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2 不吉な予感

 ランゲル王国は小国ではあるが、次期国王たる王太子と国の筆頭公爵家令嬢との結婚式は国を上げて盛大に行われたのだった。昼の王都ではパレードを行い、夜は大規模な宴を催して国中で慶事を祝った。


 ヘンリックは表情筋が疲れるほど一日中笑顔を浮かべていたし、ローゼリアもずっと微笑んでいた。二人を知らない者にはきっと幸せな王太子夫妻に見えただろう。


 しかし、ヘンリックの最愛は別にいたのだった。


 ヘンリックの妃となったローゼリアは、婚約者時代に三年ほど隣国のエルランドへ留学をしていた時期があり、長期の留学から帰国したのが今から一年ほど前の事だった。


 ローゼリアが国にいない間、ヘンリックは夜会で伯爵令嬢のマリーナと出会い、お互いに惹かれ合ってしまっていた。ローゼリアが帰国した頃のヘンリックは既にマリーナに夢中だった。


 そしてローゼリアが帰国して数回目のお茶会の後、ローゼリアとの結婚は無理だと思ったヘンリックは、ローゼリアを捨ててマリーナを選ぶ事に決めたのだった。


 それはローゼリアに対しての裏切り行為であった。


 ちょうどその頃、マリーナからどうしても紹介したい人がいるから会って欲しいと手紙をもらっていた。了承の返事をしたためようとした瞬間、ヘンリックの頭の中にひどく後悔をする自分の姿が突然浮かんだのだった。


(何だ、今のは?)


 この手紙に返事をしてはいけない、そんな強い思いに駆られてしまって手が止まってしまったヘンリックのペンの先からインクが滴り、便箋に黒いシミを作る。


 急に口の中が乾いて、ペンを持つ手が小刻みに震えだす。自分が立っている足元がぐらぐらと揺れて崩れていく、前にもこんな事があったような気持ちに襲われたヘンリックは漠然とした不安を抱いたまま侍従を呼んだ。


「……この手紙への断りの返事を、適当な理由を付けて書いて送っておいて欲しい」


 ヘンリックはマリーナからの誘いを断る事にした。


 そしてここからヘンリックの運命は大きく変わったのだった。


 ヘンリックの断りの返信に対して、マリーナからの返事の手紙には残念に思っている事と、次はいつ会えるのかという事が書かれてあった。


 マリーナと付き合い続ける事に対してさえも、よく分からない不安を感じてしまったヘンリックは、その時も忙しいのでしばらく会えないと侍従に返信を書かせた。


 何かの予感にも似た漠然とした強い不安感があったから少し距離を取ったのだが、ヘンリックの中にはまだマリーナを愛おしく思う気持ちは残っていた。


 これまでも仕事を理由にマリーナからの誘いを断った事は何度もあったから大丈夫だと思っていた。


 二度目の断りの手紙を送って以降はマリーナからの返事はなく、時々来ていた王宮へも顔を見せなくなっていた。そしてそれからしばらくの間マリーナからの接触はなく、ヘンリックからも連絡をしないまま時間だけが過ぎていった。


 結果的にヘンリックがローゼリアを裏切る事はなかった。自らの意思で選んだというより、流されて何もしていなかった結果、事態は何も動かなかったというだけだった。


 それが良かったのかはわからない。そしてヘンリックは婚約者とのつまらないお茶会を月に一、二回結婚するまで続けるのだった。


 ローゼリアとのお茶会の話題は国や政治の話から、季節の移ろいと共にやがて結婚式についての話題へと変わっていった。


 自分との結婚式について業務報告をするかのように淡々と話すローゼリア。


 そこで初めてヘンリックは疑問に思ったのだった。


 当日の段取りも招待客についても知る必要はあるのだが、彼女は令嬢が最も関心を持っていそうな花嫁が着るドレスの事や宝飾品については一切語らなかった。まるでその話題は必要がないとでもいうように、結婚についてはヘンリックが関わる事しかローゼリアは話さなかった。


 彼女が子どもの頃から望んでいた王太子妃となれるというのに、少しも嬉しくはないのだろか? いつも無表情でいる彼女には、元々感情というものが無いのだろうか?


