TS逆行したので今世は親友を救います!〜氷の公爵子息が離れてくれない〜
明日のきみと、もう一度話がしたいと思った。
婚約者があんまりにも可愛いから、恥ずかしくて冷たい態度をとって嫌われた、きみの無様な話で笑うのもいい。
もしくは何度やっても勝てないから、きみがキレて床に叩きつけたチェスやカードゲームの続きでもいい。
ただ、明日もまた。
なんでもいいから、話ができたら――。
***
シオン・エイミスは魔法医としてそれなりに大成し、それなりな幸せを手に入れて、生涯を終えた。
後悔がないとは言えないが、それでも満足した人生を送った。
――はずだった。
それなのにどうして、再びシオン・エイミスとして目覚めたのか。
まったく訳がわからない。
死んだと思って目を閉じて、そして目を開けたら十二歳の朝だった。
本当に訳がわからない。
巷で流行っていた小説では、強い後悔を持つ主人公が過去に戻ってやり直すなんて話があったが、シオンはそこまで強い後悔などなかった。先述の通り、それなりに満足した人生だったのだ。
(考えても仕方のないことだが、さらに訳がわからないのは……)
シオンは自分が所謂エプロンドレスというものを着せられているのに、思い切り眉を寄せていた。
子供の頃、妹が着せられていたのとそっくりだ。
というか同じ。
まあ多分、エイミス家で女児に着せるとしたらこれしかないのだろうなと思った。
女児。そう、性別が女。
シオンは男であったはずだが、死んで目が覚めたら女のシオンになっていた。
もう一度言おう。
本当に訳がわからない。
腕を組んだまま、これはどうしたものかとシオンは悩んだ。
なにせシオンがいるのは貧乏でボロいエイミス家の邸宅ではなく、やたらと豪華な邸宅の広間だったからだ。
しかもシオンと同世代の少女たちが着飾って楽しそうに話をしていた。
エプロンドレスを着ているのは、シオンくらいなものである。いやもう一人いた。
「お姉さま、難しいお顔をしてどうしたの? そんな顔していると、結婚相手が見つかりませんよ」
お揃いのエプロンドレスを着た、シオンの妹のノエルが話しかけてくる。
シオンより二歳年下で、髪の色も目の色も同じ。赤みがかった金色の髪に、深みがかった赤い瞳。今世のシオンは女になっているので、髪型も同じ三つ編みおさげ姿だった。違うのは身長くらいだろうか。
遠い記憶を探ってみると、そういえばノエルは成人前に一度だけ、お茶会に招待されていてものすごくはしゃいで帰ってきたことを思い出す。確かその時、ノエルに向かって母はなんと言っただろうか。
「……お母さまが玉の輿を狙ってこいとかなんとか」
「そうですよ、お姉さま。私はまだ子供だから、お菓子食べてきなさいってお母さまが言ってました。でもお姉さまは違います! お母さまがぜひにでもお相手を探してきなさいって!」
(なるほど、今回の自分はノエルの姉だから、優先して見つけてこいと期待を背負ったわけか)
まさに困ったことになった。
シオンには魔法医として生きた記憶がある。
魔法医とは魔法と医術を組み合わせて患者を治療するエキスパートで、王侯貴族からもありがたがって丁重にもてはやされる立場だった。ただし、資格を取得するには王国が指定する学校を卒業し、とても難しい試験に合格しなければならない。
いまのシオンならば、簡単に突破できるだろう。
しかし男の時は、奨学金で学校に通い試験を受ける資格を得たわけで。
女になった今世だと、両親は学校に通うよりお金持ちの貴族と結婚させることに躍起になっているようだ。
(まあエイミス家は貧乏だし、わからなくもないが)
ノエルはこのお茶会でそれなりの家柄の少年と仲良くなり、それなりにお金持ちの家に嫁いでいた。両親は泣いて喜んでいたのを覚えている。なにせノエルの結婚で結納金が手に入り、エイミス家はなんとか持ち直していたから。
(つまりその役目が、今回は自分に回ってきたということか)
しかしな、とシオンは腕を組んで唸った。
魔法医になった時の方が、それなりにお金持ちの家に嫁ぐより、よっぽどお金が稼げるわけで。
しかもシオンには、この先何十年という未来の魔法医の知識があったりする。
そのポテンシャルをお金に換算すると、とんでもない価値が――。
(どっかのばか貴族のせいで開発が遅れた魔法薬とか、十数年後に偶然発見された薬草とか、そういう情報を利用すれば、いくらでも、儲け放題……っ!)
そしたら、念願の医療用に役立つキノコの研究ができる。
そうキノコ。
シオンはキノコの栽培と収穫が大好きだった。
シオンが魔法医になったのは、お金や権力が手にはいる手っ取り早い手段であったからだ。
しかし学校へ通っているとき、たまたま課題でキノコの栽培に手を出してからというもの、どハマりしてしまった。だが悲しいかな、学者や研究者になるには太い実家とパトロンがいる。
シオンにはそのどちらも持ち合わせていなかった。
(しかしだ、なぜか逆行した今現在。最大のパトロンを捕まえるチャンスがある!!)
