人たちの目。

品物は、欲しがるところへ運ばれて値がつく。


それなら、人も同じではないか。


この村で平吉は、余った苗のようなものだった。


植える場所がない。

兄の列には入れない。

父の背中にも重なれない。


でも、どこか別の場所なら。


自分を欲しがる場所が、あるのではないか。


自分の手が、足が、耳が、目が、何かの値になる場所が。


平吉は囲炉裏の灰を見つめながら、心の中で呟いた。


この家は嫌いじゃない。


父も、母も、兄も、いとも嫌いじゃない。


泥の匂いも、朝の風も、田んぼに映る空も嫌いじゃない。


でも。


この家には、俺の席がない。


なら、外へ行くしかない。


自分の席を、自分で作るしかない。


火が小さく爆ぜた。


父が顔を上げた。


「平吉」


「はい」


「何を考えている」


平吉は少し迷った。


嘘をつけば、楽だった。


何も、と言えばいい。


眠い、と言えばいい。


でも、なぜかその夜は言えなかった。


「江戸のことを、考えていました」


母の針が止まった。


父はしばらく黙っていた。


囲炉裏の火が、父の頬を赤く照らしている。


やがて父は、低い声で言った。


「そうか」


それだけだった。


怒鳴られなかった。

叩かれなかった。

笑われもしなかった。


ただ、その「そうか」は、平吉が今まで聞いたどんな言葉より重かった。


平吉は膝の上で拳を握った。


まだ江戸には行けない。

銭もない。

道も知らない。

読み書きもろくにできない。


だが、心だけはもう、村の外へ歩き出していた。


平吉は囲炉裏の火を見ながら、もう一度思った。


俺は、ここを捨てるんじゃない。


ここにない道を、探しに行くんだ。

お読みいただきありがとうございます。

平吉の物語は、まだ泥の中から始まったばかりです。

次回、村に現れる旅商人との出会いによって、平吉の中に「商い」への火が灯ります。

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