私、芽理衣さん
俺の彼女はいたずらが好きだ。フリップを用いてのネタや、手振り身振りのおふざけが好きで、そんな彼女に俺は惹かれた。
でも俺は彼女の声を一度だって聞いたことがない。なぜなら彼女は過去に喉を怪我し、声を発せなくなってしまったからだ。目を逸らしたくなるような酷い怪我を初めて見せてくれた時、俺は絶対に彼女を守ると誓った。
固形物は食べられず、体調によっては酷く痛む日もあるという彼女の喉は、定期的に病院で検査をしてもらっているが現状維持ができているだけありがたいことらしい。
ある日、彼女の両親に呼ばれて彼女の家に行くと、リビングは俺を交えて話がしたいと言う両親の重たい雰囲気に包まれていた。
お義父さんが震える声で「娘の喉が治るかもしれない」と呟くように言った。それに続きお義母さんが「でも海外で手術を受けなくちゃいけなくて、あなたを置いていくしかないの」と迷いを見せた。
俺は彼女の喉が治るなら置いて行かれることくらい我慢できると伝えた。当然だ、彼女の喉が治って欲しいと希っていたのは両親だけじゃない。聞けば手術は一年近く続きそうであまり危険はないらしいが、本人は迷っているらしい。
「あなたと離れるのがつらいのよ。あの子、あなたがいたから今も頑張っているのだから」
初めて聞いたことだが、どうも彼女は過去に何度か自殺未遂をしているらしい。声を発せられないことと、醜い怪我をいじられ、虐められ、何度も首を吊ろうとしたところを両親に止められていたらしい。それでしばらくカウンセリングを受けていた時期もあったそうだ。
「君が傍にいてくれたから、あの子は前を向くようになった。君がいてくれなければあの子はいつ自殺していたかもわからない。本当に感謝している」
二人に頭を下げられ、俺は慌てて「頭を上げてください」と促した。
俺は彼女の声や喉の怪我に同情したのではなく、彼女の隣にいることが俺の幸せになると気付いたから好きになったんだ。
彼女は今、部屋で悩んでいるらしい。俺が説得すると言って部屋に入らせてもらった。
ドアをノックすると、『チーン』とファミレスなどでよく聞くベルの音が聞こえる。入っていいよの合図だ。
「入るよ」
ドアを開けると、首を薄い生地のマフラーで巻いた彼女が、椅子に座って窓際で黄昏ていた。
俺が来ることを予想していたのか、いつも持ち歩いているクロッキー帳にはすでに文字が書き込まれていて、俺の方を見ずにそれをこちらに向けてきた。
『私の喉、治った方がいい?』
俺になんと答えてほしいかが透けて見える分かりやすい質問だった。
「治んなくてもいいよ。ずっと俺が傍にいてやるから。……て言えば満足するか?」
彼女は頷いた。喉が治って声が出せる自分が想像できないから、彼女にとって幸せは今が最高なのだろう。五体満足の俺ですら一年も彼女と離れるのはつらいのに、彼女はもっとつらいだろうことは想像に難くない。
まだ学生である俺が一年間も海外に滞在するのは難しい。それについて行けたとしても俺たちはまだ結婚していないから彼女に付き添える場面も少ないだろう。
「義両親からは君を説得するように言われてここにいるけど、君が今、幸せだと思っているなら、俺は今が幸せの絶頂だ。喉なんて治らなくたっていいじゃないか。幸せなんだから」
ゆっくりこちらを見る。切れ長の瞳はうるんでいて、先ほどまで泣いていたが分かる。
「君の手術に俺はついていけない。せいぜいビデオ通話で毎日顔を見せるのが精いっぱいだ。それを一年間も耐えられる? 長引けばもっとかかるかもしれない」
勢いよく首を横に振る彼女は、クロッキー帳に書き込もうとして、涙が邪魔で何も書けずにいた。目元を拭うばかり、つらい想像をさせてしまったみたいだ。
「今の君が幸せな理由を教えてあげようか?」
クロッキー帳から顔を上げた彼女が怯えるように俺の目を見た。
「今は確かに幸せかもしれない。でもそれは、もっと幸せなことがあることを知らないからだ。……想像してごらん。ご近所さんに挨拶されて『おはようございます』と返事をする自分を」
喉が治った姿を想像できないのは、当たり前のことを体験したことがないからだ。ならば、俺が至極簡単なことを彼女に想像させる。小さなことでいい。当たり前が幸せなことだと気付いてほしい。
「町を歩くときにマフラーをしなくてもいい。何が食べたいか聞かれてラーメンと答えてもいい。好きな物が食べられるようになるんだ。お風呂上りに牛乳を一気飲みだってできるようになる。あとはさ――」
これだけは俺の欲望。昔、結婚とはこんな事をするんだよなと想像したことがある。
彼女に近づき、華奢な身体を抱きしめた。誰かに聞かれるのが恥ずかしかった。
「あとはさ、『ただいま』って言ったら、『おかえり』って言ってほしいんだよ」
彼女に突然キスされた。驚いて顔を見ると、涙が目元から溢れていて、俺たちの間にいくつも流れていた。
クロッキー帳に勢いよく文字を書き込んだ彼女は、それを僕に見せてくれた。
『私、芽理衣さん。今、あなたの目の前にいるの』
「え? そりゃ見ればわかるけど。どうしていきなりメリーさん?」
芽理衣というのは彼女の名前だが、どうしたのだろうか?