前世(?)の知識でパトロンになってくれる貴族一覧を思い浮かべる。
口元を歪ませて、シオンは令嬢らしからぬ笑みを浮かべた。
隣のノエルが引いていたけれど、気にしている場合じゃない。
「むぅ、お姉さまったら、そんな顔をしないで笑ってください。可愛い顔がだいなしです」
「ノエル、人には向き不向きがあるんだ。愛らしいのはお前に任せた」
「もう、お母さまが怒りますよ。せっかく、アッシャー公爵家のお茶会にお呼ばれしたっていうのに」
アッシャー公爵家。
その名前を聞いて、シオンは目を見開いた。
「……アッシャー? まさか、クライブ・アッシャーが生きているのか?」
ノエルは何を言っているんだと言わんばかりの顔をして、口先を尖らせている。
「そうですよ、クライブ公爵子息様のお茶会です! 今回は、クライブ様の婚約者を決めるって噂もあるくらいなんだから」
まさにお母さまが狙う玉の輿、なんて軽口をノエルは叩いているけれど。
クライブ・アッシャーの名前を聞いたシオンは、それどころではなかった。
だってクライブは金払いのよい後援者で、シオンの患者で、最後を看取った友人だったからだ。
彼の痩せ細った手が、シオンに伸ばされた時のことを鮮明に覚えている。
出会ったのはシオンが魔法医になってから何年も経った時の頃だ。
クライブは若くして病に罹り、死の床に瀕していた。
治療のためにシオンは呼ばれたが、その当時は不治の病とされていたため、手の施しようがなかった。
シオンができたことといえば、クライブの苦痛を和らげることと、ほんの少しだけ生きる時間を伸ばしてやったくらい。
だんだんとベッドで寝込む日が増えていくクライブを見下ろすだけの日々だった。
――そんなクライブが、まだ生きている。
男だった時はお茶会など参加しなかったから、クライブの若い頃になんて会ったことがなかった。
けれど女になったからこそ、今世は随分と早い時期に会えるようだ。
(確か若い頃は、氷の美貌の公爵子息だとか、貴公子だとか。ものすごい二つ名で呼ばれてたとか言ってたな)
シオンの記憶にあるクライブは、濃厚な死の影が付き纏っていたから、話を聞いても想像だにできなかった。
しかし今回は、そんなクライブが見れる機会に恵まれたというわけで。
「……なんか楽しみになってきた」
「わあ、お姉さま! やる気になったのですね!」
「そりゃあもちろん、クライブ公爵子息様にお会いできる機会だもの」
(若いクライブに上手いこと取り入って、魔法医になるための後援者になってもらおう!)
なんとかつけいる隙を探さないと、シオンは再び悪どい顔をして笑ったのだった。
「まあでもその前に、せっかく公爵家のお茶会にきたのだから、お菓子でも食べようか。ノエル」
「ええっ!? いいのですか、お姉さま。お母さまがお行儀良くしてなさいって……」
「黙ってたらバレないし、お菓子だって飾りものじゃないんだから大丈夫」
何年も経った後でノエルがぽつりと、せっかくならお菓子を食べてくればよかったわ、なんてシオンに零したのを覚えていたのだ。
着飾った少女たちはお菓子に見向きもしない。
シオンとノエルは彼女たちの邪魔にならないように、広間の隅っこに立っていたけれど、招待状をもらって参加をしている歴としたゲストなのだから、食べたってなんの問題もない。
シオンは近くにいた使用人に声をかけて、綺麗に飾られたケーキや皿を取り分けてもらい、ノエルに差し出した。
食べたかっただろうに、ノエルは目を瞬かせてシオンを見ている。
「食べないのか、ノエル」
「……食べる、けど。なんだかお姉さま、ずいぶんと堂々としてらっしゃるのね。私、びっくりしちゃった。すごい! 大人っぽい!」
「あ、あはは……」
中身は大往生した人間なので、大人なのは当たり前だ。
(魔法医として過ごした時間が長すぎて、つい癖で、使用人に言いつけるのが当たり前になってる……!)
