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第1話

四月一日。

春休みが明けたばかりの校内には、まだ新しい季節に馴染めないそわそわとした空気が漂っている。

そんな喧騒を避けるようにして、岡村誠は一人、中庭のベンチに腰を下ろしていた。

弁当箱の蓋を開けると、視界を埋め尽くしたのは狂い咲くような満開の桜。

淡い色の花びらが風に遊ばれながら、静かに、けれど確かな質量を持って舞い落ちる。

誠はそれをぼんやりと眺め、肺の奥にある澱を吐き出すように小さく息を漏らした。

「……今年もか」

そこに深い意味などない。

ただ、この時期になると吸い寄せられるようにこの場所へ来てしまう。

理由なんて自分でも分からない。

ただ――ここだけは、落ち着くのだ。

誰にも邪魔されず、ただ一人でいられる聖域。

「いただきます」

独り言のように呟き、箸を手に取った。

――その時だった。

「ねえ」

鼓膜を揺らしたのは、すぐ隣から放たれた鈴を転がすような声。

「……は?」

反射的に顔を上げる。

いつの間にか、隣には一人の少女が座っていた。

――鮮烈だった。

風にたなびく、長いピンク色の髪。

それはまるで、中庭に咲き誇る桜の精が形を成したかのような、浮世離れした色彩だった。

現実感を疑うほどに整った、透き通るような美貌。

着崩しのない制服が、その人目を引く髪色といやに鮮明なコントラストを描いている。

だが、何よりも異常なのは――その、パーソナルスペースを無視した距離の近さだった。

「ここ、空いてるよね?」

「いや、空いてるけど……普通、座る前に聞かないか?」

「座ったあとに聞いたほうが早いでしょ」

「そういう問題じゃないだろ」

誠の淡々としたツッコミに、少女――その桜色の髪を揺らしながら――は小首を傾げてみせる。

「変なの」

"「変なのはそっちだ」

小さくため息をつく。

幸い、周囲に人影はない。

もしこんな、ただでさえ目立つピンク髪の美少女と関わっているところを見られれば、明日からの平穏が音を立てて崩れるのは目に見えている。

「用がないなら、どこか行ってくれ」

「あるよ」

一瞬の迷いもない即答。

「だから、ここに来たんだし」

「……は?」

少女がぐい、と体を寄せてくる。

肩が触れそうなほどの距離。

視界の端に、鮮やかなピンク色が入り込む。

「ちょ、近いって」

「近くないと困るから」

「何がだよ」

「決まってるでしょ」

少女は、まっすぐに誠の瞳を射抜いた。

その瞳の奥には、狂気にも似た、揺るぎない確信が宿っている。

「貴方を、惚れさせるため」

「…………は?」

思考が、完全に停止した。

「えっと、誰だっけお前」

「坂本咲良」

「いや名前じゃなくて、正体を聞いてるんだが」

「名前だけで十分でしょ」

会話のキャッチボールをしているはずが、投げたボールが異次元に消えていくような感覚。

誠はこめかみを押さえた。

「意味の分からないことを言うな。俺たちは初対面だぞ?」

「うん」

「『うん』じゃないだろ」

「でも、関係ないよね」

さらりと、彼女は言い放つ。

「私が貴方を好きになる理由に、初対面かどうかなんて関係ある?」

「いや、普通はあるだろ」

「ないよ」

断固とした否定。

そのピンク色の髪が、強い意志を示すように揺れた。

「だって私、もう決めてるし」

「何をだよ」

「貴方を好きになるって」

「……もうなってるじゃねえか」

「じゃあ――」

一瞬の間。

咲良は、いたずらっぽく口元を緩めた。

「今度は、貴方の番」

「……は?」

「貴方のこと、惚れさせてみせる」

それは、逃げ場のない宣戦布告。

「いや、やめて」

「やだ」

「なんでだよ」

「もう始まってるから」

「何が」

「全部」

意味が分からない。

本気で、一ミリも理解できない。

「……お前、もしかしてヤバいやつか?」

「失礼だね」

むっとしたように頬を膨らませる仕草。

それが計算なのか天然なのか、誠には判断がつかない。

「私は、いつだって真剣だよ」

「……それが一番怖いんだよ」

誠は、一口もつけていない弁当の蓋を閉じた。

これ以上関われば、平穏な日常が底なしの沼に飲み込まれてしまう。

野生の直感が、全力で警報を鳴らしていた。

「悪いが、俺は一人で食べたいんだ」

立ち上がろうとする。

だが――

「じゃあ、私も一緒に移動する」

「……ついてくるな」

「ついていく」

「来るな」

「行く」

押し問答の末、誠は諦めたように振り返る。

咲良は、一歩も引く気のない顔でそこに座っていた。

「……好きにしろ」

「うん、そうする」

満足そうに頷く咲良。

そして彼女は――再び、磁石に吸い寄せられるように距離を詰めてきた。

触れ合う肩の熱が、いやに鮮明に伝わってくる。

「だから、近いって言ってるだろ」

「慣れて」

「慣れるわけないだろ」

「慣れるよ」

根拠のない断言。

――この日から。

岡村誠の愛した静寂は、中庭の桜よりも鮮烈なピンク髪の少女によって、鮮やかに塗り替えられ始めた。

その先に、どんな結末が待ち受けているのか。

この時の彼は、まだ知る由もない。

ただ一つ、確かなこと。

舞い散る桜の下での、あのピンク色の衝撃的な出会いが、彼の世界を、決定的に変えてしまったということだけだった


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