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想い出ボトル

 もうやめよう、このボトルを開けるのは――心の底から念じつつ、ダリルはふたたびボトルのふたをこじ開ける。白()の香りが()()とそこらにただよって、たおやかな美人が目の前へ姿を現した。


 美人はって、ただわらって、抱きしめたそうにこちらへ白い手を伸ばし――そのままかすみを抱くように、ダリルの手の中でさあっと溶けて消え去った。


「――ああ、ああ!! いつだってこうだ、どうして、どうして!! スザンナ、どうして君を……君をこの手で……」


 ダリルはその場にくずおれた。骨ばった上に血管の浮いた手でしわだらけの顔を覆い、ひとりっきりで声を上げて泣き出した。ほこりっぽい狭い部屋には、今やユリの香りもしない。


 想い出だ、この薄青い色のボトルには、想い出ばかりが詰まっている。他には何もない、夢も希望も、なにひとつ。


 ……このボトルは、ずっと昔、まだ若いころ、当時の妻と買ったものだ。結婚してから毎年海外へ行っていたのに、その年は自宅のすぐ近く、となり町への日帰り旅行……『せめて珍しいおみやげでも』と、いつもは見向きもしないようなさびれた骨董屋に入り、ふたりで見つけたものだった。


「……想い出ボトル? なんだ、くだらない」

 軽く吐き捨てて立ち去ろうとしたダリルの手をとり、スザンナはその小さな、薄青いボトルを骨ばった指に握らせた。


「……スザンナ?」

「あのね、わたし、これが必要だと思うの……今のわたしたち……ううん、もうじきあなたに、必要になると思うのよ……」


 冗談だろう――笑おうとして、笑えなかった。

 最後の旅行になるだろうと、内心ふたりとも想っていた。


 スザンナは余命半年と、医者に宣告されていた。若かろうがなんだろうが、病というものは、遠慮えしゃくなく無差別に襲ってくるものだ。


 初めのうちは、ふたりとも医師の診断を受け入れようとしなかった。『何かの間違い』とあらがって、怒り散らして、やがて病を実感し、絶望して泣きわめき……今は静かなあきらめばかり、心の中に風も立たぬめんのように広がっていた。


「必要だと、思うのよ」

 すがるように小声でくり返す妻の目を見て、病にぼうと霞のかかった青い目を見て……ダリルは薄青いボトルを手に、店のすみにいる店主に「いくらだ?」とひと言訊いた。


* * *


 あれから、五十年が経つ。ダリルは今までずっとひとり身で、仕事あがりの酒の誘いも断り続け、定年まで勤め続け、スーツを脱いで老後の趣味も何ひとつなく、今はマンションを引きはらい、片田舎のアパートに住み、たったひとりで生きている。


 今はもう、この薄青いボトルだけが、生きていくよすがになっている。愛しい妻のまぼろしの詰まった、甘いユリの香水の香りの詰まった、この小さなボトルだけが……けれど、それが何だと言うんだ? 抱きしめられもしない、ただの淡い霞のような、言葉も交わせぬまぼろしが……!


「――こんなもの!!」

 言いざまダリルはしわだらけの手にボトルを握り、思い切り振りあげて床に叩きつけようとした。その瞬間、ひとりでに固いふたが外れて、ほこりだらけの部屋の中にユリの香りがあふれ出した。


 そうして、今はいつも以上に鮮明な愛しいまぼろしが、自分に向かって白く細い手を伸ばし――思わず伸ばしたダリルの腕に、甘い香りの天使のように、ふわりと柔らかく抱きしめられた。


「ダリル」

 耳もとでそうささやかれ、老人はもうがむしゃらに妻の体を抱きしめて、スザンナはその青い目から涙を流し、何度もなんどもささやき続ける。


「ダリル……ダリル……ダーリン……!!」

 呼ばれれば呼ばれるほど、ダリルの肌からしわが消えて、目もとはさわやかに、髪は色濃くふさふさと……そうしてふたりは抱き合ったまま、狭い部屋から姿を消した。




 半月後、ダリルの新聞受けに新聞が山と詰まっているのに気がついて、となりの部屋の若い夫婦が大家を呼んだ。大家が警察立ち会いのもと、アパートの部屋の鍵を開けた。みなの頭にはもう、死臭を放つ老人の遺体が浮かんでいた。


 ……部屋には、誰もいなかった。ろくに掃除もされないまま、ほこりをかぶった家具の他には何もない。まるで老人ひとり、天使が迎えに来たかのように、何もなかった、遺体も何も。


 ただユリの香りだけ甘く、あまりに甘く、部屋じゅうにふんわり満ちていた。


(完)

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