貴族令嬢なら当たり前だろうけれども。
貧乏なエイミス子爵家の令嬢ではあり得ないことだった。
なにせエイミス家には使用人は二人だけ。基本的に自分のことは自分でするのが当たり前なのだ。
「ノエル、実はな。……私は本を読んで、たくさん勉強をしているから知ってるんだ」
「まあ、そうなの。お姉さまって頭がよいのね! すごいわ」
妹は単純だったようで、シオンの言葉をあっさりと信じた。そして満面の笑みでケーキを食べて、美味しいと喜んでいる。
にこにこと笑うノエルに、シオンもつられて笑った。
シオンは一度目の人生で何度も理不尽な目にあったが、妹のこういうところに救われて、自分のやりたいように過ごせた。
「ノエル、お前のそういうところは美徳だぞ」
「美しいってこと? えへへ」
照れたノエルを見ていると、広間の扉の方から甲高い悲鳴のような歓声が聞こえてきた。
何事かと振り返ると、ノエルが公爵子息様だわと言った。
(クライブが来たのか? それにしてもすごい騒ぎになってる)
少女たちが扉の方へ詰めかけており、密集していた。
若く元気なクライブの姿は見てみたいが、あそこに入っていく勇気はなかった。
「あなたは、行かないの?」
呆けたように口を開けていたシオンに、透きとおるような声の主が話しかけてきた。
驚いて顔を上げた先にいたのは、愛らしくも美しい令嬢だった。輝く金髪に宝石のように輝くルビーの瞳。薄水色のシンプルなドレスは、仕立てよく一目で高級品だとわかる。
誰もが好感を抱くような容姿の令嬢に、隣のノエルは口を開けて呆けていた。
気持ちはわからなくもないが、醜態を晒すのもどうかと思い、肘で突いておく。
「突然声を掛けて驚かせてしまったわね」
「いいえ、大変失礼いたしました。私はシオン、こちらは妹のノエルです。エイミス子爵家から参りました。どうぞお見知りおきを」
シオンが一礼すると、令嬢は驚いた様子で挨拶を返してくる。
「私はローズマリー。セネット伯爵家の次女でございます。……ふふっ」
ごめんなさいと、ローズマリーが口元に手を当てて笑う。
「あなたの挨拶がとても格好よくて」
「あっ」
つい前世(?)の癖で挨拶をしてしまった。シオンは魔法医だったので、そりゃあもう貴族連中と付き合うことが多かったので、かしこまった挨拶は魂に刷り込まれていた。
「あなた達、姉妹なのね。仲が良くて素敵だわ。私もお姉様がいるのだけれど、年が離れててあまりお会いできないの。あなた、お姉様のこと好き?」
「お姉様は優しくて大好きです!!」
ノエルが真っ赤な顔をして叫ぶように答えた。多分、みたこともないような美少女から話しかけられて、舞い上がっているのだろう。
それにしてもローズマリー・セネットって。
クライブの初恋で婚約者だった少女じゃなかろうか。
シオンがクライブと出会った時、すでに婚約は解消されていた。しかしながらクライブは初恋を引きずっていて、ぐちぐちと嘆きの言葉を吐いていたのを思い出す。
話を聞く限り、思春期男子の拗らせが原因だということがはっきりわかるのだが。
「不細工ども、邪魔だ」
唐突な暴言に、シオンは言葉を失った。
聞き覚えのある声より、わずかに高いまだ少年のもので、そして病のせいで掠れてもいない、力強い。
振り返ると、輝く銀色の髪に透き通るようなアクアマリンの瞳の美少年が、腕を組んで立っている。
(……クライブだ)
記憶の中のクライブは、ベッドから起き上がるのもやっとだった。
髪だって艶もなく体も痩せ細っていて。そんな面影などまったく感じさせない生命力に満ち溢れているクライブが、堂々と立っている。
なんだかシオンはそれだけで胸がいっぱいになった。
元気になった元患者の姿はそれだけで感慨深い。
両手で口元を押さえて感動していると、クライブはつかつかと音を立てて歩いてくる。シオンとノエルなど眼中にないようで、一直線にローズマリーへとだ。
(……うん? 待てよ、まさかこれって)
シオンの脳裏に、クライブから聞いた婚約者への仕打ちを思い出した。
お茶会でローズマリーに一目惚れしたクライブは、気を引きたくてつい暴言を吐いてしまった。
内心でやってしまったと思いつつ、挽回しようと思って、さらにやらかしたのだと、ずっと嘆いていたのだ。
それが──。
シオンはローズマリーの髪の毛に伸ばされたクライブの手を、パシッと捕まえた。そして強引に引き下ろすと、クライブとローズマリーの間に割って入った。
「こんにちは、アッシャー公爵子息。会えて光栄です!! わああ、すごい。公爵子息なんて初めてみました! 感激です!」
握手をしたままブンブンと手を振って歓声をあげるシオンに、クライブは呆気に取られた顔をした。が、すぐに顔を歪めてシオンを睨みつけてくる。
「お前、僕の邪魔をするんじゃ……」
「クライブ様、女性の髪を掴んだりしたら、第一印象は最悪です。髪や頭に触れていいのは、恋人か好きな人だけです。見ず知らずの相手にそれをやられたら、基本、一生、嫌われますよ」
体を寄せてそっと囁くと、クライブが目を見開く。
