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S百貨店催事場の大英国展は盛況だった。フロア中央のエスカレーターホールでは、近衛兵の制服に身を固めた外国人が背すじをピンと伸ばして立って、お客様を出迎えている。きりりとした表情を保ちながらも、記念写真の要望には気軽に応えている。その横にはビッグベンを模したオブジェがしつらえてある。
会場右手のゾーンでは英国製ブランドのレディースとメンズのファッションアイテムやテーブルウェア、各種雑貨が華やかに陳列され、左手のゾーンにはスイーツやワイン、紅茶などの食品が品数豊富に並んでいる。通路は比較的広めに確保しているが、それでもまっすぐに歩けないほどの混雑だ。
ホールでは伝統的なマーチングバンドコスチュームに身を包んだブラスバンドチームが、英国国歌を奏で始めた。
フロアの一番奥に、ベン・アンドリューの店があり、パイ料理の実演コーナーとイートインスペースがある。その隣に学校の教室ほどのスペースが設けられていた。小さなステージがしつらえられていて、その前にパイプ椅子が並べられている。ステージ横にはユニオンジャックが掲げられている。
ベン・アンドリューのトークショーは午後4時からだ。あと15分ある。
小澄孝之はトークショー会場のお客様案内兼警備応援にあたっていた。
百貨店のコンシェルジュは「フロアや部門の垣根を越えて、お客様に百貨店のさまざまな商品を売場の枠にとらわれずにコーディネート提案し、他の業態ではできない顧客満足の実現をはかる」というのが、存在意義であり、そういった「コンシェルジュならではの価値の創造」に孝之は誇りをを持っている。だか、実際にはこういう応援業務に駆り出されることが多いという現実もある。もちろん、警備応援も立派な仕事であるから、不平を言うつもりはない。
トークショー会場のパイプ椅子はすでに9割は埋まっている。
アンコールに応えてのブラスバンドの演奏が聞こえてくる。「サンダーバードのテーマ」だ。孝之の年代にとっては懐かしい。
「昨日よりもトークショーのお客様は随分多そうですね。」
孝之と一緒にパイプ椅子の増設をしながら、倉内駿馬が言う。忙しい時でも彼の口調はのんびりとして聞こえる。
駿馬は催事場担当の販売主任である。孝之よりひと回り以上若いが、小柄でやや太り気味で、全体的に丸い印象である。その名前に似合わず、立ち居振る舞いに少し鈍重さを感じさせる。そこが逆に敵をつくらず、実直な性格も相まって、周囲から好感を持たれているようだ。
「アンドリューの人気はさすがだね。」
孝之は感心する。少々の椅子の増設では間に合いそうにない。
「ロープパーテーションをもう少し取ってきます。」
駿馬はそう言って、その場を離れた。
ステージの傍らでは夏実が真剣な表情でプログラムに目を落としている。アンドリューの姿はまだ無い。
昨日は羽生真衣がトークショーの司会をした。今日は夏実の番である。緊張しているだろうと思ったが、孝之と目が合うと軽く手を上げて、一瞬だけ笑ってみせた。
そのとき、夏実のそばに背の高い痩身の男が風のようにあらわれ、ステージ横の夏実に二言三言短い言葉を投げたかと思うと、また風のように姿を消した。催事場担当係長の羽生隼人だ。先日真衣と社内結婚したのがこの男である。
部下の倉内駿馬とは対照的に、羽生隼人は長身で、引き締まった体つきをしている。こちらは、その名のとおり、いつもきびきびした素早い身のこなしが目立つ。
「いたもイライラしている感じで私はちょっと苦手。あっ、これは真衣には内緒よ。」
いつか夏実がそう言っていたのを孝之は思い出す。
真衣との結婚も、周りがその仲を怪しみ始めたころには結婚式の日取りまで決まっていて、届いた招待状を見て皆がのけぞって驚いた。ハヤブサの名は伊達でない。
その隼人がいつにも増して急いでいたようだ。アンドリューがなかなか姿を現さないことに少し焦っているのかもしれないと孝之は思った。
トークショーまであと5分になった。それにしてもアンドリューは何をしているのか。定刻に紹介されてから登場するのではなく、15分前からはステージ横でパイ作りの実演を始めるという段取りのはずである。
夏実が手持ち無沙汰な様子で孝之の方を見て、少し首をかしげた。
羽生隼人が再び会場に近づいてくるのが見えた。
「アンドリュー、やけに遅いね。」
孝之が隼人に声をかけた。隼人は少し顔をしかめた。