 ローゼリアが帰国してから直ぐの頃、ヘンリックはマリーナを気遣い、婚約者である彼女との夜会への参加を避けていた。


 毎回腹痛や頭痛、自分で公務の調整をして仕事の多忙を理由にローゼリアと共に参加する大規模な夜会には欠席をしながら、その合間にマリーナと共に小規模な夜会へは参加をしていたのだった。


 婚約者に対して不義理を働いていたヘンリックではあったが、体調の不調を訴える度に侍従たちの体調管理も厳しくなっていき、体調不良を理由とした夜会への欠席が出来なくなってしまった。そして執務の調整をしようとしても、侍従や文官たちに阻まれるようになり、忙しさを理由にした夜会の欠席まで出来なくなってしまった。


 そしてとうとうシーズン半ばからは、ローゼリアと共に夜会に参加せざるをえない状況になってしまった。それはちょうどマリーナと疎遠になっていた頃だった。


ヘンリックは嫌々ながらも仕方なく数回ほど夜会でローゼリアをエスコートした。


 そしてエスコートをすようになると、彼女の方から足を痛めているからダンスは出来ないので、他の方と踊ってきてくださいと言われるようになり、入場が終わると婚約者の役目は終わったと言わんばかりに組んでいた腕をスッと外されて、『お役目が終わりましたので失礼致します』と言われて彼女の方から離れていくようになっていた。


 ヘンリックの頭の中では、ローゼリアをエスコートする夜会では彼女には婚約者としての義務だとでも言われ、他の令嬢たちに見せびらかす為にべったりとされるのではないかと思っていたが、実際はそうはならなかった。


 ローゼリアとのお茶会では息が詰まると感じていたヘンリックは、ローゼリアが自分から離れてくれた事に内心ではホッとしていたので、離れていく彼女を追う事はなかった。


 ヘンリックは夜会の場にいるだけで令嬢によく話し掛けられ、ダンスを踊ると頬を赤らめる令嬢たちを見ていたせいで、女性とは自身の婚約者も含めて皆が自分に好意的なのだとこの時のヘンリックは勘違いをしていたのだった。


 まさか不仲故に、自分の婚約者に足を踏まれる事を警戒され、それでダンスを敬遠されていたなんて思ってもいなかったのだ。


 しかし夜会では別々に行動をしていても、同じ会場にいるので時々はローゼリアの姿が目に映ることもあった。彼女はいつも生家の派閥の令嬢達と一緒にいるか、壁の花となって佇んでいる事が多かった。彼女が壁際にいると、兄であるエーヴェルトが寄り添うように隣にやってくる姿をよく目にしていた。


 婚約者同士であってもヘンリックとローゼリアが夜会で一緒にいる時間は短く、国中の貴族たちは彼らが不仲だと知っているのでローゼリアと一緒になくても誰も何も言わなかった。


「ねえヘンリック様、聞いていらっしゃるの?」


「あ、ああ」


 急に声を掛けられたヘンリックは危うくステップを乱してしまうところだった。


「んもうっ、やっとお会いできましたのに、何か別の事を考えていらっしゃるなんて悪い人ですわ、まさかあの方を見ていらしたの?」


 ダンスをしながらヘンリックの最愛であるマリーナは頬をぷうと膨らませる。


 マリーナはヘンリックが何度もローゼリアの方へ視線をやっている事に気付いていた。しかし彼は無意識にそうしているようで、自分の事なのに、自身の婚約者の事を気に掛けるようになった事にまだ気づいてはいないようであった。


 もちろん、マリーナからその事を教えるつもりはない。


「すまない、たくさんの令嬢と踊ったから少し疲れてしまったみたいだ」


 しばらく会っていなかったせいか、彼女のマナーのなっていない仕草に、ヘンリックの心の中に一瞬だけ不快感がよぎった。


 しかし、そんな感情を誤魔化すように、マリーナと視線を交わしたヘンリックは笑顔を浮かべる。


「最近はちっとも私のために予定を空けて下さいませんし、ヘンリック様にとって私のような女はどうせその程度なのでしょう」


 そう言って唇を尖らせる彼女を見て、またもや不快感が湧き上がってしまう。彼女と会わない時間が長くなってしまったせいなのか、彼女は自分の隣にいるべき相手ではないといった違和感がなくならない。


「それについてはすまないと思っている。空いた時間が出来たと思ったら最近は何故かいつも急な仕事が入ってしまうんだ」


 漠然とした不安感を抱いたあの時期から少し経った頃、ヘンリックはマリーナと会いたいと思って執務を調整しようとしていた。しかし、マリーナと約束をしていた日に限って何故か急な仕事が入ってしまう事が増えたのだ。


 そしてマリーナへは何度も謝罪の手紙を送ったが、約束を反故された事に怒ったマリーナからは送った手紙を全て無視され、やっと届いた返事には、次に会った時はマリーナの望むアクセサリーを贈る事を条件に、ようやく許されて、再び会う約束をしたのだった。


 なので今度こそはと思っていたのだが、前日に王太子室勤務の文官とヘンリックの側近が同時に急病で休んでしまい、翌日に持ち越してしまった仕事の量があまりにも多かった為、再びマリーナとの約束が果たせなくなってしまったのだった。そしてまたマリーナが機嫌を損ねる、といった事を三度ほど繰り返していた。