「婚約したいのなら、暴言を謝る。綺麗で可愛い、それだけで十分ですから。行動でしめすのは、誠実な態度の後でです」
「はああ、誰が誰と婚約したいだって!?」
「えっ、ローズマリー嬢と。一目惚れなんでしょう? 天使が舞い降りたと思ったんじゃないですか?」
「ばっ、馬鹿、誰がそんな恥ずかしいこと思うか……っ!!」
(いや、言ったのはお前だが? 病に伏した時、散々嘆いていたじゃないか)
シオンはクライブの思い出話を延々と聞き続けていたので、一言一句覚えている。
ローズマリー嬢を見た時、天使が舞い降りてきたかと思った。絶対にこの子と結婚したいと思って、両親に必死にお願いした。
けれど婚約者になってから、照れ臭くて恥ずかしくて、素直になれずひどい態度を取り続けていた、と。
出会いからして最悪だった。
クライブはローズマリー嬢の美しい髪に触れたくて、口付けしたかったと言っていた。
気持ちはまあわからなくもないが、初対面ではやってはならぬ行動である。
シオンは親友想いの心優しき善人であったため、クライブがしくじる前に止めに入ってあげたのだ。ものすごく感謝してほしい。
「なんだその顔は」
「公爵子息が好きな子に振られるのを阻止して差し上げたので」
「はああっ!? お前、さっきから何を言ってるんだ!? というかどこの使用人だ!?」
「使用人じゃありません。招待客です。クライブ様、誰がきたかくらい覚えておかないと、将来的に社交界で孤立して友達いなくなりますよ? 今もいないでしょうけど」
シオンの突っ込みにクライブは真っ赤になって口をパクパクさせていた。
拗らせ素直じゃないクライブは、公爵家の人間なのに貴族の友人知人がほぼ皆無だった。だからシオンが魔法医として彼の治療をしていた時、屋敷に訪れる者はおらず。
ひどく、孤独な晩年を過ごしていたのだ。
(……葬儀に参列したのも、数人の使用人と、自分だけだったからな)
好みがうるさいくせに、寂しがりだった。
とにかくクライブは素直じゃない。
治療を施すシオンに対して、ヤブだの下手くそだの暴言を吐くくせに。
別の魔法医に変更するかと尋ねると、他の奴なんて嫌だと言う。
数日ほど所用で屋敷を開けたとき、戻るなりクライブが駆け寄ってきて金なら望むだけ出すから主治医でいてくれと縋り付いてきたこともある。
クライブの治療のための薬を買い付けに行っただけだと知ると、そそくさと部屋に戻って行ったのは忘れやしない。
本当に面倒くさい男だった。
でも、クライブはシオンの才能を認めてくれた。
貧乏子爵家のシオンを馬鹿にすることもなく、医師として尊重し、それから。
カードゲームやチェスに興じた時、本気で勝負しろと言ってきて、実際に打ち負かしても怒りもしなかった。
いや、時折負け続けるのにキレてカードやボードを床に叩きつけてたが。
それでもシオンに手加減しろとは言ってこなかった。次は勝つとシオンに宣言してベッドに潜り込むのだ。
(つまり、また遊ぼうという誘い。素直じゃなさすぎる)
そういうところが、人から嫌われるのだろうけれど。
シオンはクライブを放っておけなかった。
なにせシオンにとっても、クライブは唯一の友人と呼べる存在であったから。
「ともかく、クライブ様の良いところは家柄と顔立ちくらいしかないので、まずは人としての立ち振る舞いを覚えましょう」
「お前、不敬で処されたいのか!?!?」
そんなことないと、シオンはすぐさま否定する。失礼のないように優しい言葉に言い換えているというのに。
首を傾げていると、クライブが眉を寄せジト目で見てきた。
(初めて会った時も思ったが、顔だけは整っているから、黙ってさえいればモテるのでは?)
「クライブ様が黙って、後ろから自分がローズマリー嬢を褒め称えれば、いけるかも?」
「いけるか! なんなんだ、お前。名前を名乗れ!!」
つい前世(?)の癖でクライブに話しかけてしまっていたが、初対面であったことにシオンは気づく。
「シオン・エイミスです。魔法医になる予定なので、どうぞお見知りおきを」
胸の前に手を当てて一礼すると、クライブが驚いた顔をした。
「お前、僕の婚約者になりたくてお茶会に参加したんじゃないのか?」
「婚約者はローズマリー嬢じゃないのですか?」
「ま、まだ、決めてないし、あんなぶさ……っ」
不細工とでも言おうとしたのだろう。ローズマリーを指さそうとしたクライブの指を逆方向に曲げてから、モテないからそういうのはやめなさいと嗜める。もちろん逆方向に曲げた指は回復魔法をかけてあげたので、痛みはないのに。
半泣きになったクライブは、シオンに向かって叫んだ。
「お前みたいな女、絶対に選んでやらないからな!! 覚えてろよ!!!!」
「わかってますって。とりあえずローズマリー嬢にクライブ様のいいところ伝えておきますから。顔と金とか」
「うるさい、ばーか!!!!」
悪役が逃げる時のような捨て台詞を吐いて、クライブは広間から出て行ってしまった。
残されたシオンは懐かしさに思いを馳せていたが、ローズマリーから歓声が上がった。
