第3話
意識がゆっくりと浮上する。
ぼんやりとした視界の中で、最初に肌で感じたのは――やけに近い、見知らぬ体温だった。
「……ん」
重いまぶたをこじ開けるようにして開く。
すると、視界のすべてを埋め尽くすようにして、すぐ目の前に誰かの顔があった。
「……は?」
坂本咲良。
距離、ゼロ。
吐息が直接肌にかかるほどの、異常な至近距離。
「起きた?」
「……なんでいる」
「看病してるから」
「距離がおかしいだろ」
「これくらい普通でしょ」
「普通じゃねえよ」
誠は反射的に体を引こうとする。
だが、シーツ越しに伝わる重みに動きを封じられた。
「動かないで」
ぎゅ、と腕を強く掴まれる。
その拍子に、彼女の鮮やかなピンク色の髪がさらりと誠の頬を撫でた。
「……おい」
「熱あるんだから、安静にしてなきゃダメ」
「それとこれとは別だろ」
咲良は小首を傾げ、至近距離からじっと誠を見つめる。
「じゃあ、離れる?」
「離れろ」
「やだ」
「なんでだよ」
「私が、こうしたいから」
即答。
そこに迷いの色など微塵も存在しない。
「……はぁ」
誠は観念して、全身の力を抜いた。
対抗するだけの体力が残っていないことを悟ったのだ。
その瞬間。
「ん」
咲良がさらに距離を詰めてきた。
肩に、柔らかく温かい感触が触れる。
「ちょ、何してんだ」
「看病」
「絶対違うだろ」
布団の中。
完全に、密閉された同じ空間に二人の身体が収まっている。
というか――もはや、背後から抱きつかれているような状態だった。
「一人だと寂しいでしょ」
「いや、別に」
「私は寂しいよ」
「お前の話かよ」
「うん」
あっさりと肯定される。
「だから、こうしてるの」
腕に絡みつく力が、ほんの少しだけ強くなる。
「……重い」
「ひどいね」
「物理的な話だ」
「私、軽いよ」
「軽くねえよ」
そんな不毛なやり取りを交わしながらも。
妙に――その場所から離れがたい感覚があった。
熱のせいで感覚が麻痺しているのかもしれない。
それとも、この体温のせいか。
「ねえ」
耳元で、甘く囁くような声が落ちる。
「こういうの、嫌?」
一瞬、言葉に詰まった。
心臓の鼓動が、熱のせいとは違うリズムで速くなる。
「……」
正直に言えば。
嫌じゃない。
むしろ――。
「……嫌じゃ、ないけど」
熱に浮かされて、本音がこぼれた。
「ほんと?」
少しだけ嬉しそうな、弾んだ声。
「ならいい」
すり、と。
意識して寄せられた頬が、自分の頬と重なる。
「おい」
「何?」
「近いって」
「さっきも言ってたね」
くす、と小さく笑う気配。
「でも、慣れてきてるでしょ」
「慣れてねえよ」
「慣れてるよ」
またしても、断言。
「だって誠、自分から離れようとしてないし」
「……それは」
言い返せなかった。
確かに、本気で嫌なら無理やり引き剥がすこともできるはずだ。
だが、自分はそうしていない。
「ね」
咲良が、少しだけ顔を上げる。
視線が、火花が散るような距離でぶつかった。
近い。
近すぎる。
「ほら」
額にそっと手が触れる。
その手のひらはひんやりとしていて、ひどく心地よかった。
「まだ、熱いね」
「……そうか」
「うん」
そのまま、手が頬へと滑り落ちる。
柔らかな指先が触れるたびに、嫌でも彼女という存在を意識してしまう。
「……なんだよ」
「顔、赤いよ」
「熱のせいだ」
「それだけ?」
じっと見つめられ、逃げ場を完全に塞がれる。
「……知らねえよ」
誠はたまらず視線を逸らした。
「ふーん」
意味深な声を漏らすと、咲良は満足したのか再び誠の肩に顔を埋めた。
「……寝るね」
「お前がかよ」
「うん」
「看病は」
「してるよ。一緒に寝るのが、一番の看病」
「……それ看病か?」
「看病」
最後は、押し切るような断言だった。
「……もういい」
誠は諦めたように目を閉じる。
すぐ隣にある、確かな体温。
規則的な呼吸の音。
ほんのりと鼻腔をくすぐる、甘い果実のような匂い。
近い。
近すぎる。
なのに。
嫌じゃない。
むしろ――。
「……変だろ、これ」
小さく呟く。
返事はない。
どうやら、彼女は本当に眠りに落ちてしまったらしい。
「……ほんとに自由なやつだな」
独り言をこぼしながらも。
誠は、その体温を自分から引き剥がすことはなかった。
この距離が、いつまで続くのか。
そんな先のことは、今は考えられなかった。
ただ今は。
この熱と、この心地よい体温が。
少しだけ――愛おしく感じられた。