 そのせいでヘンリックはマリーナと直接会うのは実に二ヶ月ぶりだった。


「言い訳なんていりませんわ。どうせ婚約者さまとのご結婚の事で忙しいのでしょう」


「何度も話したが、彼女との結婚は政略で国を挙げての事なんだ。そこには私の気持ちは入っていないから、決してマリーナの事を忘れたわけではない事だけは信じて欲しい」


「私だって分かってはいますわ。それでも、不安なんです。ヘンリック様のお気持ちが離れてしまう事が」


 そう言ってマリーナは瞳を潤ませながらヘンリックを見つめる。ヘンリックの中でマリーナを失いたくないという気持ちが焦りへと変わっていく。


 不安と焦り、選びたいけれど選ぶべきではないという相反する感情の中、ヘンリックは彼にしては珍しく苛立たしい気持ちになっていた。


「私はキミにそういう顔をさせたいわけではないけれど、これは仕方のない事なんだ。都合のいい言葉かもしれないけれど分かって欲しい」


「……わかりました。私はヘンリック様を待ちます。ヘンリック様は私の事を一番に思って下さっているのでしょう? でしたらあの方とは白い結婚とする事を私と約束して下さい。私のために白い結婚にするのだとあの方にもはっきり言って下さい。そうしたら私もこの辛い状況をきっと耐えてあなたを待つ事ができますわ」


「えっ……」


 最愛からの突然の要求にヘンリックの瞳が揺れる。王族との結婚は次代に血を繋げる事に意味がある。子供に恵まれないというのなら仕方のない事ではあるが、白い結婚としてしまうのは王族としての責務のひとつを最初から放棄してしまう事に等しい。


 マリーナのひと言にヘンリックは水を浴びせされたような気持ちになってしまった。彼女は何て事を言うのだろうと。 


「マリーナ、それは出来ない。前にも話したが、ローゼリアとの間に王子を二人、……いやせめて一人だでも持った後ならば、キミを側妃として迎える事にローゼリアも納得してくれるだろう。彼女が拒絶しても私が何とかしよう。だからそれまで待ってはもらえないだろうか?」


 ダンスの途中だったのに、突然マリーナがヘンリックの手を離して止まってしまった。


「ひどいっ! ヘンリック様は私との事は遊びだったのですね!」


 マリーナはよく通る大きな声でそう言うと、泣いてしまったのか顔を隠しながらパタパタと走ってホールを出て行ってしまった。


 ヘンリックはダンスをしていた貴族たちの輪の中でぽつんと一人だけ残されてしまった。


 どうしたらいいのか分からず、辺りを見回したら壁際に立っているローゼリアと目が合ってしまった。彼女は扇で顔を隠しつつ非難するような視線をヘンリックに送っていた。そして彼女の隣に立つエーヴェルトは面白いものを見るかのように微かに笑っているようにも見えた。


 少なくともこの場には彼を助けてくれるような者は誰もいなかった。


 そしてその日以降、マリーナはヘンリックと夜会で顔を合わせても彼女から来てくれなくなってしまい、ヘンリックから近付こうとしても逃げられるようになってしまった。


 シーズンが終わった後に一度、マリーナから手紙が届いたが『あのお約束をして下さらないうちはお会いしたくありません』とだけ書かれてあった。


 ヘンリックはローゼリアに白い結婚を告げるか、マリーナと別れるのかの二択を迫られていた。


 マリーナと約束をしたつもりはなかったが、彼女の中ではヘンリックがローゼリアに白い結婚の宣言をする事は決定事項なのだろう。ヘンリックが自分から離れることはないという自信がその手紙からは溢れているようだった。


 ヘンリックは何かがおかしいと心のどこかで感じながらも、マリーナの事が好きで、マリーナの思惑通りに彼女の事が諦めきれなかった。


 彼女との楽しい思い出は自分の王太子としての重責を忘れられる貴重な時間だったし、赤い髪につぶらな瞳の彼女はどこか小動物を思わせて可愛らしいと思っていた。そして彼女の言葉には力があった。いつもヘンリックを元気づけてくれたし、この国の事だってこうした方がいいと色々考えてくれていた。


 結局どちらも選べなかったヘンリックは、マリーナに返事を送る事ができないまま結婚式の日を迎えてしまった。マリーナを選ぼうとすると必ず、後悔するという不吉な予感のようなものが頭の中に浮かぶので、怖くて返事を書けなかったのだ。


 結婚式当日になってもまだヘンリックは迷っていたが、夫婦の部屋に入る直前になってようやくローゼリアに白い結婚を告げる事を決めたのだった。やはりあの嫌な予感が浮かんだが、それは無視をしてマリーナを選ぶ事にしたのだった。


 だからヘンリックは、マリーナの為にあの場でローゼリアに白い結婚と言うはずだった。


 しかし、結局は言えなかった。変わってしまった彼女の姿に驚いているうちに、言おうとしていた事を先にローゼリアに言われてしまった。ヘンリックは喧嘩に負けた犬のように尻尾を巻いて自室へと逃げ込んでしまったのだった。


 こうして結婚したばかりの夫婦の夜は過ぎていってしまった。

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