「すごい、すごいです!! シオン様、お姉様とお呼びしても!?」
目をキラキラさせたローズマリーが詰め寄ってきたのだ。
どういうことだろうかと盛大に疑問を浮かべていると、心底困った表情を浮かべたローズマリーが教えてくれた。
「その私、子供の頃、歳の近い親類の少年から髪の毛を掴まれたり服を引っ張られたり、物を取り上げられたりして意地悪をされていて。だからクライブ公爵子息が近づいてきた時、何をしようとしているのかなんとなくわかったんです」
親類ならば文句も言えるが、相手は格上の公爵子息。我慢するしかないのかと思ったその時、シオンが間に入ったことで、助かったのだと手を合わせて感謝している。
(あ、危なかった。髪の毛を引っ張って泣かせたとクライブから聞いてたが、そんな過去があったのなら婚約しても解消に至るわけだ)
「本当に格好良かったわ……っ!! ああ、今後もぜひ、シオンお姉様とお付き合いしたいです。どうか今度、うちのお茶会においでになってくださらないかしら」
返事に困っていると、ローズマリーは優しい笑みを浮かべてノエルちゃんも一緒にどうぞと誘ってきた。美味しいお菓子を用意するわと言って、外堀から埋める作戦のようである。ノエルが期待を込めた目でシオンを見つめているため、断るに断れなくなった。
(……とりあえずお茶会で、クライブの良いところをローズマリー嬢に教えておこう)
シオンはクライブを助けてあげたことに満足し、一人頷いたのだった。
──そうしてシオンは公爵家主催のお茶会を終えた翌日。
なぜか再び公爵家に呼び出されていた。
目の前には腕を組んで顔を引き攣らせているクライブ。無言のまま何も言わず、ただ時間だけが過ぎている。
面倒臭い男なので、きっと話し出すのに勇気がいるのだろう。それまで付き合ってあげてもよいが、しかし朝早くに呼び出されたので、シオンは空腹であった。
くるりと横を向き、立っている随従を指で呼び寄せる。
「軽食を持ってこい。それから紅茶を。砂糖は三つ。温めたミルクもつけて。あ、山羊のミルクで頼む。あと暇つぶしの本を何冊か用意しろ」
「へ?」
「聞こえなかったのか? 早くいけ」
「は、はい!?」
さすが公爵家の使用人。あっという間にシオンの前に豪華な軽食セットが用意された。もたれかかるのに必要なクッションも持って来させると、シオンは靴を脱いでソファに足を乗せてだらりと横になる。本を広げると、なぜかクライブが立ち上がって叫んだ。
「……お前、くつろぎすぎだろう!!」
「お構いなく」
「こっちが構うわ! 何者なんだ一体! 僕より使用人へ命令し慣れてるじゃないか! 本当に貧乏子爵家の娘なのか!?」
「そうですよ。我がエイミス家の窮状をご存知でない?」
「知ってるから戸惑ってるんだ、こっちは……ゴホッ」
叫んでいる途中でむせたクライブに、シオンは座るように勧めた。
「いまあったかい白湯でも持って来させるから」
「なんでだよ、お茶を飲ませろお茶を」
シオンが飲もうとしていたカップを奪い取ると、クライブは中身を一気に飲み干した。
「ゴホッ、ゴホッ!!」
むせ込む姿を見たシオンは、ソファから降りてクライブの隣へと向かう。そしてそっといたわるように、背中をなでた。
(お茶より白湯を飲んだほうが、咳は出ないと、クライブが言っていた。……そうか、この頃から症状が出てたのか)
「ほら、ゆっくり呼吸を。焦るとさらに咳がひどくなるから」
「……ゴホッ」
ぽたりと、クライブの押さえた手の間から、血が垂れた。
シオンは特段驚かなかったが、クライブはあからさまに青ざめてこちらを見てくる。
血を吐く病は嫌厭されるものだ。ましてやクライブは、魔力量が多いとされる公爵家の子供。その子供が血を吐くとなると、想像される病はひとつしかない。
──魔力形成不全。
魔力を操作する器官になんらかの不具合が生じて、体に負担を掛けた結果、死に至る病。
人に感染するような病ではない。けれども血を吐き体が衰えていく姿は、誰もが目を背けたくなるものだ。
ましてや病にかかった人間に未来はないので、進んで親しくなろうという奇特な者はほぼいない。
まあシオンは魔法医だったので別枠である。
「……はっ、……はぁ」
「落ち着きましたか。一度口の中を濯いだほうが」
「……るさい、うるさい! 下手な同情なんてするな! 血を吐いて気味が悪いとでも思ってるんだろ。無理してそばにいなくていい。どっかに行け」
拳を握りしめたクライブが、顔を歪めて叫ぶ。シオンは呆れた表情も隠しもせず、クライブへと言った。
「えっ、呼び出したのはクライブ様なのに? はあ、仕方ないですね。こっちも暇じゃないのに。軽食を別室に運んでもらうので、そっちで食べ終わってから顔を見にきますから、それまでに機嫌直してくださいね」
「は? 屋敷から出てけって言ったんだ」
「庭でピクニックするのはちょっと趣味じゃないです」
「あああああ、もう!!!」
クライブが頭を抱えて叫んだ。血を吐いたのに元気だなとシオンが観察していると、クライブはソファに背中を預けるようにしてもたれ掛かった。そしてシオンを見て、変な女と呟くように溢す。
