三章【サイフォン】2杯目
大変長らくお待たせしました。章の2杯目です。
筆者、少々壊れてきました。
けたたましい足音とともに晴樹が二階から駆け下りてきた。背中では天雫が未だに寝息を立てている。晴樹が肩掛けしているショルダータイプのスポーツバッグには天雫の鞄が突っ込まれていた。
「天雫が起きないのでこのまま行きます。おばさん、天雫の靴を!」
先に靴を履いた晴樹は玄関先で母親に要請する。
「まあ、困った子ね。本当にごめんなさいね、晴樹ちゃん」
「それじゃ、行ってきます!」
天雫に靴を履かせてもらったのを確認して、晴樹は猛ダッシュで上島家を飛び出した。
「いってらっ…………?」
慌ただしくも昔なじみにおぶらされて登校する我が子を母は首をかしげながら見送った。
「……あの子、なんで制服が……?」
さすが初高期待のスプリンターである。日頃から鍛え上げられた自慢の脚力で天雫を背負いながらもスピードを落とす事無く激走している。
住宅街を抜け、初高の正門が視界に入った。
多大なるアクシデントがあり、一時はどうなるかと思われたがなんとか遅刻を免れたようだ。その安心感から晴樹は巡航速度まで減速した。同時に天雫も遅まきながら目を覚ました。
晴樹の背で起床した天雫は当初自分の状況を理解するのに多少の時間を要したが、晴樹に負ぶさっているというこの現実は恥ずかしいような、くすぐったいような妙な気分にさせた。
陸上選手として鍛えられた筋肉。晴樹の背中は大きく頼り甲斐があり『守られている』という安心感がある。もう少しの間、この背中に身体を預け余韻を味わっていたい欲求に駆られる。
だが周りの登校する生徒の数が増えてくるとさすがに恥ずかしさが勝るようで、天雫は後ろ髪を引かれる思いで晴樹に声を掛ける。
「晴樹ちゃん」
「お、やっと起きたか」
背中の搭乗者はいつ目覚めるのか、まさか学校に着いても起きないのではないかと不安にさいなまれもしたが、その心配は杞憂だった。
ひとまず安心した晴樹は「天雫にこれだけは伝えないと」と前もって用意していたセリフを口にする。
「天雫、そのまま聞いてくれ」
いつになく真面目な口調と改まった様で晴樹は前を向いたまま言う。心なしか頬を染めているように見える。
「実はな、今お前に言わなきゃいけないことがあるんだ」
トゥンク……
天雫の心に波紋が広がる。晴樹がこれから言わんとしている言葉に期待している自分がいる。
おぶさりながらの登校中という、いささか奇異な状況下だが、晴樹は何か天雫に大事なことを伝えようとしている。長年、幼なじみとして晴樹の隣に身を置いていた天雫は瞬時に理解した。
「う、うん……」
緊張した面持ちで天雫が頷く。
面と向かって言えないからこういう形でなのか。そう天雫は察した。
大丈夫、返事は決まっている。後は晴樹の思いにどう応えるかだ。徐々に天雫の頬に赤みが差してくる。
走りながら晴樹はおもむろに口を開いた。
「お前、制服を逆に着てるんだよ」
「え?」
なんか待ち望んだセリフと違う。
「俺は天雫のことが……」で始まる言葉ではなかったの? 今日が記念日になるはずじゃなかったの? 天雫は心の中で異議を申し立てる。もはやシミュレーションで用意した回答例が無駄になってしまった。
天雫の感情を示すグラフがほぼ一直線にマイナス方向に下落した。とにかくアオハル的なイベントで無かったことは理解した。
むう、と頬を膨らませ、いくらかの不満を露わにする。その負の感情の副作用か天雫は徐々に冷静さを取り戻し晴樹のセリフを反芻する。
制服? 逆ってどういうこと?