「そうなんですよ。英国人はきっちりしているようで、時間にルーズなところがあるそうだけど。でもあんまり急かすと機嫌を損ねるかもしれないし。」
隼人はややアンドリューに対して苦手意識があるようだ。真衣と違って、隼人は英語もほとんどできない。特にヒアリングはからっきしダメだ。
「でも、さすがに呼びにいかないと。お客様もこんなに大勢お待ちだし。」
孝之がそう言うと、
「そうですよね。」
隼人は意を決したようにうなずいた。
甲高い悲鳴が響いたのはその時だった。
乾いた悲鳴が長く続いた。真衣の悲鳴に間違いない。会場裏手の倉庫スペースの方角からだ。
孝之と隼人は悲鳴のした方角に駆け出した。夏実がそれに続く。駿馬が一呼吸遅れてその後を追う。
「小澄さん、こっちです。」
隼人が右手の非常階段の方を指し示す。会場からバックヤードに入るには少し遠回りをしないといけない。
階段横のグリーンドアを隔てて、バックヤードへの通路がある。通路脇には段ボール箱が積み上げられ、人ひとりがやっと通れる狭さだ。
通路の先に10畳ほどのスペースがあって、テーブルと事務机と椅子が置かれている。催事関連の事務室兼控室として使われている。中央のテーブルは本来の位置から大きく斜めにずれて、その上に置かれていた案内チラシが床の上にばら撒かれている。
事務机の上にはパソコンが2台と電話が1台置かれている。1台のパソコンはホーム画面が開いたままだ。机の上の書類の山も崩れてしまっている。
テーブルの向いの壁ぎわにはホワイトボードが立てかけられていて、今日の催事のスケジュールが書き込まれている。ボードは大きく傾いて、ずり落ちそうになっていた。
孝之たちが控室に飛び込んだ。テーブルの手前で真衣が両手で口を覆い、向こうをむいて立ちすくんでいる。孝之は真衣を見、その視線の先を見た。
テーブルとホワイトボードの間にベン・アンドリューが倒れている。床の上にうつ伏せになり、右上半身をテーブルの下に滑り込ませた姿勢だった。
孝之と隼人は真衣の横をすり抜けてアンドリューの傍らにかがみこみ、アンドリューの名前を呼んだ。アンドリューはピクリとも動かない。
二人がかりで大柄なあの体を仰向かせた。
「あっ・・・」
夏実が絶息するような声を上げた。
アンドリューの目はうつろに見開いて、力を失っている。太い首に食い込むようにネクタイが巻き付いている。ダックスチェックのネクタイだ。
「救急車を!」
孝之が叫び、駿馬が机の電話に飛びついた。
アンドリューが呼吸をしていないことはすぐにわかった。孝之はアンドリューの首から急いでネクタイを外した。ネクタイは首にきつく食い込んでいた。相当に強い力で締め上げられたようだ。
隼人はAEDを取りに走った。
孝之と夏実はアンドリューの蘇生措置を始めた。テーブルを動かしてスペースを作り、交互に心臓マッサージを試みる。アンドリューにはまったく生気が感じられない。状況は厳しいと思わざるを得なかった。
「小澄さん、アンドリューの右手・・」
夏実が言って、孝之の背中をつつく。心臓マッサージをしながら、孝之はアンドリューの右手に目をやった。黒いサインペンのようなものを固く握りしめている。
「マーカーのようだね。ホワイトボード用の。」
壁際のホワイトボードから落ちた極太の黒のホワイトボード用マーカーだ。キャップはどこかにいってしまったのか、見当たらない。
「何か書いてる途中だったのかな。」
「小澄さん、あれを見て。」
夏実がテーブルの下の床の一点を指さす。最初にアンドリューが倒れていた右手の先の位置だ。
直径10センチくらいの大きさの黒い文字のようなものが4つ。
「このマーカーで書いたものじゃないかな。」
「倒れてから書いたってこと?」
「そういうことになるかな。何て書いてあるか読めるかい。」
蘇生措置をしながらでは確認しづらい。
「数字みたい。向きが、バラバラだけど。」
床に書きなぐられた文字のようなものは単純な形に見えるが、判読が難しい。コンクリート打ちっぱなしの床のその部分は波打ったような凹凸がある。その上に書かれているので、大きさも向きも不揃いである。
夏実は床に顔を近づけてみる。
「2 2 2 0 かな。自信はないけど。」
アンドリューの胸に手を置いたまま、孝之も床に目を走らせる。
「確かにそう読めるね。2220 どういう意味だろう。」
孝之がそう言って首をひねった時、AEDを持った隼人と救急隊員が同時に到着した。