「……今日はお前に、ローズマリー嬢に近付くなって言おうと思ったんだ。彼女に婚約者になってもらうつもりだったから」
「今のところ自分は女性とお付き合いする予定はないので、ローズマリー嬢と私の仲は疑わなくて大丈夫ですよ」
「そうじゃない!! そうじゃなくて。……お前たちみたいな連中は、瑕疵が見つかると集中的に攻撃するだろう。ローズマリー嬢にはもちろん秘密にするつもりだったが、下手に関わる人が多いと、漏洩の危険があると思って」
つまりクライブは、病持ちであることを隠して婚約するつもりだったのか。
それってかなり不誠実である。未来でクライブが婚約解消された時、セネット伯爵家が激怒してアッシャー公爵家を訴え賠償金を支払う羽目になったと聞いたけど、そういう理由があったわけだ。
「なんというか、すっごい不誠実な。えっ、あの、自ら嫌われにいこうとしている?」
「そんなわけないだろ! 父上と母上がそう言ったんだ。どうせ長く生きられないから、……少しの間くらいなら、わがままを聞いてもらおうって」
「随分と傲慢ですね」
さすが公爵家ともいうべきだろうか。
でもその傲慢さを振りかざした結果、クライブは孤独に死んだ。
「……父上と母上は、僕のことが可哀想だと泣いているんだ。可哀想だから優しくしてあげなきゃいけない、そう言って……」
(でもあと三年後に弟が生まれると、金を渡されてクライブは別荘で暮らすようになった。公爵家の両親の愛情とやらも考えものだな)
クライブの弟は魔力形成不全になることなく、公爵子息として立派に成長した。新聞で活躍が書かれていたから、シオンは記憶している。
「死にたくない。……僕だって、ローズマリー嬢と普通に結婚して、幸せになりたいのに……っ」
嗚咽と共に吐き出された言葉を聞いたシオンは、クライブの肩を掴んだ。
そして大丈夫ですと力強く声をかける。
「安心してください! クライブ様の病はこの私が治してさしあげます!!」
なにせクライブが死んだ数年後に、魔力形成不全の治療法が発表されたのだ。発表後から何年も改良に改良が重ねられ、シオンが死ぬ晩年には、もはや魔力形成不全は死ぬ病ではなくなった。魔力量が多い子供がかかる風邪程度の扱いになっていたのだ。
魔法医であったシオンには、ばっちりその知識が残っている。
だから今度こそ、クライブの病を治してやることができるのだと、自信を持っていたのだ。
「あ、でも、性格まではちょっと治せないので、口説くのは自分で頑張ってくださいね。一応、良いところアピールしといてあげますから」
「なんなんだよ、お前は!?」
***
そうして数年ほど経った。シオンはローズマリーと親交を深めつつ、クライブの病を治すために奮闘したのだ。
治療に必要な薬草などは、ローズマリーが協力してくれた。なにせ彼女の生家は薬草栽培が有名で、手に入りにくいものも融通を利かせてくれたのだ。
シオンは感謝を伝えつつ、お礼とばかりにクライブの良いところを必死にローズマリー嬢に伝え続けた。最初のしくじりの後、シオンにくっついてクライブがローズマリー嬢のお茶会に参加することが何度かあったのだ。やらかす寸前にシオンが介入して、決定的に嫌われるような行動は回避していたので、好感度は下がっていないと思いたい。
定期的に行われるローズマリー嬢のお茶会にて、シオンはクライブのことを話し続けている。いつもの面子である妹のノエルも添えて。
すっかり成長したローズマリー嬢とノエルは、結婚適齢期となっている。けれどもなぜか、ローズマリー嬢とクライブが婚約する気配がない。病が治ったから、またクライブの拗らせが発動して素直になれないでいるのだろうか。
(もう少し進展があればいいのに。誰かに奪われてしまうとか、考えないのか、クライブは)
最近はシオンが必死にクライブの良さを伝えると、ローズマリー嬢は淑女の微笑みを浮かべてくるだけで何も言わなくなってしまった。妹のノエルはしたり顔で首を横に振っていたりする。一度だけ「お姉様は気付いていないと思います」とローズマリー嬢に謝罪していた。一体どういうことだろうか。
「シオンお姉様はいつも、クライブ様のことで一生懸命ですから」
「そうですか? うーん、でも、クライブには元気でいてほしいですし」
(治療が成功したら、自分の魔法医としての名声も上がるからな。まあ今は魔法医見習いってことになってるが)
公爵家からのサポートで、飛び級して魔法医の資格を取得したが、シオンの年齢が若すぎるということで、まだ見習い扱いなのだ。クライブの病が完治したら、さすがに一人前扱いされるだろうけど。
「……本当に、本当に、シオンお姉様の健気さときたら。なのにあの男、素直にお礼を言うこともできやしないなんて……」
笑顔のままのローズマリー嬢から、ありえないほどの怒気を感じる。なんだか最近、こういうことが多い気がする。
まだやっぱりクライブへの好感度が低いのだろうか。性格は悪いが徹底的に嫌うような人間でもないのに。
「シオンお姉様のお気持ち、お察ししますわ」