天雫は改めて自分の状況と晴樹の言葉の意味を確認するため、体を起こし制服を見てみる。
「な、なにこれ!?」
天雫の首から下には、いつもあるはずのリボンやボタン類が見当たらず、一面紺色の布地が展開している。
ここでようやく自分がブレザーを前後逆に着ていることに気づくと、先の甘酸っぱい恥ずかしさとは全く違う強烈な羞恥心に襲われた。
「晴樹ちゃん、ちょっと降ろして、降ろして!」
背中で暴れる天雫に言われるがまま晴樹は立ち止まると、即座に天雫は飛び降りた。そして多少難儀しながらブレザーを一旦脱ぎ、正しく着直した。
天雫の苦境は脱したようだが、その場に留まるには間が悪く、また時間も押し迫っているため、結局二人とも走っての登校となった。
晴樹の猛ダッシュのおかげで遅刻の回避どころかSHRまで歓談できるくらいの余裕があった。
その時間、天雫は着衣に違和感を覚え、最終チェック的な身支度のためトイレに向かった。 ちなみに、天雫には「一人で着替えたがすぐ寝入ってしまったので俺が背負って登校した」と言うことにしてある。
しばしの後、トイレから戻ってきた天雫が不思議そうに言った。
「あたし、いつの間に着替えたんだろう。制服は後ろ前に着てるし、スカートのファスナーも前になってるし、髪もボサボサ。もう、恥ずかしい……」
「ね、寝ぼけながら着てたんじゃないのか」
「晴樹ちゃん、もしかしてあたしの着替えるとこ覗いてた?」
「そそそそそそんな訳あるか」
半分は当たっていたので、晴樹は思わず動揺する。
「それに、ブ……ラ…… も……」
その名称を晴樹を前に発言するのはためらわれたのか、天雫は言葉を濁した。
「初めて付けたときみたいにぎこちないっていうか……」
なかなか生々しい発言だが、このクレームに対し執行人である晴樹は「初めてで悪かったな」と内心ぼやいたがもちろん口には出せない。
「晴樹ちゃん、顔が赤いよ? 大丈夫?」
「お、おまえを負ぶさって全力で走ったからな」
「ごめん、もしかして重かった?」
本当のところ、天雫を背負ってもさほど影響を感じなかった。いや、人一人背負っているのでそれなりの負荷はあったが、間に合わないという切迫感が火事場の馬鹿力を発揮したのだろう。
だがここは丁度良い口実として否定も肯定もしないでおく。
さらに晴樹は話題を変える。
「ところで天雫、スマホは持ってきてるか?」
「え? スマホ?」
「ああ、大分慌てていたようだからな」
天雫はいつも入れているスカートのポケットに手を入れたがスマホは無かった。
「あれ?」と今度は制服の内ポケットをまさぐってみる。やはりそこにも見当たらないようで、順次外ポケットにまで捜索範囲を広げた。
ブレザーの右ポケットに手を入れた瞬間である。
「あれ? こんな所にハンカチ?」と当人の記憶にない布物の感触を得た。
天雫はその布物を何気なしに取り出してみたが、その正体に気づくと、先の十倍の速さで引っ込めた。
「どうした?」
「ううん、何でも無い!」
ではここで天雫の内なる声を聞いてみよう。
「え? え? 今のパンツだよね。どう見てもあたしのパンツだよね? いや他人のだったら問題だけど。ううん、そういうことじゃなくて、何で制服のポケットにパンツが入っているの? これって着替え用のパンツ? あたしパンツ履き替えてないの? あれ? でも上は替えてあったよね? なんか変な付け方だったけど。それはともかく、もしかして替えてない?って今こんなところで確認できないじゃない。あ、それで後で履き替えようと無意識でパンツだけ持ってきたの? だからって制服のポケットに入れる? 普通しないよね。気づかずに教室で落としちゃったらどうするの? 恥ずかしすぎてあたしもう学校に来れなくなっちゃうじゃない。早めに気づいてよかったよ。それは良いとして、これ着替えたら履き替えた方はどうするの? 結局、パンツを持ち続けなきゃダメじゃない。カバンに入れておく? ううん、抜き打ちで持ち物検査があったらどうするの? 教室で公開処刑じゃない! やっぱり自分で持っておく? それより晴樹ちゃんに預かってもらう? あれ? 混乱して変なこと考えてる? 落ち着いて、あたし。まず着替える場所。トイレで着替える? ダメダメ、授業前で込んでいるかも。あ、部室の更衣室! あそこなら今は誰もいないし、ロッカーに隠しておける!」
カプチーノに思考の高速化が実装されているのかは定かでないが、天雫は一秒足らずでこの疑問から解決策を導き出した。
「晴樹ちゃん、あたし部室に行ってくる」
「部室? SHRまであまり時間が無いぞ。早く戻れよ」
慌てふためく天雫を尻目に晴樹は人ごとのように注意を促した。
駆け足で部室を目指す天雫を見送り、晴樹は安堵する。
そう、晴樹には安堵する理由があった。
なぜ天雫のブレザーにパンツが入っていたのか。
たった一つの真実…… そう、天雫のブレザーにパンツを忍ばせたのはほかでもない晴樹である。
事の真相はこうである。
天雫を着替えさせるとき最後の砦だけどうしても手を出せなかった。これをヘタレと取るか紳士的と取るかは意見が分かれるが、とにかく晴樹はたとえ目隠しをしていても、その場所に触れることはできなかった。天雫の尊厳を死守するためにも、せめて最後の一枚は本人に脱着を委ねたい、としたわけだ。
もちろん天雫のあずかり知らないことである。
なので天雫を誘導するためスマホを名目にあえてブレザーのポケットをまさぐらせ、ブツのありかを認識させたのである。
晴樹の計画は上々だった。思惑通り、天雫は自分で下着を着替えるだろう。そのため部室に向かったはずだ。
それで全て解決。晴樹はそう思っていた。
だが、往々にして人生とは上手くいかないものである。
この一件も例外では無い。晴樹の予期せぬところで歯車が狂い始める。
天雫の導き出したこの最適解と思われた行動が、かつて無いほど恥ずかしい思いをするハメになろうとは、このときの天雫はまだ知るよしも無かった。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
実はかなり悩みました。
少々Hな展開過ぎるかな、と。読者に引かれないかと。
ここしばらく書いては消しの連続でした。
でも「書きたい物を書く」の精神で貫こうと決意しました。
こんな小説ですが、これからもよろしくお願いします。