『私、芽理衣さん。これから海外に行くの』
「そうか。決心したんだな。芽理衣が今よりもっと幸せになって帰ってくるのを楽しみにしているよ。あ、でも毎日ビデオ通話で顔は見せられるよな。こうして触れられないのは寂しいけど」
海外に行ってしまう前にできるだけ彼女に触れる。二人で並んで座って、他愛ないことから今後のことまで。夢が広がるようで、海外に向かう時まで彼女は笑顔を絶やすことはなかった。
空港でのお別れだけは少し涙が出そうになって、これから一年近く彼女の温もりに触れられないと思うと、抱き合ってから離れることがなかなかできなかった。飛行機が出発するタイムリミットがなければ、俺たちは永遠に抱き合っていたかもしれない。
『私がここに帰ってきたら』
事前に書いていたらしいクロッキー帳をめくり、最後のページを開いた。
『あなたにおかえりって言ってほしいな』
もう後がないクロッキー帳を閉じた彼女は、もうそれを開くことはなかった。次に会うときは絶対に声で話すという覚悟の現われだった。
彼女の両親と共にゲートをくぐった彼女に手を振る俺の「いってらっしゃい」は聞こえたかどうか、いや、聞こえなくてよかったかもしれない。
彼女が旅立ち、病院にたどり着いてからは毎日ビデオ通話で顔を見せていた。
新しいクロッキー帳の書き心地がいいという話や、病院がすごく大きくて迷子になりそうとか。手術が近くなって入院してからは少し元気がなくなったが、改めて小さな幸せを一緒に想像したらすぐ元気になってくれた。
誰にとっても朗報だろう。芽理衣の手術は無事に成功した。喉の怪我痕も目立たなくなり、まだ麻酔で寝たままの芽理衣の代わりに義両親からの連絡で思わず雄叫びを上げてしまった。
それからしばらくして芽理衣はリハビリを続け、喉の調子を取り戻しつつある。しかし、同時に芽理衣は毎日のビデオ通話を拒否するようになり、もう半年近く彼女の顔を見ていない。義両親からは芽理衣と会話したことを嬉々として教えられたが、俺は顔すら見ていない。
どうして見せてくれないのか教えてくれないし、義両親から説得してもらっても応じてくれなかった。
芽理衣の幸せとは逆に俺は笑うことが日に日に減っていくのを自覚する。でも彼女が帰ってきたときに渡そうと思っていた“これ”だけは埃が被らないよう大事に保管した。
『今度の日曜日に帰ることになったよ』
「本当ですか!」
それはお義父さんからの連絡で、やっと芽理衣がこちらに帰ってくる。
半年以上も顔を見ていないし、俺は少し元気をなくした日もあったけど、“芽理衣の性格”を思えば想像できていたことかもしれない。
そういうやつだよなと心の中で笑いながら、空港のロビーで待つ。足が震える。今日は柄でもない正装だし、懐にしまった“これ”も緊張を加速させている。あと少しでやってくる飛行機に乗っているはずの芽理衣にどうやって渡そうかと未だに悩んでいる。
「……来た!」
到着を知らせるアナウンス。窓から該当の飛行機を探して止まるのを待つ。外からは出口から人が出てくるのが見えないため、ゲートへ走って移動し、やがて荷物を持って出てくる人たちを一人ずつ確認する。
外国の人が多い。帰国してきただろう人も見かけるが、その中に芽理衣の姿はない。
飛行機を間違ったかと思い、メールで教えてもらった時間と飛行機を確認するが合っている。この飛行機で間違っていないはずだ。
芽理衣に何かあったんじゃないかと焦りが募る。これまで顔を合わせるのを拒否され続けてきたが、どうか出てくれと祈りながら芽理衣に通話をかける。
――ピリリリリリ!
すぐ真後ろで誰かの着信音が聞こえた。同時にやわらかい温もりが俺を包む。
「私、芽理衣さん。今、あなたの後ろにいるの」
懐かしい温もりに後ろからぎゅっと抱きしめられ、耳元で囁かれる甘い声。胸をぎゅっと掴まれたような感激に涙を流しそうになりながら彼女と対面する。
ショートカットになった髪や、いつもしていたマフラーがないこと、俺が好きな芽理衣が可愛くなっていたことなど、伝えたいことは山のようにあった。彼女のいたずらが成功した顔を見ていたら懐にしまった“指輪”は後でいいやって思えてきた。それよりも、俺が最初に伝えるべき言葉は決まっている。
だから笑う。今にも溢れそうになっている涙を我慢し、精いっぱいの笑顔で彼女を迎える。
伝える。俺たちが幸せになった証。それはすべてが始まる魔法の言葉。
「おかえり」
「ただいま♪」