「はあ」
「ところで、その、クライブ様のもうすぐ治療が終わるそうですけれど。シオンお姉様のほうでは、なにか進展はありまして?」
なにかとはなんだろうかと首を傾げていると、ローズマリーは頬を染めて咳払いをしながら婚約とか、と聞いてきた。そこでようやく理解した。なるほど、年頃の少女の話題とくれば、婚約話は興味深いものなのだろう。
「まだ公表はしてないですし、お話を受けようと思ってるところなのに。噂って広まるものなのですね」
「……っ! ええ、そうですわ。シオンお姉様の長年の想いが報われるってことですわよね!」
「まさか、そこまで?」
(キノコの研究に関しては、あまり人に言っていないのに。これが社交界の貴婦人となる人間の情報収集能力なのか)
すごいなと素直に感心しながら、シオンはローズマリーに笑みを向けた。
「お姉様、本当によかった」
ノエルが涙ぐんで喜んでいる姿を見て、シオンは妹からこんなに祝福してもらえるなんてと感動した。なにせノエルは、自宅の納屋でキノコの研究をしているシオンを見て、変な趣味をこれ以上増やさないでと怒っていたからだ。
「ありがとう、二人とも。こうやってお祝いされると、なんだか恥ずかしい。その、結婚式はするつもりはないんだけど」
「えええ!? どうして!?」
「シオンお姉様の結婚式、ぜひ参加したいのに」
「でもほら、やっぱり私は後妻だし」
そういうのは嫁ぎ先から嫌がられるんじゃないかなという言葉に、ローズマリーとノエルの表情が無になった。
ガタリと音を立てて椅子から立ち上がった二人に、シオンは詰め寄られる。
「……待って、お待ちになって。シオンお姉様。一体どこの誰に嫁ぐというのです? まさかとは思いますが、クライブ様は既婚者なのですか?」
「えっ? クライブは婚約者もいない公爵子息だし、恋人もいるとは聞いてないが」
「お姉様、後妻ってどういうこと」
「スヴェン伯爵と結婚するからだが。ほら、知ってるだろ。資産家で有名なスヴェン・バルリング伯爵。その人と結婚するんだけど……」
「ご高齢の男性ですわよ!?!?!? クライブ様はどうしたんです? クライブ様から婚約の話とかされないんですの!?」
なんでここでクライブが出てくるのかわからず、シオンは首を傾げた。
「えっと安心してください、ローズマリー。クライブは私に最初に言ったじゃないですか。お前みたいな女、絶対に選んでやらないって。だから対象外でしょう」
それにそもそも、シオンは魔法医なのでクライブのそばにいるわけで。今世も気安い友人のような関係になっていると思いたい。
シオンの答えに、なぜかローズマリーとノエルが絶望したような顔をしていた。
静まり返ったお茶会を終えて、自宅へ帰宅したシオンは、机の上の手紙を眺めた。
スヴェン・バルリング伯爵からの求婚の手紙には、結婚の条件について書かれていた。シオンとは婚姻関係にあっても子供を作ることはない。そして伯爵夫人としての義務は何も求めない。お飾りの妻が必要なのだそうだ。
スヴェンには息子がいて爵位を譲っていたが、不幸な事故で命を落とした。しかし孫は生存しており、彼が成人するまでの間、スヴェンが再び伯爵となり領政を執り行うことになったのだそうだ。スヴェンは死んだ妻を愛しており再婚するつもりはないが、周囲がうるさく、孫の命も危ぶまれる事態となった。
だからこそ、金で契約ができそうなシオンに求婚したようである。
(これはなんとも、最高の申し出だ)
スヴェン伯爵家はとてもお金持ち。手紙にはある程度の贅沢なら許すとあるから、これは実質シオンへの資金援助だろう。つまりパトロン。
こんな機会を逃してはならないと、両親に言って話を進めてもらおうとしたのに、なぜかもう少し待った方がいいとか、アッシャー公爵家に相談してからにしなさいとか言われている。シオンの結婚になぜアッシャー公爵家が出てくるのかわからず、仕方ないので自分で返事を書こうとした時だった。
バタンと音を立てて、シオンの部屋の扉が開く。
そこには、荒く呼吸を繰り返し、真っ青な顔をしているクライブが立っていた。
「クライブ、具合でも悪い……」
「なんで」
「えっ」
「なんで、なんで!? なんで、結婚なんてしようとするの!?」
クライブがシオンへと詰め寄ってくる。ここ数年で、クライブは健やかに成長していた。病に伏していた未来とは違って、筋肉もありがっしりとした男らしい体つきになっている。それでいて顔立ちは整っているものの、その性格はまだ拗らせたまま。仕方なしにシオンは黙ってキリッとしていれば格好よいとアドバイスした。
結果、氷の貴公子、麗しの公爵子息などといった二つ名がついたわけだが。
(ちょとと恥ずかしい二つ名がつくのは、変わらなかったな)
随分と遠くなったその顔を見上げていると、クライブはシオンの肩を掴んで言った。
「僕のこと捨てるのか!?」
「はっ!? 何を人聞の悪いことを。治療は最後まできちんとするに決まってるじゃ……」
「そうじゃない! なんで僕以外の男と結婚する気でいるんだって言ってるんだ!!」
これはローズマリー嬢から話を聞いたのだろうか。シオンのいないところで会って話せるようになるなんて、成長したなと感動していると、どんどんとクライブの様子がおかしくなってきた。
「僕の気持ちをめちゃくちゃにしたくせに。……離れるなんて絶対に許せない。どこにもいかせない」
「それは困る! スヴェン伯爵と結婚したいのに」
「……は?」
地の底から這い出てきた悪魔のごとく、低い、低い声がクライブからもれた。さすがのシオンも、ゾワっと寒気がして体を震わせてしまったほどだ。
「その男のどこがいいの?」
「えっと、……お金」
素直に答えないと命が危ないと思ったシオンは、あっさりと白状することにした。
「……おかね?」
「あ、はい。キノコの研究資金がもらえるかなって」
「それだけ?」
「……それだけです」
お金だけもらえて貴族の役目を何もしなくていいなんて、と感動すら覚えていたのだけど。ここでそれを言ったら、絶対にまずいとシオンは思った。
「お金の有無なら、別に僕でもいいじゃないか。僕は公爵家の跡取りになったんだ。資産でいえば、王家の次に金持ちなんだぞ」
「え、でも、クライブ様は無理でしょ」
あっさりと答えたシオンに、クライブは目を見開いた。何をそんなに驚くんだと、逆にシオンが驚いてしまう。
「だってクライブ様は、ローズマリー嬢が好きなのでしょう。それからいつも、お前だけはありえないとか、女じゃないとか、そう言ってたのに」
アクアマリンの瞳がみるみる潤んでいく。泣くほどショックなのかと慌てるシオンの耳に、ローズマリーの声が聞こえてきた。
「だから言ったじゃありませんか。素直にならなきゃ碌なことになりませんよと、何度も忠告したというのに、このありさま」
「お姉様にははっきり言わないとわかってもらえませんよって、教えてあげましたのに」
ローズマリーだけじゃない。ノエルの声も聞こえてきた。
しかしクライブの体が邪魔をして、二人の姿はシオンからは見えなかった。
「……うぅ、いま、それを実感してる……」
泣きながら呟いたクライブは、シオンの肩から手を離した。が、すぐにシオンの手を握りしめると、自身の口元へと寄せる。まるで手の甲に口付けするかのような──。
「……へっ?」
小さなリップ音が聞こえ、クライブの唇が触れたのがわかった。なんで自分にこんなことをするんだと、シオンは混乱の極みに陥る。
「シオン、僕は君が好き。君にそばにいてほしい。ねえ、どこにもいかないで……っ!! 僕と結婚して!!」
最後まで言い切る前に、クライブはシオンの体を引き寄せて抱きしめてきた。
(いやいやいや、待て、どういう状況だこれは……っ!?)
なんで好意が自分に向かっているのだと、頭を抱えそうになる。もっともクライブの胸に顔が埋められている状態のため、それもできないが。
大体、前世(?)のシオンはクライブに対して、恋情などなかった。
だってこうして抱きしめられたことはある。
死ぬ少し前、助けを求められるかのように、手を伸ばされて。
だがそれは孤独を紛れさせるための、いっときのいたわりのようなもの。
触れ合っても熱なんて生まれなかった。
友情というには近過ぎたかもしれない。けれども恋情というには乾いていたのだ。
──なのに。
どうして、いま。クライブに抱きしめられているシオンの胸は、うるさいほどに脈打っているのだろうか。
全身が沸騰したかのような感覚に陥って、思考がまとまらない。
どうしよう、どうしたら。
「……シオン専用の研究室、建ててあげる。研究資金、小切手に好きな金額書いていいよ。ね、結婚しよう」
ぐらっとシオンの気持ちが揺らいで、反射的に首が上下に動いてしまった。それを見たクライブが嬉しそうな声をあげて、痛いほどシオンを抱きしめる。
ローズマリーとノエルの拍手が聞こえてきたと思ったら、なぜかシオンの両親も祝福の拍手をしていた。いつの間にきたのだろうと、シオンはクライブに頬擦りされながら思ったのだった。
そうしてあっという間に、シオンとクライブは結婚式を挙げた。
家柄で反対されるのではと思っていたら、アッシャー公爵家は両手をあげて歓迎しているし、ローズマリー嬢をはじめとして、貴族令嬢たちは祝福している。エイミス子爵令嬢の献身が報われたのね、とか感激の涙を流している。本当に訳がわからない。
居心地が悪くなったシオンは、自分の腰を抱いているクライブを見上げる。
病が治った彼からは、死の影は消えている。生気に満ち溢れ、やたらと機嫌が良さそうである。シオンの視線に気付いたクライブが、どうしたのかと尋ねてきた。
「なんでそんなに嬉しそうなんです?」
「明日もまた、君と過ごせる幸せを噛み締めてるんだよ」
だいぶ素直に己の感情を言い表すようになったクライブだが。いささか素直過ぎないかと、シオンは顔を赤くしながら思った。
けどもまあ、その言葉には同意するしかない。
だってシオンは、クライブと明日も話がしたかった。
特別なものじゃなくていい。
──明日、目を覚ました時に、また他愛のない話ができたらと、そう思ったのだから。